518. 双方の傷痕
「はっ、」
口から零れ出た息が、曇り空へと立ち上っていく。
「かはっ…………」
近場の塀にもたれながら、メルティナ・スノウはどうにか両の足を地につけて立っていた。
仮装のための衣服はボロ切れ同然。被っていたウィッグもどこで落としたか。多量の血を流し、その痕跡を残してしまったことで、周辺の住民たちの間でも騒ぎになっているようだった。
「……ったく……」
人目がないことを確認し、白き『ペンタ』はその場に腰を下ろす。とてもではないが、メルティナを英雄と慕う人々には見せられない姿。
……力なく、崩れ落ちる姿だった。
(……まいっ……たね、これは……)
回復術を自らに施し、どうにかここまで持ちこたえた。治療技術を得意としていなければ、確実に命を落としていただろう。それほどの深手。それほどの、相手だった。
(ミュッティ・ニベリエ……)
一体、彼女は何者なのか。先の捕縛作戦の時点でその力は認識していたつもりだったが――あれだけの能力、明らかに尋常ではない。不可解なほどに。
互い詠唱の果てに繰り出した、力と力の正面衝突。
凄まじい残響が身体を軋ませてくる中、最終的には自分の足場となっていた端部の地面が崩壊。メルティナは虚空へ投げ出される形となってしまった。そして宙で態勢を整える間にも容赦なく襲い来る、不可視の衝撃。
「……く……」
向こうがどうなったかは知らない。だが、彼らが自分と同じように深手を負ったかどうかとなると……。
(残念ながら……手応えは、感じなかったな……)
冷たい雪の上に座り込み。
戦闘の結果において生まれて初めて感じる悔しさを噛み締めながら、メルティナ・スノウはただ寒空を見上げていた。
人の姿も疎らな歩道に、足を急がせる二人組の姿があった。
「クソったれ……余計な手間掛けさせやがってよ」
「流石は北方の英雄、といったところよのう」
ミュッティ・ニベリエ。そして、ガーラルド・ヴァルツマン。その様子はどこか、後者が前者を先導するかのように。
「全く、お主らに挟まれて生きた心地がせんかったぞ。ぐわっはははは!」
そこかしこに生傷を負っている巨漢の傭兵が、振り返りながら肩を揺らして笑う。
一方で、全身に鈴をぶら下げる女は不機嫌さを隠しもしない。
「……アタイをあんなのと同列に語るんじゃねえ」
ミュッティはといえば、首筋や側頭部にわずかな裂傷が刻まれている程度。
(……)
しかし何より問題なのは、
「あの真っ白クソ女……面倒な真似してくれやがる」
鈴の女は今、髪を下ろし顔を隠すようにして歩いていた。というより事実、隠していた。普段から愛用している黒メガネが割れたのだ。
北方の英雄、生ける伝説と称される『ペンタ』との正面激突。その結果がミュッティ・ニベリエに齎した被害はその程度のもの。
……だがそれは、彼女にとって好ましくない事態だった。
「オッサン、無駄口叩くよりとっとと進め」
「何をそのように急く? ポータルを作るだけだ。人気のない場所を見繕う必要はあるが……そう逸ることもあるまい」
「ダメだ。ポータルは使えねえ」
「む? 何故だ?」
「考えてもみろ。今、この国は出国禁止令が出されてる真っ最中だ。そんな中でポータルを使っちまえば……」
「おっと、そういうことか。失念しとった」
自分たちで仕組んだ出国禁止の触れが足を引っ張る結果になろうとは、さすがに予想できないところだった。
「ならば如何する?」
「真っ当に、堂々と国境門を通るさ。アタイは今、この国の『特別相談役』だからな。オームゾルフの特命とでも言えば、通さん訳にゃいかねーだろ」
「むう、成程な」
モノトラも同じ役柄だ。問題はあるまい。そしてキンゾルは最初から表に姿を現していない。それこそポータルを作って脱出することだろう。
「つー訳で、アンタは従者のフリしろ。余計な真似すんな、喋んな。あと無駄に注目集めるような真似はすんな。『アタイ』に気付くヤツがいねぇとも限らねぇ」
「お主は初めてこの国に来たのだろう。顔を知る者もおるまい」
「万が一があっちゃ困るんだよ。いらんこと喋くってんじゃねぇ」
「おお、怖いのう。承知したわい」
「クソ、代えを持っとくんだったぜ……、……」
「どうした?」
「どうもしねえよ」
かすり傷からにじみ出る痛みが、同時に苛立ちを吐き出している。
単純な、力と力の激突。
その結果、耐えられなくなった崖端が崩落。その場にいた敵は――メルティナは、それに巻き込まれる形で宙へと放り出された。
しかしそこは『ペンタ』、その程度で落下死するような存在ではない。
踏ん張りの効かない空中へ舞った相手に対し、ミュッティはさらにソニックブームで追撃。
だが、それはまさに絶技。
即座に氷の薄膜を展開したメルティナは、音の衝撃を受けながら宙で二転、三転。
むしろミュッティの術の威力を利用する形で、飛翔する渡り鳥のごとく下方へと姿を消していった。
足場が突然崩れ、無防備な空中へ放り出されたにもかかわらず、臨機応変に凌ぎ切るその手腕。
(もし、地面が壊れなかったら……)
双方ともにあの場へ留まり、最後まで力をぶつけ合っていたなら?
(……ったく。ムカつくね。そこに疑問が浮かぶ時点で)
ヴァルツマンではないが、さすがは北方の英雄……と評しておくべきか。
少なくとも――狩られるだけの、か弱い燕などではなかったということだ。
そのうえ、
(カヒネの名前も聞かれたろうし、『信盤』を使うとこも見られた。となりゃ、必死で突っついてくるかな。ま、構わんけど……。…………)
そんな感慨を抱え黙って進むうち、対面から一人の兵士が駆けてくる。
おそらく、先の戦闘が通報でもされたのだ。現場へ向かうのだろう。あれだけ派手にやらかせば、嫌でも人目を引く。
相手に道を譲る形でさりげなく空けながら、その犯人である両名は足早に現場から遠ざかっていく。
バダルノイス正規兵となって二年目のガーリスは、小走りで雪の街を駆けていた。
東の展望台で爆発が発生したとの報告を受けて、先に向かっているはずの同僚と合流する予定だった。
(ったく、何だって今日みたいな日に限って)
よりにもよって上官たちが出払っており、自分みたいな下っ端しか残っていない状況。
(どうして俺がこんなことを……。めんどくせえなぁ~~)
詠術士としての技量は特筆すべき部分もなく平々凡々、趣味は贔屓にしている歌唱隊の追っかけ、好きな酒は当然ヴォルンクォート。
同僚と比べてあまり仕事熱心な性分でないガーリスは、あくびを噛み殺しながら申し訳程度の早足で古びた建物の角を折れる。
すると、向かいから冒険者らしき二人組がやってきた。
相手が心なしか道を空けてくれたので、厚意に甘えてすれ違う。ちりん、と小さな鈴の音が聞こえた気がした。
「…………ん?」
おや、と思い振り返る。
見るからに傭兵然とした大男と、白い毛皮のコートを羽織った派手な少女。
気になったのは後者だ。若い女性だから、という不純な理由ではない。前髪を下ろしていて、その顔もろくに分からなかった。ただ、すれ違いざまに見えたその瞳が――
(……いやいや、まさかな。そんなこと、あるはずがない)
そもそもあんな奇抜な格好の時点で違う。
馬鹿なことを考えている余裕があるなら急がねば、とガーリスは少しだけ足を速めるのだった。