534. 夢で逢えたら
「あれ……?」
別の上着を着込んでトイレまで戻ってきたミアは、中を覗き込んで首を傾げた。
「アヤカ、さん……?」
個室が全部空いている。彼女の姿はどこにもない。
「先に部屋に戻っちゃったのかな……?」
それならそれで構わないが、少し心配だ。彩花は自分の故郷に戻ることができないと聞かされ、見るからに落胆、動揺していた。
(アヤカさん……)
家族との縁が切れてしまったミアとしても、帰るべき場所が失われてしまったその悲しみは痛いほど理解できる。
上着を取ってこいと言ったのも、少し一人になりたかったからだろう。
一旦はその思いを汲んだミアだったが、やはり彩花の体調を考えるとあまり長い時間一人にしておくのは不安だ。
(やっぱり様子、見にいかなきゃ)
今頃、一人で一生懸命歩いているのかもしれない。誰かに見つかって声をかけられたりすれば、面倒なことにもなりそうだ。
もしかするとお節介なのかもしれなかったが、やはり放ってはおけないと考えたミアは外へ向かって駆け出した。
「はぁ、はぁ」
手すりに寄りかかって。彩花は一歩一歩、階段を上っていく。
息が切れる。眩暈がする。膝が震える。
体力や筋力が衰えていることも確かだろうが、きっと何より――
(帰れ、ない……? うそでしょ、そんなの……)
思考が、その現実を否定しようとしている。
一歩、一歩。一段、一段。
繰り返し着実に上り続けるうち、その扉が見えた。
先ほど学生棟に入る前、ミアが言っていた。屋上に出れば、遠くの景色も見渡せると。
「…………、っ」
それは願望だったのかもしれない。
高みから壁の外を一望すれば――きっと、見慣れた日本の景色が広がっている。そうに違いない、と。
「はー、はぁっ……」
ようやくに階段を上り切り、ドアノブを握って回す。鍵はかかっていなかった。やはり先のミアの言からして、特別出入りが禁止されていたりはしないのだろう。
重く感じる扉を押し開けて、屋上に出た。
冷たい風が出迎えるように、頬へ吹きつけてくる。
頑丈そうな柵に囲まれた、何もない空間。そして――
「………………あ」
敷地を囲う石壁、その向こう側。
ミアが言っていた通り――そこにはどこまでも続く平原と、遠くに連なる山々が広がっていた。
視界の範囲内、全方位。
あるのは雄大な自然の景色のみで、見慣れた日本家屋の類は一切存在していなかった。
「……………………」
その風景も、日本のものと考えるには少しおかしい。
例えば広大な平原を割って地平まで延びる道らしきそれは、明らかにアスファルトではない。土が剥き出しになっている。
草地を駆ける動物の群れ。あれは何だろうか。鹿のようだが、どうも見たことのない生き物に見える。
(………………)
本能が、屈しかけている。
ここは、日本じゃない? 本当に、異世界……?
だとして、どうして私が? いつの間に……?
(……だってさ、色々おかしいでしょ……)
分かった。
ならもう、百歩譲って異世界でいい。剣と魔法のファンタジーでいい。
で、ここに自分と同じく流護がやってきているというが、彼は不在。
その理由についてミアやあの大きな青年も説明してはいたが、いまいちよく分からない。
なぜ都合よく――この場合は『都合悪く』だろうか、流護に会うことができないのか。
答えは単純。
(……夢なんだって。やっぱ夢オチなんだって、これ……)
自分が見ている、突拍子もない夢なのだ。もう、それで何もかも説明がつく。
異世界転移だとか神詠術だとか何ヶ月も眠り続けていただとか、馬鹿らしい。そんなこと、あるはずがない。
きっと、精神的に参っているのだ。ここ半年、ずっと塞ぎ込んでいた。おかしくもなる。
「……は、はは。そりゃ、そうでしょ……」
そうと決まれば起きるだけだ。
さて、どうやって目覚めようか。
ほっぺをつねった程度では全然ダメだった。よほど深く寝入ってしまっているのだろうか。
もっと強い衝撃が必要なのかもしれない……。
「ウワー! アヤカさん、どうしてそんなとこにいるのー!」
おもむろに遥か下方から、そんな声が届いてきた。
柵越しに見下ろすと、中庭からこちらを仰ぎ見てじたばたするミアの姿があった。
「ふらふらなのに、屋上なんかに出たら危ないよ! 戻ってきてー!」
ここからではさらに小さく思える少女が、自分のことのようにあわあわしている。
「……ミアちゃん……」
何というか、本当に健気でいい子だと思う。どうして自分のようなひねくれ者の夢の中に、こんな献身的な子が出てくるのだろう……。
……彼女が立つ下の地面まで、かなりの高さがある。落ちれば、ひとたまりもないはずだ。
以前、夢占いで聞いたことがある。
『落ちる夢』というのは、不安やマイナス感情が高まっているときに見るのだそう。
(ん……はは、今の私にぴったり合ってるじゃん)
せめて夢の中でぐらい、流護と再会できてもよかったのに。それすらできない精神状態だからこその、この夢なのか。
(…………はぁ。何が異世界だっての。変な夢見ちゃったな)
気が抜けた。
その拍子に、足下がふらつく。考えてみれば、身体が思い通りに動かない夢なんていうのも、よくある話だ。
(……もういいって)
柵に寄りかかりながら、ついでとばかり上体を被せる形で乗り越える。
「ウワ――――――! ア、アヤカさん! なにしてるの――!」
(……ごめんね、ミアちゃん)
ろくでもない夢だったけど、彼女はいい子だ。
できれば、また別の夢で会えたりしないかな……。
「だだだ、誰かー! 誰か! アヤカさんがー! お、落ち……!」
少しだけミアに申し訳ない気持ちを抱えながら、彩花は柵の向こう側へ。
ずるりと滑った身体が――――、真っ逆さまに屋上から転落した。
ゾッと怖気立つ浮遊感。ミアの悲鳴。
冷たい風。迫る地面。
落ちる夢を見ると、大体ここでヒヤッとして目が覚める。さあ、起きよう。
(……、……目が、覚め――)
芝生の地面が。
急速に、目の前に迫る。
(あ、れ)
おかしい。目が覚めない。
激突。
まさに、その瞬間だった。
――ばしゃん、と彩花の身体を柔らかな何かが包み込んだ。
「……!?」
クッション? マット?
違う、これは――
(……、……み、水……!?)
きらきらと煌めくそれは、水の奔流。迸るそれがまるで意思を持ったように、地面と彩花の間へ滑り込んできのだ。
「わっ、ぷ!」
そして弾け、消える。何ら痛みや衝撃を伴うことなく、彩花は芝生の上に転がった。
小川にも似た渦巻く水の波は、役目を終えたように虚空へと霧散していく。蒸発ではない。まるで原理の分からない不思議な消え方だった。
粒子が散っていくような美しいその光景の中に、彩花は見た。
「…………!」
たった今展開された幻想的な現象にすら見劣りしない、美しい少女が目の前にいた。
顎を浮かせ、這いつくばったまま、彩花は彼女の姿を見上げる。
美少女、という表現が安っぽくなってしまうほどの美少女だった。少し吊り目がちの瞳、その色は薄氷色。背中まで伸びたさらさらの髪は、黒みがかった藍色。ファンタジー世界の旅人めいた格好をしているが、彼女自身は姫か女騎士か、そんな高貴な身分ではないかと思わせる雰囲気。
何が起きたのか、遅まきながら彩花は理解に至る。
例の神詠術とやらで、屋上から落ちてきた自分を受け止めたのだ。この美少女が。
「……?」
それはともかくとして、不可解なのはその美少女。
自らが救った相手を……彩花を見下ろす宝石めいた瞳には、明らかな驚愕が浮かんでいる――。
「…………、……あな、た…………目覚めた、のね」
呟いた桜色の唇は、涼やかな声音は、どこか震えていて。
「ベ、ベベ、ベルちゃん!? ベルちゃーん!」
ミアの悲鳴じみた嬌声。そして、
「彩、花……?」
聞き覚えのある、少年の声。
ほとんど反射的に、彩花はそちらへと顔を向けて。
「――――――――――――あ」
戸惑ったような足取りでこちらへとやってくる、その少年。
「あ、あ」
自然、少女の口からは息が漏れる。
時間にすれば、たかだか半年。寝たきりだった期間を含めれば、実に十ヶ月ぶりとなるのか。
明らかに、精悍な顔つきになっていた。格闘技を習っていることで同年代の男子より筋肉質だったその身体は、より厚みを増したよう。
見違えるように大人びた彼の姿を、しかし少女は絶対に――絶対に、絶対に絶対に絶対に、見間違えたりはしない。
「………………彩、花…………お前……」
ただひたすらの驚愕を浮かべる彼、有海流護と。
「…………りゅう、ご……っ……! 流護……!」
喋るのもやっとの、蓮城彩花。
――――――同郷にして幼なじみの二人は、こうして再会を果たしたのだ。
――否。
果たして、しまったのだ。