519. 狂信の光
「ちょっと待て、モノトラ。見な、ゆっくりしすぎたみてえだ」
「……おや。終わったんでやすかね、聖礼式とやらが」
「だろうな。こうなっちまうと、今コイツをブッ殺すのは目立ち過ぎる……つーより、予定変更だ。このウンコ頭を半殺しのままにしときゃ、後々使えるかもしれねえ」
「……と言いやすと?」
「リューゴ何ちゃらやベル何ちゃらを無力化するのに使えっだろ。コイツの身柄を盾にすりゃあよ」
「おっと、なるほど。それもそうでやすね」
思えば、間違いだったのだ。
あの日、ミュッティのその提案に乗ってしまったことが。
エドヴィン・ガウルなるあの狂犬は、ここで確実に止めを刺しておくべきだったのだ――。
(くそっ……たれ、が、あぁ~~……!)
血走った目で曇り空を睨めつけながら。
モノトラ・ギルンは、『いつかのように』大の字で雪の上へ転がっていた。
場所は氷輝宮殿のすぐ脇。視界の片隅に、宮殿の円屋根がかすかに映り込んでいる。被っていたヘルムは、衝撃で脱げてどこかへ飛んで行いったらしい。
(クソ、クソクソクソ……!)
竜巻によって吹き飛ばされ、遥か高みからの落下、凍った地表への激突。
生身なら確実に死んでいた。
しかし、セプティウスのおかげでこうして生きている。
(まだ、だ……勝ったつもりに……なってんじゃねえぇぞ、クソ共がぁ……!)
このセプティウス・リーヒルトを含めた昨今の型には、スティムヴェイパーと呼ばれる回復機構が備わっている。一度だけではあるものの、内部に特殊な霧を循環させることによって装着者の治療が可能だった。
もっとも、アーシレグナの効果を取り入れたそれは回復より鎮痛に重きを置いた応急処置的なものであったが、緊急時に四肢を動かせるようになるだけでも充分だろう。
「……ぐ、く、っ」
モノトラは震える右手を動かすことに全神経を注ぎ、胸部に備わったスティムヴェイパーの起動ボタンを押し込んだ。
が、
(ぐ……な、何だ……どうして起動しねぇ……!?)
カチカチと何度も押下するも、霧が噴射されない。
「……!」
どうにか目線を動かして確認すれば、自らの纏うセプティウスに大きな亀裂が入っていることに気付く。
(こ、れは……)
左肩口を起点として、地割れみたいに全方位へ走っている深い溝。ベルグレッテの黒い長剣によってつけられた傷が、落下の衝撃を受けて大きく広がったのだ。その損傷の度合いは一目瞭然。
大破、と呼ぶべき惨状。
(故、障……したのか……? 奴ら、この機能に気付いて……ここまで狙って俺を落としやがったのか……? 冗談、じゃねぇ……! 出ろ、出ろ! 出ろ出ろ出ろ! 出ろってんだ!)
果たして、その怨念めいた怒りが天に通じたのか。
狂ったようにボタンを何度も連打したことで、ようやく控えめに霧が吹き出してくる。
(よ……よし……!)
いまいち動作も鈍く、緑色をした霧が亀裂から外へ漏れていくが、構いはしない。
(ほんの少しでも回復すりゃ、問題はねぇ……)
辛うじて、でいい。わずかでも手足が動けば充分。
ハンドショットの引き金を操作するだけなら、指先のみで事足りるのだから。
(よ、し……動ける)
すぐに痛みが和らぎ、活力が満ちてくる。
凍った石畳に手をついて、どうにか身を起こす。破損したセプティウスの破片が、ポロポロと足下に零れ落ちた。
(へ、へっひっはっはっはっは……俺を甘く見やがって、バカ共が……)
動けるようになりさえすれば、こちらのものだ。
もう、まともに相手をするつもりなどない。こっそり背後から撃ち殺してやる。連中だけではない、アルドミラールもだ。拾い物の『量産品』風情が何のつもりか、古参の自分を見捨てようとしたのだ。
(もう容赦しねえぇ、皆殺しだクソ共……!)
上衣の内側に固定してある予備のハンドショットを取り出し、脇にそびえる巨大な宮殿を睨みつけて――
「おい」
その声は、すぐ後ろからだった。
今のこの事態、周囲に誰かがいるなど考えもしなかったモノトラは、呼びかけられるまま反射的に、素直に振り返る。
そこに佇んでいたのは、陰気そうな一人の青年だった。
丸めがちの背筋と、ぼさついた茶色の髪。そんな地味な容姿に反し、身に纏うは輝かしい白鎧と青く立派な外套。
(…………こいつは……)
直接的な面識はない。が、モノトラもバダルノイスに潜入して長い身の上。当然ながら知っている。
『雪嵐白騎士隊』所属、ゲビ・ド・フォートゥーン。
確か、部隊長であるスヴォールンの後ろをいつもついて回っている腰巾着で――
(ッ!? い!? いや待て、どういうことだ!?)
疲労と鎮痛効果によってやや朦朧としていたため、ここでようやくハッとする。
『なぜ、こいつがここにいる』。
『雪嵐白騎士隊』は現在、『白の大渓谷』で起こした落雪によりバダルノイス北部に隔離されているはずだ。除雪には二週間もの期間が見込まれている。
そのようにオームゾルフが仕組んだのだ。皇都に戻ってこられる訳が……今、この場所にいる訳がない。
(俺たちの……、いや、そんな訳あるか!)
だが現に、この陰気な白い騎士は目の前に立っている。
そんなモノトラの困惑など知るよしもなく、ゲビが気だるげに口を開いた。
「おい、貴様。神聖な宮殿の周りにゴミを落とすんじゃあない……」
表情に見合った陰鬱な声音で、煩わしげに足下を指差す。釣られて視線を動かせば、零れ落ちたセプティウスの破片が散らばっていた。
(めんどくせぇ……)
動けるようになったとはいえ、満身創痍。こんなところでせっかく回復した体力を無駄にしてはいられない。
なぜこのゲビがここにいるのかも分からないが、とにかくモノトラはハンドショットの柄を握りしめる。
「貴様のような余所者には分からんだろうが、氷輝宮殿は長き歴史を誇る由緒正しき聖なる建造物……本来ならば、流浪の余所者が立ち入って良い場所ではないのだ。ゴミを落とすなど言語道断。そもそも――」
ゲビは聞いてもいない話を延々と垂れ流し始める。
(うるせぇぞ、この陰気野郎……)
面倒だ。邪魔だ。撃ち殺す。
(お前がゴミだ、ボケ野郎……!)
即断し、モノトラは素早く右手を掲げる。目の前で講釈を垂れるゲビに向かって、引き金を――
(…………、……、な)
引け、ない。
指が、動かない。
(……何だ、何で……こんな、お、お)
重い。引き金を引く。それだけで、いかなる相手だって殺せる。そのはずなのに、指が動かない。周囲の空気がまとわりついて、行動を阻んでいるかのように。ただそれだけの簡単な行動が、起こせない。それだけではない。掲げた腕すら、自分のものではないかのように――
「……異物か?」
冷ややかな声だった。
「貴様、それは何だ? 私に何を向けている? 実に不躾で不快だ。ん? まず、私が喋っている最中に勝手に動くな。貴様は異物か? 病巣だな? この国を蝕む……邪悪なのだな――」
否が応にも悟る。
目の前に立つ白の騎士。その眼に不気味な光が宿っている。陰気げな冴えない顔立ちと相まって、その負の雰囲気はより際立つ。
「て、めぇの仕業かぁ……!」
今さらながらにモノトラは思い出す。
ゲビ・ド・フォートゥーン。生粋のバダルノイス人であり、見本のごときキュアレネー信徒であり、典型的な貴族騎士。
バダルノイスの上流階級はどういう人間か? と問われたなら、このゲビを見ればいい。それほどの標準となる男。
戦闘においては、敵対者の身体能力を低下させる神詠術を得意とするという。
「ぐ…………がっ!」
立っていることすらままならなくなり、モノトラはガクリと膝をついた。
(クソ……クソったれ! セプティウスさえ万全なら、この程度……!)
動け。引き金を引くだけでいいんだ。それだけで殺せるんだ。こんな田舎騎士、取るに足る相手ではない。
這いつくばったまま、どうにか顎を浮かせて、
「――――――――」
モノトラは目撃した。
ゲビが上段に、光の剣を掲げていた。否、そうと錯覚する氷の刃だった。鏡面のごとき氷の塊が反射し、靄を放ち、目に眩いばかりの閃光を作り出している――。
見下ろす眼光は、罪人の首を落とさんとする処刑人そのもの。
なぜかこの局面で。
国内に潜入して間もなく、情報を得るため交わしたオームゾルフとの会話が、モノトラの脳裏に甦った。
『ゲビ・ド・フォートゥーン。二つ名は「凍光剣」。支援を得意とし、普段はスヴォールンを立てるため補佐に回ることが多い彼ですが……その実力は「雪嵐白騎士隊」の中でも三番手に位置します』
『はあ。そうでやすか』
『徹しているだけなのです。あえて、裏方に。単騎であってもその戦闘能力は極めて高く、そして何より――』
「――病巣は切除する。全ては神聖なるバダルノイスの為に。偉大なる我が長、スヴォールン様の御為に――」
国家と氷神、そして最強騎士の狂信者。
邪魔があれば即座に排除する。それはオームゾルフすら例外ではない、バダルノイスを思うがゆえ、バダルノイスで最も『危険』な男。
「――――――」
閃光の氷刃が振り下ろされた。
一生において一度しか見られぬだろう、左右へ分かたれていく視界を認識しながら、モノトラは思考の渦に落ちる。両断された脳が機能を停止するまでのわずかな間で、闇組織の商人は振り返る。
(すいやせんね、ドジ踏んじゃいやしたよ……)
こんなどうでもいい相手に殺される結末。
(これもあんさんの思惑通りだったでやすか? デビアスさん……)
慧眼を持つあの団長補佐はどう考えていたのだろう。
(ま、こうなったら仕方ありやせんよね……。あっしは一足先に、『彼女』を――)
ここまで粘り強く闇の世界を生き抜いてきたモノトラ・ギルンの人生は、暗い影を払拭するかのように。
眩いばかりの光によって、その終止符を打たれることとなった。
この時、モノトラの所持していた『信盤』に通信が届いていたのだが、落下の衝撃で破損したそれが音を響かせることはなかった。