52. 絶望の夜
明日だ。
(来ないなあ……)
もう明日の夜に、自分は売られてしまう。
(リューゴくん……ベルちゃん……あたしのこと、諦めちゃったのかな……)
英雄のように颯爽と助けに来てくれるはずの流護たちは、まだ現れない。
石造りの無機質な床にごろりと寝転びながら、ミアは思いを巡らせる。
もしかすると……あたしがいなくなったことを、なんとも思ってないかもしれない。そのうち戻ってくるだろうと、心配なんてされてないのかも。
それどころか――ベルちゃんは、リューゴくんにだけは城に戻ることを報告してたのに、あたしにはしてくれなかった。
もしかして本当に……あたし、邪魔だと、思われて――
「オイ」
「――あ、え?」
身体を起こす。
いつの間にか部屋の入り口に立ったディノに呼ばれていた。
「ほらよ。最後の晩メシだ」
もう何個目だかも分からない携帯食料が、放り入れられる。
「――――、ら……」
「あ?」
「リューゴくんが助けにきてくれるんだからっ! あんたなんかっ……、あんたなんか、リューゴくんがぼこぼこにしてくれるんだからぁ……!」
ミアの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
「オメー、男いたのか。そりゃ気の毒だったな」
変わらず、さして興味もなさそうなディノの口調。
「ひっく……リューゴくんは、ファーヴナールだってやっつけたんだから……あんたなんか、相手にならないんだもんっ……」
「……ファーヴナール……?」
しゃくりあげるミアの言葉に、ディノが興味を示したような反応を見せる。
「ファーヴナールってこないだ学院に来たヤツか? 倒したヤツのウワサは聞いてたが、実在してたのか。んで、ソレがオメーの男だってのか……?」
「そ、そうだよ! 絶対、助けにきてくれるもん……もう、謝っても遅いんだから!」
その言葉を聞いたディノは、口元を押さえるような仕草を見せる。
そして、ミアが予想もしなかった言葉を口にした。
「――そうか。助けに来るといいな」
「え?」
一瞬、理解できずに少女は呆然とする。
が。すぐに理解した。
この数日間、ディノと接するうちに忘れかけてしまっていたこと。
『ペンタ』。学院最高の炎使い、ディノ・ゲイルローエン。
学院最高どころか自分こそが世界最強だと豪語してやまない、極めて傲慢で好戦的な超越者。
押さえた手で隠しきれていない、歪なまでに吊り上がった口の端。紅い、血潮のように紅い、双つの瞳。
まさしく燃料を投下された炎のごとく、暴力的な雰囲気を露わにした『ペンタ』は、もう一度独り言のように呟いた。
「――――来るといいな」
――アリッシア。
オレはまた一つ証明するぞ。このオレが最強だと。
どこにいようと、オレの名が届くように。オメーがオレを見つけられるように。
「こっ……怖くなんて、ないんだから!」
ディノの思考を遮ったのは、恐怖に震えた声だった。
「な、なによ……『強いヤツと闘いたい』みたいなこと言って、あんたがやってることなんて、こんなか弱い女の子を無理矢理に誘拐して監禁して見張ってるだけ、それだけでしょっ」
小さな少女は、自らを奮い立たせるようにまくし立てる。
「あんたみたいな小悪党なんかが、リューゴくんに勝てるわけないんだから……!」
そこでディノは、胡乱になりつつあった意識が戻ってくるのを感じた。
「ん……あー? そうか。ま、我ながら今回はチャチな仕事してると思うわ。けど見張り役をあんま挑発するモンじゃねェぜ? 下級組織で『商品』の見張りやってるヤツには、『売り出す前に自分で味見しちまおう』なんて考えるバカも少なからずいるんだからな」
その言葉を聞き、少女は自分の肩を抱くように身を竦める。
「ま、『サーキュラー』ぐれーの組織になるとそんな真似するヤツはいねェけどよ。ソレにまず、オレぁオメーみてぇなガキになんぞ興味ねェから安心しろ。むしろその、オメーを助けに来るかもしれねェってヤツに興味がある」
「ふ、ふんだ。なんで炎の使い手って、こう強い人とか最強とかにこだわるのが多いんだろ」
生まれもった属性というものは、当人の性格にも影響するといわれている。
確かに炎属性の使い手には、気性の激しい好戦的な者が多い。
ディノも例外ではなかった――が。
「オイオイ、オレを他のザコと一緒にしてくれるなよ。炎の使い手ってのは世界で一番数が多いらしいが、オレは間違いなくその中でも最強だ。この国の王も炎使いで強ぇって聞くけど、王に興味はねェしな。ま、オレの方が強ぇだろうし。学院の一位から三位だって、あんなのは曲芸だ。珍しい能力ってだけで上位に入ってるようなモンだ」
自負。
これまで、負けたことなど一度もない。
別の組織の用事で遠征した際に、カテゴリーSの怨魔、ジランティー・オドと鉢合わせてしまい、交戦したことがあるが、あれが唯一の苦戦か。
やはり『怨魔』という存在は別格だ。
迂闊にも接近され、巨大な嘴に軽くついばまれただけで、五マイレも吹き飛ばされてしまったほどだ。そのときは興奮状態で気付かなかったが、肋骨にもひびが入っていた。
敵にダウンさせられるという人生初の経験を味わっている間に、同行していた約十名の黒服たちは全員ミンチになっていた。
もっとも巨大な怨魔にしてみればその程度の挽肉では足りなかったらしく、ディノを丸呑みしようと迫ってきたので、すぐに極上の炎を胃の中に叩き込んでやった。
育ちすぎた鶏のような外見だったが、自分がローストチキンになるとは思わなかっただろう。
戦闘時間にしてみれば数分程度だったが、ディノにとってはいい経験になった。
「ふんっ……こんな三流組織で見張りやってるようなやつが、なにが最強よっ」
少女はディノを睨みながら呟く。
「オメー、何か勘違いしてんだろ。オレは『サーキュラー』の人間じゃねェぞ」
「え?」
「オレはフリーだ。金次第で何でもやる雇われってトコか。今回はたまたま、この『サーキュラー』っつう三流組織でちっとばかし雇われてやってるだけだ。オレの力を欲しがるヤツなんざ山ほどいるし、疎ましがるヤツも山ほどいる。力の欲しいヤツには金次第で力を貸すし、疎ましいつって邪魔してくるヤツは殺す。そんだけだ。『最強』も楽じゃねェな。良くも悪くも人気モンだ」
しかし少女はなおも言い募る。
「……ふんだ。リューゴくんは……絶対、あんたなんかより強いもん。助けにきて、くれるもん」
「ハハ、そうかそうか。そりゃ楽しみだ」
小さな少女は鼻をすすって、不満そうに頬を膨らませた。
そんな少年とやらが、都合よく颯爽と少女を助けに現われることなどありえない。
そもそも今回、『サーキュラー』は法を犯していないのだ。常にギリギリのラインで活動しているような組織ではあるが、今回は少女の親と合意のうえで商談が成立している。
強引にこの少女を奪還しにやってくるならば、その少年は裏社会どころか兵士たちをも敵に回すこととなる。
ディノは数年前のあの出来事を思い出す。
真っ赤に染まった部屋。冗談のように千切られ転がっている、両親だったモノ。そして……枯れ木のように細くなった、アイツの――
そう、神は奇跡を……救いを齎したりなどしない。弱き者を助けることなどしない。
ディノが数年前、身をもって知った結論だった。
断言する。その少年は、ここに現われたりしない。
――それにしても。
ファーヴナールをも倒したというその存在。
後に話を聞いたときは悔やんだものだ。どうして自分はその場に居合わせなかったのかと。
伝説に謳われ、目撃例すら皆無に等しかった邪竜。そして、そんな存在を倒したという少年。それが、この少女と繋がりのある人物だという。
いい話を聞いた。
ソイツとは、いずれ必ず闘ろう。
超越者は笑みを深くした。
結論からいえば。
流護がミアを連れ戻しに乗り込んでくる――などということは、なかった。
「もうちょいしたら出発だ。ホラよ、コレに着替えろ」
これまでの携帯食料と同じように、ディノが放り投げてよこす。
それは、ドレス。
ベルグレッテが着ているものと比べても遜色ない、煌びやかで美しい黒のドレスだった。細かい宝石がいくつもあしらわれている。
本来なら、ミアには一生縁がなさそうなほど高価な代物だ。
……こんなすごいものを着ていいだなんて、自分はどれほどの値段で買われるのやら。
ミアは、自嘲気味な笑みすら浮かべた。
のそりと立ち上がり、着替えようとしたところで、ディノがまだいることに気付いた。
「……なに。出てってよ。着替えられないでしょ」
「…………」
ディノは答えない。その代わりのように、何かを放り投げた。
これまでと違い直接ミアに向けて放られたそれを、反射的に受け取る。
小さな紙袋。その中に、透明な液体で満たされた小瓶が一つ入っていた。
「……薬?」
「ハッキリ言っておいてやる。競売が終わった後、オメーを待ってるのは生き地獄だ。吐き気のするような変態ジジイに買われて、慰みものとして使われるだけ。もう二度と、真っ当な人間としてすら扱われねェだろう。『エクスペンド』と大差ねェ」
淡々としたディノの言葉。
「…………っ」
もう、覚悟したつもりでいた。
いや……覚悟していたなんて、立派なものじゃない。考えないようにしていただけだ。
はっきりと宣告されたことで、手が……身体が、震え出す。
「……だ」
歯の根が、噛み合わない。
「いやだぁ……うぅ、助けてよぉ……」
言葉と一緒に、涙が溢れ出す。
「……オレはオメーを助ける気はねェ。が……選択肢を、くれてやる」
ディノはミアが手にしている小瓶に、感情のない視線を送る。
「ソレは『フレカリス』だ。聞いたことぐれーあんだろ?」
ミアは涙を拭うことも忘れ、自分が手にしたものを凝視した。
授業で習った覚えがある。カテゴリーSの怨魔、惑怪鳥ステュームバリ。その体内で生成される物質の名前が、『フレカリス』。その性質は――
「――少量でSクラスの怨魔すら仕留めるといわれる、最凶の毒。ソレを飲めば、苦しまず楽に死ねるんだと。ま、死んだコトなんざねェから知らんけどよ。オメーが選べ。地獄を味わい続ける生か、安息の死か」
「――――」
「正直……オメーには、少し同情するよ。いっそ『転生論』に賭けてみんのもアリかもしれねェぜ。生まれ変わったら……今度こそ、幸せになれるかもしれんしな」
そこでディノは小さく溜息を吐いた。なぜかまるで、自嘲するように。
「時間がなくてアレだが……二十分経ったらまた来る。そんときオメーが生きてたら、出発だ」
そう言い残し、ディノは部屋を出ていった。
「……、…………う」
生き地獄を味わうぐらいなら、死んだほうがましだ。
――流護の話を思い出す。
彼の国では、一年間に数万もの人が、自ら命を絶っているのだという。
「……は、はは……」
大丈夫。怖くない。きっと。
そんなにたくさんの人が、自分の知らないところで死んでいるんだ。きっと、そんなに苦しくない。思ったより怖くない。だから、できる。だから、死ねるんだ。
震える指を、小瓶の蓋へとかける。
――もう、いい。死んでやる。死んでやる……!
「……ぅ、うぅ」
それでも。
へたり込む。手にしていた小瓶が床に落ち、転がった。
「……ひっ、ぃやだ……っ……怖いよ、死にたく、ない……よぉっ……」
冷たい石造りの部屋に、小さな鳴咽がいつまでも響いていた。