536. ペンティメント
「ん~~~~!」
両目をばっちりとつぶって×の字にしたミアが、感慨深そうに天井を仰いだ。
場所は学生食堂。時刻は夜六時前。
いつぶりの集合だろうか。奥まった席で、ベルグレッテ、ミア、ダイゴス、エドヴィンの四人は食卓を囲んでいた。
「でもよかったよ! レノーレが、なにごともなくて……」
ミアの声はひたすらの安堵で溢れている。
バダルノイスでの状況がある程度落ち着き次第、あの風雪の少女はこの学院へ戻ってくる予定だ。
「ま、何事もねーって言うには色々あり過ぎたがよ……。あんなことになるなんざ、誰が予想できたよ……」
疲れ切った顔で茶をすするのはエドヴィン・ガウル。
「しかしまさか、お主までバダルノイスに行っとったとはの」
さすがのダイゴスも驚いたようだ――が、相変わらずそうは見えない平静そのものの顔で口にする。
「でもでも、今回はエドヴィンもお手柄だったんだね! 無事でよかったよ。お疲れさま!」
「ケッ、ミア公が褒めてくるなんざ、明日は雪か? もう当分、雪なんざ見たくもねーぞ」
「ンモー! なんだよ! せっかく褒めてあげたのに!」
いつも通りでありながらもどこか懐かしい空気に浸って、ベルグレッテも心からの微笑みが零れる。
「あー……帰ってきた、って感じがするわ……」
しみじみ呟く少女騎士の腕へ、隣席の小動物がふんふんと絡みついてきた。
「うんうん、あたしは寂しかったよベルちゃん……!」
「そうねー、私もよー」
「ああ! このつれない感じを待ってました!」
くっつき虫なミアの頭を押さえ阻止するベルグレッテの向かい席で、ダイゴスがわずかに神妙そうな表情となる。
「じゃが……オルケスター、か。そのような連中が暗躍しとったとはの」
ベルグレッテも、改めて気を引き締めた。
「ええ。彼らは……あまりにも危険だわ。このまま捨て置くことはできない」
実質、今回の黒幕といっていい。
一国の主であるオームゾルフすらをも利用していた、闇に蠢く謎の犯罪組織集団……。
「それでさっきも話したけど……オルケスターは、先の天轟闘宴を観戦していたと考えられるわ」
その武祭を開催したレフェ巫術神国の中でも、関係者の立ち位置となるダイゴスに改めてその推測を告げる。
「うむ。じゃが、此度の観客数は三万人を超えておった。とてもではないが、個人を絞り込めるものではないぞ」
「……それなんだけど、実は心当たりがあるの」
ベルグレッテは辺りを窺いつつ、小さく切り出した。
「ほう」
ダイゴスの口元に、興味深そうな薄笑みが浮かぶ。
「今回遭遇したキンゾル・グランシュアが、気になる言葉を発していたの。――『詠術士殺し』、と」
「めいじごろし?」
たどたどしくなぞる隣のミアに、ベルグレッテはええと頷く。
「リューゴのことをそう評したのよ」
「うむ。言い得て妙じゃの」
詠唱の時間すらまともに与えず、相手を殴り倒してしまう。問答無用、掟破りとも表現できる彼の闘いぶりを思えば、確かに似合った異名かもしれない。
『ひっひっ。お主程度、如何ようとでもなる……が、ワシは決してお主を過小評価しておらん。今のオームゾルフを退けることができたのは、お主の手腕あってのことじゃろ。「詠術士殺し」とは、よう言ったもんじゃ』
「あのキンゾルの口ぶりは……奴自身がリューゴをそう評したのではなく、『誰かがそう呼んだのを聞き及んでいた』……そんな印象だったわ」
あの言いざまを聞いた瞬間、ベルグレッテはハッとしたのだ。
「それで実は、あの天轟闘宴の観客席で……全く同じように、リューゴのことを『詠術士殺し』と呼んだ人物がいたのよ」
三人の注目が集まる。
オルケスターの人間は、まず間違いなく天轟闘宴を観戦していた。そしてその者が、組織内で流護をそう呼称していたなら。
「そーは言うがよ、ベル。それだけじゃ、ちっと疑うには弱くねーか? 別に他にも、アリウミをそう呼ぶ奴がいてもおかしくねーっつーかよ」
エドヴィンの指摘はもっともだ。しかし、である。
「それだけじゃないの。思い返してみれば『その人物』は、他にも奇妙な発言をしていた。――あのバダルエ・ベカーに対して」
その名を耳にしたダイゴスが、「む」とわずかに眉間へ皺を寄せる。
「バダルエ? 誰だよ?」
「エドヴィンも話は聞いてるでしょ。例の、天轟闘宴にセプティウスを持ち込んだ老人ね」
「!」
バダルノイスで実際にそのセプティウスを着用した敵と対峙したエドヴィンとしては、当然の驚きだろう。
「その人物は、バダルエの姿を目にするなり言ったの」
『――ほう。顧客か』
「あの局面で発せられた意味不明な言葉だったから、印象に残ってよく覚えているわ」
「……うむ。『ユーザー』、か。古イリスタニア語で考えるならば、『使う者』、『使い手』とでもいったところかの」
ダイゴスがそう呟いた直後。
「あ! それきっと、『お客さん』って意味だよ!」
そんな風に言い出したのは、意外なことにミアだった。
「ほら、マデリーナの家がかなり大きな商家でしょ。こないだ、ぼやいてたの。ユーザーの要求がどうのこうの~って。ユーザーってなにーって訊いたら、お客さんのことだよ、って言ってた」
「…………そう、ね」
色々な知識を身につけてきたベルグレッテではあるが、商人の間で使われる俗語まではさすがに詳しくない。しかし言葉の印象や状況から、そんな意味合いではないかとは思っていた。それがここへきて確定する。
「もし、あの観客席の人物がオルケスターの一員だったなら……。セプティウスを目にするなりそう言ったのも、納得できるところだわ」
「セプティウスは、てめーんとこの商品だもんな。それを使ってる人間を見て、客……ユーザーだ、って言ったってことかよ」
エドヴィンの言う通り。ピタリと符合する。
「して、そ奴はどんな奴じゃった。覚えとるか」
「そうね。風変わりな人物だったから、結構はっきりと覚えているわ――」
浅黒い肌と、無造作な癖のある黒髪。精悍で逞しさを感じる顔つき。チャコールグレーの礼服に身を包んだ、紳士然とした青年だった。ベルグレッテのすぐ隣の席で、天轟闘宴を観戦していた。
「偶然隣り合っただけの観覧客となると、名前までは聞いとらんか」
「ええ、さすがにね。ただ……彼は最初に会話を交わした際、興味深いことを言っていたわ」
『私も部下が出場していて……フッ、そう警戒しないでくれ。仕事で来ているのでね、君にちょっかいを出す気はないよ。もっともこんな美しい女性に出会えるのであれば、私事で来るべきだった……と後悔しているところではあるが』
「むむ! ベルちゃんに、こなをかけようとしたんだね! もう!」
プンスコーと憤るミアだが、もちろん今注目すべきはそこではない。
「仕事で来て、部下を出場させておった、か。成程確かに、これは興味深いの」
ダイゴスの不敵な笑みが光る。
「して、その部下とやら……出場者の名前は分かるか」
「ええ。名前はたしか、チャヴ・ダッパーヴ。かなり大柄な男で、強豪のようだったけれど……鏡に映らないところで敗北したみたいだったから、詳細は不明ね。時期は……武祭の中ほどだったかしら。例の紳士も、部下が敗北してしまったから、と言い残して退席したの。それきり見かけていないわ」
「ケッ、負けてやがんじゃねーか」
ざまあみろ、と言いたげなエドヴィンではあるが、
「けれど、気になるわ。彼らは、なにが目的で天轟闘宴に出場したのかしら。バダルノイスでの暗躍ぶりを見るに、こちらの予想だにしない意図があったんじゃないかって思えてしまうの。単純に優勝することが目的だった……とは、思えない」
レノーレの懸賞額である千五百万エスクの財源はオルケスターだったのだ。それほど羽振りのいい組織が、武祭の優勝賞金一千万エスクを得ようなどと考えるとは思えない。
もう一方の勝者の特権である『何でも願いを叶えてもらえる』にしても、表立つことを嫌うオルケスターが、国家の提示するそのような条件に飛びつくだろうか。
「それに……優勝する気でいたなら、オルケスターにはもっと適した人材がいる。それこそあのミュッティでも、メルコーシアでもよかったはず」
流護やメルティナですら、あわや敗北寸前まで追い詰められた猛者たち。そのうえキンゾルの言を信じるなら、他にもディノを殺めたかもしれないほどの強者まで存在しているのだ。
「けどよー、金とか優勝以外に何があんだよ。天轟闘宴に出る目的ってよ。目立ちたかったとかか?」
そこだ。普通は誰も彼も、優勝すること――もしくは、特別賞による褒賞獲得を狙って出場する。
名声にしても、オルケスターとしては逆に人目を引きたくないはず。バダルノイスでの一件において、土壇場までその実在が確定しなかったほどなのだ。
「リューゴや私、サベルさんやグリーフットさんのように……『融合』の対象となる詠術士を選定することが目的だったなら、わざわざ自分のところの戦士を出場させる必要はないはずだし」
「確かにの」
それだけなら、観客席で品定めしていれば済む話だ。
実際、オルケスターはそれでジ・ファールの力に目をつけ臓器を回収している。
ケガや死の可能性すら伴う危険な闘いに身を投じさせるからには、それなりの理由があったはず……。
「ふむ。まずは、そのチャヴ・ダッパーヴについて調査が必要じゃな。ラデイルの兄者に文を飛ばしておくとしよう」
「ええ。お手数だけど、お願いできるかしら」
「ジ・ファールを回収した者についてはどうする。調べてみるか」
「そうね……そちらもお願いしたいけど、ただそこから足がつく可能性は低いでしょうね……」
天轟闘宴にて鼻つまみ者だった無法集団の魔闘術士、その長を務めていたジ・ファール。彼の臓器は、アルドミラールと名乗ったオルケスターの刺客へと移植されていた。
そこから手がかりも得たいところだが、あの慎重極まる闇組織がそんなことを見落としているとも思えない。
話がまとまる頃、にわかに食堂の出入り口付近が騒がしくなった。生徒の一団が、夕飯のために談笑しながらやってきたのだ。
その中から、こちらに気付いたらしい一人の女生徒が小走りで寄ってくる。
「ちょっとベル、ミア! 聞いたよ聞いたよ~」
「なに、どうしたのよマデリーナ」
同じ学級のマデリーナだ。先ほどミアの話にも名前が出ていたが、かなり大きな商家の一人娘でもある。
「どうもこうもないでしょ、『眠り姫』よ『眠り姫』! ついに目が覚めたんだって!?」
屋上から転落した彩花、すんでのところで受け止めたベルグレッテ。そのやり取りは、一部の生徒たちに目撃されていた。どうやら、それがあっという間に広まったらしい。
「ええ、そうね……」
ベルグレッテは隠しもせず溜息をついた。こうなっては、これ以上オルケスターの話は続けられない。
……それに加えて、
「きひひひ。いやいやいやいや、ついに『眠り姫』様のお目覚めですかぁ~。それも、あんたが帰ってくるのと時を同じくして! なんてぇ運命よ! 大変ですな、ベルグレッテ殿! きひひひひ」
この下世話な笑みである。
「……なにが言いたいのかしら」
ジトリとした視線を投げるベルグレッテだが、マデリーナはいやらしい笑みを崩しもしない。
「べっつに~~。それで、肝心の『眠り姫』はどこにいんの?」
「……リューゴと一緒にいるはずよ」
彩花は極度の混乱に加え、衰弱も著しい状態にあった。ひとまずは、昔なじみの彼がついて落ち着くのを待っている状態だ。
流護やベルグレッテたちが学院へと到着する直前、突如として目覚めた彩花。そんな彼女に対し、ミアとダイゴスが簡単な事情の説明をしたそうだが、それが却ってあの少女を追い詰める結果になってしまった……と、二人とも気にしていたのだ。
もっとも誰が語り聞かせたところで、現代日本という異質な環境からやってきた彼女を納得させることなどできはしなかったろう。
「え!? じゃあ今、あの二人は!? 二人っきりでいるってこと!?」
さてマデリーナはというと、井戸端会議の婦人ばりに手を口で覆って驚きの表情を作った。
「それを許したの!? ベル!? 本気!?」
「……なにが言いたいのかしら?」
ベルグレッテとて聖人ほど達観してはいない。『にこやかに』先ほどと同じ言葉を吐くと、
「うわぁ! そうやって怒るとクレアそっくりねほんとに!」
わざとらしくヒャーと防御態勢を取るマデリーナだが、明らかに楽しんでいる。
「いや実際、どんな子なの? これからどうするの? 純粋に気になるわぁ」
「そうね……」
それは、ベルグレッテとしてもまだ具体的に決めあぐねている部分だった。
『眠り姫』の存在については、学院の生徒は元より王城関係者も多く認知している。まずは、目覚めたことをアルディア王を始めとした皆に知らせなければならないだろう。
そして、彼女の今後の生活についても考えなければならない。
流護と同じく、神詠術を全く扱えない身の上。しかしやはり、彼のような異常極まる身体能力は確認されなかった。それどころか衰弱しきっており、歩くことすらままならない状態。
そしてこのグリムクロウズにおいて、『持たざる者』はその生き方を大きく狭められる……。
「…………」
否応なく。
少しずつ、周囲の状況が動き始めている。環境が変化していく。
魂心力結晶の研究。謎の組織オルケスターの暗躍。長らく眠っていた彩花の目覚め。
そうした要素だけではない。来月にはもう、進級して学院の三年生となる。
これから先、どのような未来が待ち受けているのか。
それはまだ、今のベルグレッテには予想できそうになかった。
「…………ふー……っ」
時刻は夜九時前。
ベルグレッテは、流護の部屋の前で深呼吸を繰り返していた。
「……」
戸を扉打しようと右手を掲げるも、やはり躊躇してやめる。先ほどから、そんなことを繰り返している。なぜかといえば、
(……ど、どうしてこんな緊張してるのかしら、私)
言うまでもない。この扉の向こうにいる人物。流護――と一緒にいるであろう、彩花を意識している。
もちろん、その彼女の様子を確認しにここまでやってきたのではあるが――
(落ち着いて、落ち着いて。変に考えることないでしょ……)
彼の幼なじみ。それ以上でもそれ以下でもなく、やましい関係でもない。妹のような存在と流護自身は語っている。
しかし、そこは年頃の男女。マデリーナや他の学院生たちが邪推してしまうのも無理はない。
夕刻、長い旅路を終えて学院に到着するや否や、学生棟でのその光景が目に入った。
屋上に立つ誰かしらと、下で騒いでいるミア。不穏な気配を感じ取ったベルグレッテは、念のため術を備えて現場に近づき――後は、先の通りである。
ちなみにそのとき、彩花と会話らしい会話は交わしていない。
流護にすがりついて、泣きじゃくっていた彩花。あの様子だけで、彼女が彼に対してどれほど深い情を抱いているかは明らかだった。
一旦は彼女が落ち着くまで流護に任せることにして、今このように訪れたところである。
(えーい、いきなさい私……!)
コンコンコン。
意を決して戸を叩く。室内で誰かが動く気配があり、カチャリと扉が開かれる。
「おう、ベル子か」
いつも通りの流護が、いつも通りに顔を覗かせた。
「えっと……、アヤカさん……の様子は、どう?」
「気持ち的に疲れたんだろな。寝ちまったよ」
言いながら、流護は部屋から廊下へ出て静かに扉を閉めた。
安心したような、肩透かしのような。どちらともいえない気持ちになる。
「そ、そう。ええと……それじゃ、アヤカさんの寝床をどうしようかと思ったんだけど……」
「ああ、悪い。今日のとこは、俺の部屋で寝かしといてもいいか?」
「そ、そうね。分かったわ……」
……年頃の男女が、同じ部屋で一夜を過ごす。
本来ならばもちろん、間違っても学生棟で容認していいことではない。ベルグレッテ個人としても、流護が他の女子と……となれば尚更だ。
しかし今の彩花を一人きりにはできないだろうし、かといって面識もないに等しい自分やミアと同室で、というのも難しい。
今の彩花に寄り添えるのは、同郷かつ昔なじみの流護だけだ。
「で、でもリューゴ。一応言っておくけど、くれぐれも……その、変なことがないように……」
「? 何が?」
とぼけている風でもなく、本当に疑問に思っている顔。
「だ、だから! アヤカさんと二人きりになるわけでしょ……!」
つい言葉も尻すぼみになる。ああ、と察した流護は、
「いや、ないない。絶対何もないから……」
苦い顔で右手を横に振った。
「もうっ、信じるからねっ」
「おう、信じてくれ。つか、そういう関係じゃないって言ってるやん」
彩花は妹のようなものだ、と彼は一貫して主張している。しかし客観的に見れば、血の繋がらない男女に違いない。
ベルグレッテとしては、やはりモヤモヤしてしまうところだ。が、だだをこねても仕方がない。
「それで、早速で申しわけないんだけど……今後のアヤカさんのことについても、色々と考えなきゃ」
まず、目覚めたことを王城関係者へ報告しなければならない。そして、今後の彼女の生活についてどうするか。
そのあたりについて言及すると、流護も「そうだなあ」と悩ましげに頭を掻いた。
「今日、銀の曜日だったよな。休みもう一日あるし、明日また改めて話そうぜ。彩花も入れて一緒にさ。まず、この世界のことも理解してもらわなきゃだし」
「ええ……そうね。そうしましょうか」
それから少しだけ雑談を交わし、部屋に戻っていく流護の背中を見送った。
「……、っ」
想い人が他の相手の下へ行くのを、みすみす許してしまったかのような。そんな焦燥感に駆られながら、ベルグレッテは馬鹿馬鹿しいとその気持ちを封じ込める。
(大丈夫よ、大丈夫)
自分に言い聞かせる。
うん。大丈夫。
そそ、大丈夫。
何も心配なんてない。だって、分かってるでしょ?
(…………ええ。そうだったわね、■■。そういえば……)
内なる声に頷くと、信じられないぐらい気持ちが軽くなった。
(気にする必要なんて、なかったわね……だって、……ふふ)
誰だってそう思うだろう。
自分がその立場になったなら、気にかける人間なんているはずがないのだから。