565. 歪な、すれ違い
懐かしくも感じる、薄汚れた裏路地を行く。
古い家屋の群れが立ち並び、奥へと延びる壁に黒ずんだ染みが広がっているのも、以前目にした時から変わっていない。
「……ハッ」
益体もなくそう考えて、思わず苦笑する。
つまり自分は、このどうでもいい染みですらしっかりと認識し、そして懐かしみを感じているのだと。
それほど長く、この場所に棲みついていたのだと。
「お、おい……あいつ……」
「! ああ……しばらく見ねえと思ったら……。チッ、行こうぜ」
行く手の道端に、人相の悪い男が二人。いかにも善良な人間に絡んで金を要求しそうな風体の者たちだ。しかしこちらへ向かってくることはなく、逆にそそくさとその場を去っていく。
やはり変わらない。弱きに強く強きに弱い無法者たちも。横倒しになったゴミ箱も。木箱と建物の隙間を走り抜けていく鼠も。
全てが自分の知る風景そのままで、時間が止まっているかのようにすら感じる。
しかし、間違いなく移ろっているのだ。
全ての事象が、少しは楽しめる方向へ。
軽くなる足取りを自覚しながら、ディノ・ゲイルローエンは無意識でも歩める慣れ親しんだ道をなぞっていく。
安宿へ入ると、宿の主がカウンターに踏ん反り返っていた。顎ひげを生やした悪人面の壮年男は、とてもまともな職の人間には見えない。
しかし、安値でどんな人間にも宿を提供するという、ある意味で慈愛に満ちた精神を持ち合わせている男だ。もっとも、部屋はゴミ溜めと区別がつかない汚さで、食事は出ない。飽くまで雨風を凌ぐための個室を提供しているだけだった。
そんな厳つい宿の主が、日報紙からわずかに目を浮かせて声をかけてくる。
「おう、ディノか。戻りやがったな」
「まーな」
「どうだった? 旅とやらはよ」
「聞きてぇか? 土産話が」
「いや、別に興味もねぇ」
昨日ぶりであっても久方ぶりであっても、互いのやり取りに大した差はない。
話しながらカウンターを横切り、かつて自分が宿泊していた奥の部屋へ。
「おっ」
何もかもボロボロで薄汚い宿だが、ドアに目線を落として気付く。真新しい、やたらとピカピカな金属の輝きがそこにあった。
カウンターから首を伸ばしてこちらを覗き込んだ主が汚く笑う。
「へっへっへ。お前が鍵をぶっ壊しやがるもんだからよ、新しいのに付け換えたんだよ。今度は頑丈だぜ」
「ふーん?」
「いや待て。引っ張ろうとすんな、壊すんじゃねえ」
「頑丈って言ったじゃねェか」
「鍵は、な。お前の力で引っ張ったら、ドアの方が抜ける」
「鍵の意味ねェな」
「お前ぐらいだ、そんなことできんのは。いいから身体強化を解いてちゃんと使え、人間らしくな。ヒュージコングじゃねぇんだからよ」
苦い顔で言って、主は何かを放り投げてきた。片手で受け取れば、それは真新しい鍵だった。
差し込んで戸を開ければ、見慣れた狭い部屋が広がる。そこへ荷物を適当に放り込む。
自らも入ろうとしたところで、思い出したように店主が声をかけてきた。
「おう、ディノ。そういやぁよ、何日か前に来客があったぜ」
「客?」
「ああ、『例の兄ちゃん』だよ」
「!」
適当に聞き流しながら個室に入ろうとしていた足が、自然と止まった。
その反応に満足したかのように、男が続ける。
「そういやぁお前は知ってたっけか? あの兄ちゃん、遊撃兵になったんだとよ。で、面白ぇのはこっからだ。何の用で来たと思うよ? 『ディノの奴が死んだって言ったら信じるか?』だとよ。かっはははは! 神妙なツラでよぉ~、笑えるだろ? ここ五年で一番面白ぇ冗句だったな。お前さんの安否を知りたがってたぜ」
「…………ヘッ。そりゃ確かに面白ぇ」
鼻で笑い、部屋へ入って戸を閉める。
軋む寝台に身を預け、脚を伸ばして天井を仰いだ。
この安っぽい座り心地も、客が料金未払いで逃げることを防ぐための格子がはまった狭苦しい窓も、ここを発つ前のままだ。
「…………」
だが、確かに時は進んでいる。
ディノは羽織っていた上着を脱ぎ捨て、近場の椅子へと引っ掛けた。
簡素な半袖の上衣のみとなったその姿で、否が応にも目に留まる部分がある。
――左腕。
肘から前腕にかけて、蝕まれたように刻まれる黒い痕跡。小型の蛇が幾重にも這って絡み合ったような、奇妙な傷痕。
動かすにあたり支障はなく、痛みもない。
実際、『奴』もそう言っていた。
「……気に病むことはないわ。私は、オルケスターで唯一の『ペンタ』にして最強の演出者。私より強い人間なんてどこにもいない。貴方が負けるのは、当たり前のことなの」
女。
ナインテイルと名乗った怪女の背後から伸びた、九本にも及ぶ野太い黒炎。
それが蛇さながらに鎌首をもたげ、唸り、広がり、路地を――世界を黒に染める。塗り替える。
暴悪に侵し、犯す。そんな表現こそが適切な変容。
「……吐かせ」
ディノの代名詞たる炎牙がかき消され、発声には妙なごぼごぼとした気泡が混じる。
不可解だった。
視界は闇に染まり、空気は妙に生暖かい。全身が……空間が、異様な圧迫感に包み込まれている。
もちろん、経験などありはしないが。
巨獣に飲み下されたなら、こんな感触なのではないか。
そんな状況にありながら、しかしディノは言い放った。
「一番強ぇのは……このオレだ――――」
自分の声すらやたら遠く感じる中、全力で炎を発現。
闇に染まっていた世界が、にわかな炎で吹き払われて色づく。
ぼんやりと照らされ、不気味さを増した白の女が笑う。
「いやぁね、そんなビンビンに暴れないで? 殿方は、大人しく私の胎内に包まれていなさいな――」
笑ったナインテイルの口元が、ありえない角度まで急激に裂けた。黒目がギュルンと縦長に収縮し、鈍色の異様な光を放つ。その様相は、もはや人間のそれからは逸脱している。
ゆえにこそ、ディノは嗤った。
人外? 上等だ。
利き腕の右は故障中。左手に炎牙を纏い、身体強化を発揮した脚力で一挙接近。ナインテイルの首元へ一閃。
「――」
その炎の牙が、またも一瞬で消失した。ボン、と爆発音を纏って。
何ら防御の素振りすら見せていないナインテイルは黒細い瞳を眇め、ただ哂う。
「なあぁぁに? その温い貧相な棒は。全然奥まで届かないわ? もしかして、その粗末なモノで私を愉しませようとしてくれたの? あぁ……健気で、必死で、素敵」
女が自らの両肩を抱くと、後方で鎌首をもたげた太い黒尾の数本が、身震いするかのように何かを撒き散らす。
咄嗟に下がったディノが展開した障壁の表面に、次々と何かが着弾。ぼぼ、じゅう、と溶解するような音。
「――」
攻撃――、ではない。女の昂りに合わせた、神詠術の脈動。その余波。ただそれだけだ。しかしそれが、並の詠術士の攻撃術を上回る殺傷能力すら有している。
「我慢は良くないわよ? さ、大人の口付けを交わしましょおぉ?」
女が小首を傾げる。しかし、その所作に愛らしさは微塵もない。むしろ、糸の切れた人形がガクンと崩れたような不気味さ。
「あぁ……もう……我慢、で き な ヴォッ、」
そして耐えかねたように背中を丸めて、痙攣。
直後、大きく裂いた口腔から、あろうことかナインテイルは黒い閃光を撃ち放った。
まるで巨竜が吐き出すドラゴンブレス。
「ッ!」
その色合いが周囲の闇と同化し、刹那に視認が遅れた。でなくとも、常時強化を施しているディノの眼球が後れを取る速度だった。
闇の奔流は咄嗟に発現したディノの防御壁を容易に貫通、左肘の付近を抉り路地の壁に激突。轟音とともに飛沫を撒き散らし、縦方向へ迸る。凄まじい光条かに思われたその一撃はしかし、派手に周囲の環境を破壊することもなく、塗料をぶちまけたみたいに辺りを黒く染めるに留まった。
「……ハッ、喜々としてゲロ吐いてくるような女はゴメンだぜ」
さすがのディノも驚きを隠せず笑う。消し飛んだかと錯覚した左腕を、痛む右手で押さえながら。
原則として、神詠術は手から発する。これは道具を扱うことと一緒で、それが一番自然で『やりやすい』からだ。単に、人体はそういう風にできているという話。
無論そうと限らず、蹴り足、所持した物品、そして武祭でグリーフットと名乗った青年が披露したように、何かを模倣し形作ることもあろう。
だが、この女は。
神詠術を、『吐き出した』。
修練の果て。目標。心に強い影響を残した何か。術の扱いは、そういったものに左右される。言うなれば、積み上げてきた人生に。
だからこそ、この女がそんな技巧を得るに至った背景が理解できない。
「あぁら失礼……ごめんなさぁいねぇ。ちょっと抑え切れなくて、粗相しちゃったわぁ……。はしたないところをお見せしちゃったわねぇ、恥ずかしい。フフフフフフフフフフフフフフフ」
目を細めた女が、手の甲で口元を拭う。心底楽しそうに。
(……コレは……液体、か?)
自らの属性を『滅』などと称したナインテイル。
だが、今しがたの一閃。これはおそらく、触れたものを融解させる超高温の流体として顕現している。よもや、本物の胃液ではあるまい。
しかし矛盾している。
女の背後でとぐろを巻く巨大な九本の尾は、間違いなく炎の熱と揺らめきを宿している。
水、そして炎。反する属性の特徴が共存している。
そして。
(……喉が)
唾を飲み込もうとして、初めて気付いた。
口の中がカラカラに渇いている。痛いほど。一滴とて、喉を通る唾液が存在しない。
(……このジメっとしたヌルさが原因か……?)
さておき、ひとまず確実なことがある。
右腕は武祭にて負傷済み、これで左腕も封じられた――
「……!」
「……! …………!」
そう思考すると同時、闇の向こうから人の声らしきものが届いてきた。
近くを通りかかった誰かが戦闘に気付いたのだろう。何しろ、つい今しがたの女の『嘔吐』が凄まじい音を発していた。
こうなれば、兵士が飛んでくるのは時間の問題だ。
「あぁん、野暮ねぇ。これからだっていうのに……情事を人に見られるなんて、性分じゃないわ。誰にも見つからないのであれば、って条件で会いに来たのに」
そちらを意識したナインテイルが、不快げに口元を歪める。
パァン、と。
その唇で、火が弾けた。
ディノがどうにか動く右手の指先で弾いた、砂利ほどの小粒の炎。
ナインテイルの口元から、赤すぎるほど赤い流れが伝う。
「ほー。てっきり人間ヤメたバケモンかと思ったが、血はちゃんと赤いじゃねェか」
「やだわ、小さな子供じゃないんだから。そんな幼稚な真似でやり返したなんて思ってる? あまり失望させないで頂戴ね?」
ペッ、と吐き捨てるその様に、淑女の雰囲気は皆無。粗野な荒くれ男のよう。そして、その仕草が妙に堂に入っている。
(……認識外からの攻撃は普通に届く、ってワケだ)
ディノが冷静に分析する間にも、ナインテイルは一転して令嬢めいた優雅さで黒髪をかき上げる。その所作に呼応したかのごとく、周囲に端張っていた黒い闇が引いていく。
ゾゾゾゾ、と蛇が這うように、女の足下へと集束する。不自然極まりなかった闇は晴れ、地面には黒くぬらりとした光沢のみが残った。
「ねぇ」
ナインテイルが細く白い指先で、妙に伸びた爪でディノを指し示す。正確には、だらりと下がったディノの左腕を。
「痛くないでしょ? その左腕。それはそうよ。私、闘ってなんていないもの。ほうら、よぅく見てみて?」
「はァ?」
指摘されて初めて気付く。確かに、攻撃を受けたはずの腕は機能を失っていない。肘も、指先も動く。ただ、のたくった落書きのような黒い痕跡が刻まれている。傷……ではない。
(……どういうコトだ? 喰らった直後は、確かに……)
感覚が喪失した一撃だった。それが――
「だからぁ。私は、貴方と触れ合いたかっただけ。明かりを消して、抱きとめて、愛撫して、口付けを交わそうとしただけ。私は感極まって粗相しちゃって、照れ屋さんの貴方はムキになって暴れたけれど、ただそれだけ」
絡繰りは分からない。
が、ナインテイルは言い放っていた。
今しがたの交錯は。
戦闘ですらない、と。その域にすら達したものではない、と。
「クク、よく言うぜ。バラバラにしてやるだの何のだと吠えてなかったか?」
「やぁだわ。ちょっと感情的になって強く言っちゃうなんて、よくある話じゃないの。愛し合う恋人たちにはつきもの」
女はただ優雅に笑んだ。
「――貴方のその左腕に刻んだのは、ただの唇痕。大丈夫よ。痛みもないし、それ以上広がったりもしない。本当に、ただの親愛の証。貴方が、私のものである印。それを見る度に、私のことを思い出して頂戴ね? また会う日までの約束よ。……うふふふふ」
ばしゃん、と闇が弾け。
ナインテイルの姿が、それと一体化するかのごとく消失した。
「……」
左腕へ意識を移せば、やはり痛みはない。動かすに当たり支障もない。ただ、黒くおぞましい何かがのたくったかのような痕跡が刻まれているのみ。刺青にしては悪趣味だ。
気付けば、あれほど周囲に漂っていた無明の闇も、濃密で不快な湿り気も、痛いほどの喉の渇きも、最初から存在しなかったかのように消えている。
(……あの女)
推測が、確信へ至る。
昼間にもかかわらず、周囲を闇に閉ざしていた黒い空気。女の感情に呼応して脈動した焔尾と、吐き出された一閃。
そして一方で、女の喉元へ至らずかき消えた己の炎牙。相手の視線が外れた際には、弾いただけの小さな炎ですら届いた。
(…………闘ってない、ねェ)
偽りではない。
ナインテイルが、ただそこに立っている。昂った感情を表現する。視線を向けてくる。
『ただそれだけで起きた現象』。
女の感情に反応した神詠術は目視できる闇となって周囲へ漏出し、五感に作用するほど滞留する。心境の遷移は、そのまま術の脈動へと繋がる。
佇んで目を向けてくるだけで、その意識が可視化され防御壁の役割を果たす。
そこに存在するだけで――相手を認識するだけで、その対象に害をなすほどの力。
ナインテイルはディノに対し、ただ好意のみを表現していた。
ディノはナインテイルに対し、一方的に殺意を叩きつけた。
その結果が、この『引き分け』。
(……ツレないねェ)
愛でようと思っていたのは相手だけ。
闘おうと思っていたのは自分だけ。
何とも奇妙な、思いのすれ違い――。
「……ハッ」
誰かが駆けてくる音が反響する。すぐそこまで来ている。
見つかる前に、ディノもその場から消えることにした。
――なるほど確かに、この刻まれた痕跡を見るたびに思い出す。
「……」
ナインテイルが語った通り、痛みはない。不調もない。得体の知れない罠を仕掛けられた訳でもない。本当にただ、黒く消えない落書きが残されているだけ。
あの交錯の最中、こんな何の意味もないものをなすりつけてきた。
あの女には、そんな余裕があった。
当時、ディノは武祭の影響で右腕を負傷していた。そして、残る左腕に『これ』を刻みつけられた。仮に『これ』が何の意味も持たない落書きなどではなく、殺傷能力の高い一撃だったなら?
そんな仮定へと思考を誘導する、それだけの話。
そして、あれから状況が一変した。
どこぞの山奥でオルケスターと名乗る連中の下っ端を始末して以降、レフェの首都に到着した直後、その後の天轟闘宴……。ディノを始末するための刺客が丁寧に用意されていたものだったが、それがパッタリと何もなくなった。
それはおそらく、
(あの女……ソレだけのモンだってコトだな)
ナインテイルに目をつけられたから。もしくは――あの女と遭遇した結果、死んだと思われたから。あの遊撃兵の少年も、何かしらくだらない風の噂でも耳にしたのだろう。
逆にこちらから情報屋などを使ってナインテイルに接触しようとしても、影も形も掴めないぐらいだった。
ナスタディオ学院長ならば何か知っているかと思い戻ってきてみたが、収穫はなし。
オルケスターなる連中は、それほどの力を持っている。
実はこれに際し、ディノはひとつだけ失敗したと感じていることがあった。
『あっ、ああ。ウチの……総団長の――――さんは、とんでもなく強い――』
『おっと、自己紹介がまだだったね。オルケスター総団長補佐、――――だ。宜しく』
耳にしていたはずなのだ。しかし、いちいち覚えてなどいないのである。一度聞いただけの、有象無象としか思っていなかった人間の名前など。
あの遊撃兵の少年に対してすら、自分が敗北するまで『勇者クン』としか意識していなかったぐらいだ。
傲慢さは、時としてこうした見逃しに繋がる。今は、学びを得たと前向きに捉えるべきだろう。
もっともそれら名前を思い出したとて、偽名でない保証もないが。
(何かな……キッカケでもありゃ、ポンと思い出せるんだろうがな)
ひとまず、その取っ掛かりを探すところからだ。
現状、ナインテイルが再来する気配はない。
オルケスターも、そしてそこに所属するあの怪女も……ディノに襲われる、という仮定を抱いてすらいないのだ。自分たちが取捨選択する側。生かすか殺すか放置するか、いつそれを決定し実行するか。全ては自分たちの気分次第だと考えている。
(……ったくよ、ナメられたモンだ)
その感情は苛立ちか、それとも焦燥か。
どちらでもない、とディノはすぐに気付いた。
部屋の片隅に備え付けてある、薄汚れた鏡。そこに映った自分の顔が、凶悪に口角を吊り上げていたからだ。