520. 近くも遠い
「はっ、ぜぇっ……」
違和感は強くなるばかりだった。
オームゾルフは息も絶え絶えになりながら宮殿の一階へ到達、改めて周囲を確認する。
兵士の姿が見当たらない。そんな状況にありながら時折響いてくる振動が、ここへきてより強まった。ずん、と足下や壁がわずかに揺れ、びりびりとした衝撃が伝わっていく。
「はぁ、はぁ」
とにかくここから脱出だ。
こんなところで足止めを食っている場合ではない。こんなことをしている場合ではない。
……そう、バダルノイスを立て直さなければ。
(こっち……いえ、こっちだったかしら)
思えば指導者となってから移り住んで以降、自らの部屋がある三階から出ることなどほとんどなかった。
特に一階となると、公務で外出する際に通るだけの道といった趣が強い。どこに何があるか、知識として理解してはいても、実際に通るとなると勝手が違ってくる。
(……、ふ)
何が指導者だろう。
自らが居座る城の構造すら理解しておらずに。
壁に手をつきながら迷宮じみた暗い廊下を進み、角を曲がる。
「――――――」
そこで、オームゾルフは硬直した。
一糸乱れず。隊列を組み、規則正しい足取りでこちらへ向かってやってくる、兵士の一団。人数にして、数十名は下らないだろう。
その先頭に、
「これはこれは……随分とお急ぎのようだ、オームゾルフ祀神長」
凍りつくような美男子。
華美な白鎧と目の覚めるような青外套が似合う、長身の騎士。見間違えようもない、その冷ややかな雰囲気と佇まいの男は――
「……スヴォールン……どうして、あなたがここに……」
『雪嵐白騎士隊』は国土の北側に隔離したはずだ。今この場所にいるはずがない……。
疲労と焦燥が重なり、幻でも見ているのか。そんな風に、思考が現実からの逃避を図りかける。
「!」
注視し、ようやくに気付く。スヴォールンの背後で隊列を成す兵士たちの中に、知っている顔が散見された。
いわゆるオームゾルフ派の元教団兵。己が配下であり、この『変革』に賛同し動いていた同志たちだ。そのうち一人と目線が交わる。教団時代からの長い付き合いとなるその中年兵は、苦い面持ちで首を横へと振った。
「話は『彼ら』から聞かせて頂きましたぞ、オームゾルフ祀神長」
スヴォールンがその一言で要約する。
彼は迫ったのだろう。
オームゾルフ派の兵士たちに、この混迷した現状の説明と――そして投降を。『雪嵐白騎士隊』の長に対し、彼らが武力で抗うことなどできようはずもない。まして、有海流護によって大幅に戦力を削られてしまった現状では。そうして皆、やむなく軍門に下る形となった。
そのようにスヴォールンが宮殿内の兵を統率、集結させていたため、ここまで遭遇することがなかったのだ。
「……何でしょうな、オームゾルフ祀神長。私は、まるで貴女のことを理解できていなかったらしい。これほどの真似を引き起こす烈女とは思いませんでしたぞ」
スヴォールンにしては珍しい、気の抜けたような声音。
「そして――貴女も同様に、私を全く理解できていなかった。『あの程度』で、このスヴォールンの足を封じたつもりでいた」
「!」
「しかし思えば、致し方ないことなのやも知れぬ。貴女だけではない。私の底を知る者などおらぬだろう。ともすれば、この私自身ですら。内戦の折も、日々の業務においても……それ程の力を発揮する機会など、ありはしませんでしたからな」
「……あなたには……この短期間で、あれだけの雪崩れをどうにかするほどの力があったと」
「幸いにして私のブリオネクは、あらゆるを貫き通すことに向いている。対象が人だろうと怨魔だろうと、凍り付き岩盤じみた雪塊だろうと……問題はない」
「……」
「そのように懸命な『掘削作業』に勤しんだ結果、三日三晩で即席の氷窟が開通しましてな。立ち往生していた商人らも喜んでおりましたぞ。そしてようやっと南部に入ったと思えば、何故かベンディスム将軍が手配されており失笑しましたがな」
それは、初めて見る表情だった。
「……成るべくして成った、ということなのでしょうな」
日々常々、尖った氷のように冷然としていたスヴォールン。そんな彼の顔に浮かぶ、疲れ果てた……後悔を滲ませた歪み。
「国を代表する我々が、互いまるで解さぬ無関心。配下の者共も、それに倣ったかのごとく壁を作り……そのような足並みで、事が上手く運ぼうはずもない……」
ずん、と足下がかすかに震えた。
同時、スヴォールンの耳元に通信の波紋が広がる。
「私だ」
『リーヴァー、こちら第三班! 振動の発生源が判明しました! 一階中央中庭にて、ミガシンティーア卿が交戦中! その戦闘の余波が地揺れを引き起こして……! うおぁっ、と、とても近付くことがならず……!』
「相手は何者だ」
『それが、誰なのかまでは……。白い礼服姿の、若い男のようですが……これがまた、恐るべき使い手で――』
「グリフィニアですよ」
オームゾルフがその名を口にすると、スヴォールンはわずかに目を丸くした。
「……成程。戻っていたか……」
『スヴォールン様? ご指示を……!』
「よい。原因が分かれば充分だ。そちらは放っておけ」
『で、ですが!』
「どの道、貴様らに連中は止められん。好きにやらせておけ」
返事を待たず、スヴォールンは通信の波紋を払いのけて霧散させた。
「この様よ」
クク、と厳格な青年は珍しくも自嘲気味に肩を揺らす。
「人々の規範となるべき貴族が、何よりも自身の悦楽を優先し、勝手に行方を眩ませたかと思えば出戻り、或いはただ盲信的に長を奉じる……。こんな様では先王を責められまい」
首を振ったスヴォールンは、
「ともあれ一先ずは、この事態を収拾せねばな。確保させて頂きますぞ、オームゾルフ祀神長」
その宣告に合わせ、聖女は唱え終わっていた術を解放した。
「ふっ……!」
がぎん、と。両者の間を隔てる形で、通路の中央に巨大な氷塊を打ち立てる。瞬く間に、対峙していたスヴォールンや兵団の姿が視界から消えた。
「はぁ、はぁっ……!」
――こんなところで捕まる訳にはいかない。
すぐさま踵を返したオームゾルフは、出口を求めて逃走を再開した。
突如として眼前に屹立したのは、雪山に転がっているような巨岩めいた白氷。
廊下を丸々塞ぐその表面を拳でコンコンと叩くと、驚異的なまでの硬さと冷たさが返ってくる。
表情にこそ出さなかったものの、スヴォールンは内心で驚嘆していた。
(……よもや、これ程のものを……)
常人の身で創出するには無理がある代物だった。それこそ『ベンタ』でもなければ成し得ない芸当。
オームゾルフがいかに優れた詠術士であれど、ここまでの力を有しているはずもない。
……ともあれ今は、驚くより先にやるべきことがある。
「お前達は左右から回り込め」
「は、はっ!」
居並ぶ兵隊らに指示を出した長は、氷塊の前へと陣取る。
「……」
冷たく硬い、双方を隔絶する壁。
眼前に立ち塞がるそれはまさに、これまでの自分たちを体現したものだ。
ともに同じ未来を――バダルノイスの平和を目指していたはずだというのに、絶えなかった対立。
オームゾルフは逸るように新しい政策や改革を提案し、スヴォールンはまず足場を固めるべきだとこれらを跳ねのけた。
無下にあしらっていたつもりはない。ただでさえ傾いでいたバダルノイスを持ち直すためには、確実な土台作りが必要だと感じたのだ。まさしくこの国の冬場さながら、しっかりと足下を踏み固めねば全てが横倒しになりかねないと。
一方で彼女はそう考えず、停滞を嫌った。何かに追い立てられているかのように。
いつしか歯車の噛み合わぬ日々が常となり、部下たちもそれに倣ったかのごとく自然と派閥に分かれていった。
そこを今回、異物に付け入られた。
「……」
カーリガルの街で手配書を目にした瞬間、スヴォールンはかつてない怒りを覚えた。
事前の報告なくかような手段に打って出たオームゾルフに対して――ではなく、知らず彼女をそこまで追い詰めてしまっていた自分自身に。
(……笑い話にもならん)
その時点に至るまで、オームゾルフの動きに気付かなかった。
かつてない闇が暗躍する最中、その瞬間まで蚊帳の外にいた。もちろんそれはオームゾルフが智慧を振り絞ってそのように仕組んだからであり、露見したのもまた彼女の行動に些細な違和感を覚えたからである。
しかし一歩違えば、未だに何も知らないままでいたかもしれない。
馬鹿のように乗せられたまま、腹違いとはいえ妹を疑って。
(……悔いるのは後か)
仰ぎ見る。これまでのバダルノイス神帝国――ひいては、今現在を象徴するかのような氷の障壁を。双方を隔てる、冷たいその壁を。
(ブリオネクでも……一撃で、とはいかんな。だが)
すう、と息を吸い込んだスヴォールンは、静かに詠唱を開始した。
まずは、目の前の壁を打ち破るために。