53. 闇の遊戯
『さぁ今宵もよくぞお集まりくださいましたねぇ、紳士淑女の皆々様! ではこれより、今宵のパーティーを開催致します!』
通信の神詠術で増幅された挨拶が、広く薄暗い会場に響き渡る。
場所はディアレーの街のどこかにあるという、地下劇場。
異様な光景だった。
会場に集まった人間は皆、男女問わず一様に黒い礼服姿。そして、顔には仮面、もしくは黒いメガネ。今しがた挨拶を響かせた進行役の司会も、白い仮面を被っている。
「……っ」
舞台袖からこの異常な光景を見てもなお、ミアには信じられない。
度々訪れていたディアレーの街に、こんな闇の世界があったことが。そして今まさに、自分がその闇の只中にいることが。
今夜の競売では、自分以外にも数名の少女が売りに出されていた。
ミアはただ呆然と、その光景を見つめる。
『百万!』
『百五万!』
通信の神詠術に乗せた金額の提示。大台に乗るたびに沸く会場。
近寄りたくもないような気持ちの悪い男が、少女を競り落とす。男は下卑た笑いを浮かべながら、泣き叫ぶ少女を引きずっていく。
それを見てニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる客たちもいた。
――狂ってる。
お前たち、みんな冥府の底へ落ちてしまえ。
そんな願いも虚しく競売は順調に進み、ついにミアの番となった。
『――では皆様。今宵、最後の商品となります! 純朴な田舎娘、ミアちゃん十五歳の登場です!』
フルネームで呼ばれなかった。
もう、ミア・『アングレード』ではなくなったからだろう。
舞台脇に控えていた黒服に連れられ、明るい舞台の中心へと歩み出る。
それだけで、客席からどよめきが起きた。
口笛や拍手、ミアの姿を称賛する声も聞こえる。
――ふんだ。あたしがあんまりかわいいからびっくりした?
精一杯の虚勢を張る。せめて泣くまいと、密かに歯を食いしばる。
『ん~、ちっちゃくて可愛いですねぇ! しかしこのミアちゃん、それだけではありません。中々に強力な魂心力を宿した、詠術師としての将来も期待できるお嬢さんです。さて、可能性は無限大。この子をどうするかはアナタ次第! では……百万エスクからスタートです!』
堰を切ったように、会場が熱狂した。
すぐに百二十万、百四十万と値段がつり上がっていく。
しかしディノの話によれば、『専売』という禁じ手により、ミアを購入する人間はすでにほぼ決まっているとのことだった。
確か、名前はレドラック。この世界では有名なマフィアのボスで、ミアを高額で競り落としたように『見せかける』ことにより、己の力や財力を誇示しようとしている男なのだと聞いている。
『専売』とは、売りに出した奴隷組織と買い手との間であらかじめ密約を交わしておき、実際には提示した金額の半額で取引を成立させてしまう行為をいうらしい。
例えばレドラックがミアを二百万で落札した場合、一旦は二百万がきちんと『サーキュラー』へ支払われるが、後日『サーキュラー』が半額の百万をレドラックへ払い戻すのだ。
本来は、『仕入れ』の元手がかかっていない場合などに、互いの『信頼関係』を深めるべく行われる挨拶のような行為なのだという。
しかし、レドラックはこの『専売』を頻繁に繰り返しているらしい。
元手に見合わない高価な商品に対しても『専売』を持ちかけてくることがあり、『サーキュラー』としても取り合いたくない場合が少なからずあるとのことだった。
ちなみに競売を取り仕切っている組織は中立であるため、レドラックを超える金額を提示すれば落札することも可能だが、もちろんそれは容易ではない。
つまり――熱狂しているように見えて、今この場で行われているのはただの茶番だ。
くだらない。さっさと終わらせてよ……。
ミアがそんなことを思っている間にも、やがて徐々に競り合う声が少なくなっていき――
『二百九十万!』
通信の神詠術に乗せた、野太い声が響いた。
『二百九十! 二百九十万まできました! さっすがは常連にしてベテランのレドラック殿! 熟考することなく、余裕綽々で値段をつり上げていきますねぇー!』
『おい司会、堂々と儂の名を呼ぶんじゃない。この秘匿された社交場でよぉ?』
『でしたらレドラック殿、せめて素顔を隠すなりしてくださいませ!』
そのやり取りに、どっと会場が沸く。
レドラック。自分を競り落とす男の名前だ。
ミアも名前をディノから聞いただけで、詳しく知らされてはいない。
反射的に、少女は二百九十万を提示した男のほうを見る。
「……ひっ……!」
思わず声が漏れた。
醜い。あまりにも醜く肥え太った小男が、そこにいた。
司会が言った通り、仮面や黒メガネの類で顔を隠していない。それはそうだ。この場での自己顕示が目的なら、素性を隠すはずがない。
絶滅しかけている頭髪に未練があるのか、無理矢理に撫でつけて整えたオールバックの黒髪。小さな目と大きな鼻、厚い唇といった各部位はそれぞれ全く均整がとれていない。だらしなく肥大した顔と首はもはや区別がつかず、身体に直接首が乗っているかのようなバランスの悪さを感じさせた。薄暗い会場のせいで殊更、その容貌は醜悪に見える。
冥府の闇から這い出てきた怨魔のようにすらミアの目には映った。
(いやだ……、やだ、あんな人に……絶対いやだ……!)
少女が絶望に震える間にも、疎らになった声が値段を上げていく。
『三百五十万』
大台に、会場が沸いた。拍手が巻き起こる。
いつしか競売は、完全に一騎打ちとなっていた。
ステージ上のミアから見て右隅前列の席に座ったレドラックと、対極の左側……奥の席に座った男。仮面ではなく黒いメガネをかけた、黒髪の若い男のようだった。
二人は競い、値段を上げていく。
それに伴い会場の客たちも熱を増していくが、レドラックが落札すると決まっている以上、この競り合いもミアの目には空々しく見えた。
確かに、これだけ派手に競り合って落としたように見せかければ、売名としては申し分ないはずだ。
『三百八十万』
黒メガネをかけた若い男の声が反響する。
そこでミアは反射的にレドラックのほうへと顔を向け――異変に、気付いた。
レドラックは忌々しそうな表情を浮かべ、その醜悪な顔をさらに醜く歪めている。
(……?)
一瞬、それも演出かと思った。
いや、違う。
競り落として自分の力を誇示したいのなら、そんな顔はしないだろう。
『く……三百九十!』
顔を歪めたレドラックが、咆えるように値段を提示する。
おざなりに巻き起こる拍手。客たちはそのまま、競り合っている若い男のほうへと顔を向ける。大台を期待しているのだ。
ミアも自然と、黒メガネの若い男へ顔を向ける。
――そこで。
男は、何を思ったのかメガネを外した。
「――――――、っあ……」
ミアは思わず、両手で口元を押さえる。
なんで。どうして。
「――……っ」
言葉が、出ない。
通信に乗った声が――黒服の若い男が――有海流護が、高らかに告げた。
『四百万』
会場に拍手と歓声の渦が巻き起こる。
『つ、ついに四百万ーッ! た、確かにミアちゃんは可愛らしいが、平民の田舎娘にこの値段はどうかしてんぞぉおい!? 当のミアちゃんも、信じられないものを見るように目を見開いてるぞぉー! いや何メガネ外してカッコつけてんだ小僧!』
司会が興奮気味にまくし立てる。
しかしそんなものは、もうミアの耳に入らなかった。
「……りっ……、」
言葉が出ない。
来た。来てくれた。
そう。この人身売買に、この競売に、違法性はない。
無理矢理にミアを連れ戻そうとすれば、流護のほうが罪に問われかねない。ひいては、裏社会そのものや、国をも敵に回してしまいかねない。
――だから、そこにいる。
黒の礼服に身を包んだ流護が、客として、そこにいる。
堂々と競売に参加し、ミアを競り落とすという方法をとるために。
百万単位で金が動く闇の世界。本来なら、流護が参加などできるはずはない。
だが。流護には、ファーヴナールと暗殺者の件で得た、五百万エスクという大金があるのだ。
ミアの視線に気付いた流護が、さりげなく親指を立てた。
「……、……ぁう」
我慢できずに、ミアの頬を涙が伝った。
『四百二十!』
そんな二人の間を断ち切るように、レドラックが声を荒げる。
『四百五十』
迷いなく即断する流護に、会場が熱狂する。
だめ。だめだよ、リューゴくん。
嬉しいけど、そんな……そんな大金を、あたしなんかのために……何年も、遊んで暮らせるようなお金だよ? それ、を……
しゃくりあげるミアをよそに、応酬は続き――
『五百』
ついに、一瞬の迷いすら見せず。
流護は、自らの全財産を投下した。
――まるで地鳴り。
白熱や熱狂の域を越え、集まった客たちの踏み鳴らす靴音と大歓声が、地鳴りとなって会場に轟いた。
『ごっ……五百万乗ったあぁーッ! 何が!? 何が彼をそうさせるんだぁ!? そんなにミアちゃんがタイプなのかぁ? 今宵、とんでもねぇクレイジーボーイが降臨したアアーッ!』
興奮のあまり、司会の口調が変わってしまっている。客席へと目を向ければ、レドラックは腐り落ちた果実のように苦悶に満ちた表情を見せていた。
なまじ高額で競り合うことにより、常連として財力を見せつけたいレドラックよりも、躊躇せず金を投下する流護のほうが目立ってしまっている。
ミアはもう、涙を拭うことも忘れ、ただ立ち尽くすのみだった。
「……ひっ……、ぁぅ……」
声も出ない。ついに流護は、全財産を注ぎ込んでしまった。
自分なんかのために。
もう。嬉しくて、死んでしまう。
――そこへ。
そんなミアを引きずり込むようなおぞましい声が、響き渡る。
『五百五十だ!』
ミアは弾かれたようにレドラックへ視線を向ける。
無理矢理な笑みを浮かべた醜悪な男が、狂気すら感じさせる表情で、ミアを睨んでいた。
再度、熱狂する会場。
「ひっ……」
ミアは助けを求めるように、流護を見る。
しかし、分かっていた。
もう、ない。
流護は、すでに全財産である五百万エスクを注ぎ込んでしまった。これ以上、値段を上げることができない。
その証拠に、これまで躊躇なく値段を提示していた流護が、初めて間を開けた。
流護は五百万もの大金を提示したというのに、レドラックの五百五十……実質は二百七十五万に、負けてしまう。
(……リューゴ、くんっ……)
『これが常連の底力あぁー! 五百五十万! これで決着かぁ~!?』
流護は深々と溜息を吐く。
なんなんだあのオヤジは。そんなにミアが欲しいのかロリコン野郎。
『どうだ? どうだ!? クレイジーボーイ、まだ戦えるのかぁ!?』
なんなんだこの司会は。キャラ変わってんぞ。つーか誰がクレイジーボーイだ。
『あの。ちょっと質問、いいすか』
通信に乗せた流護の声が会場に木霊する。
『何だぁ!? この局面で質問だとぉ、この盛り上げ上手が! 言ってみな、クレイジーボォーイ!』
くるっとターンを決めた司会が、流護をビシッと指差した。
『えーと。こういうのって、やっぱ少しずつ値段上げた方がいいんすか?』
『ま、セオリーはそうですねぇ。けどまぁ、盛り上がればよし、ちゃんと金払ってくれればそれでよし! そんなスタンスですねぇ、ウチは。それで何だ、どうするつもりだぁ!?』
『なるほど。おけ、了解した』
『そんなこと訊いたからには、まだ続けるつもりなんだろボーイ! さあいくらだ!? もう驚かねえぞ俺は! さぁ来いッ!』
煽る司会、静まり返る会場。
流護は『隣に確認を取り』、幾度目かの溜息を吐く。それは、安堵の溜息。
そして、告げた。
『じゃ、千』
音が、消えた。
『え?』
司会が、進行役としてあるまじき素の声で聞き返した。
流護はもう一度、聞き間違えのないように、どこか丁寧なほどに。
ミアを救うための、魔法の言葉を口にする。
『一千万』
――ミアはそこから先を、よく覚えていない。まるで、夢みたいで。
ありえない金額を当然のように提示して自分を落札した黒服姿の流護が、ステージの前まで降りてくる。
「……よ、ミア。最初誰かと思ったぞ、そのドレス。まー何か久しぶりな気がするな。さ、帰ろうぜ」
何事もなかったみたいに、少し目を逸らして手を差し伸べてくる少年。
「……ひっく……、リューゴ、くん……お金、どうするの……そんな、一千万、なんて……」
「ん? いや……俺の金は、確かに五百万が限界だけどさ」
すっ……と、流護の隣に黒い影が並ぶ。
闇色のドレスを纏い、長い髪を結い上げ、黒いメガネをかけてはいるが、ミアは絶対にその姿を見間違えたりはしない。
「あ、あぁぁ……ベルぢゃんん……きて、ぐれでたの……」
「……ふふ。ミア、なんて顔してるのよ」
「だって……だっで……」
「ちなみにリューゴの隣に座ってたわよ。ほら、リューゴが競売参加するにしても、通信の神詠術使えないでしょ? だから私が隣で増幅してたの」
ベルグレッテがハンカチを取り出し、ミアの涙を拭う。
「こないだの、王様の謁見のときな。俺が余計なこと言ったら、ベル子にも褒奨金が出たんだよな。俺と同額。三百五十万」
「そうなのよ。まったく、リューゴったら……」
だからといって、いくらベルグレッテであっても、五百万エスクもの大金をポンと出せるはずがない。残りの百五十万エスクは自腹となってしまうのだ。
――馬鹿だった。
ほんの少しでも、流護が。ベルグレッテが。自分のことなど諦めてしまったのではないかと、疑ってしまった。
諦めるどころではない。財産を投げ打って、助けにきてくれた。
「ぅう……、ぅううっ……」
棒立ちになってしゃくりあげるミアを、ベルグレッテが抱きしめた。
そんな少女騎士の瞳からも、涙が零れ出す。
「おかえり……おかえりっ、ミア」