555. 戻ってきた日常
風花の月、十九日。
冬の気配もすっかり過ぎ去り、春の暖かさが到来した晴れの朝。
流護たち一同は、ミディール学院の校門前に集まっていた。
その人物の『帰還』を迎えるためである。
「……不肖レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ、ミディール学院に戻って参りました。……このたびはご迷惑ご心配をおかけして、誠に申し訳なく……」
深々、と見本のように丁寧なお辞儀で。
肩の位置で切り揃えられた、さらさらの金髪。大きいメガネの奥に秘められた、穏やかな青の瞳。いかにも大人しげな、文学系少女といった物腰。
長らく欠けていた、日常の風景のひとつ。
冬のある日に忽然と消えた彼女は、春の訪れに合わせたかのようにそこへ立っていた。戻ってきた。
「……待っていたわ、レノーレ。おかえり」
一歩踏み出たベルグレッテが、万感の思いの篭もった笑顔とともに右手を差し出す。
「…………ただいま」
その手を、レノーレがしっかりと取る。
「……、」
流護としても感慨深い。
一時は、もうこの光景は見られないかもしれないと……この関係は戻ってこないかもしれないと、諦めかけたこともあった。
しかし、レノーレはこうして帰ってきた。帰ってくることができた。
「う、ううう……」
震える声。
その出所は確認するまでもない。
「ウワ――――! レノーレ! もう! 心配したんだかだ――!」
爆発したような嗚咽を伴って、ミアがレノーレに抱きついた。
「わ、……っ、ミア……」
「ンモー! よかった! よかったよ! 待ってたよ! レノーレ! うわああぁ……!」
「お、落ち着いて、ミア……うわっ、涙と鼻水が……」
そういうレノーレも、瞳にうっすらと涙を浮かべている。
「はっはっ、ミアを悲しませた罰ってことで受け入れたまえ」
もっともらしく流護も笑ってやる。かつてレフェから帰った際、同じようにミアの抱擁を受けた身として。
「……ケッ、もう心配はなさそーだな」
横を向いてぶっきらぼうに吐き捨てるエドヴィンに対し、ミアを抱き締めたままのレノーレが淡く微笑む。
「……うん。……ありがとう、エドヴィン。……あなたにも、お世話になった」
「! ったく、ガラにもなく素直になってんじゃねー……! 調子狂うってんだよ……!」
悪態をついた『狂犬』は、そのまま大股で逃げるように校舎へと戻っていってしまう。
「全て片付いたか」
動揺丸出しの悪童とは対照的、低く落ち着いた声で尋ねるのはダイゴス。
「……うん」
「そうか」
実に簡素なやり取り。それでも元から言葉少なな二人にしてみれば、充分な意思疎通が図れているらしい。互いの微笑みがそれを物語っている。
「流護、流護っ。誰なの?」
そんな囁きとともに、後ろから服の裾が引っ張られる。振り返るまでもない、レノーレのことを知らない彩花だ。出迎えにやってきた流護とミアに何となくついてきたため、今この場に居合わせている。
「ああ。レノーレつって、皆のクラスメイトだよ。ワケあってずっといなかったんだけど、今日やっと戻ってきたんだな」
その詳細はここでは語り切れないし、またそうする必要もない。もう終わった話だ。
「へー……。ミアちゃんと仲いいんだ」
「奴らはソウルメイトぞ。性格とか正反対だけど、不思議と息がピッタリってーか……見本みてーなデコボココンビだな」
「ミアちゃんにフンスコされてうらやましい……。……まあ、あれだね。すごい美人だけど、流護のタイプとはちょっと違うよね。大人しそうなメガネっ子って、あんたの趣味じゃなさそう」
「その品評いる?」
そんなやり取りを交わしていると、彼女がじっとこちらを見つめていることに気付く。
「ん? どうしたレノーレ」
……というより正確には、そのメガネの奥の瞳は彩花を捉えている。
「あ、そうだな。レノーレ、実質初対面だもんな」
そうだ。起きている彩花と対面するのは、向こうもこれが初めて。
注目されていることに気付いた彩花が、ぎこちなく頭を下げる。
「あっ、えっと。ども……。蓮城彩花、っていいます……」
「……どうも。……レノーレ・シュネ・グロースヴィッツです。……目が覚めたのね」
「あ、はい。えっと……寝てた私のこと、ご存じで……?」
「……うん」
「……あ、そうなんですね……」
「……そう」
「…………」
「…………」
そして沈黙。
もっとも、実質初めましての二人。レノーレの物静かな性格は言わずもがな。彩花も流護と比べたなら遥かに社交的だが、見知らぬ人間といきなり盛り上がれるほどファンキーではない。というか、レノーレと初対面の人間はまずこうなるに違いない。
「っと、そういやレノーレ、荷物持ってなくね?」
途切れた会話の助け舟を出すついで、流護はふと気になった疑問を切り出した。
こうして無事の帰還を果たした彼女だが、見たところ鞄のひとつも持っていない。手ぶらだった。
「……うん。……実は、しばらく王都で用事があるので、復学は少し先になる」
「え? そうなの!?」
セミみたいに抱きついたままのミアがレノーレを見上げた。
聞くところによれば、ここ数日ほど学院長が王都に滞在しているので、そちらに挨拶のため顔を出すとのこと。
自分の意思でないとはいえ、一時は退学届けを出した身。それに加え、バダルノイスという彼女の故郷はレインディールのロイヤルガードであるベルグレッテに対し謀殺を企てた。そういった事情もあり、しばらくは色々な手続きやら説明やらをしなければならないとのことだった。
ということでこれからすぐに王都へと向かう予定で、荷物は学院の脇で待たせている馬車に積んだままらしい。
「なるほどな。いきなり今日から元通り、って訳にもいかんのか……」
「……うん。……でも、すぐに戻ってくる」
「ほんと? また戻ってこないとか、もう絶対に嫌だよ……」
レノーレにしがみついたままのミアが、腕に力を込める。
「……ん、大丈夫。……絶対に……絶対に帰ってくる」
そう微笑む風雪の少女の微笑みに、あの北国で対峙したときの冷たさはない。
『ミアが心配してたぞ』
バダルノイスにて咎人となっていたレノーレと再会を果たし、流護が説得すべく口にした言葉。
『……私には、関係ない』
それに対しただ淡々と、冷たく言い放った彼女。しかしその裏で、どれほどの思いを押し殺していたことだろうか。改めて想像を絶するばかりだ。
「……では、そろそろ失礼」
「うん。じゃあ、待ってるからね。もう進級も控えてるから、勉強は怠らないようにね。レノーレなら大丈夫だと思うけど」
ベルグレッテの言葉に、彼女ははっきりと頷いて。
名残惜しそうなミアを優しく引き剥がしつつ、そのメガネの奥の瞳が流護へと向けられる。
「……改めて、あなたにはお世話になった。……ありがとう、その……リューゴ」
「お、おう」
そうだ。出会ってからこれまで、レノーレに名前を呼ばれたことがなかった。わだかまりが解けたあのとき、友人として頼んだのだ。今後は、お互い名前を呼び合えるような間柄になろう、と。
いざ呼ばれると、その新鮮さに少し動揺する。
思春期の少年が何とも言えないくすぐったさを感じていた、その直後だった。
「……リューゴ。……バダルノイスでは一夫多妻が認められている。……私は、二番目の女でも構わないから」
――場が、凍った。
「え?」
「え?」
「え?」
「え?」
流護、ベルグレッテ、ミア、彩花の四人が互いとレノーレとの顔を見比べる。
「……ふむ」
何が「ふむ」なのか、ダイゴスはいつもの薄笑みを浮かべて訳知り顔で腕を組んでいた。
「レ、レ、レノーレ……?」
わなわなと震えた声で親友を見やるベルグレッテと。
「は? え?」
訳が分からず皆の顔を見渡す流護と。
「え? え!? ど、どういうことなのレノーレ!? リ、リューゴくんのことを……!?」
見本みたいなリアクションで驚くミアと、
「流護、あんた……」
なぜか汚物を見下ろすような目つきの彩花。
「……あ」
唐突に謎の発言をぶちかましたレノーレはといえば、その中でも彩花にどこかわざとらしくハッとしたような顔を向けて。
「……これは失礼。……私は、三番目の女でもいい」
「っ!? なんで私の顔見てそんな……!」
「レ、レノーレ!? ちょっと、あなた……!?」
「……あれ、リューゴ。……あの夜のこと、まだみんなに話してなかったの」
「あの夜!?」
「いやどの夜だよ!?」
「ウワー! リューゴくん、いつの間にレノーレとそんなカンケイになったのー!」
「違うって! なってねえ! パパを信じてくれミア!」
「パパとかきっしょ! ってか流護! どういうことなのっ」
「知らんわ、俺が訊きてぇよ!? レノーレ、いきなりキャラ崩壊やめろや! 設定ぶっ壊れてっから!」
「……あっ。……ミアもいるから、私は四番目でいいや」
「ウワー!」
「いいやって何だよそれ普通に俺に興味ねぇじゃん!」
「……何番目でもいいや」
蜂の巣をつついたような騒ぎが広がっていく中、
「……にやり」
当の発言者が意味深に笑ったのを流護は見逃さなかった。
(こ、こいつ!?)
そこで少年は思い出す。
かつてレノーレは、よく喋るおてんば娘でいたずらっ子だったと。今のレノーレからはとても想像もつかない過去。彼女の母であるレニンの日記に、そんなことが記されていた。
ふとその頃の血が騒いだのか何なのか、いやむしろこれが『本性』なのか。そんな問題発言をすれば場がこの騒ぎになると分かっていて、わざと爆弾を投下したのだ。
「……ではこれにて失礼」
「いや待てコラ、どうすんだこの空気ィ! って速っ」
文学少女風の見た目に似つかわしくない、忍者めいた動きと素早さでカサカサと実行犯がこの場を離脱していく。
「何だその氷の脚出したグリーフットさんみてーな動きと素早さァ!」
「流護! どういうことなの!?」
「うっせえ! どういうことなのbotやめろ! ってかダイゴス助けて!」
彩花の追及を躱しつつ、傍らで泰然と佇むこの場唯一の同性に助けを求める。
「……さて、そろそろ勉学の支度をせねばならんの」
思い出したかのように、巨漢は堂々たる足取りでその場を去っていく。
「あ、友情とかそんなになかった感じですかね!?」
「リューゴ、その……あの夜って、いつのことかしら」
「ベル子さん、何でそこで鈍いん!? そんな夜は存在しねぇ! いつもの頭のよさで気付いて! どう考えてもレノーレの嘘だって気付いて!」
「うう、リューゴくん……」
「あ、ミアちゃんだめ。このケダモノに、それ以上近づいちゃだめ。ほら、私と一緒に朝ご飯にしよ」
「うん……」
「やめろ結構傷つく!」
そうして、激動の朝は過ぎていくのだった。
……好意的に解釈するなら。
レノーレは皆との久々の再開によるしんみりとした空気やら気恥ずかしさやらをどうにかしたかったのかもしれないが、生贄とされた流護にしてみれば恐ろしい話だった。




