567. その名前
もう十日ほど前になる。
異世界の都会を体験してみるのもいいだろうと、彩花をミアたちに預けて王都の街へ送り出した。現代日本からやってきて以降眠り続けていた彼女にとって、これがグリムクロウズでの初めての外出。
行きは流護も同道している。到着直後、ディノの情報を得るために別行動を取った。肝となるのは、それ以降の出来事だ。
「もう、そこぐらいしか考えられねえんだよな」
「変わった、こと……って言われても」
「ミアもさ、一緒にいてなんか心当たりとかないか?」
「うーん……」
揃ってうんうん唸り出した二人に対し、
「そうね……みんなはずっと一緒にいたの? 例の地下水路に落ちた一件以外で、しばらくアヤカが一人きりになったような時間はなかった?」
ベルグレッテがやんわり問いかける。彩花は遠い記憶を呼び起こすように天井を仰いだ。
「んー……みんなが屋台に食べ物買い行ったときとか、ちょっと離れたとこで待ってたりしてたぐらいで……。それにしたって、変わったことなんてなかったし……。あとはずっと一緒だったよ。トイレとかだって分かんなくて不安だったから、ミアちゃんについてきてもらってたぐらいだし」
「うん。ずっと一緒にいたよ~」
ミアも同意する。
「じゃが……少し厳しい物言いになるが、必ず何かあるはずじゃ。一緒におったはずのミアやマデリーナたちは対象外となり、アヤカのみが明確に狙われておる。つまり、アヤカのみが見聞きした何かがある。何者かがそこに不都合を覚え、あれほどの刺客を差し向けるだけの何かがの」
ダイゴスの弁に押されるように、彩花は顔をこわばらせた。
「うー……そう、言われ……ましてもぉ……」
「なら、例の地下水路ではどうかしら?」
ベルグレッテが情報を絞って切り込む。
「あそこはレインディール王宮が管理している場所だから、そう奇妙なこともないとは思うんだけど……怨魔が入り込んでいたりもしたし、一応ね」
そう前置きしつつ。
「ユウラという少女と一緒だったと聞いているけれど……そこでなにか、通常ではありえないようなことを見聞きしたりは? もしくは……そうね。彼女自身に、なにか変わったことはなかったかしら」
「ユウラちゃんに……変わった、こと…………、…………!」
その顔色の変化は、誰の目にも明らかだった。
「……おい彩花。何かあったんだな? あったんだなお前。つかお前、何でそんなやばいことに今まで気付かな――!」
「落ち着いて、リューゴ」
「落ち着けるかって! 命狙われるなんてよっぽどだぞ!?」
横から腕で制した少女騎士にも、半ば食ってかかるような剣幕になってしまう。
この異質な世界に迷い込んだ幼なじみが、やはり当たり前のように命の危険に晒されてしまったことに対する怒り。そして、そこに至るほど重要な何かを当人が自覚していなかったという危機感のなさに対する憤り。
双方がせめぎ合い、瞬間的に爆発しかけている。
「ええ。だからこそ、まずは冷静に。余さず状況を把握するために、話を聞きましょう」
少女騎士の言葉は、少年の煮え滾る心情に優しく水を撒いて鎮めるようだった。彼女が秘めたる、その属性を体現するがごとく。
「……、…………分かった。おけ」
落ち着き払った物腰で諭されて、冷まされる心地になった流護は、どうにか深呼吸を試みる。
「アヤカ。ゆっくりでいいわ。話してくれる?」
同じ優しさで促すベルグレッテだが、彩花は顔色を白く染めたままだった。
「でも、あれは……関係あるとは……」
すがるような瞳。その怯えたような表情を前にして、流護にもようやく平常心が戻ってくる。
「何があったん? 怒らんから、話してみろって」
その言葉に対し、彩花は予想外にも首を横へ振った。
「だ、だって……約束、したし……」
「は? 約束? 何を? 誰とだよ?」
この期に及んで何を言い出すのか。またも苛立ちかける流護より早く、
「ユウラという少女と、なにか約束をしたの?」
察した少女騎士が問いかけた。
「う、ん……」
彩花がコクリと頷く。
ややあって、
「……ユウラちゃんに、あることを教えてもらって……それで、約束した。絶対誰にも言わない、二人だけの約束、って……」
「そんなことがあったんだ!」
ミアが目をぱちくりさせる。
「ん……ご、ごめんねミアちゃん」
「ううん、気にしないで! 友達どうしでも、そういうことあるもんね。あたしだって、あたしだけしか知らないベルちゃんの秘密とかいっぱいあるもん」
「こら、変な話をしないのっ。それでアヤカ、その内容だけど……」
「……それは……」
逡巡の間。言えば、約束とやらを破ることになるからだろう。
「……彩花。言っとくが、まだ終わってねえんだ」
流護は静かに忠告する。自分にも言い聞かせる形で。
「え……?」
「今回は、たまたまディノが来たから助かった。でも、そんなのは運良く一時的にやり過ごせただけなんだ。大元の問題は解決してない。誰がどうしてお前を狙ったのか分かってない。敵にしてみればまだ目的を達成してないんだから、当然『次』が来る可能性がメチャクチャ高い」
「……!」
脅かすつもりではないが、事実だ。
まだこのグリムクロウズの恐ろしさを知らない現代日本の少女は、そこまで思い至らなかったのだろう。さらに、
「敵は、お前以外も平気で巻き込むような奴だ。それは身をもって分かっただろ。放っておいたら、お前だけじゃない……また周りの皆が危ない目に遭うかもしれない」
「…………っ!」
卑怯なまでの説得材料だった。しかし、これも事実。こう言われてなお拒否するほど、蓮城彩花は厚顔無恥な人間ではない。そんなことは、誰よりも有海流護がよく知っている。
「でも……、多分、これは……関係ない、と思うんだけど……」
しかし、話せば約束を反故にしてしまうという罪悪感も無視できない。この幼なじみは、そうして抱え込んでしまう性分なのだ。分かっている。
「とりあえず、具体的でなくていい。どんな話を聞いたんだ? まず、簡単に言える範囲で教えてくれ」
しばしの間を置いて。
「……名前」
「なまえ?」
「ん。ユウラちゃんって、その……実は、本当の名前じゃないんだって。それで、あの子の本当の名前を教えてもらったの」
「へっ!? そ、そうなんだ!」
当時本人らと一緒にいたであろうミアの驚きもさることながら、流護とベルグレッテ、ダイゴスも互いに顔を見合わせた。
「名前、と来たか……」
こうなると確かに、彩花が頑なだった理由も納得できる。少女の名前ひとつが、命を狙われる原因になるというのか。
「それだけか? 他に何か聞いてないか?」
尋ねると、これまでのうろたえた様子から一転、彩花ははっきりと力強く頷いた。
「それだけだよ。……でも、私も気にはなってた。ユウラちゃん、何回も『絶対秘密にしてください』って念押ししてきたから。友達にも、家族にも、って。どうしてそこまで……とは思ってたんだよね。詳しい事情は教えてもらえなかったし……」
「ん? つか、どういう流れだ? 秘密にしろって言いながら教えてくるっておかしくね」
「あ、それは……」
ユウラが名前を呼ばれた際の反応の鈍さに違和感を覚えて追及したところ、当人が偽名だと認めた。
隠していた引け目や、世話をしてもらった恩義もあり、本来の名前すら名乗らないままでいるのは心苦しい。そう感じたユウラが、意を決して告白――というのが大筋の流れらしかった。
「えー! ユウラちゃんの反応なんて、ぜんぜん気付かなかったよ……。アヤカちゃん、すごいね……!」
「まあこいつ、アラ探しさせたら一流だからな。ミアも気を付けろよ。窓のフチをつつーって指でなぞって、ゴミがいっぱい残ってるーとかねちっこく言ってくるぞ」
「隙あらばサゲるのやめてくれない? いやでも、あの地下水路でしばらくユウラちゃんと二人きりになったから確信できたんだよ。賑やかな街中なら名前呼んでスルーされても聞こえなかったのかなーって思うけど、あんな静かな場所で二人っきりなのに、名前呼んでも反応いまいちだったりしたから」
本人は謙遜するが、実際のところ彩花は間違いなく地頭がいい。勉強の成績だけではなく、観察眼や機転に優れているのだ。本人には決して言わないが、その聡明さはベルグレッテに似た部分があると流護は考えている。
「ふむ。ベルに通じる閃きを持っとるの」
しかしまさにダイゴスも流護と同じような感想を抱いたようで、
「私はそんな……ともかくとして、見習いたい考察ぶりね」
ベルグレッテもうんうんと感心する。
「いやー、それほどでも……」
何やら照れ照れな彩花だが、
「……ゴキゲンなとこ悪いが、こうなるとやっぱ一応聞いとかんきゃならん。他にそれっぽい話もないしな……。……そのユウラって女子の、本当の名前は?」
流護が切り出すと、彩花は気まずそうに目を逸らした。
「でも……やっぱり、うーん……ユウラちゃんに悪いし……」
その心境は理解できるのだ。もし無関係であれば、ただ約束を破るだけになってしまう。二度と会うことがないにしても、負い目が後を引く。自分が彩花の立場なら、やはり同じように思うかもしれない。
「……ああ、そうだよな」
だからこそ、有海流護は――
「つーことでだ。いいか彩花。これから俺は、お前をくすぐる」
「……はい?」
宣言してすっくと立ち上がると、彩花のみならず皆……ベルグレッテまでもが困惑の眼差しを向けてきた。
「お前が喋るまで、俺はお前をくすぐりの刑に処す。拷問する」
「は? ん? え? なに言ってんの? くす……、は? そんな、こと……したら絶交しますけど?」
「構わん」
「え?」
「俺は嫌われ役になる。お前は悪くない。拷問されて仕方なく喋るんだ。そうするしかなかったんだ。不可抗力なんだ」
両手の指をポキポキ鳴らしながら近づくと、隣席の彩花が露骨に身体を引いた。
「ちょっ、流護……? 待った。ねっ、落ち着いて?」
「めっちゃ落ち着いてるじゃん。俺の思い付きにしちゃすごいじゃん、冴えてるじゃん」
彩花を悪者にはしない。やむを得ず白状するしかない状況へ持っていき、咎は自分が全て引き受ける。
覚悟を決めた流護が指をわきわきさせながら一歩近づくと、反発する磁石みたいに彩花がずざざざと引く。
「やめ、やめ……やめてってば……ね? だめだって……流護、いや、やめて……」
「お、女みたいな声を出すな」
「女ですけど!?」
ソファの上で縮こまる彩花、両手をわきわきさせて近づく流護。
(……俺は何やってるんすかね?)
……誠に遺憾ながら、気分は暴漢だ。ベルグレッテたちも、かける言葉に困ったような顔をしている……。
「わかった、わかったから!」
たまりかねた彩花が叫んだ。
「みんなが見てるじゃん……恥ずかしい」
「見てなきゃオッケーみたいな言い回しをするな」
しかし流護自身、助かったような気持ちで息をつく。
「でも、でもさ。ユウラちゃんの本当の名前が原因になる……なんてこと、ありえる?」
ソファの手すりに背中を預けた彩花が、改めて一同の顔を見渡す。
「…………それなぁ……」
そこは流護としても引っ掛かる部分だった。このグリムクロウズの危険性についてはそれなりに認識してきたつもりだが、一個人の……年端もいかない旅人の少女の名前ひとつが、これほどの事態に発展するものなのか。
「……ありえない話……では、ないと思うわ」
是の姿勢を示すのはベルグレッテ。そして、
「うむ。絶対に否……とは言い切れん」
ダイゴスも。
「たとえば……お忍びの貴人が素性を隠したうえで世間に紛れて行動することは往々にしてあるし、そうなれば本当の名前を知られることは不利益に繋がりかねない……」
ベルグレッテが王宮騎士らしい意見を口にし、
「裏社会の者が真の名を隠すことなぞ珍しくもないしの。今回、馬鹿正直に名乗ったガードンゼッファ兄弟が異質じゃ。それも偽りの名でない確証はないが」
一方のダイゴスは家業でもある始末人としての観点からそう主張する。
それぞれの目線からの意見に、流護もうーんと唸った。
「そういや、グリーフットさんも偽名だったもんな……」
「ええ」
ベルグレッテが頷く。
天轟闘宴の撃墜王にして傭兵のグリーフット・マルティホークは、バダルノイスの名家マーティボルグ一族の出身。グリフィニアという本名を持つ貴族だった。
(あと、そういや)
それこそオルケスターの構成員であるヴァルツマンなる男が堂々と名前をメルティナに明かし、数少ない手がかりとして重要視されている。
本名というものは、思わぬ何かに繋がっている可能性があるのだ。
「……はあ。じゃあ、本当の名前を隠しててもそう珍しくはないのかな……。……えっと……みんな、言いふらしたりとかしない……よね」
いよいよ観念したらしき彩花が、一同を見渡した。
「ああ。俺だって元々ベラベラ喋る方じゃないのはお前も知ってるだろうし、ベル子だってそんなキャラじゃない。そして見ろよこのダイゴスなんて、もういかにも口固いですと言わんばかりの佇まいよ。多くを語らぬ九州男児、って顔してんじゃん」
「そ、そうだね……」
苦笑した彩花の視線が、向かいのミアへ。
「あたしだって口は固いよ!」
ふんっと奮起する広域拡散少女。いやそれについてはちょっと……と思う流護だったが、余計なことは言わず黙っておいた。
皆の視線を受けた彩花が、「ああごめんねユウラちゃん」と懺悔の言葉を残して。
「……えっと、ユウラちゃんの本当の名前だけど……」
一呼吸の間を置き、口にした。
「カヒネ、っていうんだって」




