514. 初対面
「ほう、これは……ひっひっ」
興味深げに目を細めるのは、子供さながらに小柄な老人だった。
駆けつけたばかりの流護たちにも、その状況の把握は容易い。
致命の一撃を受けて崩れ落ちたサベル。彼にすがりつくジュリー、即座の治療にかかるベルグレッテ。
そんな切迫した状況の中でありながらも、有海流護は目を奪われていた。
進路を塞ぐ形でゆらりと立つ、その老人の姿に。
「……、……っ……、!」
考えるより早く。
咄嗟に『何か』を口走ろうとした流護は、慌てて言葉を飲み込んだ。
(………………、いやでも……こいつ、……?)
年齢はどれほどだろうか。相当な高齢のはず。皺に覆われた顔。身長は流護より遥かに低く、百六十センチに満たないだろう。
「アリウミ、こいつぁ……」
「……、ああ」
背後から聞こえてきたエドヴィンのかすれ声に、少年も頷いた。
面と向かったのはこれが初めてだが、流護やエドヴィンでも状況から簡単に予想がつく。
「……てめぇが……キンゾル・グランシュアだな」
これまで名前だけは知っていた、一連の事件の裏にいた黒幕的存在。なるほど、あの手配書の似顔絵はあまり出来のいいものではなかったらしい。
「ひっひっ、如何にもじゃが……遥か年長者へ向かって、なんちゅう口の利き方じゃ」
そんな口調と反し、怪老に怒りはない。歯牙にもかけていないのだ。
「その不遜な態度……あ奴を思い出すのう。ディノ・ゲイルローエン……あれも、傲慢で小生意気な童じゃった」
ここで出てきたその名前を少し意外に思いながら、流護も挑発的に応じてやる。
「ああそっか。レドラックとつるんでたから、野郎とも面識があんのか。てめぇも『ペンタ』なんだろ? ま、あいつに比べりゃ全然大したことなさそうだけどな」
「ひっひっ、それはどうじゃろうのう。あ奴も最強なぞと嘯いてはおったが、ひひ」
さも楽しげに。
怪老は、衝撃的な言葉を続けた。
「あれも死んだとよ。オルケスターのナインテイルに殺されよったそうじゃ」
「――――――――――は?」
流護の思考が刹那、空白に染まる。
(……ディノ、が?)
死んだ? 殺された? オルケスターの? ナインテイル?
「リューゴッ!」
喝は、サベルの治療にかかりながら状況を注視していたベルグレッテからだった。
動揺した流護の虚を突き、キンゾルが一挙間合いを詰めて迫っていた。老人らしからぬ素早さで。
「……とっ……!」
無造作に伸びてきた右手の指先を、スウェーでどうにか躱す。
(! 腕、長っ)
その低い背丈に見合わぬ、妙に長い腕。鞭のようにしなったそれを、紙一重の距離で躱し切る。
拳ではない。武器も持っていない。ただ指先で触れようとしているような挙動。
が、相手は『ペンタ』。触られただけでも何が起きるか分からない。迂闊な掴みやガードは禁物と判断する。
「ひっひっ」
すぐさまもう一歩踏み込み、返す刀のような再度の右。キンゾルは追いすがる形での追撃を繰り出してくる。見た目に反し、接近戦を旨とする『ペンタ』なのか。
これもスウェーで完璧に躱す流護だったが、単調な攻撃を二度も見逃してやるほど優しい空手家ではない。
即座にカウンターの右正拳をぶち込む――
(……、ん!?)
つもりで備えていたのだが、タイミングが狂ったと判断。反撃せず身構えるのみに留める。
何かおかしい。最初と踏み込みの速度が違うのか。
(……いやこいつ、左右で足の長さが違うんだ)
過酷な鍛錬の果てに足技を極めた武術家は、その影響で左右の足の長さに差異が生じることがあるという。
しかしもちろん、万事において神詠術を基盤とするこの異世界に、それほどの武を修めた人間など存在するはずがない。
キンゾルの体捌きは確かに老人としては規格外の冴えを感じさせるが、一人の戦士として判ずるならば超一流には届かない。
(つーか、腕の長さも変じゃねーか)
注視すれば、右と左で明らかな差がある。
「ほう、避けよるか。いい目をしとる」
猿めいた軽快な身のこなしで、コートの裾をはためかせつつ。二連撃を空転したキンゾルはそれ以上迫ってくることなく、緩やかに間合いを取った。
「てかコラ、せけぇハッタリかましてんじゃねぇぞじじい……!」
流護はというと、腹立たしさは二倍だった。敵を前にしたこの場面で、むざむざと隙を晒してしまった自分。それも、いけ好かないはずのディノがやられたと聞いた動揺から。
その心理を見透かしたように怪老が嗤う。
「ひっひっ、やはり知らなんだか。慮外だったかの? あれと鎬を削ったお主としてみれば。じゃが、不思議はない。ディノの小僧では、あのナインテイルには勝てんじゃろう」
「だから何だよ、ナインテイルって」
「オルケスター最強の双璧、その一角……。『ペンタ』じゃよ。天轟闘宴の直後、やり合うたそうでな。ディノも悪うない素材じゃったが、あれを前にしては致し方なし。リューゴ・アリウミ……お主では五秒ともたぬじゃろ」
「……あっそ。で、お前は見たんか? ディノがやられるとこ」
「見んでも分かる。彼我の実力差なぞはな」
やはり、だ。
落ち着いて考えてみれば腑に落ちない。
そもそも、あのディノとオルケスターが接触していたことも驚きだが――キンゾルの口ぶりは、飽くまで伝聞によるものでしかない。ディノが殺された『そう』。やり合った『そう』。
あの男が闘った場面、死ぬ場面を実際に見てはいないのだ。
(簡単に死ぬかってんだよ、あいつが……。くだらねぇ、集中しろ)
惑わされるな。
自分に言い聞かせた少年は、深呼吸とともに眼前の敵を見据え直す。
疲弊し切った状況で、『ペンタ』と遭遇。
が、これは機だ。キンゾルをここで仕留めることができれば、少なくとも『融合』にまつわる被害がこれ以上広がることはなくなる。
「で、そのナインテイルとかってのが今ここにいないお前は、どうやって自分の身を守んの?」
ようやく平静を取り戻しつつある流護は、不敵に笑ってやった。
怪老が応じる。
「ひっひっ。こう見えてワシも『ペンタ』よ。お主程度、如何ようとでもなる……が、それでもワシは決してお主を過小評価しておらん。今のオームゾルフを退けることができたのは、お主の存在あってのことじゃろ。『詠術士殺し』とは、よう言ったもんじゃ」
「詠術士殺し? 俺のことか? はは、分かりやすいネーミングだな」
直後、背後からベルグレッテの困惑の声が聞こえた気がした。が、さすがにキンゾルと対峙しているこの現状で、振り返って「どうかしたか?」などと訊く余裕はない。
そのキンゾルが、おもむろにわざとらしく耳へ手を添える仕草を見せる。すっとぼけた政治家のような露骨さが苛立たしい。
「……おっと、戻って来たのう。丁度よい、せっかくじゃからここから先は任せるとしようぞ。ナインテイルに勝るとも劣らん、ワシの頼れる護衛にの」
「!」
その言葉と同時。キンゾルの背後。廊下の角から、ヌッと人影が現れた。
太い男だった。
静かな群青の瞳、短く刈った金の髪、武骨な顔立ちと白い肌。それはいい。
「……!」
流護の意識を奪うのは、その体格だ。
はち切れんばかりに隆起する首から肩、発達した腕の筋肉。上背の高さはさほどでもないが、横に太い。そして……この異世界でお目にかかれるものとは思えない、迷彩柄のミリタリーパンツ。
「ご無事ですか、先生」
太い男は、外見から想像できる通りの低い声を発する。外見からは想像できない、流暢な日本語で。
「ひっひっ。兵士どもの様子はどうじゃった?」
「は。やはり、この付近にはおらぬようです。何らかの行動を起こしているものかと」
「ふぅむ、そうか。ところで、見ての通りの状況じゃ。ワシ一人でも問題なさそうじゃが、せっかくじゃし……任せてよいかの、メルコーシアよ」
「は。仰せのままに」
ズンズンと大股の足取りで、その筋肉の塊が――メルコーシアと呼ばれた男がやってくる。
「…………、」
流護は身構えつつも、せっかく取り戻した平静を再び崩しそうになっていた。
(なん……だ、こいつ……!?)
グリムクロウズ人の特徴でもある、筋肉に乏しい身体。
そんな根底に反する、服の上からでも分かる頑強な躯。エンロカク以外にこんな人間が存在するのか。
(いや、あいつとも違う……)
どちらかといえば、『地球寄り』だ。天与の恵まれた骨格を有しつつ、明らかな鍛錬によって作られた肉体。こういった体型をした外国人の格闘家は珍しくない。
(ちょっとアンコ系の……ロシアンファイターみてえな……)
注視するうちキンゾルが下がり、入れ替わる形でメルコーシアが歩み出てきた。
互いの距離が、わずか一メートル程度まで縮まる。
間近で面と向かって認識する。やはり、身長はこれまでの相手に比べればさほどではない。百八十あるかないか。流護からすれば充分に高いが、グリムクロウズ基準で考えれば低いほどだ。
「……その風貌。お前がリューゴ・アリウミか」
冷たい。まるで温もりを宿さぬメルコーシアの瞳が、静かに見下ろしてくる。
「はっ、俺って有名人なのか? 嬉しくもねーけど。ま、何でもいいけどさ、この間合い……」
この相手が何者なのかは分からない。接近戦もこなせる使い手であることは推し量れる。
ただ、はっきりしていることがある。
――今この空間は、純然たる格闘家・有海流護の支配域であるということ。
「シィッ!」
問答無用。
左足で一歩踏み込んだ流護は、メルコーシアの顔面に向かって右ストレートを打ち放った。