542. 要注意人物
地下組織オルケスターの頭脳にして団長秘書を務めるリンドアーネ・カルフェストは、このところ頭を悩ませ続けていた。
「……全く、どうしてこんな……」
不測の事態。すっかり収まったと思われていた、カヒネの消失。
それがよりにもよって、こんな時に。
おかげで、表の仕事である書類管理も手につかない有様。
(……少し頭を冷やしましょうか)
このままでは、精神的負荷で体調を崩しそうだ。
一息つくため自室を出たリンドアーネは、屋敷の一階、大広間へと足を運ぶ。階段を降りてすぐのそこには、ソファへふんぞり返った先客の姿があった。
「よぉ、書記官殿。辛気臭ぇツラしてんじゃんか」
こちらへ顔を向けたその人物から、ちりんと小さな鈴の音が発せられる。
「……当然でしょう、ミュッティ。未だ行方が分からないのですから」
オルケスターが誇る精鋭四名からなる殲滅部隊、その一角。ミュッティ・ニベリエ。
今回の事態により、彼女をバダルノイスから急遽呼び戻す羽目になってしまった。
主導者オームゾルフを籠絡し、かの国を実質的にオルケスターの支配下へ置く計画や、『ペンタ』メルティナ・スノウの臓器入手も放棄。
何も得られなかったうえ、古参の人員であるモノトラを失う結果になってしまった。
が、致し方ない。カヒネの捜索は全てに優先する。発覚次第、原則として全員による対応が急務。
「おう、そうだ書記官。ついさっき、シェリから連絡があったぜ。シュッツレイガラルドにも、カヒネの痕跡はなかったとよ。……ってワケで、だ」
気だるそうに言葉を切ったミュッティが、目前のテーブルに広げてあった紙を掴み上げる。机上を覆い尽くすほど大きなそれは、エッファールク王国を中心として描かれた大陸の地図だ。この国を含めた周辺国のそこかしこに、赤字でバツ印が記されている。彼女は乱雑な手つきで、新たにシュッツレイガラルドへ同じ記号を書き入れた。
「現状、こうなる。今んとこ全部空振りだ。で、カヒネは知らん場所には移動しねえ」
ミュッティが何を言わんとしているかは明白。
散々に赤文字が書き込まれたその地図の中で、手つかずの部分。リンドアーネもメガネ越しに、否定したい気持ちでそこを凝視した。胸いっぱいの溜息とともに。
「……レインディール、ですか」
「ああ。条件に当てはまるのは、もうここしかねぇ」
何も書き込まれていないその地域……獅子の強国と称されるそこを、ミュッティが指先の長い爪で弾く。
「……ええ。もはや、その可能性を大いに考えねばならないでしょう」
リンドアーネも渋々に同意した。
(……全く、よりにもよって……)
ミュッティの推測はおそらく正鵠を射ている。というよりリンドアーネ自身、薄々予感はしていた。これだけ心当たりを捜索して見つからないとなれば、もうそこ以外にないと。ただそのセンを否定したくて、頭の片隅に追いやっていただけだ。
「ってんで、ついさっきリチェルから報告があったぜ。もう、レインディールに向かってる最中だとよ」
くくと楽しげに喉を鳴らすミュッティに反し、リンドアーネは盛大な溜息を吐き出す。そうせずにはいられなかった。
「……今は可能な限り、レインディールへの接触は避けたかったのですけどね……」
「ケ、アタイが仕損じちまったからか?」
「貴女の落ち度ではないでしょう。ですが、彼らに我々の存在を気取られてしまったことも事実……」
バダルノイスからの撤退を余儀なくされたことで、レインディールの者たちやメルティナを仕留め切れずに終わってしまった。結果、彼らには少なくない情報を与えることになってしまった。
それゆえ、せめてほとぼりが冷めるまで無用な接近は控えたいと考えていた。未だ、かの国の中枢に入り込む手段も見つけられていない。
「もっとも、あのリチェルなら心配無用とは思いますが……」
「そりゃどーだろな」
ソファにふんぞり返ったミュッティがからかうように笑う。
「どうしてです?」
リチェルはミュッティと同じ殲滅部隊の一人。組織内でも最上位級の強者であり、表の仕事柄、非常に明晰な頭脳を持つ人物でもある。知暴併せ持つ、掛け値なしの天才だ。
ミュッティ本人を前に言うつもりもないが、正直なところ殲滅部隊の中で……どころか組織内で最も『まとも』であり、信が置ける人物といえる。
「分かってんだろ。あの野郎、カヒネのこととなると目の色が変わっからな」
「だからこそ、冷静に事を運んでくれると思いますよ。カヒネの確保が確定しない状態で無茶な真似はしないはずです」
リンドアーネは組織の頭脳を自認しているが、実のところ知力でもリチェルには及ばない。
「何しろ、彼の表の顔を思えば……これほど適材適所という言葉が当てはまる仕事も他にないでしょう」
ゆえに、彼に限ってであれば危惧はしていない。のだが、
「だといいんだがな」
ミュッティは懐疑的な姿勢を崩さない。
「何か気がかりなことでも?」
同じ殲滅部隊であるミュッティこそ、リチェルの能力は存分に把握しているはず。
「バダルノイスでの一件については、こないだ聞かせた通りだが――」
天井を仰いだ彼女の声音に、若干の気だるさが交じる。
「キンゾルのジジイからも報告は受けてるよな?」
「ええ、まあ」
「どう分析したよ?」
「そうですね。お二方のご報告から、やはり……レインディールの遊撃兵について、認識を改めさせられました」
ミュッティの攻撃術を受けながらも生き残り、窮地を脱することに成功。最終的には氷輝宮殿に正面から単騎突入を敢行、兵力の大半を無力化した。
彼と対峙したキンゾルからは「期待したほどのものではなかった」との評を受けているが、実際に拳を交えたメルコーシアからはまた違う一言が齎された。
「あの少年は自分を前にした時点でひどく損耗していた。万全の状態だったなら、やや異なる展開が生まれていただろう――」
リューゴ・アリウミ。
体術のみで天轟闘宴を制した、若き異端の拳士。団長補佐たるデビアスが『詠術士殺し』と称し、珍しくも熱っぽく語った存在。
そしてレインディールには『銀黎部隊』を始め、この遊撃兵に匹敵するであろう猛者も数多く存在している。
改めて、リンドアーネはより警戒を強めたのだ。しばし、ほとぼりが冷めるまで……準備が整うまで迂闊に近づくべきでないと。
そんな秘書の総括に対し、
「まーな。生身であれだけ頑丈なヤツは他に見たことがねぇ。別に何度闘ろうとアタイの敵じゃねぇが、並の詠術士にゃちょいと厳しいだろな」
実に『らしい』高飛車な宣言。
「ただ……アタイの予想が正しけりゃ、あのガキは――ある意味、一番のザコだ。全く恐れる必要はねぇ」
「……どういうことです?」
「そのうち分かる」
意味深に目を細めた彼女は、「そんなことより」と言葉を挟んで。
「書記官殿よ。本当に気を付けるべきは、あの遊撃兵のガキなんぞじゃねえ」
常に余裕を帯びているミュッティの顔から、笑みが消えた。
「一番ヤベェのは、ロイヤルガードの小娘だ。ベルグレッテ、とかいったな」
意外な名に、リンドアーネは目を丸くする。
「……、確か、オームゾルフ祀神長の計略を看破したという話でしたね」
「ああ。だがおそらく、それだけじゃねぇ。そもそもバダルノイス全土でお尋ね者に指定されながら、逃げるどころか本拠地に攻め入るなんざ普通は考えねぇだろ。十中八九、計画したのはあの小娘だ。遊撃兵の単騎駆けに目が行きがちだが、まずその土台を作ったヤツがブッ飛んでやがる」
「……それは……半ば、自棄になっていたのでは? とても逃げ切れないと悟ったからこそ、裏をかいてそのような手段に訴え出たと。それが偶然、功を奏したと」
「どうかな。ヤツらは、南下すると見せかけて七百の兵力を宮殿から遠ざけることに成功してる。街の兵士を足止めするために、ご丁寧に将軍の偽手配書を用意したりもしてるしな。終いにゃ、メルティナを使ってアタイを宮殿から引き離してんだ。こうして振り返ってみれば、仕込みは完璧だった。全て計算づくとしか思えねぇ」
「…………」
リンドアーネは言葉を失った。
自分がその立場に置かれたならどうするか。少なくとも、そんな無謀極まりない策など考えつきもすまい。いかに遊撃兵の少年の実力を信じていようとも、容易に実行に移せる策ではない。
「もちろん、実際のところどうなのかは分からねえ。アンタの言うとおり、ヤケっパチが功を奏しただけってセンも否定はできねぇ。だが……もし、あのお利口さんの嬢ちゃんの筋書き通りに事が進んでたなら……ちょいと侮れねぇのは確かだぜ」
珍しいことだった。『あの』ミュッティが、ここまで他者を評価するなど。
「意外か? アタイがこんな風に言うのはよ」
「え、ええ、まあ」
見事に心中を言い当てられ、ついどもってしまう。と、彼女は歯を見せて笑った。トントンと細くしなやかな指先を自らのこみかみへ添えて。
「いくらアタイらが特別な力を得た詠術士だっつっても、生まれ持ったオツムの良さばっかしはどーにもならねぇしなァ?」
ってワケでよ、とミュッティは話をまとめにかかる。
「リチェルの野郎があの目敏い小娘に尻尾を掴まれないよう願いてぇところだな。ま、奴も小賢しさじゃ超一流だ。一応、忠告はしといたがよ」
「ええ……」
豪胆なミュッティがここまで言うとなると、警戒しておくべきなのだろう。
「ところでよぉ」
首を巡らせた彼女が、底意地の悪い笑みを作る。
「まーだ行方知れずのままなのか? ナインテイルのヤツは」
「……ええ。捜索はさせているんですけどね」
どこか楽しげですらあるミュッティの言に、リンドアーネはためらいがちの頷きを返す。
「ったく、相も変わらず協調性に欠けるアマだな。とても組織に向いてる人間じゃねぇ」
リンドアーネとしても、正直なところミュッティのそんな主張に異論はない。
例えば今回の件に関しても同じ。カヒネ消失の際には原則として全人員が緊急召集に応じる決まりとなっているが、未だナインテイルだけは音信不通。その行方は依然掴めないままだった。
それでも彼女は、オルケスターに不可欠な人物として認められている。
なぜなら。
単純に、強いからだ。
おそらくは、この大陸で……否、世界で頂点に君臨するほどに。
同じく腕っ節を買われて所属している猛者はヴァルツマンを始めとして多く存在するが、ナインテイルはあまりにも一線を画している。
組織の運営、躍進……ひいては団長クィンドールの――皆の目的のために、欠くことのできぬ人材であることは疑いようもない。
組織における、唯一の『ペンタ』。最強の双璧、その片翼――。
「っても、ヤツとカヒネはロクにかかわったことねぇんだっけか? なら、来なくても問題ねぇっちゃねぇんだろうが」
「ええ……まあ、そうですね」
「案外あのアマ、どっかで野垂れ死んでたりしてな」
「そう思います? あのナインテイルが」
「強ぇから生きてるとは限らんぜ? アイツ、『趣味』に入れ込むと寝食忘れてノメリ込むだろ。案外、それでカラダ壊してコロッ……ってな」
「……彼女が戦闘で敗北する様だけは思い浮かびませんが、確かにそれならあり得るかもしれませんね」
『趣味』。
ナインテイルは――今もどこかで、人知れずあのおぞましい行いに没頭しているのだろうか。
それを思うと、連絡がつかなくていいのか悪いのか、と複雑な思いにとらわれるリンドアーネだった。