532. 魔法の学校
「…………」
肌寒さも忘れ、彩花はその景色に見入っていた。
石造りの巨大な建造物。厳めしく頑丈そうなそれは、明らかに少女の知る日常風景の中にはありえないものだ。
ちなみに自分の出てきた建物は、内壁の片隅にある二階建てほどの小さな石塔だった。
「これが……学校、なの?」
「うん。昔、お城だったのを改装して使ってるらしいよー」
「……はぁ……お城、ですか……」
「食堂はこっちじゃなくて、向こうの奥の建物。学生棟の二階にあるんだよ」
二人はその巨大な校舎の前を素通りして、先にあるもうひとつの建物を目指す。
「……ほんと、誰もいないんだね」
「うん。週末のお休みは、いつもこんな感じかな」
さっき聞いた話によると、この学校は全寮制らしい。ミアのように、残っている生徒のほうが珍しいのかもしれない。
小さな少女に連れ添ってもらいゆっくりと歩きながら、彩花はあちこち見渡した。
延々と広がる整えられた芝生。周囲にはベンチや整えられた植え込み、庭木が点在している。等間隔で並べられた外灯も洒落た造形。
敷地内はぐるりと高い石壁に囲まれているようで、遠景などは見通せない。
そのどれもが西欧風の佇まい。
ただ、これらが日本に存在し得ない景観かといえば、きっとそんなことはない。海外風を意識したこのような観光施設も探せばありそうだ。
(空は……普通だよね)
分厚い雲に覆われた曇天模様だが、そこに目を引く変わった要素はない。
「……それにしても、すごい壁だね。外の景色とか全然見えないし……」
「そうだねー、ちょっと窮屈に感じちゃうよね。まあ外には怨魔がいるから、仕方ないけど」
(おんま?)
よく分からない言葉の意味を確認する間もなく、ミアが続ける。
「でも屋上に上がれば、外の景色もちゃんと見えるよ~。まあ、ここからじゃ平原とか山ぐらいしか見えないけど……」
「そう、なんだ」
ここは大自然の中にでも建っているのだろうか。
(……)
少なくとも、ドッキリではない。ミアから悪意や嘘は感じられない。しかし異世界などと言われても、信じられるはずがない。
現状、そんな結論。
(……でもそうなると、ここほんとどこなの、って話で……)
気付いたら見覚えのない場所。身体も長い寝たきり生活を証明するように錆びついている。
ミアにあれこれ尋ねてみようかとも思ったが、それこそブランクによるものなのか、滑舌や喉の調子すら怪しい。
こうして動いているだけで息も切れてくる。
とりあえず腰を落ち着けてからにしよう、と今は歩くことに集中する彩花だった。
両開きの大きな扉を押し開けて建物内に入ると、昼間とは思えない静けさが二人を出迎えた。
直線の廊下が長々と延びており、壁際には等間隔でドアが設けられている。
「ここは、学生棟、だよ。みんな、ここで、寝泊まり、してるんだよ」
「あの、大丈夫?」
ミアがぜえぜえと息を切らしていた。
「い、いいからいいから! アヤカさんは気にしないで、あたしに身を任せるといいよ……! うーん!」
下から懸命に支えてくれる小さな少女だが、どうにも体力の限界らしい。
二人三脚で歩くうちに気付いたが、ミアは驚くほど腕力がないようだった。見た目以上に、である。
一生懸命に支えてくれようとプルプルする様は愛らしくもあるのだが、
(私が重いわけじゃない……よね?)
そう願いたいところだった。それでも決して「重い」と言ったりしないあたり、彼女の気遣いを感じる。これが流護なら、「重いぞデブスちっとは痩せろ」とか言い放ってくるのは明白だ。
「えーと、無理しないでミアちゃん。歩くのにも慣れてきたから……もっと力抜いて。ゆっくり行こ」
「う、うん。頼りなくてごめんね、アヤカさん」
「大丈夫だよ、気にしないで」
自分の下であれこれと尽くしてくれるミアの様子は、実に微笑ましく愛らしい。自他ともに認める『小さなもの好き』の彩花としては、何とも刺さるものがある。
が、さすがに今は心に余裕もない。
二人で支え合うように廊下を進んで、やがて二階の奥にある学生食堂だという場所へたどり着いた。
内部はがらんとしており、他に客の姿はない。ここにもやはり、日本を思わせる物品や装飾はないようだ。
カウンター奥の厨房エリアでは、白いエプロンを着用した従業員らしき数名が、清掃や調理器具の手入れをしている。
よくよく見れば彼らの顔立ちは、どこか日本人離れしている……気がしなくもない。
「あっ。そういえば私、お金が……」
財布は制服のポケットに入っていたはず。
今さらながらにハッとする彩花に対し、ミアがふすんと鼻息を漏らした。
「だいじょぶ、ここはあたしが払うから!」
「え? いやでも悪いよ」
「ンモー! いいからいいから! 気にしないで!」
結局彼女が押し切る形で注文などの対応を(当然ながら日本語で)済ませ、奥の席に案内してくれた。
というよりよくよく考えてみれば、日本のお金は使えるのだろうか。
二人で腰を落ち着け、一息つく。
(……うーん)
あの夜。
突然、流護を見かけたと七菜に告げられて。そして実際に、その姿を自分で目撃して。
(……あいつが生きてた。やっぱり無事だった……)
それは素直に嬉しい。ずっと信じていたから、尚更。絶対に死んだりしない、と。
で、それで終われば「めでたしめでたし」だったのだが、おかしいのはここから。
行方不明だった期間中、流護はここにいた。いや、今もいる。でも、どこかに行っているらしくて、すぐには会えない。
(うん。わけ分かんないぞ……)
もう少し、先ほどミアから聞いた話を掘り下げてみる必要があるだろう。
しかし、どこから手をつけたものか……。
「……そういえば、今って何時なんだろ」
何の気なしに呟いて辺りを見渡すと、壁際にアナログ時計が飾ってあった。
「……二時半、だよね」
「うん。お昼ごはんの時間から外れてるから、誰もいないね~。目立たなくて済むから、ちょうどよかったよ」
異世界なのに時間の概念が同じ?
「…………」
彩花の中で今、ひとつの推測が形を成しつつあった。
――即ち。
(ここ……精神病院とか、そういう系の施設?)
例えば彩花は流護と再会した直後、何らかの事故に遭って昏睡状態に陥った。それから数ヶ月間も眠り続けて――ようやく今日、目覚めの時を迎えた。
ミアも患者の一人。だから真面目な顔で、異世界だの何だのといったような話を口にしている。
となれば、周囲の景観についても納得だ。外の様子すら見越せないあの高い石壁は、患者の脱走を防ぐためのもの。
そして失踪したと思われていた流護は、ここに収容されていたのだ。
(……いや分かってる。分かってます。それならそれで、辻褄合わないことばっかだって……)
誰も知らないまま……父親の源一ですら知らないまま、施設に収容されることなどあるはずがない。突然の行方不明で、警察だって動いたのだ。
(どうなってんの、ほんともう)
矛盾のない答えを得られずにいると、料理が運ばれてきた。
給仕の中年女性は室内でもフードを目深に被っている彩花を少し気にした風だったが、「はいごゆっくり」と日本語で告げて厨房へ戻っていった。
「……ふいー。やっぱり、アヤカさんの正体には気づかなかったみたい……!」
「……だね……」
何だろう。悪いことなど何もしていないはずだが、人目を忍ぶ犯罪者にでもなった気分だった。
「それじゃどうぞ! 食べて食べて!」
眼の前に置かれたのはトマトリゾット。特に変わった点はない。あえて特筆するなら器が小さく、量も少なめなぐらいだろうか。
もっとも彩花も空腹とはいえ、身体の調子がそもそも思わしくない。いきなり胃にたくたん詰め込むような真似はしないのが吉だ。
「……いただきまーす……」
木目が浮かぶ木のスプーンを使って、おそるおそる口へと運ぶ。
(……うん)
味も、彩花の知るトマトリゾットの範囲から別段かけ離れてはいない。見た目に反してちょっと味が薄く、コクや深みを出す調味料の類はあまり使われていないようだ。あと、少し酸味が強い。火の通しが足りていないと思う。
ミア曰く学生食堂(彩花は病院だと疑いかけている)ゆえ、濃すぎない簡素な味つけにしているのかもしれない。
「どう? おいしい?」
ミアが窺うように尋ねてくる。
「ん……、おいしいよ」
気のない返事と思われてしまったか、ミアが苦笑した。
「あたしはこれでも充分満足だけど……王都のいいお店に行けば、もっとおいしいのが食べられたりするんだよ~」
「王都……」
「うん。レインディールで一番大きな城下町! 賑やかで、広くて……あそこに行けば、何だって揃ってるよ」
(異世界グリムクロウズに、レインディール王国、かぁ)
先ほどもミアから聞いた『この世界の話』。ふと懐かしいような、こそばゆい気持ちになる。
(私も中学の頃とか、ちょっとだけ妄想したっけ……そういうの。ええ、しましたよ)
ノートに小説を書いてみたりしましたよ。キャラ設定を作ってみたりしましたよ。すぐに消しましたよ。
誰もが一度は憧れそうな、剣と魔法の中世ファンタジー世界。
(あ)
とそこで、彩花はふと思いつく。
「ねえ、ミアちゃん」
「なあに?」
「ここって……私や流護がいた世界とは、別の世界なんだよね」
「んー、そうみたいだよ」
「なら……私たちの世界にはない不思議な力、みたいのってないのかな? ほら、魔法みたいなやつ」
「フシギなちから……まほう?」
うーん、と小さな異世界少女は小首を傾げた。
言ってみて、ちょっと意地悪だったかな、と彩花は自省した。
中世ファンタジーといえば、やはり魔法は定番である。ここが異世界だというのであれば、そういった超常の力があってもいいはずだ。
しかしもちろん、現実にそんなものが存在する訳もなく――
「あ、そっか!」
やにわに、ミアがポンと手を打った。
「そういえば、まだ説明してなかったね。神詠術のこと!」
「オラクル……?」
「でへへ。そもそもこのミディール学院はね、神詠術を勉強する場所なんだよ! あたしたちにとっては当たり前のことだから、すっかり忘れてたや。リューゴくんも神詠術使えないし……そうなるとやっぱり、アヤカさんも使えないんだよね?」
「え? いや、あの……」
何か返す間もなく、
「ちょうどよかった。これからどうしよう、って思ってたから……。それじゃー実際に神詠術を使って、頼れる助っ人を呼んでみるね!」
言うや否や、ミアは右腕を掲げて、何もない空中を指先でなぞり始めた。
「!?」
彩花は絶句した。
ミアのその所作に合わせて、何もない空間が揺らめいたからだ。
雫を落とした水面のように、幾重もの波紋が広がっていく。
そして、
『リーヴァー、こちらダイゴスじゃ』
その波打つ空間から、誰かの声が響いてきた。低く渋味のある、成人男性と思わしき声が。
そして当然のように、ミアがその波紋へ向けて語りかける。
「リーヴァー、こちらミアちゃんです! ダイゴス、ちょっと急いで食堂に来て! 内緒で相談したいことがあるの。だから誰にも言わないで、一人でね!」