541. 恋愛話譚
夕飯を済ませて、場所は流護の部屋。
「つ、疲れたー……」
力尽きた彩花は、ソファに全身を預けて横たわる。
「いやお前、何もしてないだろ別に。ま、調子戻るまでは無理すんなよ」
しれっと言う流護は、部屋の中央でストレッチに勤しんでいる。昼間も鍛錬に打ち込んでいたはずだが、一体どんな体力をしているのか。
――午後になって、『眠り姫』目覚めの報告を受け一人の医師がやってきた。
その名を、シャロム・ミランエスト。
年齢は流護や彩花より四、五歳ほど上だろう。メガネと金髪のボブカットがよく似合う、知的な雰囲気の理系女子である(外見的には流護の好みのタイプではない感じがする)。数ヶ月の間、眠り続けていた彩花の世話や往診を担当していた人物だという。
その礼を伝えるとともに会話した限りでは、見た目通り真面目で賢そうな女性だった。のだが、
『それにしても、アヤカさんの症例は過去にありません。実に興味深い。是非とも詳しく調べてみたいですね。解剖して』
『ええと、私に協力できることでしたら……、……え? かいぼう?』
『い、いえ。な、何でもありません』
流護曰く、失言系女子。
長らく意識がなかった彩花にしてみれば不穏極まりないのだが、あまり深く考えないほうがよさそうだ。ちなみにシャロムの本業は医者ではなく研究者らしい。知らない間に妙な肉体改造でも施されていないかと不安になるばかりである。
と、にわかに部屋の外――廊下側が騒がしくなる。何人かの集団が談笑しながら通り過ぎていったらしい。
「おう、そろっと戻って来始めたな。他の生徒が」
「そ、そうなんだ」
先立って聞いている。昨日と今日は週末の休日。明日からの学校生活に向けて、帰省していた生徒たちが帰ってくる時間帯に入ったのだ。
今日の学生食堂での注目されっぷりを考えると、当事者の彩花としてはどうしても緊張してしまう。
「ま、お前が珍しがられるのも最初のうちだけだって」
「そっ、そうは言うけどさぁ」
何となく髪を気にして整えると、
「大丈夫大丈夫。思ったよりブスじゃん、って皆すぐ興味なくすから安心しろって」
「はぁ? ばかばか、ばーか」
昔から変わらないやり取り。思わず、ここが異世界だということを忘れそうになる。
そんな矢先、彩花はその異変に気付く。
「……あれ?」
「ん? どうかしたか」
「なんか外、明るくない?」
カーテンに包まれた窓を見ながら指摘する。先ほど、夕飯を済ませる段階ですでに日は落ちていた(ちなみに『日』という表現は使わないらしい)。これから夜を迎えるのに、あんな強い光が差し込んでくるはずはない。
「……っと、そうだったな。お前はまだ見てないんだったか」
思わせぶりに言った流護が、ストレッチを切り上げて窓辺へと近づく。
「彩花、ちょっとこっち来てみ」
「え? なによ」
「いいから、ほれ」
意味深な手招き。仕方なくソファから起き上がった彩花は、窓辺に立つ流護の下へ足を運んだ。と同時、彼がカーテンを開け放つ。
「――――――――――」
彩花は、その光景を前に言葉を失った。
一瞬、それが何なのか分からなかった。あまりに大きかったから。
「…………、これ、って」
月だ。
とてつもなく巨大な月が、夜空を埋め尽くしている。わずかな黒雲を纏いながらも、煌々と。
「昨日とかさっきまでは思いっきり曇ってたから、見えんかったけどな」
流護はさも当たり前のように言う。
恐ろしくなるほどの威容。周囲の闇を払拭し、青白く染め上げるほどの。この位置からでも、肉眼でクレーターらしきものが確認できる。
「夜の女神で、イシュ・マーニって名前なんだとさ。月、とか言っても通じんから注意な」
突きつけられる。改めて、自分は地球……日本とは全く異なる別世界へやってきてしまったのだと。
その巨大な天体に目を奪われて呆然としていると、
「………………あ」
自分でも驚く。頬を、涙が伝ったから。
「ちょっ、どうしたんだよ彩花」
「ど、どうもしてない! 泣いてない!」
ぐしぐしと目元を拭う。
「いや、どうどうどう……」
「泣いてないってば……!」
きっと、念を押すように思い知らされたせいだ。ここは、自分の知る場所ではないと。まるで地球とは違う、どこか遠く離れた別世界なのだと。
「ったく、世話の焼ける妹だな……!」
「!?」
ぐい、といきなり肩を引き寄せられた。力強い右腕に抱かれ、その分厚い手のひらで頭をくしゃくしゃされる。
「ひえ!? な、なにすんのっ」
「昔から泣き虫だよな、お前。でもまあ、大丈夫だって。俺がついてるから」
優しい声。
思えば、懐かしい。
小さい頃、怖い番組や映画を見て泣いたとき、流護はいつもこうして慰めてくれた。
でも、あの頃とは違う。
声変わりして男性の声になって、腕は太く強くなって、胸板も厚くなって。
こんなことをされたら、どうしたって……。
「不安になるよな。俺も最初、そうだった」
月を見上げて、巨大な何かに対峙するかのように。
「この世界も色々めんどくせぇけど、お前は何も心配しなくていい。全部、俺が何とかすっからさ」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。
「は、離してよっ。せくはらです」
「泣き止んだらな」
「泣き止む、泣き止むからっ……ていうか泣いてないのにっ」
意思に反して、まだ涙が浮かんでくる。
「えーい、もういいもん!」
開き直って、流護の胸に顔をこすりつける。それで涙を拭いてやろうという魂胆だ。
「うわっ、何してんだよお前……っとにもう」
言いつつも、少年は決して彩花を突き放したりせずに。
(あー……だめだ、私……)
思い知った。
昔から分かっていたことを、改めて噛み締めた。
私、流護のこと大好きだ。
(……うん。だからこそ……)
以前からの思いが……決意が強まる。
(流護のことが好きだからこそ、私は……)
今、その決意はより強固な目標へと変わった。
その大事な人の、力強い腕に抱かれながら。
時刻は、夜九時を回ってしばらく。
部屋にベルグレッテがやってきた。彩花の私室の準備ができたという。
「そっかぁ。なんか慣れてきたから私、もうこのまま流護の部屋でもよかったんだけど」
「いや、俺がよくないが。勘弁してくれ」
部屋主の抗議を無視しつつ、彩花はベルグレッテのほうをチラリと窺う。
「さ、さすがにそれは……。いくら二人がそ、そういう関係でないにしても、風紀上の問題があるので……」
「ふーん……それだけ?」
「え?」
「いや、なんでもないです。そかー、それじゃお別れだね、流護……。私のこと、忘れないでね……手紙出すからね……」
「この距離で出すな」
ベルグレッテと一緒に部屋を出た彩花は、彼女に先導されながら廊下を進む。
帰ってきた学生の一団と出くわしたらどうしよう……と少しだけ緊張する彩花だったが、この近辺は生徒らの部屋が密集している区画からは少し離れているようで、道中誰かと行き違うことはなかった。
さして雑談をするほどの間もなく、突き当りの角を曲がってすぐの扉の前でベルグレッテが足を止めた。
「ここね。アヤカさんには、この部屋を使ってもらおうと考えているわ」
「あっ、思ったより全然近いんだ……」
走れば一分もかからない。当たり前だが、外から見て特別変わったところはない。
「ええ。ここならリューゴの部屋も近いし、奥の廊下を行けば私の部屋もあるから。なにか分からないことや困ったことがあれば、遠慮なく訪ねてきてね」
百点満点の笑顔でそう言われては、はいと頷くことしかできない。
一緒に入室し、軽く説明を受ける。
とはいえ、特筆するようなことは何もない。家具はなく閑散としているが、流護の部屋と間取りは同じで、温術器の使い方を簡単に教わるだけだった。暖かそうな毛布も用意されている。
「……と、こんなところね。なにか、聞いておきたいことはある?」
一流のガイドさんばりに案内を終えたベルグレッテが、屈託のない笑顔で尋ねてくる。
「……、」
何だろう。何なのだろう。
完璧だ。立ち振る舞いから分かりやすい説明、気の回しようまで、何もかも完璧だ。このベルグレッテという少女は。
――だからこそ。
「あー……えっと……じゃあ、ひとつ質問していい? ベルグレッテさん」
「ん、どうぞ」
「好きな人とかっているの?」
「っ、んなっ……」
その『完璧』が崩れると、実に分かりやすい。
「いえ、その……質問っていうのは、部屋のことに関してであって……」
「えー、いいじゃんいいじゃん。気になるなー。ベルグレッテさんみたいな完璧美人が、どんな人に恋するのか興味あるなー」
「もうっ、私はロイヤルガードだから、そういうことにかまけている余裕は……」
「余裕があればふつーに恋愛したいってこと?」
「そ、そうじゃなくてっ。えっと、部屋について聞きたいことがないなら、私はもうこれで……」
「好きな人いるでしょ? ベルグレッテさん」
その言葉で、彼女はその場に縫いつけられたように硬直した。
流護の話によれば、この少女は誰よりも頭が切れるのだとか。であれば、察したはずだ。問われたその裏を。
そして。蓮城彩花は隠すでもなく宣告する。試すように。
「私もいるよ。好きな人」
わずかな静寂。
「そ……そう」
ベルグレッテは気まずそうにうつむく。
「うん。まーまー、恥ずかしがることじゃないでしょ。私らだって、年頃の女子なんだし」
はははと笑ってみせるも、ベルグレッテは曖昧な微笑みを浮かべるに留めるのみ。目線を逸らしながら。
「でもね、ベルグレッテさん。私は、ちょっと違うんだ」
「……え?」
「私はね、その人のことがすっごい大事。恋愛感情なんかじゃないの。そんな、冷めたら終わっちゃう安っぽいものじゃない」
「……、」
「むしろ私は、その人とくっつきたくない。今の距離感が壊れるのも嫌だし、そもそも私、その人に相応しくないんだよね。色々とダメダメな女だから。その人のことが誰よりも大事だからこそ、その人にはすごくいい人と一緒になってもらいたいって思ってて」
そうだ。先ほど慰められて、以前から漠然と抱いていたその思いはより強いものとなった。
「うん。その人が誰かと付き合うなら……ベルグレッテさんぐらい完璧な人じゃないと嫌かなー?」
「っ!? ア、アヤカさん……!?」
「あはははは。いや、変な話しちゃってごめんね。この話は終わり終わり。えーと、今日も色々とありがとうございました」
ペコリと頭を下げると、向こうも「い、いえ」とこちらに倣う。
と、彩花は薄々考えていたその考えを口にする。
「あ、そだ。ねぇねぇ、お願いっていうか提案なんだけど。私たちお互い、『さん』づけなしで名前呼び合わない? なんか他人行儀だし。……あ、でもそっちの地位とか考えるとダメなのかな……?」
「う、ううん。そんなことはないわ。ここではみんな、貴賎ない生徒同士の間柄だから……。もちろん、生徒でなくてもアヤカさんも……いえ、アヤカも気兼ねなく呼んでくれると嬉しいわ」
「おー、よかった。じゃ、今後ともよろしくね、ベルグレッテ」
ぺこぺこと頭を下げ合って、「おやすみなさい」と別れの挨拶。
部屋を後にするベルグレッテの背中を見送って、
「……はぁ」
一人になった少女は溜息をつく。
「…………あーもー」
ぶるぶると首を横に振って。
「……割り切ったのに、胸痛いのやだなー……。ほんともう……」
ぽつりと。その小さな声だけが、虚しく響いて消えた。
自室にて、ベルグレッテは窓から夜空を見上げていた。
久しぶりにその姿を見せた偉大な夜神が、青白い光を地上に届けている。
「……はぁ」
先ほどから、少女騎士の口を突いて出るのは溜息ばかりだ。
(……アヤカは、やっぱりリューゴのことを……)
前々から、密かに予想していたことでもあった。
流護はお互いにそんな感情は持っていないなどと言っていたが、それは彼の主張だ。彩花がどう思っているかなんて、また別の話だと思っていた。ましてあの少年はちょっと鈍いというか、割と唐変木である。
「…………」
そして恋する少女の勘か、こちらの流護に対する気持ちもあっさりと見透かされてしまった。
そのうえで、
『うん。その人が誰かと付き合うなら……ベルグレッテさんぐらい完璧な人じゃないと嫌かな』
あんな、自分から身を引くようなことを。
「…………」
ここまでの流護と彩花のやり取りを見ていても分かる。悪態をつき合っていても、二人の間には互いに対する強固な信頼感、安心感のようなものがある。きっと長い時間をともに過ごしてきたことで培われた、絆のようなものが。
(…………本当なら……、きっと、身を引くのは私のほうが――――)
馬鹿なこと言わないで?
「ぐ……!?」
突然の頭痛。目眩。吐き気。
「……あ……!」
ここのところはすっかり平気だったのに。日本から帰還した後に何度か味わった、倒れる前の兆し――
窓の枠に手をついて、どうにか持ち堪える。
こんな部屋の隅で意識を失っては、誰かに見つかった場合にまた無用な心配をかけてしまう。せめて、とふらつく足で寝台を目指す。
こっちが気を使う必要なんてないよ。
だって――
「…………、――」
明滅する意識の中で、声が聞こえる。
声。よく知っている声だ。
そう。とても身近な声。
バダルノイスの事件も、『彼女と二人で』推測を重ねたからこそ、真相に至ることができた。互いの意見を突き合わせ、多角的な視点を持つことで。
「……く、っ」
どうにか寝台までたどり着き、うつ伏せに倒れ込む。
「はっ、……はぁっ……!」
顔を横向けて、どうにか呼吸を繰り返す。と、それが視界に入った。すぐ脇のサイドテーブルに載せてあった、小さな鏡が。
そこに映り込む、倒れ伏した自分の顔。青ざめた肌と――漆黒の瞳。
小刻みな呼吸を繰り返しながら、少女騎士の意識はいつしか闇へと沈んでいく。その瞳の色と同じ、一切の光なき暗黒の世界へと。
余計なことなど考えず。
ただ今は眠れ、と促されるように。
明日からも、今まで通り『ベルグレッテ』を演じていくために。




