540. おちかづき
まだ本調子でない彩花の歩調に合わせて、ゆっくりと学生棟沿いを歩く。
かすかに吹き抜ける風は冬とも春ともつかない心地で、移ろう季節もまたコンディションを整えあぐねているらしい。
「はー……、な、なんか疲れちゃった」
「めちゃくちゃ緊張してたな、お前」
喉の奥で笑う流護に、「しょうがないでしょ」と彩花が頬を膨らませる。
――それはつい今しがた、学生食堂でのこと。
『眠り姫』が目覚めたとのことで、結構な数の生徒たちが代わる代わる話しかけてきたのだ。
「みんな、あんな髪の色とか顔立ちでめっちゃ自然な日本語なんだもん。やたらコミュ力高いし。びびるー」
「おう、人前じゃイリスタニア語って言っておけよー」
「ああ、そうなんだっけ。あと、太陽とかも言わないんでしょ?」
この時期に珍しく晴れた青空、その明るさを作り出している天体を細目で見上げながら、彩花は不思議そうに言う。
「絶対どっかでボロ出ちゃいそう……。あんたは大丈夫なの?」
「いや? よく言われるよ。たまに意味の分からん言葉使うよな、って。まあ、その場のノリと雰囲気でどうにかなるって。あーでも、神様だけは絶対ブジョクすんなよ。みんな、ガチで実在すると思ってるからな。まじでヘタなこと言うと処刑されっから」
「そ、それはだいじょぶだと思う。さすがにそんな暴言吐かないと思うし」
ともあれ今は『ニホン』が認知されてきているため、よほどのことがない限りトラブルも起こらないはずだ。
「今日の夜あたりから覚悟しとけよー。明日から学校だし、生徒がみんなゾロゾロ戻ってくるぞ。三百人いるからな。注目されっぷりはさっきの比じゃねえぞ」
くっくっと笑ってやると、彩花はひえーと小さくなった。
「もう部屋出ない……! 鍵かけて引きこもる……!」
そんな雑談を交わしつつやってきた場所は学生棟横、中庭。
流護にとってはいつもの場所である。
「……わ。ここでいつもトレーニングしてるんだ」
「そーだな」
奥まったその場所には、流護お手製の鍛錬器具が散らばっていた。
枯れ木に吊るしたサンドバッグの前へ立つ。
「よっと」
ステップを踏んで、左のジャブを二発。そうして距離を確かめてからの――右。
「ひゃっ……!?」
ずどん、と木霊した鈍い打撃音と、彩花の驚きの声は同時だった。
大きく揺れて振り子みたいに戻ってきた砂袋を押さえ、流護は溜息をついた。
「……埃っぽ……メンテからだなぁ、こりゃ」
何しろ、この寒空の下に二ヶ月も放置していたのだ。傷むのも無理はない。
「すっご……どうなってるの、あんたのパンチ」
「これが謎強化です」
ひとまず今日のところは器具を用いないトレーニングのみとし、夕方から手入れをすることにした。
彩花は隅っこに座って、シャドーに励む流護を眺めている。
「……暇だろ? 寒いし、部屋に戻ってていいぞ」
「退屈はしてないよ。あんたってさ、そうやって動いてるとすごいよね。別人みたい」
「おっ何だ。かっこいい俺に見とれてんのか?」
「うん。わりとがち、かっこいい」
「うわあ! やめろ!」
「あ、いつもの流護に戻っちゃった……」
「調子狂うんすけど……」
「いや、熟練者の動きー、って感じでほんと普通に見入ってたのに」
気を取り直して、腕立てバーピージャンプに移行する。直立状態から即座に腕立て、再び立ち上がってジャンプ。これを繰り返す。
「その動きはなんか意味あるの?」
「この一回の動作にスクワット・腕立て・ジャンプが入ってるべ。欲張りセットよ。相手のタックル切る時とかに使う動きにもなるし」
「タックル? 切る?」
「ああ……多分お前の頭ん中ではラグビーとかのショルダータックルが想像されてるんだろうな、ってのは分かる。格闘技で言うタックルってのはまた違ってさ……いやまあ、この世界でタックル仕掛けてテイクダウン狙ってくる奴なんていないだろうけど」
「ていくあうと?」
「持ち帰ってどうする」
格闘技の用語について彩花に説いても仕方がない。というより興味のない一般層にしてみれば、『キック』と『総合格闘技』の違いも分からないものなのだ。スパーリングとシャドーの区別がついていなかったりすることも珍しくない。ちなみに以前、彩花がスパーリングをワインと勘違いしていたことを付記しておく。
「ふーん……その動き、べつに簡単そうに見えるけど……」
「ほう、言ったな。ならやってみるか? 予言しとくが、お前これ絶対五回もできないからな」
「はぁ? 五回? いくら私が運動音痴だからって、さすがに馬鹿にしすぎじゃない?」
勢い込んで彩花が立ち上がるが、
「あ。待った。やっぱやめとけ」
「何でっ」
「その格好でやるのか?」
口先を尖らせた彩花が、まじまじと自分の格好を見下ろす。借り物の春着。スカート丈はそう短くもないが、まあ運動すれば色々と荒ぶることは間違いない。
「……えっち」
渋々といった面持ちで座り直しながら、そんな捨てゼリフを口にする。
「何でじゃい。そんな事態にならんように注意してやったんじゃん」
「そーゆーの言うのがえっち」
「つか、ベル子とかから下に履くやつもらったらいい」
「えっち」
同じ言葉を発し続けるbotと化した彩花はひとまず放置し、続いてステップの確認などを淡々とこなしていく。
「……流護ってさ、格闘家とかプロの空手家? とかを目指したりはしてなかったの? それだけ動けるんだし、片山先生だって褒めてたし」
額に浮かんできた汗を拭いつつ。
「……なかったな。考えたこともなかった」
一息入れ、織物で顔を拭いながら答える。迷いなく。
なぜなら。
空手を始めた理由は、この目の前にいる少女を守りたいがためだったから。
そんなことを知るよしもない当人は、驚きに目を丸くする。
「え、そうなんだ。ちょっと意外かも……。でも、実力的に俺ならいける! とか思ったりしなかったの? 実際あんた、すごかったじゃん。大人の人より強かったでしょ?」
「ってもあの道場も、運動不足解消とか健康のためとかで来てる人がほとんどだったからな。だから自分がどれぐらいのもんなのか、具体的に知る機会もなかったし。まあ春の大会で勝ててたら、そういう道も考えてたのかもしれん」
「あ……」
わずかに、彩花の表情が曇る。
「あそこで、自分が井の中の蛙だったのを思い知らされたからな」
県大会決勝戦。
桐畑良造との邂逅。忘れもしない敗北。
ちなみに、一回戦から準決勝まで毎回応援に駆けつけてくれた彩花だが、あの決勝だけは観戦に来ることができなかった。たまたま熱を出して寝込んでしまったのだ。
彩花は申し訳なく思っていた風だったが、しかし流護としては振り返るたびにそれでよかったと思う。無様に負けるところを見られずに済んだから。
「でもほら、一回負けただけじゃん……! ……とかっていうのは、無責任……かなぁ」
「言い訳ができればよかったんだけどな」
「……どういうこと?」
「緊張してたせいだ、調子が悪かった、とにかく何かあって実力が出し切れなかった……。そんな理由の一つでもあれば、次また頑張ろうって思えたんだ。けど、何もなかった。あの時の俺はベストだったし、それで一方的に負けたもんだから、もう折れちまったんだよな」
あれ以降は、まさに黒歴史と呼ぶべき日々だったろう。
「っても、それがなかったにしても格闘家とかだって甘い道じゃねえ。本当にプロ目指してる奴なんて、もう俺ぐらいの年齢からリング上がってるんだし。……ま、それはいいんだ」
それからこのグリムクロウズへとやってきて。
日々の鍛錬と実戦で成長を実感し、いざ舞い戻った故郷では桐畑良造へのリベンジも果たすことができた。
だが。
改めてこの世界へと帰還した直後――先のバダルノイスにて、流護は実質何度も敗北を喫している。
音属性の詠術士、ミュッティ・ニベリエ。
同じ地球からやってきたであろうシステマ使い、メルコーシア・アイトマートフ(苗字はオームゾルフの残した記録から判明)。
メルティナ・スノウとの初戦も同様だ。
融合処置の完成形と称されたオームゾルフには、サベルや皆の助力がなければ近づくことすらままならなかった。
彩花は今ほど、一回負けただけだと励ましてくれた。
しかし本来、この異世界ではただ一度の負けも許されないのだ。原則、敗北が死に直結するのだから。
あの北国の激闘を生き延びることができたのは、運がよかっただけ。
だから。
(もう、負けられねぇ)
レインディールから出て遠方に赴く機会も増え、強敵と対峙することも多くなってきた。
まして目下、ミュッティやメルコーシアの所属するオルケスターは放置できない脅威。連中を止めようとするならば、必ずいつかまた遭遇する。
だから、その時までにもっと強くなる必要がある。
そんな決意を新たにしていると、
「あっ」
不意に第三者の声が聞こえてきた。
目をやれば、建物の角からひょっこりと顔を覗かせる小動物――もといミアの姿。
「リューゴくん、アヤカさん……!」
「おうミアか。おはよーさん」
互いにそれぞれ朝の挨拶を交わすと、ミアが早足でとことこと寄ってくる。正確には、彩花の下へと。
「えっとアヤカさん、調子はどう……?」
「ああ、うん……。ええと、昨日よりはいい感じ……かな?」
「そっかー……うん、ならよかったけど……昨日はびっくりしたよ! もう、あんな危ないことはしないでね……!」
「あ、うん、ごめんね……! 昨日はほんと、頭が真っ白になっちゃってて……」
「うん! ……えーっと、それにしても……いい天気だね!」
「う、うん。そうだね……!」
何というか、普段の二人を知っている流護としては、互いにネコを被っているような遠慮したやり取りがもどかしい。お前らそんな大人しいキャラじゃないでしょ、と言いたくなる。
彩花も今後はここで暮らしていく身。親しい友人の一人も作るべきだろう。
「おうミア、今日は暇か?」
「うん。とくに予定はないよ~」
「じゃあさ、彩花に色々教えてやってくれるか? この世界の常識とか、この学院の案内とかもさ。話し相手になってやってくれんか」
「ちょっ、流護? 勝手に……」
「そろっと走り込み行こうと思ってたんだけど、彩花一人で置いてくのもあれだし。ミア、頼めるか?」
「うん! あたしはいいけど……」
「じゃあ頼む。報酬は夕飯のデザート奢りだ」
「任されたよ!」
「え? ちょっと……!」
そんなこんなで、彩花をミアに任せてみることにした。
そんなこんなで、ミアの部屋にお邪魔することになってしまった。
「適当に座って~」
「う、うん」
流護の部屋とは違い、いかにも女子の私室といった内装。温術器と呼ばれる、暖かい風を出す道具が静かに唸りを上げている(流護の部屋にも同じものがあったが)。
部屋の中央に置かれた小さなテーブルを挟み、向かい合って座る。
「あ、これ好きに食べていいよ。どうぞどうぞー」
「あ、ありがと。どうぞおかまいなく……」
机上の皿に盛られているお菓子らしきものを勧められた。どうやらクッキーみたいだ。見た目は、自分の知るものとさして変わらない。
「…………」
「…………」
何を話そう。彩花も流護ほど他人に無愛想ではないが、かといって特別、社交的という訳ではない。同じ年頃の女子が相手とはいえ、それが異世界の住人となると――
「あっ」
と、そこで彩花は思い出した。
「うん? どうしたの、アヤカさん」
「いや、うん。昨日流護から聞いたんだけど、ミアちゃんって私たちと同い年なんだってね」
「そうだよー。…………。あー! 年下だと思ってたんでしょ!」
「や、あははは。ごめんごめん」
なるほど、流護の前情報通りだ。
ミアは大人のレディーに憧れており、子供扱いするとプンプンおかんむりになってしまうのだと。
「そりゃちびっこいから、実際の歳よりは少しだけ下に見えるかもだけど……。すぐに背も伸びて、ステキなオトナになるんだもん!」
その奮起ぶりがすでに子供っぽくて可愛らしいのだが、それは禁句なのだろう。
「まあ、今はリューゴくんにお世話になってる身だから、えらそうなことは言えないけどね……」
と、小さな少女はしょぼんとしてしまう。
そのあたりの事情も、一応は聞いている。
ミアは実の父に売られてしまい、そこを流護が買い取るという形で助けたのだと。とてもではないが、現代日本の常識からは考えられないような話。
ともかく流護はそのようにミアの生活面を支えている実績があるからこそ、彩花についても同様に世話しようとしたのだろう。
(そう考えるとすごいんだ、あいつ。しっかり自立して、ちゃっかりお金持ちになって……、……って)
と、そこで彩花は今さらながら思い至る。
流護とは旧知の仲。知らないことなど何もない。そう思っていたが、この異世界であの少年はどのように過ごしてきたのか。
つまり『遊撃兵のリューゴ・アリウミ』とは、どのような人物なのか。
当人からは、本当にざっとあらましを聞いただけだ。
他の人物……異世界の住人にとって、彼はどんな存在なのだろうか。
「ねえ。ミアちゃんから見た流護って、どんなやつなの? あいつがこの世界でどうしてたのかとか、私……全然知らないから。よかったら、色々聞かせてほしいなって」
「う、うん。いいよ!」
……それは純粋な好奇心からの提案だったが。
その後ちょっとだけ、彩花は自らの軽率さを呪う羽目になる。
「それでリューゴくんが、ばったばったと敵をやっつけたの!」
「うん」
「すごいんだよ! ほんと強いよね! リューゴくん!」
「うん」
「それでリューゴくんがね!」
「う、うん」
「そのときもリューゴくんがね! それでね!」
「う、うんうん」
……とりあえず身に染みて分かったことがひとつ。
このミアという少女は、流護のことが大好きなのだと。
保護者的存在に対する親愛か。もっともこの様子だと、一人の乙女として淡い(?)恋心も抱いているのだろう。
ともあれ、愛情が半端ではない。
「はっ!? ご、ごめんねアヤカさん。あたし、一人でしゃべってばかりだよね……」
「う、ううん。私がお願いしたんだし、気にしないで」
しかしよくここまで話せるなあ、と思うぐらいの熱弁ぶりだったことは間違いない。聞いているだけで少し疲れてしまった。胸焼けしたのかもしれない。
まさか、ちょっと話題を振っただけでこんなことになってしまうとは誤算だった。
(ったく、流護め……あのベルグレッテって人だけじゃなくて、こんないたいけな子までたらしこんで……)
それはともかく、やはり異質なのは流護の功績だ。
この学院に押し寄せてきた怪物の群れを撃退しただとか、暗殺者を返り討ちにしただとか、攫われたミアを助けて大勢のマフィアを次々蹴散らしただとか、果てはどこかの国の大会で優勝しただとか……。
(中学生の考えた小説じゃないんだから)
確かに流護自身、なぜかこの世界では強い力が発揮できるみたいなことを言っていた。あのベルグレッテも真面目な顔で同意していた。
それを踏まえたうえでもさすがに盛っているとしか思えないのだが――
「ねえミアちゃん。流護って、そんなにすごいの?」
「うん! リューゴくんより強い人なんていないよ!」
この全幅の信頼である。
「そういえばチキュウだと、あんまり力が出せないみたいな話なんだっけ……」
「まあ……私たちからしたら、そっちが普通っていうか……」
そっかー、と少女は分かったような分からないような反応。
「ねえねえ、アヤカさん」
「ん?」
「こんどは逆に、昔のリューゴくんがどんなだったか聞かせてほしい!」
大きな瞳を輝かせて、異世界の無垢な少女はそんな要望を口にする。鼻息荒く見上げてくるその様子は、餌をねだるハムスターのようだ。
「ふふ。いいよ」
微笑ましく思いながら、さてどんなエピソードを語ろうかと頭の中で模索する。
できるだけ、流護が後で悶絶するような恥ずかしい話にしてあげよう、と。
以前の彼についてなら、ミアに負けず劣らず語ることができるから。




