525. 敢為邁往
――それは、少しだけ未来の話。
永凍の巡鎖と呼ばれる騒乱が終結して、それなりの時間が経過したある日のこと。
「では、午後の巡回に出ます」
「おう……」
「? どうかしましたか、ヒョドロ兵長」
「いや。何だかお前……最近、少しばかり顔付きが引き締まってきたなと思ってよ」
「はは、どうしたんです兵長。僕をおだてたって、何も出ませんよ」
「分かってらぁ、馬鹿。とっとと行ってきな」
「はい」
幾分か寒さも和らいだ冬の終わり。
ヘフネル・アグストンはいつものように、午後の見回りのため兵舎を後にした。
(……今日も晴れか。これから、少しずつ暖かくなっていくはずだ)
青空を見上げながら、正規兵の若者はいつもの巡回を始める。
「…………」
そうだ。こうしていつも通りの仕事がまともにできるように戻るまで、結構な時間を要した。
――エマーヌ・ルベ・オームゾルフが死亡した。
齎されたその一報によって、彼女に淡い想いを抱いていた青年は確かに心を抉られた。
正直、少しだけ覚悟はしていた。これだけの騒ぎ、彼女の身も無事に済むかは分からないと。
しかしそれでも……実際にその事実を告げられ、大いに揺らいだ。
ベルグレッテは自分を責めていたようだったが、もちろん彼女の責任ではない。
その道を選んだのはオームゾルフ自身。メルティナが口にしたその言葉に、ヘフネルも最近ようやく同意できるようになったところだった。
かの聖女は、バダルノイスを思い悪に徹した。聡明な人だ。幸福な結末が自らに訪れぬことなど、百も承知だったろう。それが、あのような形で現実となっただけの話……。
「ん?」
すぐ先の路地に続く角から、何やら喧噪が聞こえてきた。
「なんだよ、このやろう!」
「うるせえ、やるならやってやるぞ!」
物騒な応酬はしかし、声からして子供のものだ。何か揉め事だろうか。
顔を覗かせると、狭く薄暗い道に六人もの子供たちが集まっていた。が、三人と三人に分かれ、睨み合っている。今にも三対三のケンカに発展しそうな空気だった。
「ちょっと君たち、何してるんだ」
本格的に始まってしまう前に、ヘフネルは法を守る者として割って入る。
「お!」
「あっ……」
六人の視線が同時に集まり、両陣営がそれぞれ対照的な反応を示した。
肌の白い三人は、どこか嬉しそうに。対峙する他の三人は、逆に気勢を削がれたように。
(なるほどね、そういうことか)
ヘフネルもすぐに察する。
前者は、バダルノイスの子供たち。やってきた自国の兵士を見て、加勢だと認識した。
そして後者は、レインディールの子供たち。バダルノイスの兵士が現れたことで、及び腰になった。
この街には双方の国の兵士が駐留しているが、装備の意匠や形状などが違っているため、一目見ればどちらの兵士なのかは誰でも区別できる。
「きいてくれよ兵士さんよー、レインディールのやつらが、いきなりけんか売ってきやがってよー」
「なっ! そっちが先に……!」
「分かった分かった、とにかくケンカはなしだ。仲よくするんだ」
はいはいと両者を腕で引き離すと、バダルノイス側の子供たちが不満そうに眉を寄せた。
「な、あんたバダルノイスの兵士だろ! どっちの味方なんだよ!」
「どっちってそりゃ、正しい者の味方だよ。僕は兵士だからね。これに関しては、バダルノイスもレインディールもないよ。さ、詳しい話を聞かせてもらおうか」
「くっ……な、なんだよ! もういいよ! 行こうぜおまえら!」
急に気まずそうな態度となった自国の少年らは、そそくさと逃げるように走り去っていった。
(やれやれ。自分たちが悪い側です、って言ってるようなものじゃないか)
溜息交じりに彼らの後ろ姿を見送り、レインディールの子らに向き直る。
「さ、気をつけて行きなよ」
「…………あ、ありがとう」
バダルノイスの兵士に助けられるとは思わなかった。そんな心の声をありありと顔に出しながら、戸惑ったように彼らもまた去っていく。
(……ったく。子供たちまで『これ』なんだから)
昔から変わらない。
人はなぜ、こうも相容れず対立しようとするのか。
バダルノイスとレインディール。オームゾルフ派と『雪嵐白騎士隊』派。先住民と移民。
(……だめなんだ。このままじゃ)
今日現在、バダルノイスの新たな主導者は決まっていない。しばらく、王不在の状態が続いている。
なりたがる者がいないのだ。
つまり、お上は知っている。誰かの力で真っ当に今のこの国を引っ張って立て直していくのは、ほぼ不可能に近しいことなのだと。オームゾルフがかような手段に訴えて出たことからも、それは明らかだろう。
もはや、誇りなど一エスクの得にもならない。くだらないしがらみや対抗心など、今すぐ捨てるべきだ。
これからは、皆で一丸となって国難に立ち向かっていかなければならないはずだ。
個人で無理なら、皆で。
巡回を続け、大通りへ。
ちょうど昼飯時なこともあって、舗道沿いの露店は盛況だ。
ここレグヌ七番通りはちょうどバダルノイスとレインディール双方の居住区の境目付近に位置しており、それぞれの客が来訪する。兵舎が近くにあるためか、さほど揉め事は多くない印象だ。
それでも昔は、例えばバダルノイスの店主が自国民にだけ安く提供し、レインディール人の客には吹っ掛けるといった露骨な商売をしていた時代もあったという。そして逆もまた然り。
だが今は、
「おう。レイディールのさ、例の野菜。まだ入んねぇのかい?」
「ああ……もう少し掛かりそうなんだ。そっちはどう? バダルノイスの毛皮は、やっぱり暖かいんだよね」
両国それぞれの店主たちが、そんなやり取りを交わしている。現在ではこうして、互いにないものを求めて協力的に商いをする者も多い。
それはそうだ。くだらない意地を張るより、そうして何の制限もなく行動したほうが上手くいくに決まっている。
(……そうか。考えてみれば、商売人の人たちは自然とそういう風にやっていたんだな)
双方の国とは関係ない地域からやってきて根づいた者もいる。そのうえで最初から住んでいたかのように上手くやっていることも珍しくない。
兵士が自分たちの周囲に壁を作り、窮屈な世界で衰退していく中――市井の人々は、当たり前のようにそうやって逞しく生き抜いていたのだ。皆が見習うべき姿勢ではないだろうか。
もちろん先の子供たちのように衝突する者もいたのだろうが、全員が全員そうではない。
露店を眺めながら足を運んでいくと、誰かと肩がぶつかった。
「きゃっ」
よろけたその相手は、いくつか年下と思われる少女だった。衝撃で、彼女が肩から下げていた買い物袋から白菜が落ちてしまう。
「あっと、すいません……!」
ヘフネルは慌てて謝り、石畳に転がったそれを屈んで拾い上げる。表皮の汚れを払って、彼女へ差し出す。
「あ、ありがとうございます」
少女はぺこりと頭を下げて、野菜を受け取った。……と思いきや、どこかバツが悪そうな視線を向けてくる。
「……どうかなさいましたか? あっ。野菜、傷がついちゃいましたか? すみません、弁償しますよ」
「あっ、いえ」
「遠慮なく言ってください。僕は兵士ですから、誠実に対応しますよ……!」
意気込むと、少女はわずかに視線を下向けた。
「あっ、いえ。大丈夫です。……その、私……純血のバダルノイス人では、ありませんので」
その小さな独白で、たった今しがたのバツが悪そうな視線に納得がいく。
彼女は、『純血』のバダルノイス人ではないと言った。このハルシュヴァルトにいることを考えれば、おそらくレインディール人との混血なのだろう。
どの土地でもそうだが、そうした異国人同士の間に生まれた子は、差別や迫害を受けやすい傾向があった。
だが。
「そんなの気にしないでください。国の違いが何だっていうんです、関係ありませんよ。誰が相手だろうと、僕が野菜を落としてしまったのは事実です。平等に対応しますよ。さっ、買い直しますよ! もちろん、僕がお金を出しますから!」
「えっ、ええ……?」
全ては積み重ねだ。まずはこういうところから、少しずつ積み上げていく。
弱い自分にできることなど限られている。
でも、託されたのだ。
すごい人たちに、これからのバダルノイスを。憧れの人が命を賭してまで……悪事に訴え出てまで守ろうとした、この国の未来を。
そのために、自分にできることはあるだろうか。
平凡な頭で、ヘフネルは必死に考えた。
考えた結果、導き出された答えはやはり平凡なものだった。
皆で力を合わせて、乗り越える。
あの騒乱の日、オームゾルフ派の兵士にもそんな風に啖呵を切った。改めて考えてみても、ヘフネルにはそれぐらいしか思いつかなかった。
だってそうだろう。あの聖女にすら無理だった。なら、『皆』でやるしかないじゃないか。今までよく知らなかった人も。敵対すらしていた人も。
全員が友達になって、皆で力を合わせればいいじゃないか。
関係ない。派閥も、身分も、人種も。
乗り切るのだ。皆で一丸となって。
そのためにヘフネルは、まず一人前の兵士を目指そうと決意した。誰からも気兼ねなく相談してもらえるような、誰かと誰かの架け橋になれるような。
そんな頼れる存在を目標に。
「白菜、どこのお店で買いました? 実は僕、すごくいいお店知ってるんですよ。向こうの通りの小さなお店なんですけど、いいものが安く手に入るんです。ここだけの秘密ですけど、そこの店主に『いつもより髪フサフサですね』って言うんです。そうすると機嫌がよくなって、マケてくれるんですよ……! 実際はハゲてらっしゃいますから、言いづらいかもですが!」
「……ふふっ」
「? 何ですか?」
「いえ。『国の違いが何だっていうんだ』、って」
「?」
少女の言いたいことがいまいちよく分からず、ヘフネルは頭を掻く。すると、彼女は照れ臭そうな笑顔を浮かべた。
「もう何ヶ月も前になるんですけど、同じように言ってくれた人がいたんです。見た目はちょっと怖そうだったんですけど、街で私のことを助けてくれた人で。私の生まれを知っても、『国が違うから何だってんだ』って。今の兵士さんと同じように、言ってくれて」
「そう……なんですか。……うん、いいですね!」
おお、とヘフネルは感銘を受けた。
そういった考えの人がもっと増えていけば、きっと世の意識も変わっていくはず。
それにしても、少女を助けたうえにその発言。さぞ正義感に溢れた、素晴らしい好人物なのだろう。
「で、でも……なぜかあとになって、その人が手配されちゃってたんです。それも、七百エスクで……」
「えぇ……」
盛り上がった気分が一気に降下した。
兵士とはいえ、ヘフネルも手配書を事細かに把握している訳ではない。
金額的に、食い逃げか何かだろうか。せっかく志をともにした仲間が出てきて心強い、と思ったところだったのに残念だ。
しかし、少女は慌てて補足する。
「で、でも本当にいい人だったので、なにかの間違いだとは思うんです。手配書もすぐに見かけなくなりましたし。いえ、確かに見た目は怖いし、悪そうな人だったんですけど。あと、なぜか生ゴミのにおいも……」
「はは。法曹も完璧ではないですから、手違いの手配もありえますからね」
手違いどころか、国は意図的に無実の罪人を作って追い回したばかり。二度とあってはならないことだ。
「分かりますよ。僕も、少し前に変わった人たちとかかわったんですけど……その中に、見た目はバリバリ悪童なのに、実は気のいい青年って人がいましたから――」
露店へ向けて、雑談を交わしながら歩いていく。
一人の兵士として、凡庸なヘフネル・アグストンにできることなど限られている。
多勢を圧倒できるような強さも、全てを見破るような智慧も備えてはいない。
それでも、まっすぐに歩いていくのだ。
堅実に、一歩一歩、確実に。明るい未来を作り出す一人として。




