527. 前へ
それは、何の不思議もない遭遇だった。
氷輝宮殿は二階西側、図書室付近の廊下にて。
青絨毯が長く敷き詰められた、薄暗い直線の石廊。窓のひとつもなく等間隔の燭台だけでぼんやりと照らされるその場所に、向かい合う形で立ち止まった令嬢が二人。
一人の名を、レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。
一人の名を、アンドロワーぜ・レ・オーランダル。
かつては同じバダルノイスの宮廷詠術士として、肩を並べ職務に励んだ時期もあった間柄。
そして今は、悪意をぶつけられた者とぶつけた者。
いかに広大な宮殿といえど、同じ屋根の下である。滞在していれば、こうして思いがけず顔を合わせることがあっても何ら不思議はなかった。
「………………」
レノーレとしてはおよそ二年ぶりに対面したが、当時と比べて彼女の容姿や佇まいに変わった印象はない。
白を基調とした宮廷詠術士の正装姿、いかにも気の強そうな双眸、小顔の両脇に整えられた金髪の縦巻き。
……記憶の奥底に沈んでいる、あの頃と同じ。
「……な、によ。私に、何か言いたいことがおあり?」
しばし硬直していたアンドロワーぜが、押し殺したように声を発した。
「…………何もない」
レノーレがただ静かに短く告げると、アンドロワーぜは大きく息を吸い込んで、
「嘘おっしゃい! いい気味だと思っているんでしょう!? あの遊撃兵とやらに、私たちがやり込められて! さぞ胸がすいたでしょうね!」
そんな叫びの余韻が収まるのを待って。
「…………自分でも、もっと気が晴れると思っていた。……でも、そんなことはなかった」
「な、何よそれ。自分の心が大らかだとでも言いたいの?」
「……違う。……自分でも驚くほど、何とも思わなかった」
「……は?」
「……そこで気がついた」
「……私は……あなたのことなど、どうでもよくなっていたんだと」
静寂。耳が痛くなるほどの。
震える声で、アンドロワーぜが無言の間を打ち破る。
「……な、ん、ですって……? も……う一度、もう一度、言ってごらんなさいよ……!」
「……何回も聞きたい?」
言葉は返ってこなかった。ぐっと口元を引き締めたアンドロワーぜが、早足でツカツカと近づいてくる。
そのまま大きく右手を振り上げ、平手打ち。
しかし飛んできた手のひらを、レノーレは半身に翻ってサッと躱した。空振って伸びたアンドロワーぜの右腕を掴み、さらに足下を素早く蹴り払う。
がた、どすんと。思いの外、派手な音が石壁に反響した。
「あぐっ、い、痛い!」
受け身も取れず床に尻を打ちつけ、さらには腕の関節を捻り上げられて、宮廷詠術士の長は苦悶に喘いだ。
「こ、の! は、離しなさいよ……! ……っ、あなたさえ……っ、あなたさえいなければ!」
「……私も聖人じゃない。……あなたに対し、同じように思ったことがある。……何度も」
彼女のか細い腕……その関節の逆方向に力を込めながら呟くと、「ひっ」とかすかに息をのむ声が聞こえてきた。
「……けど、今はどうでもいい。……いつまでもそんなことに囚われていたら、今回の過ちを犯した派閥の人たちと同じ。……くだらないことで壁を作ったり、いがみ合ったりしている暇なんてない」
掴んでいた腕をそっと離す。
「……私は、これからのメルを……バダルノイスを支えるために、もっと成長する必要がある。……そして、それはあなたも同じのはず。……私なんかに構っている時間があるなら、宮廷詠術士団の長としてこの国を支えていかなければならないはず」
見下ろすレノーレと、見上げるアンドロワーぜ。斜めに結ばれた視線が交錯したのも束の間。
「……私は、あなたと同じ場所で足踏みをするつもりはない。……先に進む」
もう振り返りもしない。
レノーレはただ前を向いて、その言葉通りに足を踏み出した。
へたり込んだままのアンドロワーぜには、目もくれずに。
廊下の角を曲がるなり……アンドロワーゼの視線が届かなくなるなり、レノーレは全力で駆け出した。
振り返らず、周囲の目も顧みず全速力で廊下を駆け抜け、やがて見えてきた自室へと飛び込む。
扉を閉めて、重石をするように背中を預ける。
「…………ふぅっ、はっ、はぁっ」
息を整え、天井を仰ぐ。
(……あなたのことなんて、どうでも……、あなただって、同じはず……)
言い放った言葉を、改めて胸の奥で反芻して。
そうなのだ。同じ宮殿内にいる以上、出遭う可能性は当たり前のようにあった。
だからこそ、ずっと考えていた。
もし彼女と鉢合わせることがあったならば、言ってやろうと。
「…………、」
心臓が痛いぐらい脈打っている。それは決して、急激に走ったことだけが原因ではない。
聞こえよく言えば無垢、悪し様に言うなれば世間知らず。そんな幼き日のレノーレに対し、明確な悪感情をぶつけてきたアンドロワーゼという人物。
一度刻みつけられた苦手意識というものは、容易には消えないのだ。
いざ本当にバッタリと遭遇し、頭が真っ白になりかけた。
けれど、平静を装って口にした。
もし対面することがあれば、言ってやろうと思っていたことを。
今の己の、意思表示を。
「……、……ふぅっ」
さあ、これで終わりだ。最後の心残りも消えた。消えたと考えて、気持ちを切り替えよう。
これから忙しくなる。
ミディール学院へ戻ったらまず、心配をかけた仲間たちに謝らなければ。
そしてあの学び舎で、メルティナの従者として相応しい能力を身につける。
もうあの学院は、現実から目を背けて逃げ込む場所ではなくなった。確かな、自分の居場所となった。そうだと思わせてくれる親友たちによって。
さて学業に励む一方で、記憶を失った母のことも支えていかなければならない。
やるべきことは山積みだ。
「……よし!」
いつまでも過去を引きずってなどいられない。
前へ。
レノーレ・シュネ・グロースヴィッツは、あの過去を踏み越えたうえで前へと進む。
「…………っ」
アンドロワーゼは、未だ青絨毯の上で尻をついたまま立ち上がれずにいた。
ケガはない。軽く押さえつけられただけ。本気でやり返そうと思えば、あの至近距離からレノーレに対し攻撃術を放つことだってできた。
だが。
(……、……あ、の……冷たい目……)
やっていれば、やり返されただろう。その結果、どうなるか――
アンドロワーゼは無意識に自らの肩を抱く。
かつて彼女が宮廷詠術士として任ぜられ、その実力のほどを目の当たりにしたとき。
あの瞬間、悟ったのだ。
二年もすれば、追い抜かれてしまうと。
まさに今現在、あれから二年の月日が経過している。
「……、…………っ、」
そして、そんなかつての自分の予測を裏付けるように。
『レノーレに比べたら全然大したことないのな。身構えて損した』
忌まわしい小僧の言葉が脳裏に甦る。
今しがたの交錯、二年ぶりに対面したレノーレの冷たい視線が甦る。
(ど、いつも……)
絨毯の毛先を掻き、むしるように握り込んで。
(どいつもこいつも、レノーレ、レノーレって……! 私は、このバダルノイスの栄えある宮廷詠術士長なのよ!? それなのに……! っ!?)
ふと視界の隅に気配を感じたアンドロワーゼは、弾けるように慌てて顎を浮かせた。
すると、横際の壁にもたれる人の姿。
無造作に伸ばした、整える気のない長髪。口元に薄笑みを浮かべる、白の軽装鎧を纏う長躯の男。
「ミ、ミガシンティーア卿……!?」
驚きとともにその名を呼ぶと、白騎士はやはり変わらぬ喜の表情で「クク」と肩を揺らした。
反射的にアンドロワーゼは言い募る。
「いっ、いつからそこに!? い、いかにミガシンティーア卿といえど、立ち聞きはいかがなものかと思いますが!」
「クク。これは異なことを宣う、アンドロワーゼ嬢。ここは万人が通ることを許された往来だよ。そのど真ん中で女性二人が取っ組み合いをしていれば、否が応にも目に留まるさ。フフ、クククク」
「……!」
最初から最後まで見られていた。
そう気付き、アンドロワーゼの裡にカッと恥ずかしさがこみ上げてくる。
返す言葉に窮していると、レノーレの消えていった廊下の先を眺めた彼が、ぽつりと呟いた。
「……妬み……という情は、厄介なものだ。不快にも、喜を阻害してくる」
「…………卿、それは……」
噂として聞いてはいた。奇なる一族、マーティボルグ家において史上最強と謳われるミガシンティーア。そして、史上最高の逸材と称されるグリフィニア。同じ時代に生まれた両者の関係性。
それは、此度の騒乱において双方の激突という形で示された。一般兵では到底近づくこともままならない争いの果て、スヴォールンが割って入ることでようやく収まったと。
「だが、その厄介な感情は……捉えようによっては、己が原動力ともなり得る。奴には負けたくない。ゆえに、研鑽しよう……ともね」
「…………それは……あなた自身が?」
その問いかけには答えず、奇なる喜の騎士はこちらへ背を向ける。
「しかして面白いものでね。奴は此度、私と干戈を交えつつも別の誰かを幻視していたようだ。しきりに、炎がどうの……などと零して呆けておったのでね。フ、おかしなものだよ。目障りだ、消えてしまえばいい……そう感じていたにもかかわらず、その相手がこちらを見ていないと思うとそれはそれで腹立たしさが募ってくる。故に厄介なのだ、妬みという情は」
アンドロワーゼは心を打たれたようにハッとする。
『……私は……あなたのことなど、どうでもよくなっていたんだと』
つい先ほどのあの女の言葉を思い出して。
「実に奇なる情よ、嫉妬というものは。興味深くすらある。クク、ところでレノーレ嬢は言っていたね。『私は先に進む』と。もしかすると、彼女自身も意識していなかったのかもしれないが……裏を返せば、『後を追ってこい」と。そう思っていたのかもしれないね? フフフフ」
「……、…………」
「ただの嫉妬で終わらせるか……それとも、飛躍の糧とするか。追いつき、追い越せるか。全ては、君次第ではないのかな。フフフ。さて、無駄話が過ぎたか。本日もまた我らがバダルノイスのために身を粉にして励まねばな。壊した柱の修繕について話を進めねば、我らが隊長殿がうるさいのだ。『楽しく』はないが……そうしたことも、やらなければね。これからは、フフフフフ」
そうとだけ言い残し、異質な白騎士もその場を去っていく。来た道を引き返して。
「………………」
アンドロワーゼ・レ・オーランダルは、レノーレ・シュネ・グロースヴィッツを嫌っている。その情は、間違いなく嫉妬からなるものだ。
しかし、その事実を認めたくなくて、目を逸らしたくて。ゆえに、芽を摘む形で排除を画策した。
しかし彼女は別の道を見つけ、こちらになど目もくれず前だけを目指している。
そう思うと、それはそれで怒りがこみあげてくる……。
そんなあいつに、どうすれば思い知らせることができるのか。
『追いつき、追い越せるか。全ては、君次第ではないのかな』
そうだ。
前へ。
彼女の進む先に堂々立ちはだかってやれば、否が応でも目につくはず。悔しがらせることができるはず。
詠術士として、自分のほうが劣っていることなど分かっている。だからこそ妬んでいるのだ。しかし、この道は千差万別にして多種多様。一芸に秀でれば、『ペンタ』に比する希少性をも獲得できる。
それをもってバダルノイスの再建に貢献できれば、誰もが一目置くことだろう。
もちろん、容易な道ではない。そう期してなれるのなら苦労はしない。あるいは、結果を残すことなどできないのかもしれない。それでも、腐るのはやることを全部やってからでいいのではないか。
そうだ、考えてみれば何もかも腹が立ってきた。
レノーレには目もくれられず、周囲の貴族たちは「レノーレがいれば」と仮定の話ばかりして、奇人たるミガシンティーアにまで気を遣われ、異国のチビに軽くあしらわれて、メーシュヴィツ家の御大にはどやされて。
(……、……見てな、さい……! やってやる! やってやるわ!)
――誰も彼も、見返してやる。
性根が曲がっていることなど自覚している貴族の女は、確かな照準を定めた。
動機こそ陳腐かもしれない。
しかし、進むべき方向は間違いなく『同じ』。
今はただまっすぐ、前へ。




