509. 銀世界の盟主
「こいつは驚いたぜ……。まさか、そちらさんからお出ましとはなァ」
サベルの軽口に対し、オームゾルフは以前と変わらぬ慈愛に満ちた微笑みを贈る。
「静かになったので、そろそろ決着がついた頃合いかと思いまして。やはり、勝ったのはあなた方でしたか」
激闘の痕跡も生々しい大広間。中央で拘束され転がるアルドミラール。それぞれ生傷を負いながらも、一人として欠けることなく揃った流護たち五名。
「……今になって、メルティナの忠言を噛み締めている次第です」
自嘲気味に笑んだ聖女は、その青銀の瞳で捉える。他の誰でもない、流護の視線を。
「この数十分ほどの間に、下から何度も通信が入ってきました。『襲撃者は術を使わぬ、武器すら持たぬたった一人の少年』。『正面から強襲を受け、瞬く間に二十名以上が撃破された』。『ヴィニトフ兄弟すら歯が立たず、食堂を突破された』。『被害甚大、一刻の猶予もなし。これより宮廷詠術士団を動員予定』……。以降、ぱったりと通信は途絶えてしまいましたが」
ゆるりとかぶりを振って、その美しい青銀の髪を揺らす。
「――凄まじいものです。リューゴ・アリウミ殿。率直に申しまして私は、あなたの力量を見誤っておりました。最低でも、メルティナと同等の脅威として見積もっておくべきだったのですね……」
失態だったと呟いて、彼女はその視線を少女騎士へと転じる。
「そしてベルグレッテさん。ここへ至るまでの布石の数々、実にお見事でした。国外逃亡を匂わせ、七百の兵を宮殿から遠ざけることに成功。ベンディスム将軍の手配騒ぎを起こし、街の兵をそちらの対応に追わせて事実上無力化。私にも御せぬ不確定要素たるミガシンティーアは、同じ『奇なる一族』グリフィニアの協力を取り付けることで確実に押さえ込んだ。……バダルノイス史を振り返っても、あなたほどの策略家は存在しないことでしょう」
皮肉ではない。聖女の眼差しには、尊崇の念すら浮かんでいるように見える。そんな賛辞に対し、少女騎士はただ首を横へ振る。悲しげな顔で。
「……私だけの力ではありません。皆の団結があって成し得たことです」
宮殿から兵力を遠ざけるに当たり、その鍵となったのはヘフネルだ。レノーレは手配書の似顔絵をしたため、ラルッツとガドガドがそれを貼って回った。メルティナとグリーフットは、それぞれ強敵を引きつけた。
各々が役割を全うしたからこそ、流護たちは今この場に立てている。
「……なるほど。いかに数が多くとも、いかに国家であっても……派閥に分かれ足並みの揃わぬ我々では、抗うべくもなかったのやもしれませんね」
自嘲気味な笑みをたたえるオームゾルフに対し、ベルグレッテは意を決した表情で告げる。
「……オームゾルフさま。終わりましょう。どうか、投降を」
苦痛を吐き出したような少女騎士に、バダルノイスの指導者は純粋とすら思える眼差しで問う。
「否、と答えたなら……どうなさるおつもりですか? ベルグレッテさん」
「……、それは」
一拍。わずか言葉に詰まる少女騎士だったが、決意の篭もった瞳で聖女を真っ向から見据える。
「力づくでも、拘束いたします」
「……ふふ。左様ですか」
――――おそらく、今回ばかりは流護のほうが早かった。
(この人……?)
可能な限り穏便にオームゾルフを降参させようと心を砕くベルグレッテは、まだその違和感に気付けていない。
(つーかこの人、何で自分からここに来た?)
『静かになったので、そろそろ決着がついた頃合いかと思いまして。やはり、勝ったのはあなた方でしたか』
アルドミラールたちの敗北を悟り、これ以上の抵抗は無意味と負けを認めて出向いてきたのなら理解できる。
だが今ほどの会話からも明らかな通り、オームゾルフに降参の意思はない。まだ諦めていない。
彼女は優秀な詠術士でもあるそうだが、しかし実戦派ではないとメルティナから聞いている。必ずしも詠術士イコール強者、ではないのだ。
つまり流護たちがオームゾルフを捕らえようとしたなら、彼女に抗う術なんてものはない。
モノトラとアルドミラールは敗れ、最大戦力であろうミュッティもこの場にいない。
(もう、この人は詰んでるはずなんだ。なのに)
なのになぜ、そんな余裕げな態度でいられる――?
疑問の答えは、即座に示された。
オームゾルフがその華奢な右腕を振る。
直後、ばぎん、と木霊する異音。
「なっ……!?」
その呻きは誰のものか。あるいは、流護自身の喉から発せられたのかもしれない。
三階と下とを繋ぐ階段の前に、巨大にすぎる氷の塊が出現していた。その全長や横幅は五、六マイレにも及ぶだろうか。まるで氷山の一部を削り取ったみたいな、岩石じみた白氷。突如として現れたそれが、完全に階段を塞ぐ。
そして、オームゾルフが今一度腕を薙ぐと同時。
硬い音と濡れそぼった音が、競い合うように鳴り響いた。
それは、天井まで届きそうな白銀の剣山。凶悪な棘を疎らに生やした氷塊が――たった今までアルドミラールの転がっていた場所に屹立していた。
押し潰したのか、それとも引き裂いたのか。
とにかくその剣山の根元が、内側から滲んできた赤色によってじわじわと染まっていく。
「…………、」
突きつけられた光景を前に、誰もが言葉を失っていた。
「……ふむ。人体を損壊するならば、この程度で充分なようですね」
そんな中。オームゾルフは調子を確かめるように自身の指先を眺めながら、およそ聖職者のものとは思えぬセリフを口にする。
「アルドミラール殿。貴方は、我が国の民を無為に殺害しました。これはその償い、とお考えください」
(おい……)
流護含め、絶句する皆の心境は同じに違いなかった。
(何だ、この力――……)
階段を塞いだ氷岩の巨大さ、アルドミラールを一瞬で葬った剣山の凶悪さ。優秀な詠術士――、『程度』で成し得る芸当ではない。『ペンタ』に匹敵するか、それ以上の――
「オームゾルフさま……」
力なき呼びかけは、ベルグレッテの声だった。
「……ま、さか……あなたは……」
震えるその問いに、聖女は微笑をもって頷く。
「ええ。キンゾル氏は絶賛しておりましたよ、この力を。『成功例』を超えた、『完成形』だと――」
自身の胸に手を当てた氷の聖女は、うっそりと呟いた。
「なぜ……っ、どうしてそんな外法にすがってまでっ!」
少女騎士の叫びにも、オームゾルフは眉ひとつ動かすことなく。
「言葉を尽くす時期は過ぎましたよ、ベルグレッテさん」
刹那、吹雪が巻き起こった。
「な、んだこりゃ……!」
信じられない光景だった。突如としてオームゾルフから発せられた風雪が、瞬く間に周囲を白く染め上げていく。
絨毯が、床が、柱が、天井までもが雪に包まれ、氷で覆われていく。
局所的に過ぎる、屋内の猛吹雪。
「チッ!」
動いたのはエドヴィン。
放たれたスキャッターボムが、弧を描いてオームゾルフへと迫る。が、
「何ッ!?」
彼の切り札たる焦熱の火炎球は、聖女に届くことなく暴風雪に巻き込まれて吹き消えた。
「これならどうっ!?」
間髪入れずジュリーが竜巻を見舞うも、やはり荒れ狂う風雪に巻き込まれる形で散逸する。
「……!」
あまりの猛烈な吹雪に、攻撃術が届かない――。
「っ、は!?」
と、そこで流護は思わず目を剥いた。
凍てつく嵐が激しさを増す中、眼前へかざした自分の腕が――ファーヴナールの手甲が、薄氷で固まり始めている。ハッとして見下ろせば、衣服も靴も真白に染まり、小さな氷柱をいくつも垂れ下げていた。
「ウソだろおい……!」
そして、痛さなのか寒さなのかも定かでない肌の痺れ。
「ふふ、ふざけんな、ま、ずいぞこれ……!」
暴風雪が席巻する大広間はもはや、屋内とは思えない銀世界に変貌しつつあった。
明確に攻撃術を受けている訳ではない。
だが。
――間違いない。
この場にあと数分も留まれば、それだけで凍死する。
『お前ら、こっちだ! 来い、走れッ!』
通信術の応用で増幅したのだろう。雪風の唸りに交ざって響いたのは、サベルと思しき怒号。
今や猛烈な吹雪によりその姿を視認することすら怪しいが、彼が掲げているらしい紫色の炎が横に移動していく。
流護と同じ判断を下したのだ。
このままでは、オームゾルフと向き合っているだけで――ここにいるだけで死ぬと。
「く……!」
紫に揺らめく光を目印に、流護はどうにか後を追ってこの大広間からの離脱を試みる。
その最中、妨害を懸念してだろう。ジュリーが吹雪の根源たるオームゾルフに幾度となく攻撃術を放っていたようだったが、まるで通じている気配はなかった。
ほうほうの体でどうにか離脱する流護たちを、氷の聖女は冷えた瞳で眺めていた。