557. 祈りの本質
「ねーねー流護さぁ」
すっかり春の空気に満たされた、麗らかな陽射しが心地よい早朝。
寝起きのストレッチを終えて水を口にする流護と、当然のようにソファへ居座る制服姿の彩花の構図。
今やおなじみの光景だ。
長い眠りから目覚めて以来、彩花は当たり前のように流護の部屋へ入り浸っている。住人の少年としても、もはや文句を言っても無駄と思って諦めていた。
「ねー流護ってば」
「うっせーな、何だよ」
「流護が年上お姉さん好きになったのって、どう考えても叶慧姉がキッカケだよね?」
「ガハッ! ゲフッ、ゴフッ!」
飲んでいた水が気管に入り込み、少年は盛大に咳き込んだ。
「やっぱり……」
「っ、か、あー……! いや、何がやっぱりだよ」
「流護の初恋って叶慧姉でしょ? それで年上お姉さんの魅力にメロメロになったエロガキの流護少年は、色々とシュミの方向性を決定づけられちゃったと」
「アホか。叶慧……さんとか、関係ねーだろ」
「うわ。叶慧さん、だって。昔は一緒に『かなえねえ』って呼んでたのに。バリバリ意識してんじゃん。やっぱりねー」
「だから違うっつの……。つか俺が今の歳で『かなえねえ』とか呼んだら気持ち悪いだろ。親父をパパ呼ばわりするようなもんだぞ、この俺が。やばいでしょ」
「……想像しちゃったじゃん。やめてよ」
「罪を自覚したか」
小学校低学年の頃 、流護はとある切っ掛けで知り合った近所に住む女子大生こと京屋叶慧の家へよくお邪魔させてもらっていた。彩花と一緒に。
さらさらのロングヘアーが似合う黒髪美人で、確かに純粋無垢だった子供時代の流護にとって、憧れの人と呼べる存在ではあったかもしれない。
「まあでも、叶慧姉ってすごい人だったよね……。美人だし、絵も上手いし、料理も上手いし、歌も上手いし、勉強もできるし……スペック高すぎだったよね」
「何でもできたよな、あの人」
ちなみに彼女は色々とペットを飼っていて、
「そう言う彩花さんが変に小さいモノ好き拗らせたのって、絶対あの人が飼ってたハムスター……何だっけ、あの物騒な名前したやつ」
「あー、デストロイちゃん?」
「そうそれ。……今思うとひっでー名前だな……、とにかくあれが原因だろ。お前、あこん家行くとずっと構ってたよな」
何だかとんでもない名前を授かったその小動物は、やたらと彩花に気に入られていたものだ。撫でられすぎて妙に平べったくなっていた覚えがある。飼い主である叶慧自身が「キミそんなに薄くなれるんか……」と驚いていたほどだ。
「だってー。デストロイちゃんのあの、まるっとしたおケツのかわいさといったら……。忘れらんないわー、あのハムケツは」
「いやケツってお前……もうちょっとこう、言い方をだな……」
「叶慧姉、今もペット飼ったりしてるのかなー」
「かもな。あの人のことだし」
ちなみに彼女は、流護たちが中学生になる頃に県外へと引っ越していった。とうの昔に社会人になっているはずだ。
「そう、それで思ったんだけど。ミアちゃんって、デストロイちゃんに通じるかわいさがあるよね~」
「あー……」
「む。なによその『始まったぞこいつ』みたいな顔」
「よく分かってるじゃねーか……」
彩花は無類の小さなもの好き。流護は当初から、ミアがその対象になり得ると危惧していた。やはり不安は的中したようだ。
「あー、ミアちゃんを清潔なケージで飼育してあげたい。毎日ブラッシングしてあげたい。無防備にへそ天したところをなでなでしてあげたい。それでたまに、のびのびと部屋んぽさせてあげたい」
(飼育って言ったか今……?)
全体的に何を言っているのかもよく分からないが、とにかく聞いてはいけない単語が飛び出たような気がした。
「そして私は最終的には絶対の信頼を勝ち取って、ミアちゃんをネコ吸いするのだ……」
「ネコ吸い? って何だよ」
「え? ネコ吸い知らないの? ネコちゃんをぎゅーって抱き締めて、顔をうずめてすーって吸い込むの」
身振り手振りでエア実演する彩花の仕草を見て、流護の中で合致するものが浮かび上がる。
「ああ! 何かダークホラーのゲームで見たぞそんな感じの動き。タコ人間みてぇな気持ち悪ぃ敵がものすげー勢いでホーミング突進してきてプレイヤー捕まえて、カットインで脳ミソ吸ってくるんよな。はは、お前ならやりそう」
「は?」
ちょうどそこで、
「おはよー二人ともー!」
どばーんと部屋の戸を開け放って、まさに話題の小動物が乱入してきた。
「わ、お、おはよミアちゃん」
「おう、元気だな朝っぱらから。つかミアよ、ノックぐらいしてもらってだな」
「あ、うう、ごめん。二人の声が聞こえたから、つい……」
「流護細かーい。ミアちゃんがかわいそう。あんたそんな繊細だった?」
「いや、プライベートとかは気にせんし別にいいんだけど、いきなり開いたドアにぶつかったりしたら危ないじゃん」
「流護が気を付ければいいじゃん」
「俺は自分の部屋でいつ開くとも知れないドアにずっと気を払ってないといけないのか……。いやつかさ、仮に俺がお前の部屋にノックしないで入ったら、血管ブチ切れさして怒るじゃろ」
「そりゃそうでしょ。それとこれとは別」
世は不条理である。
「ミアちゃん、気にしないで遠慮なく遊びに来てね……!」
「何でお前が言うんや……、いやまあ別にいいんだけどさ」
そんなしょうもないやり取りを経て、朝っぱらから他愛もない雑談で盛り上がる。
「あ、そういえばアヤカちゃん! ミーティレードの歌、聞いてみたー?」
「ああ、うん! 聞いた聞いたー。声量ハンパないし、全然音外さないし。普通にすごくて聴き入ったよ。みんなが推すのも分かるかも。どんな人なのかな? ちょっと気になってきたー」
「でしょでしょ! 王都に来たこともあるみたいだけど、さすがにあたしも本人を見たことなくて。『とてゴー』で特集してくれないかな~」
気付けば、彩花とミアも随分と距離が縮まったようだ。
(うんうん)
彼女らの保護者になったような気持ちで、流護は感慨深く頷いてみたりする。後方で見守りながら腕を組みつつ頷くあれである。まあ、脳ミソを吸ってみたいという彩花の欲求はどうかと思うが。
(あれ、脳ミソだったっけ?)
よく分からなくなってきた。
「あ! そういえば前に、ベルちゃんが見たことあるって言ってたんだ。路上公演やってて、たまたま見かけたんだって!」
「へー……ベルグレッテが? そうなんだ……」
「うん。金の髪を頭の後ろで縛ったきれいな人で、変わってるのは目の色! きれいな桃色をしてたんだって。珍しいよね~」
「うーん……まあ私からすれば、みんなカラフルな目の色してて変わってるんだけどね……」
そこで、コンコンと部屋の戸が叩かれた。
「おはようリューゴ、ちょっといいかしら?」
控えめなノックと呼びかけ。ミアと対照的なそれは、しかしやはり流護にとってはおなじみの人物によるものだ。
「おーう、ベル子か。おはよーさん。どうした?」
返答しつつドアを開け、彼女を迎える。彩花が「うわ対応早くてきもっ」などと後ろから煽りを飛ばしてくるが、もちろん取り合わない。
「お邪魔するわね……、あ。誰かいるとは思ったけど、ミアとアヤカだったのね。おはよう、ふたりとも」
「ベルちゃんおはよう!」
「……ん、おはようベルグレッテ」
女子同士の挨拶もそこそこに、ベルグレッテの表情が少し引き締まった。
「朝早くからごめんなさい、リューゴ。さっそく本題なんだけど……実は夕べ、任務の依頼があったの」
「お? 久々に俺の出番ですか」
怨魔の討伐か、悪人の捕縛か。いずれにしろ、戦闘特化要員の流護に振られる仕事はおおよそ決まっている。
「それが、あなたと私を名指しの依頼で……」
「え? 俺ら二人に?」
となると、これは珍しいことだった。遊撃兵の流護はともかく、ロイヤルガード候補であるベルグレッテが直接何らかの任務に赴く機会はそう多くない。それも、流護とベルグレッテが二人一緒にとなれば尚更だ。
「誰からの仕事なんだ?」
「それが……」
戸惑った面持ちで、少女騎士はその名を口にする。
「ダーミーさんなの」
「へ? ダーミーさんって……、あのダーミーさんか?」
「ええ。間違いないわ」
ベルグレッテ困惑の理由を悟ると同時、それがそのまま流護に伝播した。
ダーミー・チャーゾールベルト。
アルディア王選りすぐりの精鋭部隊、『銀黎部隊』に属する人物である。
長身痩躯で背中を丸め気味にし、ほぼ常時ハンドポケット。無気力で寡黙、他人と目を合わさない。
腕前は確かだが、とかく変わり者との印象が強い男だった。
『銀黎部隊』の中でも新参の部類で、同僚やベルグレッテでもあまりよく知らない人物。
「何でまたあの人が?」
「さあ……」
流護たちは顔を見合わせた。
何しろ、交流など皆無な間柄である。
昨年秋に行われた原初の溟渤への遠征で一緒になったのが初対面で、その時も会話らしい会話はほぼなかった。そのうえ、あれ以降は一度も会っていない。普段は遠隔地に勤務しているらしい、との話は聞いているが……。
「今、王城へやってきているそうよ。夕べ、クレアから通信があって……私たちへの言伝を頼まれたって。あの子も困惑していたわ」
「そらそうだろな……」
接点もほぼないダーミーが流護とベルグレッテを指名で、となれば誰でもそんな反応になるに違いない。
「詳しい内容は会って直接伝えたいそうよ。どうかしら」
「分かった。じゃ、とりあえず行ってみるか」
仕事は仕事だ。どういった用件なのか全く予想できず、興味を引かれたことも確かだった。
「すぐ出るか?」
「そうね。お待たせするのも悪いし、できれば早めに向かいましょう」
今から準備をして……となれば、どんなに急いでも王都着は昼過ぎになる。あいよと同意した流護は、部屋の奥でまったりしているミアと彩花を振り返った。
「おーう二人とも、ちょっと仕事行ってくるわ」
「仕事? 誰が?」
目を丸くする彩花に、流護は自分の顔を親指で指し示して堂々宣告する。
「誰がって俺がだよ。ベル子もだけど」
「え……? ニートじゃなかったんだ……」
「ガチ困惑やめろや……本気でそう思ってたんかお前……」
「ベルちゃんも? ふたりで一緒に行くのー?」
ミアの質問には、ベルグレッテが「そうよ」と答える。
「ふーん、二人で」
小姑系幼なじみが耳ざとく聞いて目を平坦にしてくる。
「言っとくが、依頼人も一緒だからな。しかも変な兄ちゃんなんだこれが」
ダーミーには申し訳ないが、こうでも言っておかないと彩花が何かとうるさい。
「噂には……聞いて、いますよ~~。貴方が、リューゴ、アリウミぃ……みたいな……」
「それは……、あ。ダーミーさんの真似ね……?」
ベルグレッテが真相を解明したみたいな顔でハッとする。
「推理で頭を働かせた結果やっと気付いたみたいな反応やめて」
暗に似ていないと言われたようなものだ。
「と、とにかくだ。帰りは最速で夜になるか……仕事の内容によっちゃ、何日か掛かることになっから」
「え。何日も留守かもなの?」
驚く彩花に、流護は今さらながら説明してやる。
「お前も王都行ったなら分かるだろうけど、とにかく移動に時間が掛かるからな。王都で合流して、そっから仕事の現場に移動して……なんてやってると、普通に一日じゃ終わらんコースになる」
むしろ費やす時間の大半が『移動』なのだ。近場の街から街へでも数時間。これを数度繰り返せば、あっという間に昼夜が入れ替わってしまう。
魔法じみた力が存在する異世界なのだから、それこそ瞬間移動でもあればいいのに……と何度思ったことだろう。
「そっか……じゃあ二人とも、しばらく帰ってこないかもなんだ……」
そう呟いた彩花の表情が、おもむろに流護の中で幼少時代の彼女と重なった。寂しがり屋で泣き虫だった頃の姿と。
「……、まああれだよ、そんな長くはならんって。とりあえずミア、俺らが留守の間こいつのこと頼むな」
「了解だよ!」
鼻息荒く速攻で頷いてくれる元気娘が頼もしい。と、そこで少年は幼なじみに釘を刺す。
「あとあれだ、彩花。お前は俺が帰ってくるまで学院から出るなよ。週末遊びに行くとかも禁止な」
「は? なんで?」
流護としては心配から出た言葉だったが、上から目線と捉えられたか何なのか、知幼なじみの少女はキリと眉を吊り上げる。行動まで束縛される筋合いはないと言いたいのだろう、かすかに垣間見えた子供の頃の面影など一瞬で吹き飛んでしまった。
「何でってお前……初めて行った王都で思くそ怨魔に襲われといて、よくそんなこと言えんな」
「いや、だってあれは……、例外中の例外なんでしょ?」
「たしかに、前例のないことではあったわね……」
そんなベルグレッテの呟きで味方を得た気になったか、彩花は「ほら」と(平坦気味な)胸をそびやかす。
流護は盛大な溜息でその反抗を受け止めた。
「……いいか彩花。例えばミアなんかは一見ゆるキャラマスコットに見えるかもしれんが、その実態は電撃ハムスターとでも呼べる存在だ。ちょっとした怨魔とかその辺のチンピラなんざ、一瞬でコントみたいな黒焦げアフロにできる。だから地下に落ちたのがお前じゃなくてミアだったら、逆に怨魔をサクッと返り討ちにしてたかもしれん。これでも詠術士の卵だからな、それぐらいの力はあるんだ」
流護がそう説くと、当のミアが首を竦める。
「うう、でも怨魔は怖いよ……できれば出くわしたくないよ!」
「とまあそんな本人ですら仰るように、神詠術がそこそこ使えても尻込みするようなヤバイ相手なんだよ怨魔ってのは。学院から一歩外に出れば、そんなのが当たり前にうろついてる世界なんだ。街道には魔除けとか掛けてあるけど、それも絶対じゃない。特殊な条件下で無効化するような奴もいたし、飛行型の奴には効果薄いし、飽くまで怨魔対策だから普通の獣とか野盗なんかにゃ効かないしな」
「で、でも! それ言い出したら、この学院が襲われたこともあったんでしょ? ここにいるから安全とは言い切れなくない?」
「ああ。多分この世界のどこにも、百パー安全な場所なんてないんだ。村とかが丸ごと壊滅したなんて話も聞くし、城にいる王族ですら絶対に安全なんて言い切れないから、ベル子みたいなロイヤルガードって護衛がいる。だから皆、少しでも自衛して生存確率を上げるしかないんだよ」
「……、」
反論に詰まる彩花に、流護は続けた。できる限り棘を削ぎ落とした口調で。
「俺がお前の近くにいる間は百パー絶対に守るけど、いなけりゃどうしょもない。だから正直、俺がいない間は学院から出てほしくない。現状、お前の行動範囲の中で一番安全なのはここだからな。ずっと一緒にいれりゃ一番いいんだけど、まさか任務に連れてくって訳にもいかんしさ」
また下らない言い争いになっても仕方ない。そう思って素直な心情を吐露すると、彩花とベルグレッテがそれぞれ反応に困ったような素振りを見せた。ミアはなぜか「ワーオ!」と意味不明にファンキーな鳴き声を発している。
「うーん! リューゴくんは、アヤカちゃんのロイヤルガードって感じだね……! 騎士さまなんだね……!」
「へ? いや別にロイヤルでも騎士でもないが」
目をキラキラさせて言ってくる意味が分からないが、まあ役割の話であれば似たようなものかもしれない。
彩花はというと、肩口から伸びる長い黒髪の先を指で弄びながら、やや不本意そうに口を開いた。
「い、いや、まあ。そこまで言うなら、大人しく留守番してようかな……ってか、べつに出かけるつもりもないし。確かにこないだの王都は楽しかったけど、初めてであんな思いしたから普通に抵抗あるし」
「そか。ならまあ留守番しててくれ。つか、そんなに遅くはならないと思うから。出かけたいなら、俺とかベル子とかが一緒に行ける時にしようぜ」
「……しょうがないなぁ」
態度はどうあれ、そうしてくれれば流護としては安心できる。
「ま、長引きそうなら手紙の一つも出すし……な、ベル子。……ベル子?」
「そ、そうね」
少女騎士にしては珍しい、少し鈍い反応だった。
「にしても……こういう時、やっぱ電話があればって思っちゃうんだよなー。出掛け先からでも簡単に連絡できる訳だし。そういやベル子、バダルノイスから持ち帰ったアレってどうなったんだ? 何か聞いてるか?」
オルケスターの構成員であるモノトラが所持していた、トランシーバーや携帯電話によく似た機械。落下の衝撃で完全に壊れてしまっていたようだが、大きな手がかりとなり得るため回収して城に引き渡したのだ。現在、研究部門が調べを進めているはずだ。
「私はなにも……。リューゴこそ、ロック博士から聞いたりはしてないの?」
「いやあの人、前より忙しいみたいだからな最近。今なんかも、ずっと王都行ってるじゃん」
以前は研究棟に篭もりきりの博士だったが、例の神詠術結晶が発掘されてからは、頻繁に泊まりがけで王都へ出向いている。
余談だが、その移動に関しては超要人扱い。
ロック博士ひとりのために、最新鋭の武装馬車と兵士十数名、加えて『銀黎部隊』の誰かが随伴するという手厚い対応である。まさしく絶対に安全とは言い切れない街道を往復するため、これだけの防衛力が宛てがわれるのだ。
今のロック博士は、アルディア王が進めている計画の中核とも呼べる存在。その待遇からも重要度が推し量れる。
ちなみにいっそ王都に住んでしまえばいいのではとの意見もあるようだが、博士は慣れない環境だと集中できないらしく、特に頭を使う場合は自室でないとどうにも捗らないのだとか。元々、都会の喧騒から離れた環境で研究したいとの理由もあって、この学院の一画を間借りしているのだ。過去に暗殺されかけた思い出もあり、都市に住む気はないらしい。
「さて、ほんじゃそろそろ準備すっかな……」
ともあれ、今は久々の任務へと頭を切り替える。
「ええ。それじゃ、馬車を呼ぶわね」
「おう、任せた」
「ほらミア、行くわよ。あなたは講義の準備しないとなんだからね」
「ベルちゃんのいない講義なんて、お肉が出てこないステーキみたいなものだよ……」
「また意味の分からないこと言って……。アヤカは夕方からお仕事?」
「うん。でもどうせ暇だし、ちょっとお昼も手伝いに行こうかなって」
「ミアもこの勤勉さを見習ってほしいわね」
「うう……リューゴくん、気をつけて行ってきてね」
それぞれに退室していく少女らを見送る。
と――部屋の出入り口で、最後尾の彩花がおもむろに振り返った。
「どした」
「……うん。気をつけて行ってきてよね」
視線を逸らし気味に、なぜか口先を少し尖らせながら。
「お前こそ、大人しくしてろよ」
「もう、暴れん坊みたいに言わないでよ。まあ、行ってらっしゃい」
不満そうに零しながら、けれどかすかな微笑みを浮かべながら、彩花が扉の向こうへ消えていく。
「……ったく」
妙なこそばゆさを覚えながら、流護は外出の準備に取りかかる。
(一応、ダイゴスにもお願いしとくか)
無駄にアクティブな彩花を一人で残していくことに不安はあるが、少なくとも学院にいれば安全度は極めて高い。
強固な壁に守られた、詠術士の卵たちが集う学びの園。腕に覚えのある者も多く、ダイゴスに至っては一流の戦士だ。
それこそ流護がやってきた直後の怨魔襲来のような事態も現実に起き得ることではあるのだろうが、その辺りのことを言い出したらもう何もできない。「交通事故に巻き込まれるのが怖いから車に乗りません、出歩きません」と同じような話になってしまう。あのファーヴナールが現れたこととて、過去に前例がないような事件だったのだ。
(……ああ、だから……なのか)
ふと、唐突に思い至った。
ゆえにきっと、この世界の人々は願うのだ。
「何事もなく、無事に過ごせますように」と。
姿を見たこともない、神という存在に対して日々祈るのだ。自分でできることに限度があるからこそ、何らかの加護にすがりたくて。
――しかし、少年は知るよしもない。
『この世界のどこにも、百パー安全な場所なんてないんだ』
自らの語ったこの言葉が、これからまさに証明されようとしていることを。
最善を尽くしてなお、悪意は否応なく迫ってくるのだと。
神に祈ろうが祈るまいが、まるで関係なく。その願いを嘲笑うがごとく。
これから始まるのは。
強者に踏みにじられた弱者の命が、ただ儚く消えていくだけの物語。