550. 波瀾万丈ファンタジー
「くしゅっ」
ユウラの可愛らしいくしゃみが人工の石壁に反響する。
「わ、だいじょぶ?」
「ひゃ、ひゃい」
「服、びしょびしょだもんね……風邪引いちゃいそう」
かくいう彩花も同じ状況である。
日中はかなり暖かかったが、さすがに水浴びには早い時期。しかもそろそろ夕方、急速に冷え込む時間帯となってくる。ただでさえ、現在地は地下の水辺だ。
そして予想以上だったのは、水を含んだ衣服の重さ。
これがズシリと全身にのしかかり、思った以上に体力を奪われる。いちいち付着して泥じみた汚れになる土埃も不快だ。
体力のない彩花にとっては、子ネコを抱き続けていることも少なからず負担になっている。途中からユウラが交代を申し出てくれたので厚意に甘んじてはいるが、それでもそろそろ腕がしんどくなってきた。
「疲れたね……」
「そう、ですね……。少し、休憩しますか?」
「うん……そうしよ」
頷き合い、近くの岩場に腰を下ろす。みゃぁ、と腕の中の子ネコが眠たげな声を漏らした。
「…………」
「…………」
もう、かなり歩いている。疲労が溜まり、自然と言葉も少なくなる。
――が。
会話が続かない理由は、間違いなく他にもあった。
「……、……あ、あの。アヤカさん。さっきの話は、みなさんには……」
「……うん。分かってる。誰にも言わないよ。約束だもんね」
「は、はい。すみません、お願いします……」
このユウラという少女が、どういった目的で『そんなこと』をしているのか――彩花には知るよしもない。
理由を尋ねてみるも、「色々とあって」としか答えてはくれなかった。
流護によれば――このグリムクロウズは厳しい世界だからこそ、様々な事情を抱えた人々が存在するのだという。学院生の中にだって、そういった者は少なからずいると。ミアだってまさにそうだ。実の父に売り飛ばされてしまっただなんて、彩花の感覚からしてみればあまりに現実味がない。
旅人だという彼女もきっと、そのうちの一人なのだ。
少なくとも、こちらに悪意を持ってのことではない。それは、この少女と接していればよく分かる。
(……うん。ほんと、ファンタジーの世界なんだなぁ……)
改めて実感する。
目覚めてから、ひたすら驚きの連続だ。
魔法みたいな力と、その力を扱うための技術を学ぶ学院。そこに集まる個性豊かな、頭髪や瞳の色も様々な若者たち。大自然に囲まれた長い街道と、その果てにたどり着く巨大な城塞都市。
そこで用水路みたいな場所に落ちて流されて、まさかの地下ダンジョン探索パートへ突入。
そこまでアクティブでない彩花にしてみれば、もはやアヤカクエストとでも呼ぶべき壮大な冒険譚といえる――
と、そんな思いを巡らせていたところで。
オオ、と濁点を含んだような、声とも音ともつかぬ何かが反響した。
「……?」
彩花は咄嗟に、(失礼ながら)それをユウラのくしゃみと勘違いした。
しかしこの可憐な少女がそんなアザラシみたいな声を漏らすはずもない。先ほど、可憐な少女らしいくしゃみを披露したばかりだ。それに胸元の子ネコも、驚いたように首を伸ばしている。その視線は、この通路の先。
直後ユウラと顔を見合わせて、
「……なに、今の――」
オオオ、と。
遮るように――この先の空間から、再度その『声』。
音、ではない。生物の声だ。
何か、いる。
この場所に。
自分たち以外の、何者かが。
さすがにそこは、異世界の住人ゆえだろう。
いきなりのことに思考が停止しかけた彩花とは違い、ユウラの目つきが真剣みを増した。
しっ、と彼女は口元で人差し指を立てる。彩花もほとんど息を止めてコクコクと頷いた。
「こっちです……!」
そしてユウラの手招きに従って、座っていた岩場の裏側へと回り屈み込む。
幸いこの場所は大きな岩や崩れ落ちた壁の破片が転がっており、起伏に富んだ地形となっていた。幸い隠れる場所には事欠かない。
二人で、岩場の隙間からこっそりと通路の先を窺う。
「……まさか……」
静かなユウラの呟きをかき消すように。
すぐにまた、オオ、オオと不気味な声音が響いてきた。
「これ……この声です」
「え、なにが……!?」
「マデリーナさんたちと話していた、幽霊の話です。奇妙な声のようなものが聞こえるって……。私が聞いたのは、この声です」
「……っ!」
その『幽霊』の声が、さきほどよりも鮮明に大きくオオともう一度。間違いない。少しずつ近づいている。息を殺して硬直していると、やがてぺたぺたと足音のようなものが届き始めた。
彩花がゴクリと唾を飲み込むと同時、通路の闇から『それ』が姿を現した。
全長は一メートルに満たない。
一見すれば、青みがかった体色の大きなトカゲだった。ただ、足が八本もある爬虫類など地球には存在しないだろう。長く伸びた尻尾は先端で枝分かれしており、それぞれ意思を持ったように蠢いている。
何より印象的なのは、その頭部だ。裂けた口内に羅列されているのは平べったい歯で、人間のそれに似ており薄気味悪い。真円の眼球は顔に不釣り合いなほど大きく、その色は燃えるような赤。瞳孔はそれより一回り小さい黄金の円で、その二重丸が忙しなくギョロギョロと蠢いている。
「……………………、っ、」
彩花はさして生き物に詳しくなどない。
が、それでも分かる。おそらくは、命あるものの本能として。
この怪奇極まる存在は、間違っても友好的な相手ではない――と。
胸に抱きしめた子ネコの震えからも、それは推し量ることができた。
「怨魔です……!」
密着するほどの近さでようやく聞こえる、ユウラの緊迫した囁き。
「……!」
あれがそうなのか。
この世界に蔓延るという、人類の敵対者。
(見つ、かったら……)
怨魔なる存在は、例外なく人間を殺害対象とみなし襲い来るという。
彩花は言うまでもなく、ユウラも戦闘は無理。
「~~っ」
唐突すぎる。あまりにも前触れなく到来した死の恐怖に、眩暈を起こしかける。
ペタペタ濡れそぼった足音とともにやってきたその殺戮者は、異常に大きな眼球を持つにもかかわらず、その場でフンフンと鼻を鳴らし始めた。まるで犬のように。目が悪いのか。鼻がきくのか。外見に反するその行動のちぐはぐさが、不可解さを際立たたせる。『分からない』というその事実が、より不気味さや恐怖を煽り立てる。
(……こっちに気づかないで……お願い、どっか行って……!)
彩花は呼吸すら止めて、この奇妙な怪物が通り過ぎてくれることを願った。
怨魔は思い出したように顔を上向け、キョロキョロと辺りを見渡す。岩場の隙間から覗いている彩花やユウラには気付いていない。
そこで突如、トカゲはオオと咆哮を発した。
「っ、っ!」
驚いて漏れそうになった悲鳴を、彩花はすんでのところで堪え切る。ユウラも子ネコもビクリとしたが、音を出すことはなかった。
トカゲはといえば、またも周囲をキョロキョロと見渡している。
その挙動からは「あれ、誰かいると思ったんだけどおかしいな」とでも言いたげな、とぼけた余裕が感じられた。
(誰もいませんから、誰もいませんからっ! 早く諦めて……早くどっか行ってよ……!)
息を殺し、ひたすら念じたその直後。
彩花は、信じられない現象を目の当たりにする。
浮いた。
跳躍するでもなく、そのままの姿勢でいきなりフワリと空中に浮き上がったトカゲが、そのまま天井へと吸い寄せられる。まるでホバーでも搭載しているみたいに、SF映画のワンシーンみたいに。そしてクルリと反転、着地。
「……………………え?」
呆気に取られた。彩花だけでなく、隣のユウラまでもが。唖然と、ただ見上げた。
それはまるで、トカゲだけ重力が逆転したみたいだった。
高さ五メートルほどの天井に『接地』した怪物は、逆さのまま再びキョロキョロと首を巡らせて――
「あ……」
当たり前に、彩花と目が合った。
それはそうだ。あれだけの高みからであれば、こんな岩場に隠れていても意味がない。丸見えだ。
そうしてこちらの存在に気付いた怨魔は、ココココと笑い声にも似た鳴き声を発して四肢を……八本の足を踏ん張る。やはり上方向に重力が働いているとしか思えない挙動だった。
もはや彩花にも分かる。飛びかかろうとしているのか、それとも他の手段を用いるのか。とにかく、こちらへ危害を加えようとしている。今、この瞬間にも。
「アヤカさん……!」
がし、と肩を掴まれる。言うまでもない、隣のユウラだ。覚悟を決めたような表情の彼女が、高みのトカゲを仰いだまま叫ぶ。
「目をつぶってください……!」
ぼう、とユウラの全身が淡く発光する。彼女の手が置かれた肩口から、その白い輝きが彩花にも伝播してくる。
「うわ、わ、わ!? ユ、ユウラちゃん……!? な、なにこれ……!?」
もちろん神詠術に違いない。しかし、彼女は戦えないという話だったはず。なら、何をしようと――
オオ、と短い咆哮。
「っ!」
弾かれたように彩花は天井の怪物を振り仰ぐ。
飛んだ。天井を足場として跳躍した怨魔が、凄まじい勢いで自分たちへと躍りかかってきて――横合いから迸った放物線状の何かに迎撃され、石壁へ叩きつけられた。
ゲッ、と鈍い悲鳴を漏らしつつも、トカゲは素早く起き上がる。
かつ、かつと高らかに反響する足音。
叩き落とされた怨魔も、そして岩場に屈み込んだままの彩花とユウラも、その出所へ反射的に目を向けた。
「やれやれ。ようやく見つけましたよ」
まだ幼さが残る、高めの……どこか気品に溢れた少女の声だった。
やってきた声の主の姿が、壁面の光る青コケにうっすらと照らされて明らかになる。
背は低く、ミアと大差ない。年齢は十四、五歳ぐらいではなかろうか。彩花より下、ユウラよりは上に見える。黒みがかった藍色の長い髪を頭の左側で結わえた、サイドテールの髪型。その小顔は思わず見入ってしまうほどの美貌だが、目つきは極めて鋭く、視線だけで射殺さんばかりに怨魔を睨めつけていた。青を基調とした長いドレススカートの裾を翻し、気高さに満ちた堂々たる足取りでやってくる。右手には、銀色に輝く抜き身の長剣が握られていた。
自分に攻撃を仕掛けてきた相手と認識したのだろう。今度は天井でなく床を蹴ったトカゲが、現れた少女へと一直線に突っ込む。
八本もの脚を有するがゆえか、その速度は常軌を逸していた。少なくとも、彩花が「危ない」と叫ぶ暇すらないほどに。
が、その必要はなかった。
矢のような速度で飛びかかった怨魔は、悠然と構える彼女の目前で突如吹き上がった水柱に激突。自身の勢いが仇となったか、弾き飛ばされる形でもんどり打って転がる。
「終わりです」
その隙を逃さず踏み込んだ少女が、トカゲの頭を踏みつけて石床へと固定。銀剣を下向け、容赦なく突き刺した。
思わず目を背けた彩花の耳に、短い断末魔と濡れそぼった鈍い音が届く。
それと同時、ばたばたと複数の足音が近づいてきた。
「あ! もう終わってる!?」
「うわ、さすがの手際です……!」
現れたのは、銀鎧に身を包んだ兵士が二人。どちらも十六、七歳ぐらいだろうか。物々しい武装姿ながら、彩花とそう年齢の変わらなそうな少女たちだった。
そんな彼女らへ向けて、怨魔を仕留めた小さな少女が振り返る。
「遅いですよ。プリシラ、アルマ」
明らか自分より年上だろう彼女らに、やや呆れ気味の遠慮ない口調で。
「いや、あんたが速いんだってば。ガンガン突っ込んで行っちゃって……」
「悠長なことを。私がもう数瞬遅ければ、そこのお二人は助かりませんでしたよ」
そう言った高貴な青の少女が、彩花とユウラへその切れ長の瞳を向けてくる。
「あ……、えっと、あ、わわ」
知らずへたり込んでいた彩花は礼を言うべく立ち上がろうとしたが、生まれたての小鹿みたいに上手くいかない。情けない話だが、どうも腰が抜けてしまったらしい。
「だ、大丈夫ですか、アヤカさん」
ユウラに手を貸してもらって、ようやく起立に成功する。気がつけば、先ほど彼女や自分を包みかけていた淡い白光は消えていた。
「お怪我はありませんか」
事もなげに怨魔を仕留めた高貴な少女は、剣を腰の鞘へ収めながら彩花たちの下へやってくる。そうした所作のひとつひとつが実に優雅だ。
「あ、はい。えっと……あ、あ、ありがとう……ございます」
唐突に訪れた死の危険、そして生還。
一瞬の間でそんな修羅場に見舞われたせいか、まだ声も足も震えているし、頭がクラクラして思考の追いつかない彩花だった。
――と。
「ふむ……こうしてお話しするのは、これが初めてですね」
青の少女の鋭い瞳が、どこか値踏みするように彩花をさっと眺め回す。
「え……? えーと……どこかで、お会い……しま、した?」
彩花のぎこちない問いに、彼女はニコリと花のような笑顔で。
「ええ、ミディール学院で。幾度となく、眠り続けている貴女の身の回りのお手伝いをさせていただきました。私は、クレアリア・ロア・ガーティルード。ベルグレッテの妹です。以後、お見知りおきを」