559. その日の夕暮れ
ミディール学院から南、馬車で二時間弱ほどの距離に、雄大なサンドリア平原に抱かれたブリジアの街が広がっている。
農業が盛んなこの街の面積は近隣都市と比べても大きく、郊外には古くなって放棄された農作業小屋が疎らに点在していた。
誰も管理しなくなって久しいそれら廃屋のひとつに潜り込んだ五人の男たちは、今まさに『仕事』の準備を終えようとしているところだった。
「お~う……それにしても似合わんなぁ、お前~」
「兄貴に言われたくねぇって」
鏡映しみたいに同じ顔をしたガードンゼッファ兄弟は、互いの身なりを見て笑い合う。
上半身を覆う銀色の軽装鎧、腰から下げた幅広の長剣。レインディール正規兵の標準装備である。いずれも闇市場にて調達してきた本物だった。
兄弟だけではない。連れてきた配下の三名も同じ装いに着替えている。何も知らない者が見れば、まるで疑うことなくレインディール兵と思うだろう。
「結局、例の遊撃兵はどっかにおびき出しちまったんだな?」
「あぁ。ダーミーを使って学院から引き離したとよ。最低でも二日は戻って来ん見込みだそうだ」
兄ロワドの報告を受け、弟ガファイはチェッと舌を打った。
「リチェルの坊やは考え過ぎだ。殺っちまってもいいだろうに」
理知的で淡々と仕事をこなす兄とは対照的に、弟は血の気が多く好戦的だ。自分の手で噂の遊撃兵を仕留めたいようだった。わざわざレインディールくんだりまでやってきておきながら、たかが小娘ひとりを始末するだけの仕事内容に納得がいかないらしい。
一方、ロワドはその点について達観していた。
「なぁに、すぐ機会は来る。むしろ、向こうが俺らと闘りたがることになんだから」
親しい間柄の少女が殺害されたとなれば、遊撃兵は怒りに燃えて復讐を望むだろう。
それは至極当然の流れ。そして暗殺者兄弟にしてみれば、もはや散々経験して当たり前となり果てた日常だ。
恨みもない誰かを損得のために消し、遺された者たちに恨まれる。そうして生まれた復讐者をも返り討って、より多くの憤激と憎悪を向けられる。
終わることのない、際限なく続く殺しの螺旋。
しかしそんな血生臭い渦に巻かれながら、自分たちは今もこうして生き長らえている。即ち、勝ち続けている。
その事実は率直に、ガードンゼッファ兄弟が強者であることを裏付けていた。
「さってと……お前ら、忘れもんはねぇーか?」
ロワドは一同を見渡した。全員がそれぞれ頷きを返す。
「よぉし。そんじゃーお仕事の時間だぜぇ、っと」
軋み歪んだ戸板を蹴り開けて、一行は軽い足取りで外へと繰り出した。
天空に座す昼神インベレヌスの輝きはかすかな赤みを帯び、夜神イシュ・マーニとの交代の時間が近づいていることを言外に告げている。そんな茜色の庇護の下どこまでも続く草原、遠くに浮かぶ峻険な山々の稜線。自然の景色たちから冬のくすんだ色合いは消え、春特有の鮮やかな彩りが垣間見える。
夕刻こそ近いが、きっと何をするにも絶好の日和だ。暗殺すらも例外ではない。
みずみずしい草葉の匂いを感じながら、一行は街道から見えぬよう裏手に停めていた馬車へと乗り込んだ。配下の一人が御者を務める。
「いいねぇ~……どっからどう見ても俺ら、立派なレインディールの兵隊じゃねぇの。さぁ行くでよ」
今回の仕事は楽な部類となる。
レインディールの兵団を装い、標的をミディール学院から連れ出して始末する。
この変装ぶりであれば、まず疑われまい。念のため、この国の公僕として受け答えができる程度の知識も頭に叩き込んだ。
最終的には対象がいつまで経っても帰らないことで誰かしら異変に気付くだろうが、その頃にはとっくにこの国からおさらばしている。
かくして、殺し屋一行はミディール学院へと向けて出発した。
偽りの装束に身を固めて。じき訪れる夜の闇と歩調を合わせるように。
ただ一人の少女へ――蓮城彩花へ、死を届けるべく。
「ご苦労様、アヤカちゃん。また明日よろしく頼むね!」
「はいっ、お疲れさまでした。失礼しまーす」
夕食の準備手伝いを終えた蓮城彩花は、恰幅のいい中年女性に見送られて学生食堂を後にした。
「ふぅ……」
アルバイト経験すらなかった身ながら、仕事にもどうにか慣れてきた。近いうち、厨房にも入ることになっている。
今や、廊下ですれ違う生徒たちの視線も気にならない。というより、物珍しげな目でまじまじと見つめられることもなくなった。
「あ、『眠り姫』さん。ご機嫌よう。お仕事が終わったところかしら?」
「あっ、え? は、はい」
「それじゃあ、もうじき夕ご飯ね。今日もお疲れ様。明日も、あなたに創造神のご加護がありますよう」
「ど、どうも。えーと、その、お疲れさまです……」
食堂で『眠り姫』が働いていることが、学生たちにとっても当たり前の日常となったのだ。たまに、こうして気さくに話しかけられることもあったりする。
(やー、人間って順応するんだなぁ……)
しみじみと実感する。
魔法みたいな力や怪物みたいな生物が存在する世界、そこに迷い込んで暮らしている自分。
当然ながら少し前まで、こんな異世界が実在するなんて夢にも思わなかった。
空想の産物でしかないと考えていた舞台に前触れなく放り込まれ、しかし今はそこでの生活を日常として受け入れている。
もちろん未だあらゆる面で不便さは感じるが、電気や水道のない暮らしにもどうにか慣れつつある。スマホだって死んでも手放せないと思っていたが、何も繋がらないので今や完全に無用の長物となり果てた(ミアに充電してもらえるし、保存している動画や写真程度なら見られるが)。
つくづく人は、環境に適応する生き物なのだ。
(さってと。お勤めも終わったし、なにしよっかな)
今や余裕も生まれ、こんな風に考えられるようになって。
ひとまず、今日のところは自由の身である。
(うーん……)
さて。これまでと違うのは、勝手知ったる流護の部屋に転がり込んで暇を潰せないこと。
彼とベルグレッテは任務で留守、同じ日本人であるロック博士も王都に出張中。エドヴィンはサボりで学院内にいないらしく、長期不在から戻ったばかりのレノーレも事後処理だかで王都に出向いている(そもそも彩花的には一度挨拶を交わした程度の間柄)。
マデリーナやエメリンは学級の友人同士の付き合いがあるようで――、そうなると彩花にとっての知り合いらしい知り合いは、ミアとダイゴスしか残っていない。後者が物静かな年上の男性でなかなか接しづらいことを考えると、
(やっぱりミアちゃん大正義なんだよなぁ……)
とはいえ今現在の学院は入学と卒業、そして進級を控えている大事な時期。順位公表と呼ばれる定期テストも近いそうなので、あまり遊びに誘うのも気が引ける。
(……せっかくだし、私もちょっと勉強でもしよっか)
ということで、暇を持て余す現代日本の少女は校舎内の図書室へ向かってみることにした。
勉強といえどもちろん、現代日本における高校生としての内容ではない。この世界ではやりようもないし、また必要もない。
(お、これよさそう。『詳細図説レインディール史と大陸』、だって)
彩花は目についた分厚い一冊を本棚から引き抜く。
場所は図書室。
順位公表が近いためか、生徒の姿もちらほら散見される。しかし机上に開いた本より隣の友人との談笑に熱中している者も少なくないあたり、異世界の学生も自分たちとそう変わらないのだと彩花は妙な安堵感を覚えた。
思ったより大きくて重い本を小脇に抱え、空いてそうな席を探す。
――さて。確かに、このグリムクロウズでの生活も慣れてきた。当初はどうなることかと思ったが、とりあえずどうにか生きていくことはできそうだ。
しかしもちろん、地球への……故郷への帰還をすっぱり諦めた訳ではない。以前は流護の手前、「戻れなくてもいいかも」などと強がってみたりもしたが、当然そこは帰れるなら帰るつもりだ。無論、こちらへの永住を決めた気でいるあいつも引っ張って。
確かにこの学院の皆はいい人ばかりだし、居心地がよくなってしまった流護の気持ちも分からなくはない。
けれどやはり、自分たちは地球という星に住まう日本人。本来の居場所は『あちら側』だ。
彩花としては絶対に流護には言えないが、つい先日、何となく寝つけない夜にふと家が恋しくなって枕を濡らしたりもした。衝突が増えていた父と母のことも気がかりだ。クラスメイトの皆や部活仲間、それに中学からの付き合いである七菜や里歩はどうしているだろうか。
そうした不安や懸念が、頭の片隅から消えることはない。
ゆえに彩花としては、今も帰る方法を探し続けている岩波輝教授を全面的に応援したい気持ちだった。とはいえ、何の力も持たない十六歳の少女にできることなどたかが知れている――というより、何もできはしないだろう。
という訳で、せめてまずは自分が滞在しているこの異世界グリムクロウズ、そしてレインディール王国についてよりよく知っておこうと思い、見識を深めるために図書室へやってきたのだった。
少なくとも今しばらく暮らしていくことになる場所について学んでおいて損はないだろうし、あわよくば帰還の手がかりが得られる可能性もある。
(……まあ、博士が十五年も足踏みしてるんだから、私なんかに何か見つけられるってこともないんだろうけど……)
結局のところ、何もせずにいるのが落ち着かないだけなのかもしれない。
(うーん……)
空いている席を探して歩くも、微妙な間隔を空けて座っている者が多く、間に入りにくい埋まり方が目立つ。そんな中で、
「……あ」
「む」
ぱったり、その人物と視線が合った。正確には、おそらく合っている。推測になるのは、相手の特徴的な糸目が瞳を閉じているようにも見えるからだ。
「え、えっと……どうも。こ、こんにちは」
「壮健そうじゃの」
彩花がぎこちなく挨拶すると、静かな山みたいな佇まいでその席に座っていた人物――ダイゴスが、にやりと口の端を吊り上げた。
「えーと……テストの……、順位公表の勉強ですか?」
そのまま通り過ぎてしまうのも気まずいように思え、当たり障りのない話題を口にする。
「いや、個人的な用件での」
肯定が前提の問いかけだったが、意外にも返ってきたのは否定だった。
彼の前に積み上げられている本を見ると、
(『西海の医学史』……『神詠術と医術の調和』……?)
医療関係の書籍ばかりのようだった。
「そういうお主は何か調べものか」
「あ、えっと……自分の暮らしてる場所のことなので、少しは知っておこうかと思いまして」
本の表紙を掲げるようにして見せると、巨漢は不敵な笑顔のまま満足げに頷いた。
「うむ、アリウミと違って勤勉なようじゃの」
「はは……」
やはりあの幼なじみは、こちらの世界でも相変わらずなようだ。
「席ならそこが空いとる。ワシのことは気にせんでええ」
「あ、えと……じゃあ、お邪魔します」
せっかくなので、彼が顎で示してくれた角の席に腰を落ち着ける。
重厚な造りの表紙を開き、本の中身に目を通してみた。
(おー……流護の言ってたとおり、ほとんど日本語だ……。けど、ところどころ見たことないような字もある……)
奇妙な形の文字が散見され読みづらくこそあるものの、文脈から概ねの内容は察することができた。
建国はおよそ七百年前と推定される。五百年前に英雄ガイセリウスが訪れ、様々な逸話を残していった。国民性は勇猛果敢で陽気、仲間意識が強い。国土のすぐ北部には『北の地平線』と呼ばれる未開の地が広がっている。
そして古の大陸全土を巻き込んだ、『終天を喰らう蟒蛇の王』ヴィントゥラシアとの戦い。
その『終天』に率いられ、人類を追い詰めた数々の怨魔たち。
高い機動力をもって跋扈した『邪竜』ファーヴナール。圧倒的な力を誇り、恐怖によって人々を平伏せしめた『偽神』ガルバンティス。途上の全てを圧壊し迫る陸の海嘯、『黒砕』ライ・ビクローミス。白く清きヴェールを身に纏い飛来する壮麗な無名の髑髏、『祝骸』。闇夜を往くその人影は、鬼すらも怖じる滅びの具現だ――『人魔』ブラッド・ブラザーフッド。
そして極めつけは、『拾天彩禍』と呼ばれる十体の悪魔たち――の伝説。
(いかにもファンタジー、って感じだよね)
間違いなく、恐れるべきものなのだろう。しかしこう、どこか心をくすぐられるものがある。この世界では、これらが現実のものとして語られているのだ。
……ライトノベルの設定資料集を読みふけるような気持ちで熱中し、残りページ数も折り返しに差し掛かった頃だった。
「あ、いたいた! レンジョーさん!」
紙面から顔を上げると、見知らぬ女子生徒が急ぎ足でやってくるところだった。先の廊下でもそうだったが、彩花は『眠り姫』として注目を集めたり食堂で働いたりしているため、他の生徒からは一方的に知られている。
「いやあ、探したよー。食堂でお手伝いしてると思ったから行ったんだけど、もう今日は終わって帰ったって言われて」
「は、はあ」
彩花と同年代だろう。栗色の長い髪を揺らす童顔気味の彼女は、弾んだ息を落ち着けるべく呼吸を整えた。
「でも部屋にもいなかったし、そしたらここに入るの見たって子がいたから。いやー探した探した」
そして少女は、意外な内容を告げる。
「表に兵士が来ててさ。レンジョーさんを呼んできてほしいって」
「え……兵士? 私を……?」
「うん。アヤカ・レンジョーさんを呼んできてくれって言われたから、間違いないよ」
「は、はあ……」
この世界における兵士とは、いわば日本での警察に相当する。
当然、彩花に事情聴取をされるような心当たりはない。のだが、
(……あ! もしかして……!)
ハッとした。確かに兵士は警察みたいな存在だが、遊撃兵たる流護にとっては仕事仲間と呼べる間柄でもある。
もしかして、任務へ赴いた彼の身に何かあったのではないか。それを知らせに来てくれたのではないか。
そう思うといても立ってもいられず、彩花は本を閉じながら席を立った。
「わ、分かりました。すぐ行きます……! 場所は正門ですか?」
「うん。馬車で何人かで来てたから、行けばすぐ分かると思うよ」
「あ、ありがとうございますっ……あ」
知らせてくれた女生徒に礼を述べ、そこでハッとする。
「あ、あの。なんか兵士の人に呼ばれてるそうなので、行ってきます……!」
すぐ脇で本を開いているダイゴスに挨拶を残す。流護とベルグレッテから言われていたのだ。少しでも何か変わったことがあったら、彼に一言知らせておくようにと。相手が兵士となればその必要もなさそうだが。
そんな訳で、彩花は慌ただしく図書室を後にする。
「わ、まぶし……」
廊下に出て気付いたが、いつしか日が傾き始め、窓外の景色は鮮やかな朱に染まりつつあった。かすかな夕闇の黒がおどろおどろしく交ざるその色彩に不吉なものを感じ、否応なく心がざわつく。
(何もないよね……? 流護……)
嫌な予感を振り払うように、少女は足を急がせた。
「……ふむ」
一連の様子を眺めていたダイゴスが、何事か思案するように腕を組んだ。