56. 赫焉たる牙
「ねえねえ。どこか寄って帰る?」
ぴょこっと跳ねるようにして、先を歩いていたミアが振り返った。
クレアリアの見舞いを終え、病院を出て、時刻は午後二時過ぎ。
活気に満ちた王都の歩道を三人で歩きながら、ベルグレッテが「そうねえ」と思案する。直帰するにもどこかへ寄るにも半端な時間だ。
「あっ、そうだ。ミア、モンティレーヌに寄っていきましょうか」
「う、うんうん! いくいく! ベルちゃん大好きー! ……だ、抱きついていい?」
「ふふ。確認なんてしなくていいの。……って言おうと思ったけど暑」
がばっとベルグレッテに抱きつくミア。
「……はっ!?」
「暑……、ん? どうしたのミア」
「あ、あたし思ったんですけど……ベルちゃんのものになったよねあたし。それはつまり、あたしはベルちゃんのおっぱいのものになったと言っても過言ではないよね?」
何言ってんだ。
「んー……、なに言ってるか分かんないかな……」
笑顔ではあるが、形のいい眉を八の字にしたベルグレッテが同じような感想を漏らす。あと暑そう。
「つまりあたしは、わが主たる『ベルちゃんおっぱいさま』に抱擁される権利があるってことよー!」
「ありません」
「ウワー!」
ベルグレッテの胸に顔を埋めた途端ぐいっと引き剥がされ、ミアは断末魔を上げた。
「ところでモンティレーヌってようはケーキ屋だよな? 俺、その辺で待ってていいか?」
流護は甘いものがあまり得意ではない。
そもそも、王室ご用達の高級ケーキを買うような余裕もない。一緒に行けばベルグレッテが当然のようにおごってくれそうで、それも少し心苦しい。
「そう……? じゃ、すぐ行ってすぐ戻るね。モンティレーヌの近くに公園があるから、そこで待っててもらっていい?」
「おう。別に急がなくていいぞ」
しばし進んでモンティレーヌへ向かう二人と別れ、流護は公園へ行ってみることにした。
ちょうど公園が見えてきた頃だった。
「あの、すみません」
声に振り向けば、弱々しい笑みを浮かべた中年男性の姿。
「ちょっと、道をお尋ねしたいのですが……」
「み、道っすか?」
地球人の俺に訊かれても、と思う流護だったが、いきなり「分かりません!」と突っぱねてしまうのも憚られた。
「えーっと、あんまり……いや全然、自信ないですけど……」
「ああ、ええ。大丈夫ですよ」
男性は地図でも取り出すのか、懐に手を入れながら歩み寄る。
陽射しを受け、銀色の光がぎらりと反射した。
――次の瞬間。
男が腰溜めに構えたナイフが、流護に突き刺さっていた。
「冥府までの道を訊きたかったのです。貴方のために――なんて、ね。いけねえよボクチャン、大人に恥かかせちゃぁよォ」
弱々しい顔から一転、残虐な笑みを浮かべる男。
ぽたり、ぽたりと。歩道の石畳に、赤い雫が零れ落ちる。
事態に気付いた通行人たちから、悲鳴が上がった。
「…………、ぐ」
流護は思い出していた。
博士から聞いた話。
『ディアレーの悲劇』。高名な詠術士だったディアレーが、刺されて死んでしまったというあの話を。
「……ッ?」
男は――違和感に気付く。ナイフが、抜けないことに。
刹那。
「が、ぐぁあああぁあっ!?」
『男が』絶叫した。
咄嗟に飛び退き――自分の、指を見た。ナイフを握っていた手。
「あ、が、あっ、はぁぁあ……ッ!」
人差し指。中指。薬指。
三本の指が、それぞれ関節を無視した方向へとねじ曲がっていた。
「っ……てぇ、なあ……」
流護は、刺さった凶器に手をかける。咄嗟に身体を庇ったことで左腕に突き刺さったそれを、ずっ……と引き抜いた。
どくどくと腕を流れる血が細い線を描き、滴り落ちる。
「…………!」
流護はそのままナイフの刃を触らぬよう、両手で掴み――パキンと、へし折った。
男は驚愕の眼差しを向ける。
「ところがどっこい……ディアレーさんは知らんが、俺には効かなかったな。……いや、そら痛てーけど」
単純な筋量差。
内側から皮膚を押し上げるような筋肉を搭載した流護と、筋力に乏しい枯れ木のようなこの世界の男とでは、男が身体ごと流護にぶつかっても刃物が食い込まないほどに力の差があった。
無論、身体に刺されば危ないだろうが、咄嗟に盾とした少年の腕には二センチほどしか食い込んでいない。
――甘かった。
ロック博士も言っていた。流護自身、街でくだらないケンカを繰り返していた頃にも身に染みて分かっていたはずだった。
『こういった連中』は、ナメられることを何よりも嫌う。
競売で恥をかかされたマフィアの連中が、このまま大人しく引き下がるはずがなかったのだ。
今回は正直、心身が擦り切れるほどに追い詰められた。
だから考えたくなかったのかもしれない。もう全て終わったと、思いたかったのかもしれない。
――つくづく、甘かった。
ここは。そんな優しい世界じゃない。
「何だっけ? 冥府までの道が知りたいって?」
凶相の流護が、左腕を横に振る。
赤い飛沫が、ピッと舞った。
「――なら案内してやるよ。ゴキブリ野郎」
一瞬、ベルグレッテの思考が停止した。
「……、え、あ」
ミアも、その男を凝視したまま固まっている。
燃える炎を連想させる赤い髪。紅玉のような赤い瞳。端正ではあるが、人間味が全く感じられない冷酷な顔立ち。自分以外の全てを見下した、その表情。
行く手の歩道に立ち塞がる、その男。
――――『ペンタ』、ディノ・ゲイルローエン。
「な、ん……」
ベルグレッテは言葉に詰まった。
無論、ミアから話は聞いている。この男が、『サーキュラー』の一員として働いていたと。ミアを捕らえ、監禁していたと。
それ以上の思考を巡らせる暇は、なかった。
「――悪いな」
ただ、一言。
ディノが小さく呟いた瞬間、周囲に炎の嵐が吹き荒れた。
「っ……ぐぅっ!」
ベルグレッテも瞬時に水を現界させる――が、喚び出した水の全てが一瞬にして蒸発する。
同時、膨大な炎の奔流も一瞬にして消失した。ベルグレッテが相殺した訳ではない。ディノが自ら消したのだ。
「――――がッ……ぐ、げほっ……!」
熱気。炎が生み出した熱気を吸い込んでしまったベルグレッテは、肺に焼けるような違和感を覚え、膝をついた。
「……が、あ……っ!?」
そして気付けば――ディノの腕に捕らわれたミアの姿。
「ベ、ベルちゃ……っ!」
首に回されたディノの腕から、ミアが必死に逃れようとする。
しかし彼女の細腕では、もがくことしかできない。ディノも決して太い腕をしている訳ではないのに、ビクともしない。
「なん……でっ……!」
焼かれた喉で、少女騎士は辛うじて声を絞り出す。
「何でってコトもねェ。『ペンタ』の連中が基本的に裏仕事やってんのは知ってんだろ、優等生ちゃんよ。やってねェのは五位ぐれぇじゃねェのか? ま、ありゃ自分の力に振り回されてるだけの小娘だしな」
そんなことは訊いていない。
どうして。どうして、またミアを――
「ミ、アを……離しなさいッ!」
膝を震わせながらも立ち上がり、再度、水を身に纏う。なりふり構わず、水の大剣の詠唱を開始する。この男を相手に、アクアストームはまず通用しない。
いや、通用しないどころではない。ベルグレッテでは……まず、戦闘が成立しない。
しかし。唯一手傷を負わせる可能性があるとすれば、あの大剣。グラム・リジル――
「――あー? オレと闘おうとしてるように見えるんだが……気のせいだよな?」
ごうんっ――と。炎とは思えない轟音がした。
「……う、あ……」
それで、『目が覚めた』。
この男を前にして、詠唱に五分もかかる大剣の術をどうするというのか。
ベルグレッテはただ、それを見上げる。視界――目に映る範囲。その全てに、ただ一面の赤色が広がっていた。
詠唱もなしに喚び出された、炎の壁。
天を焦がすその高さは十マイレ、歩道を悠々と飲み込むその横幅は二十マイレほどに達するだろう。この王都レインディールを囲っているものと大差ない巨大さを誇る炎の壁が、ディノの背後に顕現していた。
周囲を通りかかっていた人々が、我先にと逃げ惑う。
――桁が、違う。
分かってはいたことだが、格が、桁が、違いすぎる。ベルグレッテが長時間かけて詠唱しても成し得ないことを、『ペンタ』は詠唱なしで易々と実現するのだ。
「離して……ミアを、離してっ!」
ミアを取り戻そうとする戦意は、懇願へと変わっていた。
「オレとしても、オメーらは正当にコイツを買ったワケだし、カンベンしてやれよと思うんだけどな。ま、コレも仕事なんだよ。悪ィな」
言葉と同時、炎の壁が消失する。
刹那、膨大なまでの熱風がベルグレッテへと吹きつけた。
「…………ぁ、う、ぐっ――!」
相手は炎使いだというのに、余波で発生した風に煽られただけで少女は吹き飛んだ。歩道と大通りを区切っている柵に激突する。
「が……ぁっ!」
肺から息が漏れた。
それだけでは止まらず、派手にゴロゴロと地面を転がった。
ディノは現われて以後、炎の召喚と現界中断しかしていない。具体的な攻撃は何もしていない。にもかかわらず、それだけでベルグレッテはすでにボロボロになっていた。
うつ伏せに倒れたまま、それでも辛うじて顔だけを上げる。
すぐに敵がいるはずの場所へと視線を向けるが――すでに、ディノの……ミアの姿は、なくなっていた。
「っ……、どう、して…………」
起き上がることもできず、拳を握り締め――ベルグレッテの意識は、そこで途絶えた。
「――ベル子」
声が、聞こえた。
ベルグレッテは目を開く。
ぼんやりとした視界には、自分を抱え起こしながら心配そうに覗き込んでくる、流護の顔があった。
「おお、ベル子、大丈夫か?」
「――あ……う、ん……、私……」
胡乱な意識で、記憶の糸を手繰り寄せる。
「……ッ、ミア……っ!」
ベルグレッテは慌てて顔を起こし、周囲を見渡した。
融解した石畳。熱で変形した柵。集まった野次馬たち。彼らを押し留め、まとめる兵士たち。……ミアの姿は当然、どこにもない。
「……リューゴ、ミアが、ミアが……っ!」
みっともなく半狂乱になりかけたベルグレッテの手を、流護が優しく握った。
「落ち着け。事情は全部聞いた」
「聞いた? え……、誰から……?」
「こっちの方にも『お客さん』が来てな。全部話してもらった」
「ちょっとベル、大丈夫なの!?」
そこへ、人ごみの中からプリシラが駆け寄ってきた。
「あ……、プリシラ……」
「何かすんごい火柱上がってたから、何事かと思って駆けつければベルは倒れてるし、辺りはメチャクチャだし、そうこうしてるうちに人は集まってくるしで……リューゴくんも来たから、とりあえず介抱任せてたんだけど……ベル、大丈夫?」
「うん……なんとか……」
「それで一体、何があったってのよ……まあこの惨状からして、『何者がやったのか』ってのは想像つかないでもないけどさ……」
引きつった表情で周囲を見渡すプリシラに、ベルグレッテは喉の痛みをおして、ぽつぽつと話し始めた。