562. 逢魔が時
某国城下町、とある宿の一室。燃えるような橙色が窓の外を染め上げる夕刻。
誌商業界に飛び込んで二年目のボビーは、隠し切れない興奮と緊張を胸いっぱいに抱えてその場へと臨んでいた。
「で、では早速、お話を伺いたいのですが……!」
逸る気持ちを抑え、ガラステーブル越しに座った相手へ語りかける。
「ええ。僕に語れる範囲であれば……」
ボビーとは対照的、落ち着き払った佇まいで頷くその人物は、目の覚めるような美青年だった。
年齢は二十歳代前半。どこか儚げな雰囲気を備えた、文句なしの美形。赤茶けた癖の強い髪は肩口まで伸ばされており、長い睫毛に覆われた形のいい灰色の双眸が特徴的だ。婦女に人気の吟遊詩人とでも紹介されれば、演奏を見なくても納得してしまいそうな印象だった。
「ええとそれじゃ、昨年の天轟闘宴の……ああ、何から訊こう……!」
姿勢ばかり前のめりで言葉が出ないボビーを、隣に座る老人が窘めた。
「ったく、少し落ち着かんか。いや申し訳ありませんな、ウチの若いのがこんな風で」
「いえ、お構いなく……編集長さん」
「しかし、このような場所で貴方にお会いできるとは。この冬はどちらに?」
そんな老人……編集長の質問に対し、青年はどこか物悲しげな表情を浮かべる。
「……バダルノイスに滞在していました」
「!」
ボビーも老人も、思わず目を見開く。
噂には聞いている。大陸最北端の小さな雪国で勃発した、主導者の乱心騒ぎ。事件当初、過去にない高額の賞金首が公布され、多くの流れ者たちが押し寄せたという。
この美青年もまた、それを狙う一人としてあの極寒の地まで足を運んだのかもしれない。
「まあ、その話はよいでしょう……。さして語ることもありません。お聞かせするのは、天轟闘宴のこと……でしたね」
傭兵の一人として、稼ぎにまつわる話は敬遠したいようだ。しかし生憎、問題ない。彼の言葉通り、二人の興味は別のところへ向いている。
「ええ、そうですな。あれから時間こそ経ってしまいましたが、やはり誌商業に携わる者として、当事者から話を聞けるなら是非とも伺いたい。それが、貴方……撃墜王グリーフット・マルティホーク殿からとなれば、尚更ですな」
そうなのだ。
誌商として広報誌の発行を生業とする編集長の老人とボビーは、偶然にもこの街で目前の美青年――先の天轟闘宴の参加者であるグリーフットと行き合った。
かの武祭が催されたのは昨夏。その内容についても、現地に赴いた誌商たちがとうに面白おかしく書き立てている。
旬を過ぎたことは否めないが、かの撃墜王から直に話を聞けるとなれば逃す手はない。それに時間が経ったことで、当時とはまた違った感想も出てくるかもしれない。
そうした経緯から、彼への独占取材を敢行するに至ったのだ。
「では早速で恐縮ですが……グリーフット殿、此度も撃墜王を獲得されたようで。この賞を複数回獲得されているのは貴方のみ……。前人未到の快挙ですな」
「お褒めに与り光栄です……。ですが、天轟闘宴も回を増すごとに参加者の質が上がっています。僕が撃墜王となるのも、今回が最後かもしれません。悲しいことに」
「いやいやご謙遜を。しかし、確かに耳にはしますな。此度の武祭は、とみに強者揃いであったと」
開催国であるレフェの最強戦士ドゥエン・アケローンこそ不参加だったものの、大陸各地から集った様々な猛者たちが一堂に会したという。
参加者の総数は百八十九名、過去最多だったと聞いている。
「しかし天轟闘宴の残酷なところは、それほど多くの強者の中で勝者と認められるのがたった一人であるということ……。その他は皆、脱落者――敗者と見なされるのです。悲しいことに……。いえ、こういった競い事はえてしてそういうものではありますが……天轟闘宴は、とにかくその人数が多い」
「ううむ……」
大人数が入り乱れての潰し合いだ。不測の事態や予想だにしない展開が生まれやすく、毎回のように波乱が起きる。それこそがこの武祭の魅力でもあるのだが――とにかく紆余曲折の末、最後に残るのはたった一人。
そして今回、
「覇者は確か……えー……何と言いましたかな」
編集長が名前を思い出せずにいると、グリーフットが助け舟を出した。
「リューゴ・アリウミ殿ですね。まだ年若い少年ですが、レインディールで遊撃兵を務める剛の者です」
「ああそうだ、そんな名前でしたな。何やら、無術の身だったと聞きましたが……」
「ええ。少なくとも僕が見た限り……彼が戦闘において神詠術を行使することは、一度もありませんでした」
「いやしかし……ガイセリウスでもあるまいし、そんなことが可能なんですかのう」
この話を聞いた者の大半が抱くであろう疑問を、編集長が疑わしげに口にする。と、撃墜王は深々噛み締めるように頷いた。
「そのように言われる方は多いですね……実に多い……。しかし、僕の考えは逆です」
「逆、とは?」
「むしろ、ガイセリウスという前例がいる訳ですから……同じ性質を持った者が現れても、何ら不思議はないように思いますね」
「ははあ……なるほど」
逆転の発想か。それは考えもしなかった、と老人は唸った。
「と、ところでグリーフットさん。『イル・イッシュ』のバダルエ・べカーが奇妙な装備を持ち込んで参戦した、というのは本当ですか? それにより、あれほどおおらかな天轟闘宴の規定ですら許容されず、失格の判定を下されたとか……。あと、元・剣の家系の最強戦士が参加したとか……? それにやはり、巨大なプレディレッケが乱入した件についてもお聞きしたいです……!」
いても立ってもいられず、といった勢いでボビーが口を出す。
正直、有名人贔屓の若手ボビーとしては、まるで名前を聞いたことがない今回の覇者についてはあまり興味がなかった。
天轟闘宴は恐ろしく過酷な武祭に違いないが、他のどんな催しより運に左右される一面がある。極端な話、自分以外の参加者が勝手に潰し合って全員が共倒れになってしまえば、それだけで唯一の勝者となれるのだ。つまり、誰であっても……それこそ荒事など生まれてこのかた経験したことがないボビーですら、参加さえすれば覇者となれる目があるといえる。
もちろん、海千山千の強者たちが集う場でそのような珍事など起きるはずもないが、確率として完全な無ではないのだ。
実際のところ過去の武祭にて、今ひとつパッとしない戦士が偶然生き残って覇者となってしまうことは往々にしてあった。しかしだからこそ、参加者たちはこぞって集まるのだろう。自分がその唯一になり得るかもしれない、という希望を抱いて。
とにかくそういった事情もあるため、ボビーは覇者そのものにそこまで注目しない(ドゥエンのように連覇しているとなれば話は別だが)。それより、名だたる詠術士たちがどう考えどう立ち回ったか、どんな名勝負が生まれたか……そちらのほうが気になるのだ。
「そうですね、では順を追ってお話ししましょう……」
懐かしい記憶を呼び起こすようにグリーフットが語っていく。
すでに公となっている情報とそこまで差異はなかったが、当事者の話にはやはり臨場感が備わっており、新鮮な気持ちで聞くことができた。
「僕も全員と遭遇した訳ではないので後々知ったことでしたが、今回は本当に強者が多く参加していたようです。バダルエ・ベカーはもちろん、南方の無法集団である魔闘術士の一団、『北園の妖精』プリヴェーラ、『重爆』ベーンベイー・ラダネス、『紫燐』サベル・アルハーノ、その相方『蒼躍蝶』ジュリー・ミケウス……。誰も彼も、それぞれの道で鳴らした者ばかり……」
こうして考えてみれば実に豪華な武祭だ。贅沢にもほどがある。
あらかた話が終わり、一息ついた頃だった。
「……先ほどの話ですが……」
グリーフットがゆっくりと、どこか迷うように切り出す。
「僕は言いました。天轟闘宴の勝者は一人であり……他は皆、敗者であると」
「ええ」
「おっしゃいましたな」
聞き手の誌商二人が首肯する。
「そう言ったばかりではありますが――」
グリーフットは目を閉じ、震えを押さえるように口にした。
「……実は今回の武祭に限り、例外に当たる者が存在します。その名を――ディノ・ゲイルローエン」
「ディノ・ゲイルローエン……ですか?」
グリーフットの口から紡ぎ出されたその名前をなぞったボビーは、訝しげに眉をひそめた。
「聞いたことがない名前ですね……。その人物が、今回の天轟闘宴における……例外、というのは?」
そう問いかけると、撃墜王たる美青年は静かな頷きをもって応えた。
「繰り返しますが……天轟闘宴とは、最後の一人以外が敗者となる武祭です。しかし……ディノ氏は、厳密に言うなれば『負けていない』のです」
「? どういうことですか?」
「ご存じのことと思いますが……此度の武祭は、かつてないほど予期せぬ出来事が連続する、波乱に満ちた回となりました」
「ええ……」
噂は耳にしている。
「元・剣の家系の最強戦士や……プレディレッケの件、ですよね」
レフェの表舞台から抹消された忌まわしき存在……『魔剣』や『不死者』などの異名で呼ばれたエンロカク・スティージェ。
圧倒的強さを誇ったものの、中途で敗北。しかし暴走し、多数の参加者を殺害。転戦に転戦を重ねたが、最終的には力尽きたと聞いている。
さらには、会場となる『無極の庭』に迷い込んでいた怨魔プレディレッケ。三万名もの観客を一時避難させる事態となり、場は混乱の渦に包まれたという。
「公に発表があった訳ではありませんが……このエンロカクを仕留めたのは、彼に残された致命の傷跡から推察するにディノ氏であると考えられています。そして、プレディレッケの件についても。ディノ氏はドゥエン氏に依頼される形で、あの怨魔と戦うために自ら無極の庭を飛び出したのだと聞いています」
「そんなことが……? は、初耳です」
「どちらも、大っぴらに公表された話ではありませんからね。あぁ……ちなみに今回、僕を敗北に追いやったのも彼です」
「え!? グリーフットさんが……!? そ、そうだったんですか……!」
敗北の詳細については尋ねづらい部分でもあったため後ほど慎重に聞き出すつもりでいたのだが、思わぬ形で知らされることとなった。
そうして、波乱の回を経験した当人が今一度告げる。
「確かに此度の回、リューゴ氏以外の全員が敗者となりました。ですが……今ほど申した通り、ディノ氏は『負けていない』。誰にも打ち倒されてはいないのです。無極の庭を出たのも戦意を挫かれてのことではなく、不慮の事態によるドゥエン氏の要請があったからこそ。全参加者の中でも極めて異質……唯一の例外、と呼べるでしょう。……ゆえに僕は、空想せずにはいられないのです――」
どこか夢見る少年のような面持ちで。
「もし仮に、武祭が滞りなく進んでいたなら。ディノ氏が『無極の庭』を出ることなく、最後まで闘い抜いていたなら。無論、リューゴ氏とダイゴス氏の最終戦は天轟闘宴史に残るであろう素晴らしい一戦でした。しかしそのうえで、思わずにはいられないのです……。ディノ・ゲイルローエンという男が健在だったなら、果たしてどのような闘いを見せてくれたのだろう。どのような結果になっていたのだろう、と。この『空白』の時間帯……彼の炎にも似た、燃え落ちるような緋色の空を見ると……殊更に――」
……皆の様子がおかしい。
蓮城彩花は、その状況にひたすら困惑するばかりだった。
特に、
「ミアちゃん、ミアちゃんっ」
「ひっ……、…………!」
小さな少女は彩花の呼びかけにすら応じず、へたり込んで震えている。ただごとではない。
「ねえ、どうしたの……!? 大丈夫!?」
涙すら溜めるその琥珀色の瞳は、たった今馬車でやってきた人物へと向けられていた。
赤色を擬人化したような、とんでもない美貌を誇る青年へと。
(ミアちゃん、震えて……怖がってる……? この人を……?)
今の今まで、目の前でダイゴスと偽兵士たちの闘いが繰り広げられている場面ですら、そんな様子はなかった。
しかもミアだけではない。すぐ傍らのマデリーナも、エメリンも。
五人の悪漢に対してではなく。ディノ・ゲイルローエンと名乗ったその人物に、ただただ驚愕の眼差しを向けている。
(なんか、わけ分かんない……けど)
確かなことがある。
このディノという青年も、巻き込まれる。
溜息が出るようなイケメン。昨今の男性アイドルや俳優と比べてもまるで見劣りなどしない。年齢は彩花より何歳か上か。制服ではなく普段着姿だが、見るからにエドヴィンと似たような不良生徒だ。
(まずい……まずいって)
通りたいなら横に避けて進めばいいのに、ひたすらまっすぐ行って堂々悪態をつくその態度。それにしたって、相手は本物の兵士ではないのだ。何か、とんでもなく危険な得体の知れない連中。
(いやいやいや、やばいって……!)
言ってしまえば、このディノはいきなり出てきた全然知らない赤の他人だ。関係ないといえば関係ない。しかし、目の前で人が死ぬかもしれない。殺されてしまうかもしれない。そんな局面に、彩花の心臓が緊張で脈打つ。
「あぁァ? ディノ……何だって……?」
首を傾けたガファイが、目前の相手をうさんくさげに見やる。
「いやそんな、知ってて当然みたいに堂々と名乗られてもねぇ。いや、ん-? どっかで……んんー……聞き覚え……ある気もするんだがねぇ……」
兄のロワドも、訝しげに首を捻った。
そんなやり取りをまるで意に介さず、ディノが言い放つ。
「いいぜ、大目に見てやる。ヨソ者なら知らなくてもしょーがねェしな。で、早くどけよオメー。邪魔だぜ」
行く手のガファイに対し、当然のように顎をしゃくる。
何も、すれ違うのに苦労する狭い道ではない。広々とした学院前。少し横に避ければ、何人でも同時に通れるだけのスペースはある。
だというのに、全く進路を変えるつもりのないその立ち振る舞い。相手がどいて当然といった思考。
この短い時間ですら、彩花にも理解できた。この人、とんでもない天上天下唯我独尊。今まで見たこともない超絶俺様気質だ、と。
「……いや、ディノ君とやらさぁ。俺たちが兵士じゃない……じゃあ何者なのか? とかってさ、気にならないかい?」
奥のロワドがねっとりと問いかける。気付いてはいけない真実へ誘導しようとする。
――が。
「オメーはイチイチ気にすんのか?」
「んん?」
「足下に這ってる虫を見て、だ。この虫は何て名前で、どんな生態なんだろう、何をしてるんだろう、ってよ。イチイチ疑問に思うのか?」
処置なし、と告げる医者のように、ロワドが苦笑いを浮かべつつ首を横へ振る。小さく右腕を掲げる。
その仕草に応じ、兄弟以外の三人の悪漢がディノを取り囲むように動いた。
(………………この人……、も、もうだめ……)
彩花はもう腰を抜かしそうだった。
悪ぶるのもいい加減にしてほしい。だが――、もう遅い。
これだけ言われたなら、誰だろうと気分を害する。まして相手は危険な悪漢なのだ。
そして。
ふらりと何気なく歩いてディノの左右と後方に位置づけた三人が、全くの同時に右手を突き出した。左右の二人はその腕に炎と雷の揺らめき。背後の一人はナイフ。
「っっ!」
彩花が認識したのはそこまで。
人が殺される瞬間を直視できず、思わず顔を背けた。
まず聞こえたのは、ボン、と大きな爆発音のようなもの。次いで、どさ、がらん、と金属質な響き。
ひっ、と身を竦める彩花だが――
(……、…………? ………………?)
ディノの断末魔や苦しげな声……といったものは、何ら届いてくることなく。
目を細めた彩花が、恐る恐るそちらに視線を戻すと、
「……っ?」
ゆるやかな風に乗って、黒い粉のようなものが散っていく。
「――――――」
思わず、目を奪われた。
不動。一歩たりとも動くことなく。
燃え滾るような、極彩色の夕焼けを背に。目を逸らす直前と何ら変わらぬ姿勢のまま――ディノ・ゲイルローエンは、ハンドポケットのまま堂々と佇んでいた。口元には、変わらぬ酷薄な薄笑み。
足下には、『なぜか軽装鎧や長剣が複数転がっている』。
そして何より不可解なのは、取り囲んで凶撃を仕掛けたはずの三人の姿がどこにもないことだ。この一瞬で、これだけ見通しのいい視界から忽然と消えてしまうはずがない。でも、どこにもいない。ただ周囲から、ガサガサになった黒粉が微風に乗って飛んでいく。訳が分からない。
暮れなずむ極彩の空と街道、同じ鮮烈な色を宿し佇む真紅の美青年。この瞬間、この図を壁紙にしたら、さぞ映えることだろう。そんな美しさすら伴った光景だった。おもわずスマホを向けてしまいたいぐらいに。
そしてこの局面で、彩花はふと悠長にも気になった。
燃えるような、目に眩しいほどの夕焼け。昼と夜の境界。
ゲームか漫画で知った知識だったが、夕暮れ時を不吉とする言い伝えがあるという。
(なんて……いうんだっけ……たしか)
妖怪や魔物といった恐ろしい存在が姿を現し始める時間帯。そんな内容だったはずだ。
不遜な笑みをたたえたままの彼が、言い放つ。
「先に仕掛けたのはソッチだ。文句ねェよな?」
――そして、蓮城彩花は知ることになる。
三人の悪漢たちはどこへ消えたのか。
人外が姿を見せるという時分にやってきたこのディノ・ゲイルローエンなる紅蓮の青年が、いかなる存在であるのかを。