539. 消失と波紋
「いやお前、急に働く気になってどうしたんだよ」
ベルグレッテが帰って二人きりになるや否や、流護が呆れも隠さぬ口調で彩花に疑問を呈してくる。
「べつにー。ってかあんた、ほんとにぶちんだわ。にぶちんちんちんちん!」
「ちんが多すぎる」
「ベルグレッテさんも、あんたのこと気になってるっぽいじゃん。両想いなんだ?」
「は!? いや……」
この反応からして、自覚はあったらしい。にぶちんのくせに。
「あんた気付かなかったの? 私のこと面倒見る、って言ったときのベルグレッテさんの顔」
「え?」
このハイパー唐変木である。ぶん殴りたい。
「すっごい複雑そうな顔してたよ。こう、『私というものがいながら、他の女を養うだなんて』みたいな顔」
「え、いや、んなこと……ベル子だって、俺とお前の関係性は知ってるし」
「じゃあ、なんであんな回りくどいことしたの? 私の働き口探す『ふり』したでしょ。あんた自身、『彩花の面倒は俺が見る』っていきなり言うのは抵抗があると思ったから、あんな風に言ったんじゃないの?」
「……、いやまあ、それは……」
「それにベルグレッテさんも、知ってるのと納得するのとじゃまた別だと思うけど。話に聞いてたって、実際に私とあんたのただならないフンイキを見せつけられたらさ」
「変な言い回ししんで?」
「それにさ。やっぱ私、あんたとは対等でいたいと思った」
体育座りで自分の膝を抱えながら、彩花は独白する。
「あんたに養われちゃったら私、あんたより下になっちゃうじゃん。たとえばあんたが私の生活費の対価としてカラダ求めてきたら、断れなくなっちゃうじゃん」
「アホか。つか、上とか下とかないだろ別に。変なこと気にすんなよ」
「私はさ、あんたのお姉ちゃんのつもりだから。一方的に面倒見てもらうなんて、やっぱよくないし。お嫁にもらってくれるなら別だけど」
「分かった、頑張って働いてくれ」
「……私たちってさ、なんなんだろね」
膝に頭を預けて、しみじみと問いかける。
「変なカンケイだよね。あんたと私はお互いを分かってるし、ダンジョのカンケイなんかじゃないけど、他の人から見たらやましく見えちゃう変なカンケイ。小学中学とさ、よーくからかわれたじゃん」
「……まーな」
でなくとも彩花自身、親友の里歩や七菜に幾度となく言われたものである。「ほんとに付き合ってないの?」と。もしかしたら流護も、似たような経験はしているかもしれない。
「あのメール見たなら知ってると思うけど、先輩から告られたじゃん私。で、そのとき言われたもん。『蓮城さんとたまにいる彼とは、付き合ってるわけじゃないんだよね?』って」
まず最初にそれを確認しないと、みたいな様子だったため、強く印象に残っている。
「……ったく、どいつもこいつも……」
「メンドくさいよねー。ねえ流護。いっそ、ほんとに付き合っちゃおっか。そうすれば面倒なくなるし、楽になるよ」
「正気に戻れ。つか『楽になるよ』って言い回しはどう考えてもよくない何かに誘うそれなんすよ」
「まーあんたは、ベルグレッテさんにぞっこんだし。ベルグレッテさんも、あんたのこと好きみたいだし。最初はあんたの片思いだと思ってたんだけど、いい感じそう」
ジト目を送ってやると、少年はそれとなく視線を逸らす。
「付き合ってるの?」
ここぞとばかりに畳みかける。
「……いや、そんな関係じゃない」
ちょっと不服そうだった。
「…………こんなこと言うのもなんだけど。流護はさ、ベルグレッテさんとどうなりたいの?」
「……どう、って何だよ」
「エッチしたいだけ? 正式にお付き合いしたい? 結婚したいとまで考えてる?」
「お、おま……何言ってんだよ」
うろたえる幼なじみの少年に、彩花ははっきりと言ってやる。
「どんな関係でもいいけど。最終的に上手くいかないの、分かってるよね?」
しん、と静寂が満ちた。
「……いや、何が言いたいんだよお前」
彩花にしてみれば、思いもしないことを言われたみたいな流護の表情こそ心外だ。まさか気付いていないとは言わせない。こんな簡単なことに。そこに気付かない浮かれ野郎ではないはずだ。指摘する。
「だって……あんたたち、地球人と異世界人だよ? 帰れる方法が見つかったらどうすんの? 別れることになっちゃうんだよ?」
その言葉を受けた流護は、たっぷり数秒ほど沈黙して。
「…………そうだったな。まだ、お前には言ってなかった」
らしくない、真面目な口ぶりで。
覚悟を決めたように、彼は信じられない内容を告げた。
「彩花。俺はもう、日本に戻るつもりはないんだ。その方法が見つかったとしても」
「………………」
その宣告を受けた彩花は、時が止まったみたいに硬直していた。
信じられないものを見る眼差し。相手の正気を疑っている表情だ。
しかし流護にとっては、想像通りの反応でもある。当たり前だろう。仮に帰る方法が見つかっても帰らない、などという決断を聞かされては。
「……なに言ってんの、あんた……? 本気で言ってるの……?」
「……ああ」
「あんたさ……ちょっと冷静になろう、ね。今はベルグレッテさんのことが好きだから、そんな風に考えちゃってるのかのしれないけどさ。ほら、恋は盲目っていうし」
頭ごなしに憤るでも、馬鹿にするでもない。心から案じている。そんな慈しみに満ちた口ぶりだった。
分かっている。普段は憎まれ口を叩いていながら、ここぞという場面で『こう』なのだ。蓮城彩花というこの幼なじみは。
だからこそ流護も、真剣に……本音で応えなければならない。
「いや、別にベル子のためだけじゃないんだ。俺もこの世界でここまで命かけて生きてきてさ、色々と大事なものができた。ミアとかダイゴスとか、あとまだお前の知らない奴とか、友達もそれなりにできた。最初はやっぱ、いつか帰る方法が見つかるまでの関係だと思って、一歩引いてた部分があったと思うんだよな。でも現状、帰る方法はねえって話だったし……何回も死線を潜り抜けて、一生懸命ここまでやってきて……」
いつしか、周りの人たちはかけがえのない存在となった。
「でさ、このグリムクロウズってのは考えられないぐらいヤバイ世界なんだよ。今日一緒に笑い合ってた奴が、明日には死んでるかもしれない……」
きっと、有海流護は生涯忘れない。この世界へやってきて最初に出会った、そして唐突に二度と会えなくなった……あの少女のことを。
「ここじゃ誰も守ってなんかくれない。守ろうとしてくれる誰かがいたにしても、その人ですらどうなるか分からない。そんな世界なんだよな。だから、俺が護るって決めた。自分自身も、周りの皆も」
この世界で生きていくために。
この日常を維持していくために。
「どーせほら。向こういたって、将来のビジョンも見えんかったしな……」
しかも現状、高校一年時からいきなりの長期欠席。仮に今すぐ帰還できたとしても、もはや留年は確定だ。
「だからもう諦めてこっちで暮らす気でいたから、いきなり普通に日本に戻れちまった時はマジでびびったよな。んでもすぐ、『例の奴』からまたグリムクロウズに行けるって知らされて……死ぬほど悩んだ。どっちを取るべきなのか」
あの懊悩は、振り返るだけでも未だ苦い思いにとらわれる。
きっと正解なんてなかった。どちらも選びたかった。でも、片方しか道はなかった。
「……つっても、昨日も話したけど例の奴が監視してたんだろうし、残る方を選んでも結局はこっちに飛ばされてたんだとは思うけどさ」
「……じゃあ。それがなかったら、どうしてた?」
少女が発した、静かなその問いに。
瞬間、息が詰まった。
「純粋に、どっちかを選べる状況だったら。選んだほうに残れるなら。流護は、どうしてた?」
「…………――」
まっすぐな眼差しで問われた流護は、即座に答えることができなかった。それはそうだろう。今でも、簡単に割り切れるような話ではない。
黙り込んだ少年を前に、彩花は「あーあ」と大げさな息をつく。
「彩花は俺がいなくたって大丈夫。だから、そのまま頑張ってほしい――とか考えてたんでしょ、どうせ」
当時の決意――思いをそのまま言い当てられ、流護は思わず怯む。
「自分勝手すぎ。私の意見、まるっきり無視じゃん」
「いや、んなこと言ったって……」
「ん、いいよいいよ。気が変わった、って言わせてやるんだから」
一瞬。上目遣いとなった彩花の表情がやけに扇情的に見えて、不覚にもドキリとする。別人のように思えたのだ。
「彩花、やっぱ一緒に帰ろうぜ、って。言わせてやるから、覚悟してて」
「……言わんわ。つか例の奴を見つけるとは言ってるけど、その結果帰れるかは分からんし……」
照れ隠しの言葉でもあった。が、それに対して彩花は思いもよらない答えを返す。
「じゃ、それならそれでもいいや」
「は? え?」
「帰れないなら、私もそれでいいや。べつに」
あまりにもあっけらかんと言うので、流護のほうが慌ててしまう。
「いやよくないだろ、おじさんとおばさん心配してんだろうが……!」
自分のことを棚に上げた発言かもしれないが、咄嗟にそう言い募る。すると、
「……心配、してるかなぁ」
「いや、そりゃしてるだろ。何言ってんだよ。一人娘が行方不明になってんだぞ」
蓮城家は、絵に描いたような幸せな家庭だ。流護としても、幼少時代は父親が不在気味だったこともあって、毎日のように世話になっていた。中学、高校と歳を重ねるにつれお邪魔する頻度は落ちていたが、それでも流護にとってもうひとつの実家と呼べる場所だったことは間違いない。
蓮城夫妻が娘をどれだけ大切に思っていたかなど、誰に言われるまでもなくよく知っている。
「……あんたさ、最近はあんまりうちに来なかったじゃん?」
「まあ……」
「だから知らないと思うけど、お父さんとお母さん、ここんとこあんまり仲良くなかったんだよ。ちょっと前にはかなりガチめのケンカして、何日も雰囲気悪かった」
「……、そうなんか」
まあ、長い夫婦生活だ。そんなこともあるだろう。
「去年ぐらいからちょっとギスったりしてたんだけど、目に見えて悪化したのはあんたがいなくなってからかな。私がそれで鬱っちゃったから、なかなか明るい空気にもならなくて……。それでもお父さんもお母さんも、仕事休むわけにはいかないじゃん? で、そのうち……私を元気づけるのを、お互いに押し付け合う感じになっちゃって」
「…………」
流護は絶句した。せざるを得なかった。
「……俺のせい、っすよね……?」
「違うでしょ。それで空気読めなくなっちゃった私のせいだし、もっと言えば上手くやれてないお父さんたちだって悪いじゃん。そこは夫婦の絆みたいので乗り越えるんじゃないんかい! って思っちゃう」
「いや、でもさ……」
少年は改めて痛感する。自分の行方不明という非日常の事件は、周囲のあらゆるところにまで影響を及ぼしていたのだと。
「それで私、思ったんだよね。恋人とか夫婦だって、熱が冷めて別れれば、結局は赤の他人に戻っちゃう」
「別れっ!? 離婚!? すんの!?」
「いやいやいや! まだ全然そんなんじゃないけど。ただ、長年連れ添った夫婦だからって、なにも特別じゃないんだなって思ったの。なんかさ、恋だとか愛だとか……急に安っぽく感じるようになっちゃった」
はー、と彩花は大げさな溜息を零す。
「あの二人、今度は私がいなくなった責任の押し付け合いとかしてなければいいんだけど……」
「…………」
そんな光景など思い浮かばない。流護の知る限り、それほど仲睦まじい夫婦だった。
「だから実は、帰るのもちょっと気が重いんよー。だってどうする? 戻ったら離婚してました、とかだったら」
「やめてくれ……やめてくれや……」
流護としても責任の一端を感じ、気が重くなってしまう。
「だから私としても、実はこっちにいるほうが気楽かも」
のほほんとした笑顔を覗かせる。
「……うーん」
しかしやはり、このグリムクロウズも生易しい世界ではない。彩花はまだ、この世界の過酷さを知らない。
流護個人として、彩花が目の届く範囲にいてくれるのは嬉しいし、気も楽だ。だが……
(まじで……、もう、「勝てません」じゃ済まされねぇ……)
幾度目の同じ決意だろう。
何の力も持たぬこの大切な人を、ありとあらゆる脅威から守らなければ。どんな敵だろうと退けられる、最強であらねば……。
「そう、そう! 聞いてよ。戻りたくない理由、もいっこあったわ。Hazyがさ、結婚しちゃったんだよ」
ぱん、と手を叩いた彩花が眉を吊り上げる。何やら大層ご立腹のようだが、
「? ヘイジ? って誰だよ」
「フレイジのボーカルだってば。一回、あんたもライブ行ったでしょ。一緒に」
「あー、はいはいはい。んなこともあったな。あれか」
フレンジー・レイジ。通称フレイジ。彩花が入れ込んでいる、男性四人組のネット発となる邦楽メジャーバンドだ。
以前、偶然にも全国ツアー兼地域イベントとやらで近場にやってきたことがあった。数年来のファンだった彩花は、それはもう意気込んで親友の七菜と一緒に参加予定だったが、その相棒が急用で行けなくなってしまい、流護が代理として半ば無理矢理に駆り出されたのだ。
「いけめそだし、彼女ぐらいいるだろなーと思ってはいたけど……。まあ、ファンも荒れてたよ。素直に祝う人もいれば、裏切られたって言う人もいて」
「裏切られた……? 勝手に応援してただけでは……?」
「こらぁ! だめ!」
まあ、流護には理解の及ばない世界の話だ。
「で、お前もショック受けた側な訳か」
「いや、私はふつーに祝ってる側だよ。そりゃ最初はびっくりしたけど。ただ、なんていうんだろ。Hazyがコメント出してたけどさ。生涯この人を誠実に愛してなんたらかんたら~、とか。うちの親見た後だと、言うだけなら楽だよねーとかどんだけ続くんだろーとか思っちゃって。まあ、テンプレって感じのコメントでさ。Hazyが書いてたラブソングの歌詞も、急に冷めて感じるようになっちゃったっていうか。はー、これまでは生きがいだったのに……」
「そうか。ちゃんとグッズ破壊してSNSに写真アップしたか?」
「せんわ! ふつーに祝ってるってゆってるじゃん! ……でも、あれだよね。前ほどの熱はなくなっちゃったよね。まあ、あんたの件でそれどころじゃなかったってのもあるんだろうけど」
「いや、それはすまん……」
それを言われてしまうと反論のしようがない。
「だから、なんか脱線しちゃったけど……わりと向こうに戻らなくてもいいかも、って話よ。あんま気にしないでって」
ちょっと視線を逸らして、大したことでもなさそうに言う。
(……ったく、こいつは)
彩花なりの気遣い。もし帰れなかったとしても、私は平気だから――と。とてつもなく遠回しに。
昔からそうなのだ。この少女は。全くもって、素直ではない。
「そいえばさ。流護は、誰かのファンみたいなことって昔からないよね。アイドルとか芸能人にも全然興味ないみたいだし。格闘技で好きな選手とかいないの?」
「ん? そうだな……まあ芸能人とかはよく知らんけど、好きな選手ぐらい普通にいるぞ。結構たくさん」
「あれ、そうなんだ。そんな感じしないなぁ」
「例えば、尾瀬弘道とか」
「どなた……?」
「プロレスラーだよ。後年、MMAもやったりしてる。あー……多分さ、お前とかのヘイジ? を好きな感覚とは違うんだよ。別にその人が何しようがどうでもいいし、握手とかサインもいらんな。会って話してみたいとかも思わない。もっと言えばプライベートに興味がない」
「えぇ? それって、好きっていうの?」
「結局さ、その選手の試合とか考え方とかスタイルを『面白い』って感じるのが俺なりの『好き』なんだろな。凄いです、ファンです! みたいに思ったことは一回もない。多分さ、心のどこかで思ってんだよ俺。『あんたすごいね、でもいつか俺が超えるから』って」
「あははは。自信家すぎ~」
「ほんっとにな。何の実績もねぇクソガキのくせに、プライドだきゃ一丁前だったんだ」
……しかし今は、その深層心理を実現していかなければならなくなった。
「さってと」
膝を叩いて、少年は気合を入れるように立ち上がる。
「そろそろ朝飯にしようぜ」
「あ、もうそんな時間なんだ。あの学生食堂?」
「そそ。ほれ行くで。立てるか?」
「立てなーい。って言ったら?」
わざとらしい女の子座りでアピールしてくる。ちょっとイラッときた流護は、満面の笑みで対応した。
「じゃ、お姫様抱っこして連れてって差し上げますよ、『眠り姫』様」
「いやー!? やらしい! ってかあんた、意味深に『眠り姫』とか……、そういえば、寝てる私に変なことしてないよね!?」
「変なこととは? 具体的に言え」
「っ、変態! エッチ、ばか、アホ、ばか、年上お姉さんのふともも好き!」
「お前!? 忘れるって約束どうしたんだよ! そっちがその気なら、俺もロンギヌスを見逃す訳にはいかねぇぞ……!」
「……!」
「……!」
にっこりと無理矢理な笑顔を浮かべた彩花が差し出してきた手を取って、立ち上がらせる。
平和的な関係はしばらく続きそうだ。




