510. 絶対零度
「はぁっ、はぁ……ッ、」
氷輝宮殿は三階、どこだかも分からない奥まった通路にて。
雪嵐渦巻く広間からどうにか脱した流護たち五人は、衣服に張りついた氷を払い落としながら息を荒げていた。
「冗談じゃないぜ……、危うく建物の中で遭難するところだ」
軽口を叩くサベルの声にも余裕がない。
「何よ、あのデタラメな力は……。桁外れなんてもんじゃないわよ」
激しい吹雪に巻かれたことだけが原因ではないだろう、ジュリーの顔色は青ざめている。
ベルグレッテとエドヴィンも、へたり込んで呼吸を整えていた。
「……、」
流護は手甲にへばりついて取れない氷片を叩きながら、再確認するように呟く。
「……『完成形』、とか言ってやがったな……」
その言葉に目を伏せるのはベルグレッテだ。
「……よりにもよって……キュアレネー神教会の高僧をも務めたオームゾルフさまが、『融合』を……」
少女騎士にしてみれば、聖職者のオームゾルフが例の外法による施術を受け入れたことは、到底認めがたい事実だったのだろう。
そして、まさかの『完成形』。
アルドミラールすらまるで比較にならない、あまりに絶対的な力。
「感傷に浸るのは後だぜ、ベルグレッテ嬢。今考えるべきは、あれにどう対抗するかだが……」
そんなサベルの言を受け、ジュリーが疲れ切った面持ちでうつむく。
「参ったわよね……。オームゾルフ祀神長を捕まえに来たのに、逆にこっちが逃げ回るハメになるだなんて」
「イヤ、一杯食わされたな……。あれこそが、彼女の真の切り札だった訳だ」
「どーするよ? とてもじゃねーが近付けやしねーぜ、あれじゃあよ……」
エドヴィンの秘術、燃え盛る剛速球スキャッターボムですら容易く吹き消してしまう圧倒的な風雪。
(火の塊があんな簡単に消されちまうんだ……。俺が突っ込んでも……)
いかに流護といえど、あれに生身で近づくのはもはやただの自殺行為。まず間違いなく、接近し切る前に死ぬ。即席の氷像として生まれ変わることになるだろう。
「『滅死の抱擁』……か」
かすれた声は、サベルのものだった。
「? 何だって?」
流護が尋ね返すと、
「俺も実際のそれを知る訳じゃあないが……噂に聞く、十数年前のバダルノイスを襲った大吹雪……『滅死の抱擁』ってのは、あんな感じだったんじゃないかと思ったのさ。オームゾルフ祀神長の巻き起こした、アレを見てな……」
かつてこの北国に甚大な被害を齎した未曽有の大災害。通信術を遮断するほどに荒れ狂ったという嵐雪は、確かに攻撃術すら吹き消した今しがたの暴威に通じるものがあるようにも思える。
(……ならさしずめ、それを起こしたオームゾルフ祀神長は氷神……ってとこか)
皮肉的に思う流護だったが……実際、あまりに圧倒的。
それこそ神の力ではないかと怖じるほどに。
(純粋な術者も……超特化すればああなる、って訳か……)
ここまで、どんな敵も拳足でねじ伏せてきた。そしてこれからもそうするつもりでいた流護だが、あんな『吹雪そのもの』が相手では近づくことすらままならない。自然の猛威に生身で抗うようなものだ。
改めて、神詠術という力の底知れなさを思い知る。
そして、オームゾルフの計略も。
(ミュッティが留守でも全然問題なかったんだ。サベルの言う通り、自分自身こそが本当の切り札だった、って訳か……)
ようやく追い詰めたかと思いきや、逆にこちらが唯一の階段を封じられ三階に閉じ込められてしまった。
水を打ったような静けさの中。
「さ、さむっ」
と、にわかにジュリーが身を震わせた。
「……、!?」
雪国までやってきて肌色面積過多のジュリーはまだしも、流護も思わず肩を竦めた。
「な、なんか急に冷えてきてねえか……?」
気のせいではなかった。
少年の脳裏に甦る。
レインディール城の地下で、咎人の『ペンタ』ブレーティが囚われた牢屋に向かっていたときのあの感覚。少しずつ……しかし確実にいや増していった、凍えるような空気。
「!」
直後、それは後方からだった。全身を撫でていく、一陣の冷たい風。
示し合わせた訳でもなかったが、皆が一様にその出所へと顔を向けた。
「うっ……!」
誰かの呻き。
つい今ほど、広間から退避した流護たちが駆け抜けてきた長い廊下、その曲がり角から。こちらのたどった足跡を追うかのように、局所的な暴風雪が現れた。
石壁や絨毯、天井、周囲の全てを凍りつかせながら。すぐさま、その現象を纏う人影が姿を見せて。
一歩、また一歩とこちらへ向かってくる。
「き、来やがった! オームゾルフが来やがった……!」
流護が聞く限り、初めてだったかもしれない。常に強気なエドヴィンの声音に、明らかな怯えの色が滲んでいたのは。
「ったく……! 悠々と歩いて追ってくるなんて、随分と余裕ね! なぶり殺しにでもするつもり!?」
ジュリーですら明らかな焦りを隠せない中、
「いえ、おそらくは……」
どうにか冷静さを取り戻したらしいベルグレッテが、恐る恐る推論を口にする。
「走れないんです。あの吹雪の維持に注力しているために」
その発言には、サベルが納得顔で頷いた。
「成程、一理ある。あの吹雪は流石に尋常じゃない。『完成形』だろうが何だろうが、簡単に巻き起こせる代物じゃないはずだ……」
「呑気に喋ってる場合かよ!? こっちに来るぜ、クソッ!」
エドヴィンが叫びながらスキャッターボムを遠投するが、やはりオームゾルフにはまるで届かない。灼熱の火炎球は渦巻く風と雪に勢いよく突っ込むも、即座にその大きさを減じて霧散してしまう。
「急いで、こっち!」
手招きするジュリーに続き、団子になって石の廊下を駆ける。角を曲がり、長い直線へ。
「大丈夫かよ!? 行き止まりにでも追い込まれちまったら……!」
「それなら問題ないわ。三階は全ての廊下が繋がっていて、一周できる造りになっていたはず……」
エドヴィンの懸念には、ベルグレッテが答えた。
背後を振り返ってみるが、あの荒れ狂う吹雪の姿はない。おそらく走れない、というベルグレッテの予想は的を射ているか。
少しでも距離を稼ぐべく廊下を走り抜けた一行は、
「なっ!?」
次の曲がり角へ差しかかったところで、予想だにしない光景を目の当たりにすることとなった。
それはまるで、氷の洞窟。壁、床、天井……視界内に存在する全てが、端張った雪と氷で固め尽くされている。
「んだこりゃあ……!? うお寒ッ、クソ……!」
たまらず、エドヴィンが手のひらに炎を生み出した。
同じように紫炎を顕現しながら、サベルが呆然と呟く。
「……オームゾルフ祀神長が通った跡か」
彼らの炎で暖を取りつつ、思わず皆が顔を見合わせた。
一体、気温はどれほどまで下がっているのだろう。これまで経験したことのない寒さが、腹の底から身体を冷却していくのを感じる。
吐く息は白さを増し、耳は千切れそうにジンジンと疼く。
「……そもそも、走って追う必要すらないってわけね……」
サベルが灯した紫の炎に身を寄せながら、ジュリーが笑みを引きつらせた。
「マジか……」
流護も信じられない心地で呟いた。
三階の廊下に行き止まりがないなら、オームゾルフが走れないなら、ひとまずこうして距離を取っていれば安心――ではない。
万物全てが凍てつくであろう絶対零度の世界。
これほどの極低温に晒され続けたなら、人は遠からず凍死する。
つまりオームゾルフは、流護たちと干戈を交える必要すらない。戦闘行為に及ぶまでもない。
冷気を放ちながら歩くだけで、こちらを殺せるのだ――。