538. これからのこと
本格的に日が昇り、『彼女』が部屋にやってきた。
「………………、」
改めてその姿を前にした蓮城彩花は、それはもう盛大にフリーズしていた。
何だろうか。もう、全てが違う。
きめ細やかな藍色の長い髪。宝石すら霞む美しい薄氷色の瞳。白く透き通った肌。胸に備わった二つの大きな膨らみと、対比のように引き締まってくびれた腰。
細身ながら、頼りなさや弱々しさは感じない。むしろ芯の通った力強さが溢れている。
ミアの制服姿は愛らしいといった印象だったが、彼女はまたまるで別物だ。美しい。その権化。
何というか、理想だ。蓮城彩花の思い描く理想像に近い。
自分のここがもっとこうだったらいいな、こんな風だったらよかったのにな。そんなコンプレックスを全て修正したかのような、完璧な存在。
そんな、彩花の理解を超えた超常生物が口を開く。
「えっと……レンジョー・アヤカさん。私は、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードです。こうしてきちんと話すのは、初めて……よね」
そう言って、美しすぎる異世界の少女は右手を差し延べてきた。
ああ、この見た目で日本語で喋るんだ。声も透き通ってで耳心地よくて、クリスタルみたい。これはヒロインボイスですわ。
もうそんな語彙力の欠落した感想しか出てこない。
「あ、はい。蓮城彩花です……」
かすかに自分の声が遠く聞こえる有様だった。
どうにか手を握り返す。
手や指は細々として白魚のよう……かと思ったが、意外にも力強く、マメのような出っ張りがちょこちょことあった。そういえば、騎士見習いだと聞いている。
何というか、自分なんかが口をきいていいのだろうか。そう思ってしまうほどの気品、雰囲気、現実離れしたファンタジー感。しかし当の彼女は、
「ええと……身体の調子はどう? アヤカさん」
至って普通に、流暢な日本語で話しかけてくる。
「え? はあ、まあ……昨日よりは、しゃっきりしてる……と、思います……」
「そう……ならよかった。もし少しでも気になることがあったら、遠慮なく言ってね」
「あ、はい……」
「その、昨夜はよく眠れた?」
「え、まあ。いつの間にか寝ちゃってましたけど……」
「ん……無理はしないでね。そもそも、あなたが眠り続けていた理由も分からない状態なので……。明日にでも一度、医務の先生に診てもらいましょう」
ちょっと吊り目がちなこともあって、もっと怖い性格なのかと思ったが、まるでそんなことはなさそうだった。とそこで、
「つか、そういうベル子がなんかちょっと眠そうじゃね?」
脇に控えた流護が軽口を挟んでくる。ベルグレッテはというと、あははと気兼ねなく笑った。
「ほら、久々にミアと一緒に寝たから……」
「あー」
流護も、さも分かった風に苦笑する。
「寝かしてくれんかったろ」
「もうっ、やめなさいって言ってるのにすぐ覆い被さってくるんだから……。まあ、暖かいのはいいんだけど……でもあの子、またちょっと……明らかに、重量がね……」
「まじか。俺らがバダルノイス行ってる間に、また丸くなってしまったのか……。どうにか運動させんとなぁ。どうすっかな……走るのは嫌がるし、縄跳びさせるとグルグル巻きになるしなあ……」
「…………」
彩花としては意外だった。この二人、思った以上に親しそう。距離感が近い。
「まあ、それでだ。お騒がせ彩花さんの今後についてなんだが」
一転、流護がジトリとした目を向けてくる。ベルグレッテに対する態度とはえらい違いだ。
「誰がお騒がせよっ」
「いきなり屋上から飛び降りる奴がお騒がせじゃないってマジ? 危うくミアがトラウマ抱えるとこやぞ」
「う、や、すいません……」
これに関しては平謝りするしかない。
正直、直視できない現実に押し潰されかかっていた。頭も朦朧として、まともに働いていなかった。今、落ち着いて考えてみればゾッとするばかりだ。
「あ、遅れたけど……昨日はごめんなさい、ベルグレッテさん。迷惑かけちゃって……」
彼女がいなければ、こうして無事にはいられなかったろう。
「ううん。突然見知らぬ世界に立たされたなら、無理もないことだわ。気にしないで」
慈愛に満ちた微笑みである。聖母か何かだろうか。
「で、こいつどうしよ?」
「捕まえた動物みたいに言わないでくれる?」
一方、流護とやり取りするとこんな感じだ。
「ま、まあまあ。二人とも落ち着いて」
ベルグレッテがやんわりと間に入った。
「そうね。まず、改めて簡単にこの世界のことを説明させていただくわね――」
ミア、ダイゴス、流護に続いて四度目。グリムクロウズなる異世界についての説明を受ける。
その清廉な声で今回語られたのは、主に社会構造についてだ。
――要約すると、神詠術至上主義。
この世界では、優れた神詠術を扱える者――詠術士と呼ばれる者こそが勝ち組。それも結局は生まれついての才能に左右されるところが大きいというのだから、あまりにも無情な話だ。
そして大半の平民は、簡素な術しか扱えない『持たざる者』。戦闘はもちろん、生活や仕事に活かせるほどの効果がある神詠術は使えない。
「この学院は、エリートの卵が集まる養成所みたいな場所って感じ?」
「ああ、そんな感じだな」
彩花の認識を流護が肯定する。
「そうなると神詠術を全然使えない私は、もう最底辺ってことになっちゃうわけね……」
と、そこで日本の少女は傍らの幼なじみを仰ぎ見た。
「でも流護は、なんか違うんでしょ?」
「ああ。自分でも分らんけど、俺はこの世界だとやたら身体能力が強化されてんだよ。素手でデカいバケモン倒せるし、馬と同じぐらいの速さで走れるし」
昨日、そんな話は軽く聞いている。が、やはりにわかに信じられる内容ではない。最初は嘘こけと笑い飛ばしたぐらいだ。ベルグレッテの様子を窺うと、彼女はコクリと頷いた。
「リューゴは神詠術を扱えない身でありながら、規格外の力を持っているわ。レインディールの中でも、間違いなく屈指の戦士ね。もし彼が現れなかったら……私はこうして生きてはいなかったでしょうし、この学院も多くの死傷者を出して閉鎖に追い込まれていたかもしれない」
それも一応は聞いた。
突如として現れた巨大なドラゴンと、そんな怪物に立ち向かった流護の話……。
「信じられないって顔してんな」
「だって……ねえ?」
もちろん、流護が一般人より強いことなど昔から知っている。空手の有段者なのだ。しかしいくらなんでも……と思ってしまうのは、現代の日本を生きていた身として当然なはず。
「そら無理もねぇけどさ。まあとりあえず今、俺のことはどうでもいい。これからの彩花の身の振り方を考えなきゃいけない訳で」
うーんと唸った流護が、ベルグレッテに顔を向ける。
「なんかこいつ『眠り姫』(笑)とか言われてたけど、起きたからって特別城に行かんきゃとか、どっかに身柄預けんきゃとかはないよな?」
「……かっこわらい? ……まあそうね、アヤカさんについてはすでに素性やグリムクロウズへやってきた経緯が判明してるから、これといって必要ないんじゃないかしら」
「うーむ。逆に言や桜枝里なんかは、レフェの人にしてみりゃ分からないことだらけだったから、勝手に神秘性みたいの感じて祭り上げられた訳だよな……。いや、よかったな彩花。面倒なことにならんで」
「はあ……よく分からないけど」
と、ベルグレッテがその宝石みたいな青い瞳で見つめてくる。
「ええとアヤカさん、なにか技能や得意なことはあるかしら?」
「俺を罵ったり蹴ったりすんのが得意だぞ」
「リューゴ、茶々入れないでくれる?」
もうっ、と柳眉を吊り上げる藍色の少女と、はははと笑う幼なじみの少年。そのやり取りを、彩花はしみじみと眺める。
(……ふーん。ずいぶん仲いいんだ……)
もっと高嶺の花というか、流護が一方的にベルグレッテに好意を抱いているのかと思っていた。……それはともかく、
「うーん、得意なことかぁ……」
そもそも、蓮城彩花はごく普通の女子高生である。親の金で学校に通うことが当たり前な、ただの高校一年生。アルバイト経験もまだない。
そこへきて、この世界ではいきなり最底辺扱い。
流護のような謎のパワーアップもなければ、今は不在らしき岩波輝という人物のような知識人でもない。
「ええーと……その、なんもないかも……」
というか、あるはずない。
「そう……。うん、それはそれで仕方ないわよね……」
「まーなー。現代日本と比べたら色々厳しいしな。俺だって正直、この謎強化がなかったら三日ぐらいで野垂れ死んでたと思うぞ。ぶっちゃけ、ちょっと空手ができるからってどうにかなる世界じゃない」
「詰みじゃん……」
「しかも彩花の場合、運動苦手で体力もないからな……。とてもじゃないけど肉体労働とか無理だろうし」
「ええ、仰るとおりですよーだ。ぐうの音も出ないわそれは。……はぁ。肉体。肉体かぁ」
無力さを痛感した少女は、貧相な自分の身体を見下ろしてみる。
「わりと真面目に、カラダ売るルートとかしかない感じ……? そっか……。初めてのお客さん取るとき、心の中で『ごめんね流護……』って謝るからね……脳、破壊されてね……」
「いや訳分からんから」
苦虫を噛んだような表情となった流護が、大げさに頭を掻きながらベルグレッテへと向き直った。
「なあベル子。学生棟の部屋って結構空きあったよな」
「ええ……」
「んじゃま、とりあえず適当な部屋にこいつブチ込んでやってくんね? 別に生活費ぐらいだったら、俺がどうにでもできるし」
何でもないことのように。
「それって……」
察して呟くベルグレッテに、幼なじみの少年は頷く。
「いやまあ……俺が面倒見るつーかまあ、そんな感じ?」
軽く、思いつきでその日の昼食を決めたような口調で。
「流護……」
「何だよ。別に問題ないよな? つか、それしかないだろ」
彼は目を合わせず、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「……、」
そこで、彩花も察した。
最初からこのつもりだったのだ。流護は。
「彩花の生活どうしよう? 色々考えたけどいい案もないから、じゃあ俺が面倒見るしかないか」と。
何のかんのといっても、血の繋がらない男女。最初からストレートに言うのも憚られるから、考えた結果それしかないと取り繕う体で。
昔からそうだった。流護は決して、彩花に素直な優しさを見せたりしない。なぜだか不機嫌そうに、面倒くさそうに言うのだ。こんな風に。
そして彩花は彩花で、分かっていながらもまっすぐそれを受け止められなくて。
「……そっか。つまり、流護が私を養ってくれると」
言えない。
素直に、ありがとうなんて。嬉しいなんて。
「……言い方が何かアレで気に食わんけど、まあそんな感じでいいんじゃね?」
「そっかー。子供の頃の約束、守ってくれるってことかぁ」
「は? 何だそりゃ」
「え? つまり流護、私と結婚してくれるってことでしょ?」
しれっと言ってやる。
「つまらん返ししかできなくて申し訳ねえんだけど、お前バカだろ」
すごい顔をした流護の反応は予想通り。しかしここで、
「そ、それはちょっと……!」
泡を食ったような声を漏らしたのは、ベルグレッテだった。とそこでハッとしたように、
「あ、その。ここは学び舎だから、ほら。ええ、やっぱりそういうのは……」
慌てて言い繕う。まさか彼女がそんな反応を見せるとは思っていなかったので、彩花も焦って手を振った。
「あ、いや……冗談です……よ?」
「え、あ……冗談? あ、うん。そ、そうよね……ごめんなさい、びっくりしちゃって」
彩花はつい、しげしげと彼女の顔を見つめてしまった。
(……いや、まさか……この子……)
その大きな胸に手を当てて、ホッとしたような仕草。まさにリアル胸を撫で下ろす超絶美少女。
あまりにも分かりやすいそのリアクション。
(…………この子、もしかして……流護のこと……?)
流護の片思いではないのか。ということは両思い……? ということはつまり……。
「…………」
「ん? どうした彩花」
「……べつに。やっぱり、流護に養ってもらうのもなんだかなーって思って。お嫁にもらってくれるわけじゃないなら、こう……もし、流護のこと好きな子とかいたら、あんまりいい気しないかもしれないじゃん。ね、ベルグレッテさん?」
「え!? あ、いえ……」
いざ気付いてみれば実に分かりやすい。
間違いない。この異世界の超絶美少女は、一体どういう訳か有海流護なんかにぞっこんいかれている。
(はー、そっか……そっかー……)
本当にどういう訳なのやら。
「……ベルグレッテさん。力仕事以外で、なにか……私にもできそうなことってないかな。こう、雑用? みたいのとか」
尋ねると、流護が訝しげな表情を見せる。
「あん? 何で急に勤労意欲に燃えてんだよお前は。いいから大人しく――」
「うっさい、流護は黙ってて。ね、どうかなベルグレッテさん」
ずいと詰め寄ると、彼女は少し引き気味に眉を八の字にした。
「ええと……そう、ね……、あ。そういえばちょうど、食堂がお手伝いを募集していたかも……」
「あ、食堂かぁ。それならアリかも? 私、料理なら少しはできるから」
そうだ。料理なら子供の頃からやっているし、高校では料理部所属。将来も漠然とではあるが、その方面での仕事を考えていた。
「じゃあ、それでお願いしてもいい?」
両手を合わせて頼み込むと、
「ええと……」
ベルグレッテは困ったように視線を横向けて、流護を見やる。
「いやま、何か知らんけどいいんじゃないすか。本人がいいってんなら」
投げやりな彼の言を受けて、藍色の美少女はやんわりと首肯する。
「……分かったわ。いちおう、その方向で話を通しておくけど……ひとまず今は、身体の調子を戻すことに専念してね」
そんなこんなで、彩花の当面の仕事が決まったのだった。




