523. スノウメルト
異邦人たちが去り、雪の街に残されたバダルノイスの主従は、噛み締めるようにゆっくりと帰途につく。
久方ぶりのインベレヌスの恵みが降り注ぐ中、この暖かさを利用して雪を少しでも減らそうとしているのか、スコップ片手に奮闘している住民たちも多い。
「あの騒乱が嘘のようだね」
「……うん」
こんな風に堂々と、平和に街を歩けるのはいつ以来だろう。長らくお尋ね者だったレノーレとしては、そう思わずにいられない。
「さーて、我が国としてはここからが本当の苦難の始まりかな。状況は改善するどころか、ただ悪化しただけだからね」
「……メル。やっぱり、私も……」
「残る? ベルグレッテさんたちが悲しむぞ」
「……でも」
「余計な心配はしなくていい。君は限られた学院生活を謳歌してきたまえ。そして、成長して帰ってくるんだ。その時こそ、私の従者として存分に力を発揮してもらうさ」
「…………うん」
「大丈夫。スヴォールンも今回の一件で思うところがあったようだし、レニン殿もかつての知識を戻そうと励んでおられる。それにほら、メーシュヴィツのご老の話はレンも聞いたでしょ?」
「……あ、うん」
「ふっふ、あれは実に痛快だったね」
それは、流護たちの宮殿襲撃に際したひとつの話。
彼らの手配自体は敵に仕組まれたものであり、当然無実の罪であった。が、それを抜きにして、特に流護は宮殿中の兵士の大半を叩き伏せた。その行為に対し罪を課すべきなのでは? と宮廷詠術士団が主張したのだ。
現在の団を統括しているのは、アンドロワーゼ・レ・オーランダル。由緒正しき貴族の名家オーランダル家の令嬢であり、かつて宮廷詠術士として就任したレノーレに嫌がらせを働いた主犯格でもある。
……ちなみに。バダルノイス擁する由緒正しき宮廷詠術士団だが、『賊』によって文字通り一蹴されたそうだ。
その犯人はこんな言葉を残している。
『いや、うーん……。この国の宮廷詠術士は、もうちょっとちゃんと鍛えた方がいいんじゃないすかね……』と。
歯に衣着せぬ物言いをするほうである彼が、それはもう言いづらそうに。
とそこで、そんなゴタゴタを聞きつけたある人物がいた。
バダルノイスでも昔から絶大な力を持つメーシュヴィツ家、その当主である。
国内における最後の大物、と呼ぶべき人物であった。若かりし頃『荒くれメッシュ』と呼ばれたその老父は、このように主張した。
『え? おんしら、殺す気で向かっておいて負けたら「こいつを捕まえて!」って被害者ヅラして声高に叫ぶんか? 宮廷詠術士ともあろう者が? それ恥ずかしゅうない?』
加えて、
『で、「単騎バダルノイスの本拠に堂々攻め入り、大半の兵力を正面から叩きのめした罪」で彼をしょっ引く訳か。つまり、たった一人にみんな蹴散らされました、なぞと世間に堂々公言する訳じゃな。さて、恥ずかしゅうて表を歩けんくなるのは誰なんじゃろうのう』
誰もが度肝を抜かれた。なぜこのような大物が、接点もないはずの流護を擁護するのか。いざ明かされたその理由は、
『彼はな、ワシの名誉を守うてくれた恩人なのよ。彼のおかげで、ワシはクソに塗れず済んだわ。罪に問おうなど言語道断』
なんと流護は襲撃中、廊下で彷徨っていたこの老人を閑所へ案内したのだという。
何を馬鹿な、と反論しようとしたアンドロワーゼに対し、
『馬鹿はお前じゃ小娘エエェェ! 雁首揃えてたった一人にやられおって、まず己を恥じんかッッ! お主らが誰も死んどらん、という事実が何を意味しとるか分かっとんのか!? 手心を加えられたんじゃい! 圧倒的実力差がなきゃ成せん所業じゃ! 小賢しい頭働かせとる暇あったら、恥じて己を鍛え直さんかアアァアッッ!』
老体のどこからそんな声が発せられるのか、と思うほどの怒号だったそうだ。型破りな老父で知られる彼に逆らえる者などいはしなかった。
そしてメーシュヴィツ老の言う通り、流護に撃破された百五十近くの兵の中に、死者が皆無だったこと。それどころかケガの程度も、到底命にかかわるようなものですらなかったこと。これらが考慮された結果、アンドロワーゼたちの主張は却下される運びとなった。
その逸話は、バダルノイスの中で一種のゴーストロアのようになって密やかに語られていくだろう。
不殺を貫き、単騎にて三桁の兵を沈黙させた無手無術の少年が存在したと。実質、一人で氷輝宮殿を陥落させかけた男がいたと。
「兵士たちもこのままではダメだ、って訓練に身が入ってるみたいだしね。そうそう、あのヴィニトフ兄弟が別人みたいに毎日鍛えてるっていうんだから。彼にやられて、むしろ熱が入ったみたいだよ」
意地悪そうに、白の英雄は笑う。
「おっと。それにしても、急に話は変わるんだけど。ここを通ると思い出すんだよね、いつも」
ふと、移りゆく周囲の景観に目を向けながら。
「学院生時代……どうしても講義に出る気分にならなくて、ふらっと街に出た日があってさ。……いや、割と多かったけどそういう日も。ちょうど今日みたいに晴れた日だったな。適当にブラブラしてたら、ちょうどそこの角で――」
「……赤い髪の女の子にぶつかった。……耳にタコができるほど聞いた」
「ああいや、うん、そうなんだけどさ」
レノーレとしては、幾度となく聞かされた話だ。
それは異国の少女だったという。
短い赤毛を結わえた、高貴な雰囲気の漂う。身なりや立ち振る舞いから、移民でないことは一目で分かった。
当時、年齢は十歳前後に見えたそうだ。となればおそらく、レノーレとは同年代ほどだろう。
彼女は泣き腫らして、その薄赤色の瞳を濡らしていた。
『どうしたの、君』
尋ねれば、少女は遥か南西の大国バルクフォルト帝国からやってきたとのことで、一緒にいた両親とはぐれてしまい途方に暮れていたのだという。
名前を尋ねると、少女はシロミエールと名乗った。
本来であれば兵士に任せるべき案件だが、この国には他国人を快く思わない者も多い。それは法の守護者であっても例外ではない。
そこでメルティナは少女を連れ、一緒に両親を捜して街を歩き回った。
およそ半日かけて、皇都を練り歩いて――
「私も正直、異国の人にあそこまで感謝されるとは思わなかったな」
「……それも聞いた」
ようやく出会えた両親は、それはもう涙を流してメルティナに礼を述べたという。
さらには娘を助けてくれたのがバダルノイスの英雄メルティナだったと知り腰が抜けんばかりに驚き、幼いゆえそういった事情もよく知らない娘のシロミエールは――
『あ、あの、わたし、しょうらい……メルティナさまみたいな、立派な人に、なりたいです……!』
「いやぁ、あれは嬉しくてつい学院の皆にも自慢し」
「……それも聞いた」
そんな風に雑談に興じる矢先、
「おお、メルティナ様……」
しわがれた声は、横からだった。
二人揃ってそちらへ首を巡らせると、杖をついた小柄な老婆が近づいてくるところだった。年齢は七十、もしくは八十に届くだろうか。腰を曲げているため、その背丈はより低く感じられる。足取りもおぼつかず、きっと雪の多い日は外出することも困難だろう。
「メルティナ様……このところ、お姿がお見えになられぬようでしたが……お元気そうで何よりですじゃ」
「や、面目ない。私なら心配無用だよ、おばあちゃん」
「ところで……オームゾルフ祀神長が亡くなられてしもうた、というのは……本当なのでしょうか」
立て続けに起こった異質な出来事。その結末は、すでに民衆たちの耳にも入っているのだろう。
「…………ああ。事実だよ」
一拍置いて、噛み締めるように英雄は首肯した。
「おお……なんという……なんという」
老婆はゆるりとかぶりを振って。
「……オームゾルフ祀神長が、悪事に手を染めていていたらしい……との噂を耳にしましたじゃ。ほんに、そのようなことがあったのでしょうか……」
「……そうだね。彼女が不誠実を働いていたことは確かだ」
老婆はまたも緩慢に首を振る。
「わしには……わしには、どうしても信じられませぬ。あの方は、先王とは違った。陳情会でも、親身になってわしの話を聞いてくだすった。……それに」
手にした杖の先を、三人の足下に走る流雪水路へと向ける。
「昔から悩みの種だった雪の対処に力を入れてくだすったのも、あの方ですじゃ。確かに、税金は高うなりもしましたが……おかげで、わしのような足の悪い老いぼれでも、こうして冬の街を歩くことができるようになって……」
事実、変革を掲げたオームゾルフの施策により改善された部分は多い。
レノーレ自身、未だに現実味が感じられないほどだった。今回の事件を引き起こしたのが、あの『真言の聖女』であるなどと。
しかしきっと、その事実を誰よりも信じられないのは――
「……エマーヌは」
寂しげに、メルティナはその名を口にする。
「エマーヌは、少しやり方を間違ってしまっただけなんだ。真面目でまっすぐだったけど、その分……不器用なところもあったから」
「……さようですか……。間違いなど、誰にでもありましょうに。……氷神キュアレネーは、ほんに厳格な御主であられますのう……」
高みから降ってきた雪塊による死。
それを神罰と受け取る者も多い。
「ああ……バダルノイスはこれから、どうなってしまうんでしょうのう。……長生きなぞ、するものではないのかもしれませんな……」
そう言い残して去っていく老婆の背中を見送る。落胆ゆえだろうか。先ほどよりも若干小さく見える、その寂しげな後ろ姿を。
「……『長生きなんかするものじゃない』、か。胸に突き刺さるな。ご老人に言わせてはいけない言葉だ……」
どちらともなく、歩みを再開する。
「あれは学院生時代、最高学年になってすぐだった」
前を向いたまま、メルティナはそう切り出した。異国の少女の話題を口にしていた先ほどと一転、その表情は曇っている。
「その日、エマーヌは見るからに元気がなくてね。不安がっていたんだ。いよいよ卒業も翌年に迫って、教団に正式所属することも決定して。この先、自分なんかがやっていけるんだろうか、って」
懐かしそうに細められた純白の瞳は、当時の情景を映し出しているのだろうか。
「だから私はあの子を元気づけたくて、ハッパをかけたさ。君にできなければ誰にだって無理だ、私が君を支える……。思い返してみれば我ながら聞こえのいいことばかり並び立てたけど、本心であることに違いはなかった。あれからエマーヌは、吹っ切れたのかそれまで以上に精力的に活動するようになって……ついには、一国の主導者まで上り詰めた」
でも、とメルティナは視線を落とす。
「あの時……私は、エマーヌに呪いをかけてしまったのかもしれない」
「…………呪い」
話の流れにそぐわない不穏な単語を、レノーレはぽつりとなぞる。
「ああ。期待や励ましと呼べば聞こえはいい。しかしその結果、エマーヌは無理をして突き進んで……最終的には、こんな結末を……。私は、勝手な期待をあの子に押しつけてしまったんじゃないか。であればあの時の私の言葉は、呪いと変わらなかったんじゃないか――」
「…………そんなことはない」
言わずにはいられなかった。
「レン……?」
「……オームゾルフ祀神長にとって、メルの言葉は呪いなんかじゃなかった」
ゆるやかに差し込んでくる天からの光の中。確信を持って、風雪の少女は断言する。
「……、どうして、そう思うの?」
「……私も同じだから。……私はメルに相応しい従者となるために、ずっと努力を重ねてるつもり。……あなたが褒めてくれるのが嬉しくて、それが私の成長に繋がってる。……オームゾルフ祀神長だって、きっと……ううん、間違いなくそうだったんだと思う」
「レン……」
「……さっき、メル自身が言った。……オームゾルフ祀神長は、少しやり方を間違ってしまっただけだって。だから……だから、私は間違わない……!」
慣れない早口でまくし立てる。
「あなたの言葉が呪いなんかじゃないことを、私が証明する……! だから、これからもずっと……見ていてほしい! 私は必ず、あなたに相応しい従者になってみせるから……!」
不慣れな主張をしたからか、わずかに息が切れるほどだった。
でも、言わずにはいられなかった。主にして親友の、あんな悲しそうな顔などこれ以上見たくはなかった。
――これは誓いだ。
必ずやり遂げてみせる。呪いでなど終わらせるものか。宣言、そしてこれから訪れる未来へと昇華してみせる。
「……、わっ……!」
そんなレノーレに、重みがのしかかる。
いきなりメルティナに抱き締められ、足下がふらついた。
「ったくもう! あまりおだてるんじゃない。泣くぞ」
「……泣いてもいい」
「馬鹿を言うんじゃない」
「……泣いてもいい。……メルは、いつも一人で頑張りすぎる。一人で抱え込みすぎる。……大切な親友を亡くしたばかりなんだから、泣いて悪いことなんてないと思う」
背中に回されたメルティナの両腕の力が、少しだけ強まって。応えるように、レノーレも彼女を抱き締め返した。
晴れた空の雲間から、少しだけ雪が舞い落ちた。
わずかな涙が零れ落ちるように。