537. いつもの関係
彩花が目を覚ますと、まず視界に入ったのは覚えのない天井。
暖かな毛布を被せられ、ソファで横たわっている自分に気付く。
「…………あ」
そして、すぐ隣。電力を使わないカンテラの照明を頼りに、本を読んでいる流護の姿があった。
「おう、起きたか」
「流、護……?」
辺りを見渡す。頼りない明かりにぼんやりと染め上げられる、薄暗い一室。雑多に物が散らばる流護の部屋。そう。『異世界』の、流護の部屋。
少しずつ、記憶が追いついてくる。昨日の出来事が、脳裏に甦ってくる。
「……夢じゃ、ないんだね」
寝起きのかすれた声で呟くと、
「ああ、残念ながら昨日の続きだ」
労るように優しい声で流護が応じる。残念ながら、現代日本じゃない。夢じゃない。そんな含みを持たせた言葉。
「べつに残念じゃないよ」
だから、彩花は口にする。
勘違いのないように。
「そうじゃなくて。流護が無事でいてくれたことが、夢じゃないんだねって」
一瞬、彼は驚いた顔を見せて。
「……本調子には程遠そうだな。しっかり休んどけ」
手元の本に視線を戻す。
「あ。照れてますなー」
「いや、ねーから」
「そーゆーことにしといたげる。……今って何時なの?」
身を起こしながら尋ねる。暗さから考えて、まだ早い時間だろう。ちなみに、未だに身体がぎこちない。
「えっと……朝の六時過ぎだな」
「ふわ。一緒の部屋で夜を明かしちゃったねー」
「そっすね。小学生以来か?」
「それぐらいかなぁ」
若干ぼさついた髪を撫でつけながら、彩花は改めて部屋の中をぐるりと見渡してみる。
家具や調度品のデザインが見慣れないことは元より、天井に照明の類が存在しない。光源は、サイドテーブルに載せられたカンテラの明かりだけだ。
よくよく考えてみれば、昨日はかなり早い時間にダウンしてしまったのだろう。今さらの気付きだった。
「やっぱ電気とかないよね?」
「ないな。ちょー不便だぞ、覚悟しとけ。あっ、でも一応携帯は充電できる。まあ、したところでどうせ使えないけど」
「……どういうことなの? てか、あんまこっち見ないで」
「んあ? 何で?」
「いや、ほら。起きたばっかだし……」
「安心しろ。寝起きでも、お前は普段と全然変わらんと思うぞ」
「え? そう?」
まあ、お世辞でも嬉しくなくもない。髪の毛先を指に巻きつけて、無意味にくるくる回してしまう。
「どっちにしろ安定してブサイクだし」
「ははは」
「蹴ってくんな」
流護は流護だった。
自然となじみの空気になって、適当な雑談に花を咲かせる。この世界での暮らしのこと。あれが不便だ、これが大変だ。
「ふふっ」
「何がおかしい」
「こんなふうに流護と話したの、なんだか久しぶりだなって」
「まあ、半年以上経ってるもんな」
「……ううん、そうじゃなくて。高校入ってからの流護、ずっと私によそよそしかったもん。なんか距離っていうか、壁みたいのあったし」
「は? いや……別に、んなことないだろ」
「素っ気なかったもん。なんか誘っても乗ってくれなくなったし。あーこれが反抗期かーって、彩花お姉さんは悲しくなったものですよ」
「……いや、それはあれだ。お前が彼氏できたとかって言うから」
瞬間、少女は言葉に詰まる。
それで、気を使って?
「…………そう、だったんだ」
「そらそうよ。俺だってそこまでアレじゃねーわ。今までみたいに接するのもあれかなと思ってさ。彼氏からすれば、いい気はしねえだろなって思って」
「…………流護……」
「そしたら、まさかのエア彼氏だったってカミングアウトっすよ。悲しいなあ」
しみじみとした口ぶり。
「……………………」
彩花は真顔で流護を見つめたまま硬直した。ややあって、口だけを機械的に動かす。
「……えっと。何で知ってるの? 流護」
そう、彼氏なんて嘘っぱちだ。告白されたのは本当だけど。でも、それを流護に言った覚えは――
「いや何でってお前。メール寄越してただろ」
あ。
「ギャ――――――! メ、メールってもしかしてええぇ……!」
彩花は陸揚げされた魚みたいに手足をばたつかせた。
「ああ。何かヤンデレっぽい長文送りつけてきてたじゃん」
「あばばっば! 見たの!? 忘れろ、忘れろ――!」
不覚。一生の不覚だった。
まさか。まさかまさかまさかのまさか。そうなのだ。あの夜、ふと鬱屈した気持ちになって。長々と文をしたためて、それを送信した。してしまった。何という不手際だろう。
「はっははは。忘れられませんなあ、あれは」
流護はといえば、これは優位に立った、とばかりにいやらしく笑っている。
「消して、絶対消して!? あんなん、夜中のテンションで書いちゃっただけだから! まさか見られるとも思わなかったし……! てか忘れさせるしかねぇ……!」
かくなるうえは、と彩花は拳を握り締める。脳にダメージを与えて記憶を失わせるしかない。
「……、……いや、嬉しかったよ。ありがとな」
「ふぇっ……!? 何でいきなりデレ!?」
「あんなん書くぐらい、お前も参ってたってことだろ。ごめん」
「急に素直になるな! ばか!」
心臓に悪いからやめてほしい。
「……つーかさ、よそよそしいつったら、お前だって人のこと言えんかったと思うんだけど」
「……え?」
意外な返しに、少女は思わずきょとんとなる。
「中学二年ぐらいまでは、わりとスキンシップ? あったじゃん。よく殴られたし。なんか、最近はあんまそういうのなくなったろ。彼氏できた影響かと思ってたけど、実際はいなかった訳だし……よく考えれば中学からだったし。何かガチで嫌われかけてるんかと」
「ち、違うってば」
言いながら、彩花はつい目を逸らす。
まさか気付かれていたとは、と。
「あれ? 何か図星っぽい反応っすね……」
「いや違うってば……。その……流護も男子なんだなーっていうか……、うん。そう思っただけ」
「は? 意味分からんぞ」
何で今ので察せないのか。にぶちん野郎。少しだけカチンときて、ジト目を送ってやる。
「ふーん。言っていいの?」
「何だよ。言えよ。別にやましいことはないぞ」
「へー。あれがやましくないんだ……」
つまり、自分の過ちに気付いていない。気付かれていないと思っているのだ。いいだろう。反撃開始だ。ジトリと眺めてやると、昔なじみの少年はわずかにたじろいだ。
「あれはそう、忘れもしない中学二年生の秋のことでした……」
こほんと咳払いをして、少女は遠い記憶を呼び起こす。
「あの日の放課後、暇だった私は有海家に行きました。まだあんたは帰ってきてなくて、非番のおじさんがいたわけ。で、『上がって部屋で待ってなよ』って言われたから、お言葉に甘えてあんたの部屋で待つことにしたの」
「…………、」
「で、あんたのパソコンがスリープになってたみたいで。ちょっと机に触れた衝撃で、いきなり画面がパッて映ったわけ」
「……、…………待った。一呼吸、入れていいすか?」
「だめです。それでー、出てきたのは検索画面でした。なんかねー、『年上お姉さん』『黒髪ロング美人』『ふともも』『制服』『ミニスカ』『エロ』とかって入ってたかな? 画像検索で、キワどいアングルの写真がいっぱい表示されてたっけなー」
「あああぁぁあがああぁぁ!? あああああぁぁ!」
「うっさ! 叫んでごまかそうとすんなっ。ってか検索ベタかっ。欲張りすぎじゃない? 必死に単語詰め込んじゃって。ふふふふ」
「いや、あれは……あれは……違うんや。違うんだって」
完全にやらかした犯人の言動である。
「なにか弁解がおありですかー?」
「あれ……は、検索……したのは、親父でぇ……多分、俺がいない間に、ホラ……」
「あんたの部屋で、おじさんが? 『年上お姉さん』? 『制服』? 『ミニスカ』?」
「あー……。無理がありますね……」
自分から白旗を上げる少年であった。
「あれ見ちゃって、うわ流護もそーゆーのに興味持つ年頃になったんだーって。もうピュアだった空手一筋の流護少年はいないんだなーって。しかも年上制服黒髪ロング好きですかーって。昔からのあんたを知る私は、なんともいえない気持ちになったのでした~」
罪を白日の下へ晒し、生温かい視線を送ってやる。
そこで、顔を真っ赤にした流護が絶叫した。
「お前エェ! 何悟ったみたいに言ってやがる! お前だって部屋にBL本とかドラマCD転がってたじゃねーか! そっちの道にハマったんすね彩花さん、って生ぬるい気持ちになったわ!」
「っ!?」
「必要以上に密着したイケメン二人の絵のジャケットに『俺のロンギヌスを受け入れろ』とか書いてあったすけど!?」
何てことでしょう! まさかあれを見られていたとは!
「あ、ああああんた気付いてたの!? てか違う! そういうの、みんな里歩が置いてったやつだから! 私のじゃないし!」
でも名作。
「うわ、親友を売りやがった……。いやー怖いっすね、女の友情は……」
「ほ、ほんとだもん! 里歩、ふつうに腐女子って公言してるし! 隠してないし! 色んなの勧めてきたし! 仕方なくだし!」
「だとして、何で返さないままお前の部屋に置いてあるんすかねぇ……」
「……分かった、流護くん。忘れよ、お互いに。ノーサイド。ねっ」
これ以上は危険だ。だめだ。もう和平協定を結ぶべきだ。
彩花はにこやかに右手を差し出した。
「…………そっすね」
流護も検索の件はあまり触れてほしくないのだろう。あっさり握手を返してくる。
お互い無駄に傷ついただけだ。争いは何も生まない。
「はぁ」
「どした」
「……あんたと馬鹿話してると、やっぱなんか実家感あるわ。……なのに、」
部屋の中を眺めながら。
「……まじなんだ、異世界転移とか……。これからどうしよ、ほんと……」
思わず漏れた不安に対し、
「とりあえずあれだ。それも含めて、あとでベル子に詳しい話してもらうからさ」
流護はそんな風に言った。
「べるこ?」
よく分からなかった単語を反芻すると、幼なじみの少年は少しだけ言いづらそうに窓の外へ目をやった。
「あー、ベルグレッテのことな。ほれ……昨日、屋上から身投げしようとしたメンヘラ彩花さんを救ったお人の名前ぞ」
「………………ほーう」
彩花は目を細め、わざとらしく自分の顎をさすった。名探偵が犯人を推測するかのように。
「……何だよ?」
若干苦い顔を見せる流護。
「ふむふーむ」
「だから何だってんだよ」
向こうから見れば、彩花の瞳はキラリと光を放っていたかもしれない。
「流護くんはー、そのベル子ちゃんのことが好きなのかぁ」
「は!? 何でそんな……」
「推理は実に簡単だったよ流護くん。まず、そのベル子ちゃんって確かすんごい美人だったじゃん。けど、流護はそのことに全然言及しなかった。むしろ避ける勢い。あの子の説明としてはこれ以上ないはずなのに。『あのめっちゃ美人な子のことな』とか軽く言っておけばいいのに。これはオンナとして意識してるからこそ、あえてその点を言うのを避けたものと思われます」
「アホか……!」
「大体さ、ベル子、とか呼んじゃってる時点でね……。トクベツな呼び方して、そういう関係になりたいんじゃん。つか、態度でバレバレだし。めっちゃ美人で清楚そうだし。黒髪に近いロングだし。流護が惚れる要素しかない」
ぐぬぬ、と言わんばかりの流護の顔が真実を語っている。
ぬふっ、と彩花は鼻から息を噴出した。
「叶うといいね、その恋」
「うるせー、何だってんだお前! 何だよその目は!」
考えなくとも分かる。
この異世界のことなど何ひとつ分からなくても分かる。
あんないかにも高貴そうなお嬢様が、流護の相手などするはずがない。まさに高嶺の花、というやつだ。
――そう、思っていました。