526. 遠き春を
窓の向こうには、青一色の水平が広がっている。
最西端の高地に立つこの砦から見渡せるその絶景は、いつ目にしても心を揺さぶられるものがあった。
……そんな感動を台無しにする甲高い声が、背後から響いてくる。
「なっ!? 何故! 何故なのです、スヴォールン様!?」
「何故もない。私は、その器ではない」
静かに振り返りつつ。見苦しいほどに狼狽する部下――ゲビを前に、長たるスヴォールンは隠しもせず溜息をついた。
「い、え……こればかりは言わせていただきます! 今のバダルノイスを負って立つのは、貴方以外にはおりませぬ……!」
「ゲビよ。何度も言わせるな。私は主導者の座に就くつもりはない。その資格もありはしない」
「貴方以外、誰にその大役が務まりましょうぞ……!」
「この私が、主導者に相応しいと?」
「仰せの通りでございます!」
「貴様自身、言っていて気付かぬか? その思想こそ、過ちを犯した僧兵共と同じだと。主を妄信し、首を縦に振り続けるだけの傀儡だ。その様では、同じ轍を踏むことになろう。少し頭を冷やせ」
「……、……っ、し、しかし」
「二度は言わぬぞ」
被せる形で断ずると、ゲビは肩を落とし「失礼致します」と部屋を退出していった。
何度目となるか分からない溜息をついたスヴォールンも、壮観な海の景色が望める窓を閉めて階下へと向かうことにした。
思えば、オームゾルフは類稀なほど聡慧なる人物だった。
その力が悪しき形で発揮されたのが此度の事件。
無実のレノーレにもっともらしい罪を着せたことは元より、それによって皆がどう動くかも正しく予測していた。
事実、スヴォールンは彼女が企図した通りの行動に打って出た。
腹違いの妹とて――否、だからこそ、毅然と対応しなければならない。身内だからと、公平性を欠くことなど許されない。
ゆえに率先して、レノーレの捕縛に当たった。
そうした性質を読まれていた。
「…………」
だが今、スヴォールンにオームゾルフを恨む気持ちは更々なかった。
気付かなかったほうが――利用された己が間抜けだっただけの話だ。
事後処理のためオームゾルフの私室を改めた折、数々の資料が発見された。
それらには、彼女が独自に調べ上げたと思われるバダルノイスの様々な内情が書き記されていた。
地方ごとの特産品の売り上げ推移、降雪量と交通量の相関関係、移民の人口割合や離職率の統計……。
生真面目だった彼女らしい、理路整然とした記録の数々。
それに目を通せば、嫌でも理解できた。
この国が、どれほどの苦境に立たされているかが。
そして、明らかな滅びの道を歩んでいることが。
「ここまで聞こえておりましたぞ。ゲビ殿は相変わらずですな」
対面に座ったベンディスム将軍が鼻を鳴らす。
場所は砦の一階。先の一室の真下に当たる。
その片隅にある古びた狭い部屋で、スヴォールンは机越しに歴戦の古兵と向かい合っていた。
「盲信者ほど厄介な存在はおらん。己の正しさを信ずるがゆえ、恥じもせず堂々と突き進む。誤りを認めることも、物事を客観的に捉えることもできん」
スヴォールンが言い捨てると、
「おっと、耳が痛い次第で」
此度の一件でオームゾルフに賛同し付き従った将軍は、わざとらしく耳を押さえる仕草で応じた。
「耳が痛い、と思えるならばまだましよ。その痛覚すら麻痺した者を狂信者と呼ぶのだ」
億劫さを隠さず言って、スヴォールンは将軍の前に編んだ紙束を放る。
「……これは?」
「研修内容を纏めたものだ。目を通しておけ」
「研修、でございますか。本気で、我らを処断するつもりはないと」
「できると思うか? 我が国に後がないと判じて此度の件に与した将軍ならば、その状況は人並み以上に理解できているはずだが。むしろ、それを承知のうえで加担したとまで疑うほどだ。失敗した折の身の振り方としてな。何せ貴殿は、智謀に富んだ歴戦の兵よ」
「買い被りなさる。私はそこまで利口な頭なぞ持っちゃおりませんよ。……本当に聡明な……全てを覆せるはずの智慧を持っていたお人は、残念ながら氷神の身許へ導かれてしまいましたしな」
「買っていたのだな。彼女を」
「貴方とは折が合わなかったようですが。しかし、民からは高い評価を得ておられた」
「会わなかったのは折ではない。考え方だ。彼女は何事も逸るように施策を展開しようとする節があった。それに対し、時期尚早と唱えただけだ」
「それはそうでしょう。いざ頂点に立ち、見下ろしたその景色……我が国の有様は、もはや目も当てられぬ惨状だったのでしょうから。己が猶予なき断崖に立たされていると知り、今にもその足場が崩れそうになっていたならば、誰だって早急に離脱を図るはずです」
「……私も、結局は狂信者だったのだろうな」
椅子の背もたれに寄りかかったスヴォールンは、無感情に石天井の模様を眺めた。
根底にあったのだ。
まさか、国家の存続が危ぶまれるほどの苦難に見舞われるはずなどないと。自分の対応を変えなければならないほど深刻な事態ではないと。
かつて、『氷精狩り』や内戦といった闇を体験していたにもかかわらず。
むしろあんな試練を乗り越えたからこそ、これからは明るい未来が約束されているはずだと根拠もなく信じて。
そうして、誰にも相談できなかった彼女は――
「民らはそれとなく感じ取っておったはずですぞ。一向に上がらぬ賃金、埋まらぬ移民との溝……生活は日に日に苦しくなるばかり。ゆえに、意見陳情会はそうした不満を直訴できる貴重な場として皆に有難がられていた。貴方は反対なさっていたようですがね」
そうだ。仮にも一国の長が直接人民と接するなど危険だと判じ、スヴォールンは反対した。
どうしてもとの強い要請を受け、己を含めた護衛つきならばと承服した。その結果……。
「天下のスヴォールン殿の前で、言いたいことなぞ言えようはずもない。一人としておらんかったでしょう? 不平不満を申し立てる者は」
見なくとも分かるとばかり、将軍は首を横へ振る。
思い返せば、皆が同じ表情を浮かべていた。
緊張した面持ち、露骨な苦笑い。
何か言いたいことが腹にあるのは明らかだった。しかし、追及はしなかった。
陳情会に乗り気でなかったゆえ。隠しもしなかったその態度が、民を萎縮させていたことは間違いない。
「私の前では、民らは包み隠さず本音を語ってくれましたよ。幾人もの話を聞くうち、このままではいかんと思うようになった」
そうして現状を思い知らされた老将軍は、この件への加担を決めた。
「……そうだな。私も身に染みて理解したよ。我が国は、確実に滅びの道を歩んでいる」
認めねばならない。
ゲビなどは未だに「そんな馬鹿げたことはありえない」と喚いているが、狂信も大概にすべきだろう。人のことを言えた義理ではないのだろうが、今は過ちを認めて方向転換をしなければならない。
「ゆえに、貴殿らの力添えが必要だ。一日も早く、兵として復帰してもらわねばならぬ」
「ふ、まさかあの厳格なスヴォールン殿からそのようなお言葉をいただくことになろうとは。……ですが、我らとて我らなりの大義があった。断る、と申したらどうされるおつもりですかな」
「ないな」
スヴォールンは短く断じた。
ベンディスムがやや瞳を丸くする。
「兵として戻らぬということは、このままでは潰えると分かっているバダルノイスを見捨てるということだ。国を憂えて行動を起こした貴殿らが、その行いを是とすることはない」
弱々しく首を振った将軍は、
「分かりませんぞ。もはやいっそ、滅んだ方がマシと考えているやもしれません」
かつてのスヴォールンであれば、絶対に看過できなかった発言だろう。だが今は、笑って応じることができた。
「バダルノイスが滅べば、我らも命運を共にすることになるだろう。だが自死を禁ずるキュアレネーの教えがゆえ、死ぬと分かっていて現況を見過ごすことはできんはずだ」
「おっと」
一本取られたな、と言いたそうに将軍は首を竦めた。
「……思えば、我らが氷神は残酷よな。死んだほうがまし……といった苦境であっても、死ぬことを許してはくださらんのだ」
「全くで。過ちを背負ったまま、その重さに押し潰されそうになっても……生きていけと仰る。『逃げる』ことを許してくださらぬ」
神妙な顔で、ベンディスム将軍は資料を手に取った。
「私から皆に通達いたします。若い連中なぞは、未だ燻っておるようですが……私から言い聞かせましょうぞ。少しお時間をいただけますかな」
「感謝する」
頭を下げると、将軍が幽霊でも見るような顔となった。
鼻で笑ったスヴォールンが先んじる。
「あのスヴォールンが頭を下げた、か?」
「……いえ、失礼ながら……ええ、その通りで」
「態度に出さなかっただけだ。先頭に立つ者として、常に毅然と構え、緊張感を保っていなければと考えていた」
それは民を萎縮させ、異母妹に恐れられ、指導者に心からの信頼を寄せられぬ要因ともなっていた。
石壁の上部に据えつけられた採光用の窓へと、細めた目を向けて。
「じき、春が来るな。だが今や、バダルノイスの春は待っていても訪れん」
そこから差し込む明るさは少しだけ暖かかったが、
「己らの手で迎えねばな。そのためには、私も変わろう。貴殿らの協力に期待する」
ふむ、眼前の老将軍が目を丸くした。
「そのお顔でよろしいと思いますぞ」
「そうか。己がどんな顔をしているかは分からんが」
「なれば是非、姿見の前でご確認されるとよろしかろう」
「ああ、そうしよう」
幾年も続く、長き冬を終わらせるために。
冷徹なる白騎士と呼ばれた男は、笑みを自覚した。
春が訪れ、溶けていく氷のように。