51. そして至る
――身体を起こしていることが億劫になってきた。
力なく横たわっているミアは、自分と同じく床に転がっている袋入りの携帯食料を、感情の消えた瞳で見つめる。
そこへ、新たな食料が放り入れられた。
身体を起こさず視線だけ向けると、部屋の入り口にディノが立っている。いつ来たのか、全く気付かなかった。
「メシぐれぇー食えよ。せめてもの抵抗のつもりか知らねェが、逆効果だぞ」
ささやかな抵抗なのは違いない。けれどどうして、それが逆効果なのか。
「競売だなんて言ってるが、実際は八百長みてェなモンだ。『専売』つってな、もうオメーを買うヤツは実質決まってる。レドラックっつーこの世界では有名な大物でな、コレが筋金入りのクソ変態だ。オメーに携帯食しかやらねェのにも理由がある。オメーの――、――だとよ。普通のメシ食ってると、それが――――」
ミアの思考が、一部停止した。
言っている意味が理解できなかった。
「で、そうする場合、栄養のねェメシを食わせるか……それかいっそ、まともにメシを食わせねェか。メシ食わんなら、食わんでもいいんだとよ。だからオメーが強情張ったトコで何の抵抗にもなりゃしねェ。むしろ逆効果だって言ったんだ」
「――――――――」
だめだ。いやだ。意味が分からない。何を言っているのか分からない。
どうしてこんな目に遭っているのか、理解できない……。
「……で、やる」
「?」
聞こえなかったのか、ディノがかすかに眉をひそめる。
「……そんなこと、されるぐらいなら……死んでやる……っ!」
声が震えた。涙が溢れた。
「そんな死にたくねェオーラ全開で言われてもな。ま、気持ちは分からんでもねェ。あの変態の趣味は理解できねェしな」
さして興味もなさそうにディノが言う。
「とにかくこっちとしても、せめて競売が終わって引き渡すまでは死なれちゃ困るんだが……」
ミアは溢れる涙を止めようと必死で拭う。
しかし泉のような涙は止まらない。
「もう……やだよ、帰してよぅ……」
言葉も、止まらない。
「とうさん、かあさん……っく、ベルちゃん、リューゴくぅん……、ひぃ……がえりだいよぉ、おなかすいたよ……ぅあぁ……」
ミアの嗚咽が狭い部屋に響いた。
これまで必死で堪えていた負の感情が溢れ出す。
その様子を見ていたディノが、面倒くさそうにチッと舌打ちを漏らしながら零した。
「はー……何だ。何か食いてぇモンはねえのか」
「……っく……、えっ……?」
ミアは驚いて涙を拭う手を止めていた。
「飽くまでオレの最優先事項はオメーを死なせねェコトだ。変態ジジイの趣味なんざ、オレ個人としてもどうでもいい。ま、一回ぐれーフツーにメシ食ったトコで何も変わらんだろ。知らんけど」
ミアは鼻をすすりながら、ディノの顔を見つめる。
「何か食いてえモンがあるなら言え。さすがに食いに連れ出すこたできねェが、何でも持ってきてやる」
「……なん、なの。急に」
「話聞いてたのか? オメーが売れるまで、死なれちゃ困るんだよ」
超越者は心底疲れたように息を吐き出した。
「……ねえ。ここって、ディアレーのどこかなの……?」
「あー? ああ」
「じゃあ、『フェテス』のベリータルトがいい……」
「――――――」
なぜか。
ディノはそこで、目を見開いて固まった。
「……、?」
ミアは涙を拭いながら、鼻をすすりながら相手の顔を見る。
ディノの顔は無表情ながらも、やや青ざめてすら見えた。
「あ、あー。『フェテス』だぁ? ベリータルト……か。ちっ、しゃーねェな」
驚いたのはミアだ。
ディノが――あのディノ・ゲイルローエンが、明らかに動揺している。
「なん、なの……?」
「……何でもねェよ。んじゃ行ってくっから、ちっと待ってろ」
ディノは素直に出ていった。
ちょっと信じられないぐらいだ。あの『ペンタ』を、使いっ走りにしてしまった。
なぜか『フェテス』のベリータルトを要求したら青ざめてしまったのが気になるが……別に高価なものではない。子供の小遣いでも買える程度のものだ。
「……っく……、よしっ」
深呼吸して、気持ちを切り替える。
でも、関係ない。
よく考えたら、敵が何を考えていようと、関係ない。
――絶対に、ベルちゃんとリューゴくんが助けにきてくれる。
だからせめて、助けられたときにフラフラで歩けなくなってたりしないように、ごはんを食べて元気を出そう。
少女は力強く頷いた。
――そうして。為す術なく、残すところあと一日となった。
明日の夜にはミアが競売にかけられてしまう。
流護は部屋で大の字に寝転んだまま、天井を見上げる。
ない。策が、何もない。
真剣に、単身で奴隷組織へ襲撃をかけることも考えた。
だが、やはりベルグレッテや博士に止められた。奴隷組織が厳密には法に触れていない以上、そんなことをすれば、流護のほうが兵士たちに捕縛される。
そんなふざけた話があるか、と思わずにいられなかった。
相手は人身売買を生業とする連中だ。今この瞬間にだって、ミアがひどい目に遭わされているかもしれない。
――ミアにそんな真似をしてみろ。ただじゃ済まさねえ。
しかしそんな強い感情とは裏腹に、何も行動できない無力感が流護の内側を満たしていく。
連れ戻したとして、ミアはもう家族との関係が……居場所が、学院で頑張っていた理由の根本が、なくなってしまっている。
どうすれば。どうすればいい。
ベルグレッテを抱きしめたあの夜。
世界の全てを敵に回してでも、彼女の味方でいると誓った。
しかしこれが現実。
ミア一人を、連れ戻すことすらできない。
俺は強い? 勇者様? 笑わせるな。お前は、ただの無力な子供だ。
――そこで、部屋のドアが控えめにノックされた。
「リューゴ、いる?」
「あ……ああ」
ずっと大の字になって考えていたせいか、声がかすれていた。
ドアを開けると、ベルグレッテだけではない。エドヴィンとダイゴス、レノーレ、エメリンの姿。
「時間もないし……みんなで、考えない?」
花のような笑顔を見せるベルグレッテ。けれどどこか――今にも萎れてしまいそうな花だ。
他の皆の顔を見ても分かる。何か手はないかと奔走し、その全てが徒労に終わっただろうことは想像に難くない。
今、ここにいるメンバーだけではない。アルヴェリスタなどはずっと寝込んでいるらしい。
「ああ……まあ、入ってくれ」
流護は皆を部屋へ招き入れた。
「色々情報集めてはみてっけどよー。今度はディノの野郎が『フェテス』で買い物してたってよ。しかもどこか辛そうな顔で。何だよそりゃ、アホかってんだ。聞いた瞬間コーヒー吹き出しちまったぜ」
エドヴィンはおどけながらも、疲れたような口調で言う。
「辛そうな顔でお菓子を買うディノかー……でもよく考えたらディノって、元々ディアレー出身じゃなかったっけー……」
エメリンが苦笑いしていた。
皆、疲れが顔に滲み出ていた。
流護としても正直、限界だ。
何か手があるはずだと思った。こんな馬鹿な話があるはずがないと思った。しかし。
「なあ……、ミアを助けられても……もう居場所が、ないんだよな……」
うなだれて部屋の壁に背を預けながら、流護は呟く。
「……何言ってんだアリウミ。まさか、だからミア公を諦めるとか言い出すんじゃねぇだろーな?」
初めて会った頃のような、鋭い眼光を流護へと向けるエドヴィン。
「そうじゃねえ。ねえけどよ、連れ戻せたとしてミアに何て言う? ミアは家族のために頑張ってたけど、その家族に売られちまって、もう頑張る意味ねえって。学院にいる意味ねえんだって言うのか? 言えんのか?」
「じゃあミア公が売り飛ばされんのを黙って見過ごすってのかよ? ミア公みてぇなのを買う奴ァ、金持ちの変態クソ野郎だって相場が決まってんだ。アイツが変態のオモチャになんのを見過ごすってのか、あぁ!?」
「落ち着かんかい、お主ら」
「やめてってば……」
掴み合いになりかけた二人の間に、ダイゴスとベルグレッテが割って入る。
――と。
泣きそうな顔をしたエメリンの隣に座ったレノーレが、いつもと同じ静かな声で呟いた。
「……居場所なら、あるよ」
「え?」
流護は思わず聞き返す。
「……ミアの居場所は、ある。……忘れた? ミアがみんなのことを、好きだって言ってたの」
まさにミアがいなくなる前夜。通信で、レノーレと話していたという内容。
「……確かに、全てが以前のようには戻れないかもしれない。家族のこと、学院のこと。でも、みんなと……ベルやあなたと一緒にいるミアは、本当に楽しそうだった。居場所なら、ある。あなたたちのそばっていう居場所が」
「レノーレ……」
ベルグレッテが呟く。
「……ふふ。じゃあ、レノーレだってそうだよ。ミアの居場所の、ひとつじゃない」
「……それはどうも」
居場所、か。
そうだ。戻ってきたミアの居場所がないなんて、流護が決めつけてしまうことではない。
ミアが自分たちのそばを居場所と思ってくれるなら、それで何の問題もない……はずだ。
「……普段のミア公見てりゃ分かんだろーによ、鈍すぎんだよ、アリウミ」
「うっ、うるせえ。何、最初から気付いてましたみたいな顔してんだって」
「っ、うっせーよ。とにかくよ、ミア公が変態野郎に買われる前にだな……」
――少し。ずっと張り詰めていた気持ちが、ほんの少しほぐれたせいだろうか。
そこで初めて、『何か』が流護の脳裏をかすめていった。
「……エドヴィン」
「あん? 何だよ」
「今、何て言った?」
「ん? いや……ミア公が変態野郎に買われる前に助け出さなきゃな、って言おうとしたんだがよ」
(…………ミアが………………買われる、前に……助ける……)
そこで、ふと視界に入った。
怪訝そうな顔をするエドヴィンの後ろ、流護の部屋の片隅。
「――――――――――――――――」
競売にかけられ、売り飛ばされてしまうミア。
ギリギリのラインで法に触れていないため、連れ戻すことが難しい。
「――――あ」
思わず、眩暈を起こしそうになった。いや、確実に足がふらついた。
その、可能性。ある一つの考えが、少年の脳裏に浮かぶ。
「……リューゴ?」
様子がおかしいことに気付いたベルグレッテが、優しく声をかけてくる。
それで、他の全員も気付いたようだ。皆の視線が、流護へと集まる。
「何でぇ……どーかしたかよ、アリウミ」
エドヴィンの言葉に、コクリと頷く。
全員の視線を集めていることを意識したうえで、流護は慎重に言葉を紡ぎ出した。
「なあ、みんな。思ったんだけど……俺が、もし――――」
そうして、少年は告げる。
ある一つの考えを。
これまで散々に考えた。
しかし、もう認めざるを得ない。
売られてしまうミアを助け出すことは、不可能だ。……諦めるしか、ない。
だから――
流護は、自分の考えを告げた。