515. システマティック
有海流護が放つ右ストレート。
グリムクロウズの人間であれば、認識することすら叶わず――為す術なく倒されるはずの一撃。
結論から述べるなら。
その拳は、メルコーシアに直撃した。
着弾点は左頬。太い頸が横へ弾け、その衝撃が伝播するように両肩が大きく波打つ。ゲーム的に例えるならば、目に見えて分かりやすい被弾モーションとでも表現すべきか。
(――――はっ)
空手少年の中に去来するのは、打倒の確信と肩透かし感。
自信満々に歩み出てくるから、どれほどの使い手かと思えば。結局は、これまで打ち倒してきた詠術士たちと変わらないワンパンチノックアウ
直後、衝撃。
有海流護の視界、左半分が消失した。
「……、……!? …………、……?」
突然の暗転。傾ぐ身体。二歩、三歩と自然に後退する。
顔。激痛。
何だ? 何が起きた? 顔がなくなった?
よろけながら、どうにか顔を上向ける。浸透する鈍痛の中、それでもすぐに視界が回復してくる。
左頬の上部。目の近くに打撃を受けたのだと理解したのは、数秒ほども経過してからのことだった。
踏ん張るでもない。身構えるでもない。恐ろしいほどの自然体。ただ無造作に右腕を前へ突き出している、表情ひとつ変えないメルコーシアの姿を目の当たりにして。
(……、は? 何、だ……? 何が起きた……)
当てた。自分が先に、確実に。
そして、効かせた。右ストレートをまともに食らったメルコーシアは、肩が回るほど大きく肉体を揺らしていた。
(それが……)
相手は倒れるどころか、まるで効いた気配すらなく。
それどころか、気付けば逆に自分が打たれている。
「ア、アリウミ……」
「リューゴっ……」
後方から聞こえてくる、エドヴィンとベルグレッテの呼ぶ声。
「……ふー」
流護は深く息を吐いて、トントンとつま先で床を叩いた。
どうやら、予想以上に疲労が蓄積しているらしい。拳で倒せず、よりにもよって逆にもらってしまうなど。後ろで見守る二人を不安にさせてしまった。
予想以上に自分のパフォーマンスが落ちていると判断する。
誤算、誤認。先に当てたつもりが、実質は相打ちだった。ゆえに倒し切れず、こちらは意識外からもらったため効いてしまった。
流護がそう結論すると同時。
打ちっ放しとなっていた右腕をダラリと下げ、小さく首を回したメルコーシアが一言。
「成程」
そして、あまりにも自然。
男は、流護へ向かって歩み寄る。構えることもなく、とても敵に接近するとは思えない様子で。まるで散歩のように。
(――)
一方、流護もノーガードながら、かすかな前傾姿勢で待ち受ける。
その無警戒ぶりで奇をてらったつもりか。見逃さない。どんな攻撃が来ようと、確実にいなす。今度こそ仕留める。
そう身構えていたからこそ、空手少年は目を見張った。
力強く踏み込みもしない。腕を高く掲げもしない。無防備としか思えない所作で流護の目の前までやってきたメルコーシアは、ほぼ棒立ちに等しい体勢からおもむろに右の拳を繰り出した。
何だそりゃ。手打ちも手打ち。そんなんで力が乗るか。舐めてんのか。
その一撃を左の小手でブロック、返す刀の右で沈める――――つもりが、炸裂した。
「っっ!?」
ゴガン、とおかしな音。
腰も何も入っていないはずの、その右拳。防ぎはしたが、流護の身体は大きく後方へのけ反る。腕が痺れる。
(何、だ!? このパンチ……!)
ツカ、と軽快に一歩詰めたメルコーシアが今度は左腕を掲げる。またも力みがまるでない。ただ腕を突き出そうとしているようにしか見えない。
「っ」
が、受けるのは危険と判断。スウェーで躱すと、すぐさま返す右が飛んでくる。続いて左、右、左。
力みや溜めが全くないため、連撃の回転が速い。そのうえ、空振ってもバランスが崩れない。しかし、これを流護はフットワークと距離感で捌き続ける。謎の威力を秘めていようが、当たらなければ意味もない。そして、
(なるほど、考えてもみりゃ)
相手は、純粋な徒手格闘にこだわる理由もないのだ。
先のキンゾルと同じ。触れるだけで何が起こるか分からないのが、このグリムクロウズにおける戦闘。手打ちにしか見えない拳に、何らかの術を施せば――
(そらそうだ。そうと分かりゃ、)
地球人に近しい外見から勝手に勘違いしてしまった。
飛来する鉄槌気味の右ストレート。これをダッキングで屈み込んで空転させた流護は、伸び上がる反動による左ボディをメルコーシアの右脇腹へと叩き込んだ。ごばぁん、と重く確かな手応え。ガクン、と折れる相手の膝。間近から聞こえる、ひゅ、と息が漏れる音。
(っし、終わり!)
当たった。終わった。勝った。
――さっきも、そう思わなかったか?
判断は一瞬だった。
直後の相手の動向を見届けないまま、流護は大きく飛びずさった。
そして、その空間へ。
数瞬前まで流護のいた場所に、メルコーシアの右肘が打ち落とされていた。
「――……、」
全くの無表情のまま、肘打ちを空振った体勢のままの男の姿が。
無意識に流護は唾を飲む。
バックステップしなければ、あれをもらっていた……。
「同じ轍は踏まないか。学習能力はあるようだ」
抑揚のない口ぶりで、メルコーシアが姿勢を正しながら呟く。ぐりん、ぐりん、とやけに軟体的な挙動で両肩を回して。
「うるせー。てめーこそ、せいぜい身体強化の使いどころ間違えんなよ? いやまあ、間違えさせるけどな」
身体強化。その名の通り、肉体機能を強化する神詠術。恒久的に施すことは原則として不可能で、ここぞという瞬間を狙って発動、一気に畳みかけるためなどに用いる。防御においても同様で、打撃が来る瞬間に使用すれば、術者にもよるが一時的に流護の拳を耐えることも可能だろう。
つまりこれを攻撃と防御で巧みに切り替えて扱うことができれば、流護とも格闘戦が成立する――
「使ってない」
後ろから聞こえてきたその声は、ベルグレッテのものだった。
「その男は……身体強化どころか、一切の神詠術を使っていないわ……」
信じられない、といった心情がありありと詰まった声。
もちろん敵を前に振り返ったりはしない。
佇むメルコーシアを注視しながらも、流護はその意味するところを考える。
「ええ……。『揺らぎ』が、まるで見えないわよ……」
そんなジュリーの同意も後押しして。
「――――」
なら、何だ?
この男は、なぜ倒れない。なぜあんな威力の打撃が放てる。
流護はともかく、ベルグレッテやジュリーにすら『揺らぎ』が感知できないのであれば、それはもう確定だ。
この男は身体強化を……神詠術を使っていない。
そもそも、考えてみれば当然。『揺らぎ』とは、神詠術を行使する際に漏れる前兆のようなもの。攻撃術の詠唱や発動を悟られないよう隠したりはするが、身体強化の『揺らぎ』をわざわざそのようにする利点は薄い。
ならば。
(やっぱ、こいつ……!)
その事実から、ひとつしかない答えが導き出されるより早く、
「!」
またしても無造作に距離を詰めてきたメルコーシアが、独特な左フックを放つ。
完全なノーモーション、踏み込みもなければ振りかぶりも腰の回転もない。
刹那に腰を屈めてこれを潜った流護は、戻りざま右ストレートを一閃。相手の攻撃、その終わり際を狙った『合わせ』。まぐれや偶然ではもちろん、一流の戦士とて容易に逃れることはできない。
ゆえに、直撃。
メルコーシアの左頬が弾け、その威力を受けた両肩が持ち上がって――
「っ」
そして流護は認識した。
持ち上がったメルコーシアの肩が、ぐりんと回る。風に吹かれた柳のように。もしくは、暖簾に腕押しという言葉を体現するように。
そんな肩甲骨の回転力を利用したがごとく、メルコーシアの右ストレートが一直線に射出された。
「が、っ!」
胸の中心を突き抜ける衝撃。
右拳を振り切ったばかりの流護は防御も回避もできず、もろに食らって後退した。
しかし息を止めながらも咄嗟に身構え、追撃を警戒。
一方でメルコーシアは対照的。ヒュウと息を吐き、脱力した様子で静かに佇む。ただ冷たい眼差しを向けながら。
「や、野郎……」
「……、リューゴが……」
後方で見守っているエドヴィンやベルグレッテの目にも明らかだったろう。
――リューゴ・アリウミが、純粋な肉弾戦で後れを取った。
素手の闘いで、後退『させられた』。
それゆえの二人の驚き。
「……、…………」
息が切れる。直撃を受けた胸が疼く。
確かに、ここまでの戦闘で流護は大きく疲弊している。つい先ほどには火傷と凍傷のダブルパンチで死にかけたばかりだ。極端な温度変化に晒されたためか、身体の節々が痛い。息も苦しい。ベストコンディションには程遠い。
だが、それを抜きにしても。
(こいつの、技術……)
もはや疑いようもない。この男は、何らかの地球の戦闘技術を体得している。極めて高いレベルで。
パワー・スピードともに、このグリムクロウズという世界で特殊な膂力を発揮できる流護のほうが上だ。対峙した印象から、メルコーシアにそのような特異性はない。しかし流護が持つその優位をも封殺してしまうほどの、圧倒的な『技量』。
「……頑丈だな」
メルコーシアは顔色ひとつ変えず一言告げ、かすかに左右の肩を回した。その挙動はやけに軟体的。肩甲骨の可動域が広いのだ。
「私の『ストライク』をまともに受けて倒れないのは、お前が初めてだ」
「!」
この瞬間、あやふやだった推測が明確な答えを得た。
「……そうか、てめぇ……『システマ』か……!」
様々な格闘技を目にしてきた空手少年ではあったが、実際に体験するのはこれが初だった。
――システマ。
武術や格闘技に興味を持つ者ならば、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。
1990年代初頭、ソ連崩壊を契機として明るみに出たロシア武術のひとつとされ、公での歴史は他の格闘技と比較したなら新しい部類に入るだろう。
しかし、新しいと浅いは同義ではない。
達人が扱うその技術は極めて実戦的。ナイフや槍、果ては対銃器をも想定した攻防技術を備えるこの格闘技は、今やロシアの特殊部隊など様々な機関が導入している。
現時点の流護が知る限りでも世界各国で普及が進んでおり、日本においても道場や教室が開かれていたはずだ。
「それっぽい見た目とは思ってたけど……マジか。ガチのロシア人かよ、てめぇ」
言葉としては日本語――イリスタニア語を話しているメルコーシアだが、間違いない。
いつか考えたことがあった。なぜこの異世界へやってくるのは日本人ばかりなのか。そんな流護の疑問に対し、ロック博士が仮定した。外国人もやってきているかもしれない、と。ただ、自分たちが気付いていないだけで。
果たしてこのメルコーシアなる男は、どういった形でこのグリムクロウズへやってきたのか。どのような経緯でオルケスターに加担しているのか。
気になるところではあるが――ひとまず現状は、このシステマ使いを撃破する以外にないところか。
流護の言葉を耳にして、ここで初めてメルコーシアの表情に変化が見られた。
「…………そうか、貴様は……」
ほんのわずかに目を見開いた、驚きの顔。同郷の士がいたことに対する反応であることは疑いようもなく。
「そうだよ。同じ地球の出だ。くだらん小競り合いなんかやめて、お話でもするか?」
少年のその言に返ってきたのは、想定していない答えだった。
「………………私はお前とは違う。興味がないな」
有無を言わさず。両腕を腰溜めの位置でゆらりと一歩踏み出たメルコーシアが、ノーモーションの右ストレートを打ち放つ。
「……!」
どうにか反応して防御を固めると、ファーヴナールの手甲越しにゴンと硬質の衝撃が伝播した。
(くそ、タイミングが分からねぇ……!)
すぐさま追ってくる左フックをどうにか躱すと、またも右。小手で受ければ痺れる衝撃が走る。
ようやく合点がいった。
ストライク、と呼称されるシステマ流の打撃。
こと究極の脱力から繰り出されるその拳には、上肢の質量が内包されている。空手やボクシングと違い、身体のバネや地面を蹴った反動を用いない。肩や腕、拳にすらも無駄な力みがないため、極めて前兆――予備動作が分かりづらい。つまり対応が難しい。脱力していながらも拳には重さが篭もっており、例えるならそれはしなる紐の先端に鉄球が括りつけられているかのよう。受けたなら、鈍器で殴られたかと思う衝撃に襲われる。
構えて、踏み込んで、攻撃する。
のではなく――攻撃を振った結果、身体のほうがついてくる。力みなく、流動的に。ゆえに造作なく速い。
そのうえで純粋なスピードでは流護のほうが勝るはずなのに、初めて見える戦闘術を前にどうしても反応が遅れてしまう。結果、速度差を埋められてしまう。
そして、
「シッ!」
負けじと反撃の左ジャブ。故郷にいた頃からこれまで、そしてこの氷輝宮殿内での戦闘においても無数の敵を撃破してきたその一矢は、
(直撃……!)
ごっ、と手応え。メルコーシアの頬が押され、歪み、傾ぐ。
当たるのだ。これまでの敵と同じように。
なのに、
「――」
ぐるんと回されるシステマ使いの肩。その回転に、衝撃が取り込まれる。そして矛先を変え、放たれる。蠢いた肩から、意趣返しのような左拳が射出。
「ぐ、っ!」
どうにか受けて防ぎ、押される形で一歩後退。
距離計測からの右も間に合わない。ワン・ツーに割り込まれる形で反撃が飛んでくる。自分の力をそのまま反射されたような一撃が。
(くそったれ……!)
時間にして、十数秒ほど。息もつかせぬ打撃の応酬が続く。
拳のみならず蹴りも交えつつ交錯していく中で、判然としたことがあった。
幾度となく攻撃を直撃させているはずの流護だが、しかしメルコーシアにダメージはない。
上半身への攻撃は、胸部から肩甲骨への回転力で。
下半身への攻撃は、膝の屈伸や片脚を上げる動作で。
効いて身体を傾がせているのではない。その柳めいた柔軟な動きにて、攻撃の威力を殺しているのだ。
攻撃すれば、脱力からなる受け流しより即座の返し。
待ち受ければ、やはり脱力からなるブラックジャックを振り回すような素早い連撃の数々。
そしてそれらに、明確な切り分けがない。
攻撃し、防御。またはその逆。明確に切り替えるのではなく、その双方が連綿として繋がっている。
(……、)
否が応にも、認めざるを得ない事実があった。
(こいつ、レベルが……――)
次元が、違う。
刹那の驚愕が、集中力に翳りを生んだか。
メルコーシアの左拳をスウェーで躱すも、続くバックブローの右裏拳が、強かに流護の下顎部を打ち据えた。
「――――」
白む意識。
まずい。しっかりしろ。
混濁する思考の中、必死で自我を保つ。これ以上打たれないよう顎を引き、防御が下がらぬよう両の腕を掲げる。
基本的にノーガードで相手の攻撃を回避することに重きを置く流護としては、珍しい構えでもあった。
「う、おらああぁ!」
敵を倒すというよりは意識を失わないために、あえて前へと突っ込み仕掛け続ける。
右正拳を打ち込めば、その反動で相手の右拳が即座に飛んでくる。押した分だけ戻ってくるような威力と速さ。直撃をもらい、またも思考が霞む。
そして反撃を警戒し攻めあぐねれば、向こうから前に出て連撃を見舞ってくる。それも多彩かつ巧みで、様々な角度やタイミングで放たれる。全弾回避は不可能。どうしても何発かはもらってしまう。
そのうえこれまでと違い、メルコーシアの狙いはいつしか人体急所へと定められていた。正中線上や手足に点在する穴を正確に突いてくる。
これは、乱撃の最中で『狙って当てられる』と判断されたということに他ならない。
それほど、力量に隔たりがあることの証左。
速さ、筋力では自分が上回っているはずなのに、相手の技術がそれをことごとく無効化する。こちらの耐久力など意にも介さず、正確無比な打撃の数々が急所を射抜いていく。
(が、バカみてーに攻めるだけじゃダメだ、やっぱカウンター狙いで……!)
間隙を縫ってどうにか右拳を――
「おるぁ! ――がっ!?」
そしてついに、カウンター失敗。
もはや相手に当たることもなく、一方的に殴られる。
体力が切れ始めている。ついていけなくなってきている。
(くそ、何とか……何とかして流れを掴め……!)
どうにか反撃を受けない位置から拳が当たったかと思えば、メルコーシアは押された暖簾のように体の軸を傾け、「ヒュッ」と独特の呼気。その威力を明確に受け流している。
(調子……乗ってんじゃねぇ!)
左ジャブ。と見せかけ、右正拳。メルコーシアの機械じみた冷静な目が、そのモーションを正確に追う。後者を本命と認識する。
「ヂィッ!」
ゆえに、直撃。
左右の拳打は双方ともがフェイント。本命は左ハイキック。近間から伸び上がった左足の甲が、メルコーシアの右肩口を打つ。
消耗でしんどいことも理由のひとつではあったが、ここまで流護は蹴りの頻度を下げ拳で応戦していた。
ゆえに、完全なる慮外の一撃。威力の相殺は不可能だったはず。
(っしゃ……!)
――しかし。
あったのは、ゴムタイヤを蹴ったような硬い感触と。
「この密着状態から脚が伸びるか。面白い」
空手家・有海流護、渾身の左ハイ。グリムクロウズの人間ならば即死確定の一撃をまともに浴びた男の反応は、ただそれだけだった。
己の肩を叩いた流護の足を、意外そうに見つめながら。
(……、こいつ……?)
平然としている頑丈ぶりも驚愕だが、ある疑念が流護の脳裏をよぎって――
即座に飛んできた下段蹴りが、的確に流護の軸足、右膝を踏み射抜く。これまでは見せてこなかった関節蹴り。技のレパートリーもまだまだ秘めているということか。体勢を崩したところへ、人体急所を狙った拳突きが飛んでくる。人中、下昆。
それはまるで、石職人が岩を削るような丁寧さと冷静さで。
「が、――は」
攻撃を受けて傾いだところへ、逃さぬとばかりの追撃。
二発、三発。
もう、拳をもらっているのか蹴りを食らっているのかも分からない。
「……、 …………」
精密にすぎるストライクの数々が、確実に少年を挫いていく。着実に削っていく。いかに打たれ強かろうと、パワー差があろうと、正確に急所を射抜かれている。ダメージが蓄積していく。
もはや疑う余地もない。
――メルコーシアと名乗るこの男は。
格闘家として、圧倒的に有海流護を上回っていた。




