513. 腐食銀
「はっ、はぁっ……」
息を切らせながら、オームゾルフは重い足を引きずっていた。
床を転がったことによる打ち身や、体力の消耗も無視できないところではある。しかしそれ以上に、
「う、く……」
頭痛。そして吐き気。
これは施術の折にキンゾルから聞かされていたことだ。
『融合』の処置を受けた者は総じて、無理が祟るとそのような症状に見舞われると。
しかも、それだけではない。
(なるほど、これが……)
自分の身体が自分のものでなくなっていくような、別の何かに支配されてしまいそうな感覚……。
己の内側で、何か得体の知れないものが蠢いているような不快感……。
「……、」
背後を振り返る。
追ってくる者の姿は確認できない。ここまで無作為に幾度も角を曲がっている。簡単に見つかりはしないはずだが、油断はできない。
それにしても、
(誰の姿もない……)
異常なまでの静けさ。兵士の一人にすら遭遇しない。
その大半は、かの少年に叩きのめされたのだろう。
(……本当に、私の読みが甘かった……)
ベルグレッテについては、もはや最大限に警戒していた。
しかし――遊撃兵、リューゴ・アリウミ。
彼についても、同等かそれ以上の注意を払うべきだったのだ。
単騎にてこの氷輝宮殿へ正面から突撃を敢行。膨大な数の兵力を撃破し、オルケスターの術者も一蹴。ついには自分の下まで到達、『融合』によって得た力すら跳ねのけた。
確かにベルグレッテが練った戦略や、サベルたちの補佐があっての戦果ではあるだろう。
だが、認めざるを得ない。
今や氷輝宮殿は、あの少年一人に落とされたも同然だった。
獅子の国の王は、何と恐ろしくも頼もしい戦力を引き入れたのか。
(でも……まだよ)
まだ終わってはいない。
一旦、この宮殿から離脱する。
もう、なりふりなど構ってはいられない。
皇都中の兵士たちをかき集め、反撃態勢を整えるのだ。街は街でベルグレッテたちの仕掛けた策によって混乱状態にあるようだが、いつまでも続くものではない。
「はぁっ、はぁ……」
朦朧とする。
こんなにも全力で駆けたのは果たしていつ以来だろう。
……ああ、そういえば。
学友やメルティナと美術館へ行く約束をして。けれど、先生に言いつけられた用事が長引いてしまって。
急がねばと一生懸命に息を切らせて、具合を悪くしたことがあった。ちょうどこんな風に……。
(メル……)
だが今は、いつも支えてくれた彼女はこの場にいない。
そうだ。もう、随分とまともに一緒の時間を過ごしていない気がする。
けれど――
(……これを、やり遂げ……たら……きっと)
この変革の試練を乗り越えることができなたなら。また、一緒に……。
(……? ……一緒、に……?)
頭痛が思考を遮る。
いや、前提がおかしい。
だって私は、彼女を……
「!」
揺らいだ意識が、唐突に現実へと引き戻される。
行く手に現れた小さな人影が原因だった。
老人。
白衣の上に、防寒と変装を兼ねて着込んだ茶色のコート。頭に載せた同色のつば広帽子。総じて、取ってつけたような仮初めの印象が伴う外装。顔には年相応の皺が多く刻まれているが、特徴的なのはその眼光だ。齢を重ね、終局を間近に控えた人間のそれではない。ぎらぎらと滾る、未だ野心を裡に秘めているかのような。
慮外の相手を前にして、オームゾルフは意識せずその名を呼んでいた。
「……、キンゾル殿……」
小柄な老人は、皺だらけの顔により深い線を寄せて笑う。
「ひっひっ。これはオームゾルフ祀神長。お急ぎのようですな」
「……なぜ、あなたがここに」
キンゾル・グランシュアは賞金首である。
バダルノイスでの認知度こそ低いものの、さすがに公然と昼神の下を歩ける身ではない。
ゆえにこれまで、表立って活動することはほとんどなかった。
モノトラたちを特別相談役に任じて以降――つまりベルグレッテ一行をお尋ね者に指定して以降は、秘密裏に宮殿へ招いて人目につかぬよう地下に匿っていた。レノーレやベルグレッテらを狙う賞金稼ぎによって、キンゾルが見つかっても厄介だからだ。
今回の件においても、この老夫の出る幕はない。
というより、彼のオルケスターとしての任務は概ね終了している。あとはメルティナの臓器を抜き出すぐらいだ。
あえて挙げるとすれば、施術対象――『完成形』であるオームゾルフの経過観察が役目といったところか。
「ひっひっ。何やら先ほど、部屋が大層揺れましてな。すわ何事かと思いましての」
あの氷塊が落下した際の衝撃だろう。
「……大したことではございません。それより、兵に見つかっては事ですよ」
見たところ、キンゾルは一人。常に付き従っているあの護衛の姿もない。
「ひっひっ。人は存外、他者のことなぞ気にかけておらぬもの。まして、年老いた爺の見た目なぞ似たり寄ったりですからな。加えてこの非常時……気付かん気付かん。それより……」
顎先に指先を当てたキンゾルは、まじまじとオームゾルフの顔色を窺う。診察をする医者のようだった。
「流石に貴女といえど、力を使いすぎたようですな。……ふむ、それに」
短い首を伸ばし、その落ち窪んだ瞳をオームゾルフの背後へと向ける。わざとらしく片耳に手を添えて、
「何者かが迫っとりますな。……ふむ、兵士ではなさそうじゃが……正確な追跡じゃな。じき、ここへ至ろう」
「!」
思わず振り向くが、青絨毯の延びる廊下に人の姿はない。
「……足音が聞こえる、とでも?」
「ひっひっ。そんなところですかな。『この耳』はちぃとばかし特別でして」
どうにも疑わしい。
が、その主張を信じるならばベルグレッテたちか。
「どうれ、ここはワシに任せなされ」
やがて何者かが到達するであろうその空間に、目を細めたキンゾルが歩み出た。
「! 何を……」
彼らの相手をするつもりか。
さしものオームゾルフですら予期せぬ行動だ。
「飛び交う通信を傍受しておりましたでな、大方の状況は把握しとります。このバダルノイスへやってきて一ヶ月半、貴女の施術以外には数人の賞金稼ぎと戯れたのみ……。いい加減、大人しゅうしとるのにも飽きましてな。うむ、『飽き』はいかん……これ以上の苦痛はない」
「……、」
どういうつもりなのか。
キンゾルの『融合』によって莫大な力を授かったオームゾルフではあるが、率直に言ってこの得体の知れない人物を信用などしてはいない。
一体どんな利があって、敵の迎撃を買って出るのか。
そんな聖女の内心を悟ったか、怪老はヒヒと小さく嗤う。
「おかしなことでもありますまい。せっかくの『完成形』である貴女を失うことはワシにとっても好ましくない。そして敵は、当初より臓器を奪取する予定だった者たちばかり。事態も佳境ですからな、ワシ自身の手で獲得してしまおうというだけの話……。何、こう見えて腐っても『ペンタ』ですからのう。造作もありはしませんぞ、ひっひっ」
「……左様ですか」
鵜呑みにする気はない。しかしキンゾルが何を企んでいようと、ひとまずその行いでこちらが困ることはない。
「では、お言葉に甘えさせていただきましょう……」
何よりオームゾルフには断る理由も、また余裕もなかった。
「……失礼」
短く言い残して先を急ごうとする聖女に、老人は楽しげな声を投げかける。
「ひっひっ、ではご武運を……いや、ここはバダルノイスでしたな。貴女に、氷神キュアレネーの加護があらんことを。ひっひっ」
「…………、こっちよ、サベル」
場所は二階廊下の一角、幾度目となるかも分からない十字路にて。三通りの選択肢の中から、風の麗女は迷わず一方向を指し示した。
「よし」
紫燐の青年もまた、その言に何ら異論を唱えることなく従う。自分たちが進む方角の壁へ備え付けられている燭台のひとつに、紫の火を灯す。
「相変わらず、ジュリーの鼻は頼りになるぜ」
「ふふ、もっと褒めて」
風属性を操るジュリーは、空気中に漂うかすかな匂いを感知する鋭敏な力を持っていた。外敵の奇襲を察知したり、このような標的の追走においても重宝する技能である。特にオームゾルフのように高貴な女性が対象であれば、身につけている香水の残り香から探知することはさして難しくない。
そのように確信を持って追い始めた直後のことだった。
「! 誰か……いるかも。……すごく、イヤなニオイ……」
そんなジュリーの言葉、技能の正確さを証明するかのように。
警戒しつつ角を曲がった廊下の中央。十マイレほど前方に、その老人が佇んでいた。
「…………、……こいつは……」
絞り出た声は、サベル自身も驚くほどにかすれていた。
脳内に警鐘が鳴り響く。
何によるものかと言われれば、それは探検家として培ってきた勘だ。
――あらゆる『負』を凝縮したような何かが、目の前にいる。
疑念もなくそう思える存在が、そこに立ち塞がっていた。
一見すれば、ただの小柄な老人。避難場所から迷い出た民? いや、違う。であれば、なぜあのようにニタリと嗤っているのか。なぜああも堂々と立っているのか。
本能が即座に断ずる。この相手は――のさばらせてはならぬ『凶』だと。
そんな災禍が口を開く。
「ひっひっ……その外見……お主が、サベル・アルハーノじゃな」
「――ッ」
枯れた外見、しわがれた声に似合わぬその瞳だけが、異常にぎらついた光を発している。その釣り合わなさ……歪さが、えも言われぬ怖気を誘う。
「……へっ、成程。あんたがキンゾル・グランシュアかい――」
「ひっひっ。ワシの名も知れたもんじゃな」
「あまり……手配書の似顔絵には、似てないんだな」
「ひっひっ……実際の方が遥かに男前じゃろう?」
「あァ……」
実際のほうが遥かに――、邪悪だ。
各地を渡り歩いたサベルだが、ここまで汚濁した気配を身に纏う人間を未だかつて見たことがない。
(チッ、ここで遭遇とはなァ)
前線に出てこないと踏んでいたが、無論それはこちらの勝手な読み。外れてしまったというだけのこと。
相手は『ペンタ』。正直なところ交戦は避けたいが、出会ってしまった以上、簡単に見逃してくれはすまい。
(腹を括るしかねえぜ……!)
低く、低すぎるほど身を屈めたキンゾルは両手を床につけ、完全な四つん這いとなる。
「っ……、サベル、気を付けて」
「ああ……」
不可思議なのは、その姿勢に無理がないことだ。まるでその体勢こそが本来の姿であるかのように、両手両足がピタリと青絨毯の上に接地している。
それもどこか、獣よりは……虫に近い不気味さを有している。
(何だ、こいつの身体は……四肢が、異常に……長い……?)
遠目にもそう気付いた瞬間、
「ひっひっ」
不気味な笑い声は、信じられないほどサベルの間近から。
大股で十歩分も離れた位置にいたはずのキンゾルが、目の前に迫っていた。
獣がごとき四足歩行をもって、一瞬のうちに。
「!」
起き上がりざま、怪老が右腕を閃かせる。その先端は拳ではない。武器の類も所持していない。伸ばしただけの指だ。が、触れないに越したことはない。
「おらぁっ!」
大振りなその一撃を躱しざま、サベルは右手に滾らせた紫炎をその場で爆裂させた。
「俺のこいつが欲しかったんだろ? じいさん――」
射程こそ短いものの、荒波がごとき炎の直撃。いかに『ペンタ』といえど、まともに浴びればただで済むはずはない。
「――ひっひっ、ちょいと違うのう」
五条の軌跡が、紫の爆炎を斬り裂いた。
「く!?」
危険を感じたサベルは、即座に後退。
猛る炎そのものが、キンゾルの右手……その指先によってかき消されていた。
(こいつ……!?)
万物炎上。その力を有するサベルの炎は、結果はどうあれ対象を必ず火に包む。石であろうと、吹雪であろうと。ひとまず取りつき、燃やそうと試みる。
だが、
(俺の炎を、一瞬で『消し』やがった――)
かすかほども炎の尾に巻かれることなく、完全に。
「その力を生み出す根源、頂戴しようぞ」
返しざま踏み込み、再度伸びてくるキンゾルの右腕。その先端の白い指先。サベルの紫炎を難なく消し去るような力だ。かすかほども触れられる訳にはいかない。
(だが……見えてるぜ……!)
届かない。躱して、反撃だ。
――しかし。鼻先の距離で完璧にいなしたはずのその指先が、ほんのわずかにサベルの喉元をかすめていった。
「――、」
なぜ届いた?
即座に浮かんだ疑問と同時。
サベルの喉から、血飛沫が咲いた。
「が……!」
鋭利な刃で裂かれたのと何ら遜色なく。
首から噴き出した鮮血が、足下の青絨毯を派手に汚す。
「サベルっっ!」
悲痛な伴侶の悲鳴と、崩れ落ちかけた肩を支えられる感触。
(……こいつ……、)
瞬く間に霞んでいく視界の中。見れば見るほど、その異様さに気付く。ぼんやりと映る老人の姿が、コートの下から白衣をたなびかせるその姿が、間近で目の当たりにすればあまりにも不自然で。
枯れた顔に見合わぬ妙に若々しい肌。首筋から覗く色の違う皮膚。四肢の長さまでもが、それぞれに異なっている……。
今しがたの一撃をもらってしまったのも。
踏み込みの軸となる蹴り足を変えることで、間合いを誤認させたのだ。
何だこいつは。
本当に人間なのか。
そう思わされるほどの怪奇。
「ジュ、リー……」
逃げろ。こいつは危険だ。
声の代わりに吐き出されるのは、ごぼごぼと耳障りな血泡でしかなく。
「いや、サベル、サベル!」
「――サベルさんっ!」
今度こそ死を覚悟したその瞬間、伴侶の声と重なって響くベルグレッテの声。複数の駆ける足音。流護とエドヴィンも一緒らしい。
ああ、またも命を拾ったか。
だが、安心はできない。このキンゾルは……危険すぎる。
駆けつけてくれた仲間たちの無事を火神に祈りながら、サベルは不覚にも意識の手綱を手放した。