535. 幼なじみ
――場所は学生棟一階、流護の部屋。
久しぶりの帰国、自室。
そこで部屋の主たる少年は、ついに目覚めた幼なじみの少女と二人きりで向かい合っていた。
「ちゃんと髪拭けよ。風邪引くからな」
「…………うん」
風呂場から出てきた彩花は、いつもの気の強さを感じさせないしおらしさで小さく頷いた。
流護はあえて、以前と同じく気軽に声をかける。
「どうだった? 十ヶ月ぶりの風呂は」
「それ何が聞きたいの? エッチ、変態」
「あっ、やっぱ彩花は彩花だったわ」
「なにそれ」
こんな会話も懐かしい。
「つか、意外と似合ってんじゃん。こっちの服も」
風呂を上がった彩花は、ベルグレッテが貸してくれた簡素な部屋着姿になっている。
「おだてないでよ。変態」
「やっぱ似合ってねーわ。ブス」
「は? なに? 馬鹿じゃないの」
「俺はどうすればよろしいのでしょうか?」
長い黒髪を織物でくしくしと拭きながら、彩花が部屋中を見渡す。
「……ここが今の流護の部屋、か。よく分かんないけど、結構いいもの置いてるっぽい?」
「まーな。こう見えて、割といい金もらってるんすよ」
「ゆうげきへい? っていったっけ?」
「そそ」
「あんたがいなかったのって、なんかどこかの国に乗り込んでたみたいな……」
「ああ。そこの女王様に無実の罪着せられて全国指名手配されて、ムカついたから宮殿に乗り込んで兵士みんなボコってきたわ」
「ふ、ふふ……あははっははは。中学生の小説かな?」
「ああ、あれだろ。教室に乗り込んできたテロリストを返り討ちにする夢みたいの」
「…………実際、夢、だよね」
「ん?」
「…………いや、だってさ、こんな……あるわけ、ないじゃん……」
明るく振る舞っているようでいて、空元気なのは明らか。
「異世界とかなんとか、そんなこと……現実に……」
髪を拭いていた彩花の手が止まる。そのか細い指先に、わずかな力が込められたように見えた。震えを伴って。
ふーと息を吐いた流護は、少し眉を寄せて口を開く。
「多分ダイゴスからは聞いてないと思うけど……実はこの学院にさ、俺の他にもう一人日本人がいるんだよ」
「えっ!?」
やはり話していなかったらしい。実際のところ、その秘密を共有する者は限られる。以前口止めを頼んでいたし、ミアなどは知らないので、おいそれと公の場で口にすることはできないだろう。
「日本で大学の教授とかやってた人でさ、岩波輝っていうおっさんなんだけど。たまたま、今日は留守にしてるみたいだな」
今現在は、例の魂心力結晶を用いた新道具の研究開発を進めている最中。引きこもりで有名な博士といえど、王都まで出かけることが増えている。
「その人は、もう十五年も前にこの世界に飛ばされてきて……んで今もずっと、日本に帰る方法を探してる」
「…………」
彩花も、流護などより遥かに賢い少女だ。すぐに察する。
「……………………だめ、なんだ。ほんとに、帰れないんだ……」
「……少なくとも、今んとこはな」
「でも……あんた、一回帰ってきたでしょ? さっきのあの、すっごいキレイな子……ベル……なんとか、って子も一緒にいたよね?」
「……ああ。あのあたりのことは、話すと長くなるんだけど……」
「聞かせて」
――ゆっくりと。
流護自身気持ちを整理するように、語って聞かせる。
気付けば、外が薄暗くなっているぐらいの時間をかけて。
彩花は時折相槌を打ちながら、静かに……真剣な眼差しで、流護の話に耳を傾けていた。
「……じゃあ、この『異世界トリップ』をさせた誰かがいるんだ?」
「ああ、それは間違いねえ。そのフザけた野郎……いや男かどうかも知らんけど……とにかくそいつを、俺と博士は探してる。この国の王様も話の分かる人で、それに協力してくれてる」
「そうなんだ」
はー、と溜息をついた彩花は、天井を仰ぎながら織物を自分の顔に載せた。
「……明日さ。目が覚めたら、自分の部屋だったりしない?」
「俺もこの世界に来てしばらくの間、そんな風に思ってたよ」
当初だけではない。未だに時折、思い出したかのようにそうした郷愁に駆られることはある。
しばしの静寂。
「……でも、いっか。どっちでも」
ぽつりと、少女が呟く。
「どっちでもいい? 何でだよ」
「…………ん、どっちでもいいわ。だって、流護と会えたんだもん」
満面の笑顔で。
その屈託のない表情が眩しくて、少年はつい目を逸らしてしまう。
「お前、寝すぎておかしくなったんじゃねえ?」
彩花はといえば、明るくころころと笑った。
「なるよそりゃ。あんたがいきなりいなくなって、気がついたら寝たきり生活で、それで目が覚めたら剣と魔法のファンタジーだよ? おかしくもなるでしょ、そりゃ」
「ああ、そらしょーがねーわ。納得した」
ははっと笑い合いつつ、流護は膝立ちで目の前の彩花との距離を詰める。
そして、
「よっと」
――優しく、正面から彼女を抱き締めた。
「………………えーとなにしてんのかな、流護くんは」
「無理すんな」
流護がそうした理由は簡単。笑う彼女の目から、涙が溢れていたからだ。
「…………ばか。流護のばか。…………心配、したんだから」
「ああ。ゴメンな」
「……ぐすっ、ばか……ばかぁ……!」
涙声になった彩花が、流護の腕をぎゅっと掴んでくる。その力も、信じられないほど弱々しくて。
「しばらく寝たきりだったから、えらい細くなっちまったなお前……」
それでも彩花が眠っている間、シャロムを始めとした医師たちが神詠術による処置を続けてくれた。そのおかげか、体力や筋力の衰弱はある程度留められたようだ。
「そういう流護は……、すごい。腕とか、首とか……すっごい太くなってる……」
「鍛えてるからな。昔以上に」
そうしなければ生き残ることなど到底できない世界。
そんな過酷な場所に、この彩花も否応なく立たされてしまった……。
「ひっく……、りゅうご、りゅうご……うわああああぁ……!」
「大丈夫だ、彩花。俺が一緒にいるからさ」
「うん……うん……!」
目覚めてすぐ、思考の処理が追いつかないことの連続だったろう。
見覚えのない場所。出来の悪い妄想みたいな異世界の話。思うように動かない身体。栄養失調から頭も働かず、現実感がなくなり屋上から身投げしてしまうような精神状態に陥るのも無理はない。
誰だって彩花の立場に置かれれば、やはり何かの悪い夢だと思ってしまうだろう。
流護とて、この世界へ招かれた当初は訳も分からず流されるままに行動していたのだ。
同じ経験をした人間として、彩花の気持ちは痛いほど理解できる……。
今はただ、ようやく目覚めた大切な幼なじみを強く抱きしめる少年だった。




