554. 二人なりの約定
「その、ちょっと訊きたいことがあるんだけど……もし違ったらごめんね。えっと……ユウラちゃんって、もしかしてさ――」
ここまで覚えていた違和感を形にするべく。
そう切り出した彩花は、慎重に言葉を選んで問いかけた。
「もしかして……ユウラちゃんって、本当の名前じゃなかったり……しない?」
満ちる無言の間。
洞窟内で時折滴る水滴の音だけが、静寂の中でやけに大きく響く。
「……、……そんな、……いえ……どうして……、そう、思うんですか……?」
しばしの沈黙を破って発せられたユウラの返答だが、その程度の反応は彩花も予測していた。隠しているなら、食い下がるに決まっている。ゆえに彩花は、その結論へたどり着くに至った経緯を説明する。
「いや……なんかユウラちゃん、話しかけられてるのに反応しないことが結構あって。最初は単に、耳があんまりよくないのかなーとか思ったけど……いざ会話が始まっちゃえば全然普通に喋ってたし、噂になってる幽霊の声とかっていうのも聞いてたみたいだし。んでよくよく考えてみると、ユウラちゃんが反応しないのって、決まって『名前を呼ばれて話を振られたとき』だったよねって思って」
『ユウラ嬢ってさ、実はかなりの術の使い手だったりする?』
『…………』
『ユウラ嬢ー?』
『あ。え、はい! なんでしょうか』
『ユウラちゃんは、あんまりこの歌とか好きじゃない感じ?』
『…………』
『おーい、ユウラちゃん?』
『あ、はいっ?』
『あ。ユウラちゃん、そこ足下気をつけてー。尖った石が突き出てるよー』
『…………』
『ユウラちゃん、ユウラちゃんってばー。足下、足下』
『……え? あ、はい、わ、あぶっ……!』
同じような反応は、この洞窟に入ってからも二度ほどあった。
いずれも、ユウラの名前を呼びながら話しかけたとき。彼女に話を振って、会話を始めようとしたときだ。
しかし、当人はといえば無反応。意図的に無視している風でもなく、どちらかといえば『自分が話しかけられていることに気付いていない』かのような。
「だから……もしかして、『ユウラっていう名前を呼ばれ慣れてない』んじゃないかなー、って思って」
偽りの名前だから、自分が呼ばれたと思っていない。そのため、咄嗟に反応できない。
その推論を聞かされたユウラは、しばらく無言でうつむいて。
どんな葛藤を経てか、重く口を開く。
「…………はい、そのとおりです。ユウラというのは、私の本当の名前ではありません……。……他にも、仮初めの名前がいくつかあって……今は、ユウラと名乗っています……」
「あ、やっぱりそうなんだ……!」
彩花自身、推論こそ打ち立てたものの断言はできないところだったので、的中して驚き半分な心境だ。
「そっかそっか。じゃさ、本当の名前はなんていうの? ……あ、でも教えられない事情があるから、偽名使ってるんだよね……」
「アヤカさん。お願いがあります」
「え? は、はい」
はっきりとした口調。凛々しい薄紫の瞳。これまでの気弱な印象と異なる芯の強い姿勢で切り出され、彩花は若干のけ反りながらコクコクと頷く。
「私の名前のことについて、誰にも言わないでほしいんです。マデリーナさんたちにも、他のお友達にも、ご家族にも。本当に、誰にも」
「あ、う、うん……。えっと、ユウラちゃんの名前が本当じゃない、ってことを? だよね?」
「はい。私の名前にかかわる一切、全てを……です」
このグリムクロウズには、現代日本の常識では想像できないような様々な事情を抱えた人々が暮らすという。
ユウラと名乗るこの少女もまた、そのうちの一人なのだろう。
「う、うん……」
しかしそんな風に念押しされると、一般人である彩花としてはたじろいでしまう。
「本当にごめんなさい。色々とお世話になったうえに、こんな厚かましいお願いまで……」
「あ、ううん。気にしないで……」
「…………」
「…………」
とはいえ。こんな流れになってしまった以上、どうしたって気になる。
彼女の本当の名前が。
それを察したであろう少女が、自ら口にする。
「それで、その……私の本当の名前、なんですけど」
「う、うん」
「事情があって、私は本当の名前を隠しています。今まで、外の人に教えたことって一度もなくて。でも、アヤカさんは命の恩人ですし……ここまでお世話になってるのに、偽名のままなんて失礼な気もして……。それに、隠したままでは何となくお互い気まずい感じがしますよね……」
きっと彼女とて、好き好んで名前を隠している訳ではないのだろう。本当は呼び合いたいはずなのだ。気兼ねなく。
「ですので、せめてもの誠意というか、本音というか……私の本当の名前をお伝えさせてください。それで、この話は終わり。二人だけの約束、ということで。ダメですか……?」
おそらく、彼女なりに迷った末の結論。
ユウラは偽の呼称、なら本当の名前は?
この疑問を放置したままでは、モヤモヤを抱え続けた彩花がいずれ何かの拍子に口を滑らせてしまう可能性もある。きっと、そういった懸念を払拭するための決断でもある。
ゆえに本名を明かす。その代わり、それですっぱり終わりにする、と。
「……うん。いいよ、約束しよう」
「……マデリーナさんたちにも、ご家族にも」
「ん」
この世界に家族はいない彩花だが、今それを告げる必要もない。あえて挙げるなら、流護が該当するだろうか。
「二人の約束、だね」
期せず同時、頷き合う。それこそが、契約の成立した証であるように。
そうしてユウラと名乗っていた少女は、ここまで被っていた偽りのベールを脱いだ。
「私の本当の名前は――――カヒネ、といいます」
珍しく、異常なまでに頑なだった。
「話してないことなんてない」と。
伊達に長い付き合いではない。でなくとも本職柄、人の真意を見抜く目には長けているつもりだ。そのうえで、少女も平然と嘘がつける性格ではない。察することはそう難しくなかった。
黙っていることがあれば言ってほしい、と。
青年がやんわりと諭し続けるも、態度は変わらず。
「分かっているだろうけど……ヴァルゾールカに確認させれば、君が嘘をついているかどうかは容易に判別できる。だが、そんな真似はしたくない」
そうなのだ。疑惑が出てしまった以上、少女の行為は無駄な抵抗にすぎない。暴かれるのは時間の問題。
それは当人とて、重々承知だったのだろう。
観念したように、暗い面持ちで。
「……………………名前を、教えたの」
少女は、教誨師に罪を告白するかのように。
「……そうか」
青年も、それで咎めはしない。
「私が……ユウラって呼ばれ慣れてないのを、気づかれてしまって……、それで」
ふむ、と青年は相槌を打つ。素直に感心したのだ。そこを突いた相手の観察眼に。
「でも、みんなじゃないわ。一人だけ。それに、二人で約束したの。このことは、誰にも絶対に言わないって。だから、大丈夫……」
「話の流れから察するに……相手は、一緒に地下へ落ちたという子かな。アヤカ・レンジョーさん、だったか」
「あ、うん……」
「そうか。話してくれてありがとう」
兄代わりとして、青年は少女を労った。実の妹ではないが、絆はそれ以上だと思っている。
「ごめんなさい、勝手なことをして……」
「謝るのは僕らの方さ。友達に名前を教える……そんな当たり前のことにさえ不自由を強いてしまっている。本当に済まない」
「……ん……」
「それで、『力』を使ったりはしてないかい?」
「っ」
彼女は何も答えていない。しかし、肩に力が篭もった様子を見れば心を読めなくとも窺い知れる。
しかし、こちらが言葉を発するより早く少女が口を開く。
「使おうとはしたの。怨魔から逃げるために。でも、その前に騎士の方が助けにきてくれたから……」
「そうか……。うん、分かったよ。話してくれてありがとう」
ぽん、と彼女の頭に手を置いて。
「さ、もう遅い時間だ。話はここまでにしよう。明日に備えて、そろそろ寝ないと」
「待って。大丈夫? アヤカさんに、怒ったりしない……?」
「ああ、もちろんだとも」
浮かない顔のままコクリと首肯する彼女に微笑んで、青年は部屋を後にする。
「それじゃあお休み、カヒネ」
夜も更け、日付が変わる頃。
青年は、片隅にまとめておいた荷物の中からそれを取り出した。
大きさは片手で握れる程度。硬い材質で作られた長方形の箱。その表面には、大小様々なボタンがいくつも並んでいる。
今のところ特に正式な名称もないが、組織内では『信盤』などと呼ばれていた。
慣れた手つきで盤面を操作した青年は、最後にそれを自分の耳へと宛てがう。ほどなくして、
『俺だ』
その物体の中から、低く落ち着いた男の声が聞こえてきた。
「夜分遅くに失礼。僕です」
青年もまた、その箱へ向けて当たり前に語りかける。
「カヒネを無事保護しました」
『……そうか。ご苦労。明日には戻れるか?』
「少しばかり事後処理が必要になりましたので、ひとまず先に彼女だけ帰します」
『分かった。いつものことだが……懸念があるなら、確実に潰しておけよ』
「承知しました。では失礼」
ボタンを押し込み、会話を終了する。
隣――少女が眠る部屋と、この部屋とを隔てる壁に目をやって。
「…………済まない、カヒネ」
懺悔の言葉を皮切りに、青年は再度『信盤』のボタンを操作する。
先と同じように耳へ宛てがうと、先と同じように向こう側から応答があった。
『ウォーイ、ガードンゼッファ運送商会でーっす』
低く濁った男の名乗り。そのたわけた口調と酒焼けした声音から、ろくでもない性根が透けて見える。
「僕だ」
『! お、おお。アンタさんでしたかい』
簡素すぎる青年の名乗りを受けて、向こう側の相手は露骨にへりくだった。
「いつも思うけど……運送商会を名乗るなら、態度を改めた方がいいかと。市井の民なら尻込みしてしまうよ」
『へへ、構いやしませんぜ。その辺のヤツから依頼なんざ来やしねぇんですから。「信盤」に掛けてくるのは一握り、来るのはワケあり、送るのは「人」。行き先はただ一つ……ってねぇ?』
「詩的に言うね、顔に似合わず。さて、本題だけど」
無駄話をするために連絡したのではない。通信術と違い他者に聞かれる可能性こそ低いものの、用心するに越したことはない。
青年は無感情に口を開いた。
「僕……リチェル・ヴェーレが、オルケスターは殲滅部隊の一人として、お前たちガードンゼッファ兄弟に命ずる」
現在の組織にとって最優先事項であった『カヒネの回収』を完了した青年――リチェルは、ただ淡々と告げる。
「抹殺の指令だ。標的の名は――アヤカ・レンジョー。カヒネに接触、その名を知ってしまった。『力』を見てしまった可能性もある。ゆえに、念のため消去しておく」
怒りなど抱いてはいない。それどころか、カヒネを保護してくれた相手だ。
恩を仇で返す下衆な行い。そんなことは重々承知している。
だが、同じことだ。行き着く先は、一緒。
(……早いか、遅いか。それだけの違いでしかない)
自らに言い聞かせるように、そう即断し。
わずかな痕跡の着実な排除へと向けて、リチェル・ヴェーレは行動を開始した。