531. 異世界へようこそ 再び
「いやー、長かったっすねえ……」
ガタゴトと振動を伝えてくる馬車に揺られて。
あくびを噛み殺した有海流護は、伸びをしながらしみじみと独りごちた。肩や首が心底同意するかのように、パキパキと心地いい音を立てる。
「……そうね。ようやく帰ってきたわね……」
だらけた流護とは対照的、向かいの席に行儀よく座る少女騎士ことベルグレッテ・フィズ・ガーティルードも、感慨深そうに窓の外を見やった。
釣られるように目を向けると、鮮やかさを失って久しい街道沿いの景色が後方へと流れていく。
色のくすんだ平原、葉を落とした木々。冬特有の侘しさが目立つ大自然に、純白の彩りはまぶされていない。
「にしてもほんと、こっちは全然雪ないよな。つか、もう当分雪は見んくていいや……」
思わず呟くと、ベルグレッテが苦笑で応じた。
ちなみに流護の隣席では、学院の『狂犬』ことエドヴィン・ガウルが無遠慮に寝息を立てている。
(いやまじ長かった……。丸二ヶ月ぐらいあっちにいたのか?)
それでもこのまま行けば、夕方前には懐かしのミディール学院に到着するはずだ。
――さて。
バダルノイス神帝国から出国した一行は、中立地帯ハルシュヴァルトでロイヤルガードのポミエと合流。
彼女に連れられて先ほど王都へ戻り、アルディア王と謁見。無事の帰還を報告するとともに、かの国で起きた一連の事件について情報共有を済ませてきたところだった。
現指導者であったオームゾルフの謀略、その切っ掛けとなった闇組織オルケスターの存在……。
『銀黎部隊』の長ラティアス、副隊長のオルエッタ、そしてリリアーヌ姫の正規ロイヤルガードであるアマンダも同席し、真剣な面持ちで話を聞いていた。
さすがの彼らであっても、やはりバダルノイスの現王に相当する人物が国を挙げて流護たちを利用、あまつさえ始末しようとした事実については、特に驚きを隠せないようだった。
そしてやはりというべきなのか、オルケスターについては誰もその名すら認識してはいなかった。
「あ、そいやさ。ラティアス隊長がボソッと言ってたよな。『昔のツテを当たってみるか』とか」
オルケスターの話が出た折のことだ。独り言のように彼がそう漏らしたのを、流護は聞き逃さなかった。
うーん、とベルグレッテが顎先に人差し指を添える。
「私も詳しくは知らないし、これはあくまで噂なんだけどね。ラティアス隊長は昔、かなりの悪童だったらしい……って聞いたことがあるわ」
「へー」
「あら、驚かないのね」
「いやあの人、普通にすげー目付き悪いし。ついでに言やカンジも悪いし」
「し、しーっ! そういうこと言っちゃダメだってば……!」
それに『元ヤン』が後に真面目な大人になったなんて話は、別段珍しいものでもない。
「かつては北東の地下街で、大勢の部下を率いてたんだとか……。今のあのかたからは想像もつかないけど……噂が本当なら、その頃の情報筋に当たってみるおつもりなのかも」
「なるほどなあ」
腕組みをして座り直した流護は、唸りつつ隣で眠る『狂犬』の寝顔を眺めた。
「でも、あいつらの情報がそう簡単に出てくっかな……。少なくとも、エドヴィンでも全然知らなかったぐらいだし」
「ん。簡単にはいかないかもしれないわね……」
大陸各地を渡り歩いているトレジャーハンター、サベルとジュリーですら、その存在を認知していなかった。
傭兵稼業を営むグリーフットでようやく名前を聞き及んでおり、元山賊のラルッツやガドガドとなると過去に接触があった。
裏社会や無法者とのかかわりが深いほど、オルケスターとの距離も近しくなるのかもしれない。
「……、」
考えなければいけないこと、やらなければいけないことは山積みだ。
原初の溟渤から持ち帰った魂心力結晶の研究、それを使った新たな封術道具の開発。
自分やロック博士を初めとした、日本人のグリムクロウズ転移に関与する何者かの存在。
そこに今回、オルケスターの脅威が加わった。
(…………)
関連して――流護としては、あのディノが本当に死んでしまったのかどうかも気にかかっている。
そして、他には――
「やっとアヤカさんの顔が見られるわね、リューゴ」
それはもう、おもむろに。
向かいの席で頬杖をついたベルグレッテが、少し意地悪げな瞳を輝かせていた。
「は? 何? な、なんすかベル子さん、いきなり」
まさか彼女がいきなりぶっ込んでくるなどとは思いもしなかったため、微妙に声がひっくり返る。
「だって二ヶ月近くも離れてたんだもの。心配でしょ?」
「いや、まあ……別に……普通、って感じ?」
「ぷっ。なによそれ」
変に反発するのもおかしい気がしたのでそう答えると、少女騎士はころころと笑った。
そうなのだ。現状、流護が殊更に気がかりなのは、幼なじみの少女こと蓮城彩花の容態である。
なぜ目覚めず眠り続けることになってしまったのか。こんな状態が続くようであれば、今後どうしていくべきか……。
「ま、とりあえず今慌てて帰ったとこで、相変わらずグースカ寝てるだけだろうしさ……」
強がりではある。
しかしそれは、一種の諦念でもあった。
数ヶ月も同じ状態が続いているのだから、今もきっと何も変わっていないだろう、という。
――蓮城彩花は仰向けになったまま、ただ目だけを大きく見開いていた。
まるで知らない部屋のベッドで、自分は横になっている。
その内装も妙だ。
四方を囲む、石材丸出しの壁。黒ずんだ木目の天井は梁によって支えられているが、その形状はどうにも日本家屋らしくない。ドアは一つだが、これも洋風色が強い。全体的にどこか西欧風というか、外国の部屋みたいな雰囲気がある。
とにかくまずは起き上がろうと、彩花は四肢に力を込めた。
「う、く……!? ……っ」
身体がおかしい。
重い、痛い、だるいの三重苦。いまいち力が入らず、思うように動かせない。まるで自分の身体ではないみたいだった。生まれてこのかた、ここまで不調だった経験はない。
長らく動かしていなかったものを久しぶりに、無理矢理に動かしたみたいな。そんな違和感がある。
「ぐ、うぅ…………!」
唸りながらどうにか身体を起こすと、自分に被さっていた布団がバサリとのけられた。
「………………、っ?」
自らを見下ろせば、全く覚えのない服を着ている。地味な印象の、日本っぽくないデザインの部屋着らしきもの。薄茶色の落ち着いた色合いだが、こんな服は持っていない。そして、
(ん? あれ? なんか、髪伸びてる……?)
視界に入る耳元からの髪は胸へ届くかどうか程度だったはずだが、明らかに違和感を覚えるほど長くなっていた。そう意識すると、前髪も目にかかりそうで煩わしい。
「んん……?」
それに、触れてみると妙に手触りが悪い。やや脂ぎっている気がする。何日も入浴していないかのような。小学生の頃、風邪を拗らせて入院した時がこんな感じだった。
「いた、いたたた」
少し身体をよじろうとするだけで関節が悲鳴を上げる。何だか背中にも、すれたような痛みを感じる。
「……よ、いしょっ……と! ふ、うっ」
それでもどうにか尻を支点に向きを変えた彩花は、ベッドに腰掛ける形でその身を落ち着けた。そんなことにすら一苦労だ。
「…………」
そうして視界に入った足下の床は、やはり壁と同じ粗雑な石造りとなっていた。ちなみに靴下は履いていない。
(…………おかしい。絶対に、おかしい)
何が、などと言うまでもない。
何もかもが、全てがおかしい。
ここはどこなのか。自分はなぜここにいるのか。どうしていきなり髪が伸びているのか、身体がこれほど不調なのか、全く覚えのない服を着ているのか……。
(ってか私、何してたんだっけ……?)
状況が状況のためぶっ飛んでしまっていたが、まずは直近の記憶を掘り起こす――より、先に。
がたん、と。
外から重たい音がした。
部屋の外にまた別の扉があるのか、それを開け閉めするような音。次いで、こつこつと足音らしきものが近づいてくる。
「……!」
瞬間、彩花の内心に恐怖が競り上がってきた。
(誰か、来る……!?)
何ひとつ理解できない状況の中、現れるのが何者かなど完全に予測不能だ。
(どっ、どどどうしよ……隠れ――っ)
そんな猶予も場所もなく、ガチャリと呆気なくこの部屋のドアが開け放たれた。
――現れたのは、小さな女の子だった。
ハネ気味の赤茶けたショートヘア、くりくりとした大きな瞳が特徴的。可愛らしく幼い面立ちで、制服らしきブレザーの上に、もこもこの上着を着込んでいる。年齢は彩花より二、三歳ほど下だろうか。中学生ぐらいと思われるが、ちょっと髪の色を染めすぎな気もする。
もちろんというべきか、彩花としては全く面識のない人物だった。
「……………………」
「……………………」
扉を開け放った彼女と、ベッドに腰掛けた彩花。双方、たっぷり五秒ほど見つめ合う。
直後。
「ウワ――――――――――――――!」
緊急サイレンみたいに絶叫した少女が、ものすごい慌てぶりで後退。支えを失ったドアが、自然にガチャリと閉まっていく。
と思いきや、
「ウ、ウウウワ――!?」
おっかなびっくりといった様子で、また開けたドアから半分だけ顔を覗かせてくる。森で不意に出会ったリスのようだ。
「あ、あ、あああ、あの! あの!」
そんな彼女が、意を決したように呼びかけてきた。
「アヤカ、さん……! だよね!」
「……えっ、あ、は、はあ……」
この状況は何なのか。なぜこちらの名前を知っているのか。
彩花としては呆気に取られるばかりだった。
「よかった……目が覚めたんだね!」
「え、……あ、うん……」
訳が分からないまま、流されるままに返事をする。
「え、えーと! どうしよう!? なにから話したらいいんだろ……! まさかいきなりこんなことになるなんて、考えてもなかったから……!」
なぜか少女は、自分のことのように嬉しそうだった。それでいて慌てぶりというか、動揺も半端ではない。
「えっと……、まずは……あ! あたしの名前はミアだよ! よろしくね!」
「あ、はい……」
いきなりの自己紹介。それならそれで普通は苗字やフルネームで名乗るような気もするが、今の状況でそんなのは些細なことか。
どんな字を書くのだろう。未亜、もしくは美愛とかだろうか。
「うう、えっと……アヤカさん、どうしてここで寝てたのかとか、たぶん分かんないよね?」
「え、あ、はい」
そもそも何もかも分からないが、このミアという少女は事情を把握しているらしい。
なら是非聞かなければ、と口を開きかけた彩花の耳に、
「でも、とにかくよかったよ! リューゴくんも喜ぶよ!」
『その名前』が飛び込んできた。
「………………流、護?」
ほぼ無意識に反復する。
この夏に忽然と消えてしまった、幼なじみの少年の名を。
「待って、どうして流護のこと……! う、けほ、けほ……!」
勢い込んで声を張り上げようとした彩花は、思わず咳き込んだ。喋ることすら上手くいかない。身体といい手足といい、なぜこうも調子が悪いのか。
「わ、大丈夫!? えっと、うー、とりあえずあたしが知ってること説明するから、落ち着いて聞いてね……!」
――ミアの口から語られた内容はなかなか要領を得なかったが、まとめるとこうだ。
ここはグリムクロウズと呼ばれる世界。
この場所はレインディール王国にあるミディール学院、研究棟の一階。
あの日、行方不明になった流護は、突如としてこの世界へやってきた。
ここで暮らし続けて半年、思いがけず日本への帰還に成功したが、再びこの世界へ舞い戻ってきた。彩花はおそらく、その際に巻き込まれた。
(そうだ、あのとき……)
不可解の連続で思い出すのが後回しになってしまったが、ようやくあの寒い夜を回想する。
友人の芹沢七菜から「流護を見かけた」との連絡を受けた彩花は、すぐさま有海家に電話をかけた。
『………………笹鶴公園だ。まだ、間に合うかもしれねぇ』
流護の父・源一から告げられ、一も二もなく家を飛び出した。
息も絶え絶えになりながらようやくたどり着いた公園の奥で、ついに流護を発見した。
が、その隣に誰かがいて、
(……それで……、それで……?)
――そこから先を、覚えていない。
そして彩花はこの世界へやってきて以降、一度も目覚めることなく眠り続けていたが、つい先ほど意識を取り戻した。
で、今この瞬間を迎えている。
(さっきから、身体が変なのは……)
数ヶ月の間に渡って寝たきりだったため、すっかり肉体が衰えているということなのか。髪が伸びているのも、妙に脂っぽいのも納得だ。
それはいい。辻褄も合うし、とりあえず自分の置かれた状況は把握できた。
そのうえで、である。
まず、大前提。
(そんな話、あるわけないじゃん……)
グリムクロウズ? 地球とは別の世界? いきなり転移した?
馬鹿げている。
「…………」
彩花はぎこちなく首を巡らせ、石壁や天井をまじまじと眺めた。監視カメラの存在を疑ったのだ。
(ドッキリか何かでしょ、これ)
いくら異常な状況に対する辻褄合わせをしたところで、「ここは地球ではない別の世界です」などと言われて信じるはずがない。
最近は、動画投稿サイトの配信者などが壮大なドッキリを仕掛けてネタにすることも少なくない。
(さすがにこんなん信じちゃったら、一生の笑い者になるわ)
人を馬鹿にするにもほどがある。
「どうしたの? アヤカさんっ」
呼びかけに前を向くと、ミアが何やら鼻息を荒くしている。
「分からないこととか気になることとかあったら、なんでも訊いてね!」
彼女は小さな両手を胸の前で握り締め、そんな風に意気込んだ。その仕草も嫌味なく似合っていて、どことなく小動物っぽい愛らしさがある。
(……この子が、ドッキリの片棒担いでる演者……?)
こんな中学生を使ってまで。それにしては演技が上手い。演劇部にでも所属しているのだろうか。
(………………)
いや、分かっている。
やはりおかしいのだ。
相手が有名人ならともかく、一介の高校生かつ一般人でしかない彩花に対し、誰がこんな手の込んだドッキリを仕掛けるのか。そんなことをやってきそうな人間に心当たりはない。
行方知れずになった流護の名前を使うことも悪質だし、勝手に服を着替えさせられているなど普通に大問題だ。セクハラで訴えていい案件だろう。
そこに加えて、実際に身体の節々が痛い。これすら意図的な仕込みなら、もう裁判すら起こせそうだ。こんな嫌がらせを受けるいわれはない。
(だからって……)
異世界転移。
昔から一定の人気を誇るそのようなジャンルの創作物などもあるが、それが現実に起きたなど、当然信じられるはずがない。
例えば今、ミアとは普通に日本語で会話している。ここが地球とは別の世界だというなら、どう説明をつけるのか。馬鹿馬鹿しい。
彩花が考え込んで黙りこくっているからか、ミアは少し居心地が悪そうにソワソワしていた。
「えーっと……ミア、ちゃん、って呼んでいい?」
「う、うん! いいよ!」
「さっきのミアちゃんの話からすると……ここに、流護がいるんだよね?」
「う、うん……。でも今は、いないよ……」
「……どういうこと?」
「今は、ちょっと遠い場所にお出かけしてるの。しばらく留守にしてるけど……でも、絶対に帰ってくるよ……!」
今しがたの元気は失われ、どこか自分に言い聞かせている風な口ぶりだった。
(う~ん……)
少なくとも流護の件に関しては、実際に自分で会ってみなければとても信用できない。
(どうしよう……)
参った。ドッキリにしてはおかしいし、かといってミアの話を丸ごと全部信じられるはずもない。しかし、彼女が嘘を言っているとも思えない。
(もうちょっと色々聞いてみるしかないか……)
そう思った瞬間だった。
ぐぎゅるるるるるるる。
突如、凄まじい異音が部屋中に鳴り響いた。
……彩花の腹から。
「わー!? な、なに!? なんなの!?」
彩花は反射的に自分の腹を睨みつける。明らかに、可憐な女子高生の肉体から発せられていい音声ではなかった。
「あははは。ずっと寝たきりで、ごはん食べてなかったんだもん。しょうがないよ!」
ミアが苦笑しつつフォローを差し込んでくれる。
「うぅ……」
これは恥ずかしい。とはいえ実際のところ、今の号砲が合図だったかのように空腹感が襲ってきた。
「それじゃアヤカさん、ごはん食べに行こうよ! 食堂に連れてってあげる!」
「……う、うん」
悠長に食事を取っているような場合ではないと思いつつも、身体は補給を求めている。ここはひとまず従っておくべきか。
「それじゃ行こうー! ……あっ。そのかっこうじゃ外寒いから、これ着て!」
そう言って、ミアは自分が羽織っていた上着を脱いで手渡してくる。
「え? いや、でもそれだとミアちゃんが……」
「あたしは大丈夫だよ! ……はっくしょーい! へーちきしょうめー!」
あまりにも説得力がなかった。
「うう……、でもやっぱりそれ着て、後ろのフードを被ったほうがいいよ。アヤカさん、学院のみんなには『眠り姫』として知られてるから。起きたってみんなが知ったら、大騒ぎになっちゃいそうだよ」
「ね、眠り姫……?」
流護が聞いたら、確実に「彩花が姫ぇ~? ないない、絶対にあり得ませんわ」などと言い放つはずだ。
「でも今日は安息日だから、生徒もほとんどいないんだ。それ着てれば、きっと誰にも気づかれないよ」
……何だか不安になってきた。
決心が固まり切らないうちに、ミアが部屋の片隅にあった棚から突っ掛けらしきものを準備してくれた。
まあ、こうなれば仕方ない。
空腹をどうにかしたいのも確かだ。一度この場から移動してみるのもありだろう。
「っと、立てるかな私……、よっと!」
少しふらついたが、どうにか両足で立ち上がることに成功した。生まれたばかりの小鹿は、こんな気持ちだったりするのだろうか。
「ひえ、足下が怪しいかも……」
それとなく感覚で察する。
本当に、こうして直立して歩くこと自体が久しぶりなのだと。そのせいか、妙に身体もふわふわするような気がする。
「大丈夫? 肩貸すよ!」
ミアがピタリと横へ寄り添ってくる。その小さな身体が支えとなり(ちょっと失礼)、倒れ込むのを物理的に防いでくれた。これならどうにか歩けそうだ。
「それじゃいくよー……!」
気合充分なミアと二人三脚するみたいな感覚で、蓮城彩花は『異世界』での最初の一歩を踏み出した。