507. アウトサイダー
「ア……アリウミ」
エドヴィンが呆然となるのも無理からぬところ。
「リ……リューゴ、お前さん……下の兵士たちは、どうした……?」
ジュリーの肩を借りてようやく起き上がったサベルが、息も絶え絶えにその疑問を吐き出す。
「百四十六人」
やってくる流護は、ぽつりと答えた。一仕事終えたように、大きく肩を回しながら。
「多少の数え間違えとか勘違いとかあるかもしれんけど、とりあえず片付いたんでこっちに来た」
誰もが、絶句した。
「ク、ハハハハハ……ハハハハハハ!」
その中で真っ先に反応したのは、ヘィルティニエを従えるアルドミラールだった。
「百四十六人? お前が……タっタ一人デ、それダけの数を撃破しテここまデやっテ来タと?」
「もう五十人ぐらいいるはずなんだけど、なんか途中から遭遇しなくなったんだよな。ま、見当たらねーからもういいかなって。探してまで倒す必要もねえし」
「クク、そうかそうか……ダが」
生気の失せた紫の唇を、この上なく愉悦に吊り上げて。
「可能ダろうな。真に強き者デあれば――」
黒衣の怪人は、自信に満ちた態度で言外に語っている。
己も、その範疇に含まれる存在だと。
「! つか、そいつ」
そこで少年の眼が見開かれる。アルドミラールではなく、その隣で佇む風の威容に対し。
「…………マジか。見覚えあるとは思ったけど……ヘィルティニエかよ」
呼び名に応じるのは、無論『本人』ではなくその操者。
「! そうダ。そういえば、リューゴ・アリウミ……お前は面識があるんダっタな。ならばようく知っテいるダろう? こいつの力を」
自慢げに、ひけらかすように怪人は嗤う。
「…………なるほどな。てめぇ、ジ・ファールの野郎の臓器を……」
その呟きには果たして、どんな思いが込められていたのか。
一瞬思案したような面持ちを見せた彼は、『それ』を懐から取り出した。
そのごつごつした手に摘ままれるのは、一枚の瑞々しい緑葉。
アーシレグナの葉と呼ばれる、人体に大きな回復効果を齎す薬草だ。出立前、最も負担が大きくなる彼にグリーフットが提供してくれたものだった。かつての天轟闘宴においても、品種改良されたこれが回復手段として支給されていた。
流護はそれを口中へと放り込み、かすかに顎を上下させる。未だ使っていなかったことも驚きではあったが、その後の彼の言葉がより皆を驚愕させた。
「ベル子、みんなの治療を頼む。こいつは俺が引き継ぐ。あとは俺が一人でやる」
「なっ!?」
「ちょ……リューゴくん!?」
トレジャーハンターの両名が耳を疑ったように慌てる。
「待てリューゴ、いくらお前さんでも……!」
「分かったわ。お願い、リューゴ」
「ベルグレッテちゃん!?」
実際のところ、認めねばならない。
もうベルグレッテら四人に、アルドミラールを攻略する術はないのだ。仮にグラム・リジルを用いて逆転することができたとして、オームゾルフに向き合うこともままならない状態となってしまっては意味もないのだから。
何より今の満身創痍の状態では、共闘しようにも流護の足を引っ張るだけになってしまう。
「ク、ハハハ。正気か? せめテ、五人デ来るべきダと思うがな」
やれやれと首を振る黒の怪人。そんな相手をまるで気にかけず、少年はベルグレッテに確認を取る。
「自律防御持ってるんだっけ? こいつ」
「ええ。左脇腹の心臓がそれを制御しているわ……」
「おけ」
それだけで充分とばかり、流護は拳を鳴らして無造作に歩いていく。まるで臆さず、黒き詠術士と風の化身へ向かって。
「! そうか、成程な。かつテ、ヘィルティニエの使い手に勝っテいる故の余裕か」
「あんた、名前なんだっけ?」
向かい合う双方の距離は十五マイレほどか。
「アルドミラール、ダ。クハハハ……お前の人生を崩す……『傷』を刻む者の……名ダ」
「そうそう、そんな名前だった。覚えづらいんだよね。んであんた、俺が天轟闘宴出てたのは知ってるみたいだけど……ぶっちゃけ、俺がヘィルティニエと……ジ・ファールと闘ってるとこ見たことないよな?」
「そうダな。ダが、お前が無様にミュッティに倒される様は見テいタぞ」
「いや倒されてないから。ノーカンだって、起き上がったじゃん。つか、もう一回やりゃ絶対ぇ勝てるし」
首をコキリと横向けた彼は、その黒い瞳を風の魔神へ向けて。
「…………今、解放してやっからな」
言うまでもなく。神詠術そのものであるヘィルティニエに、自我というものは存在しない。
しかし、気のせいだろうか。
少年の言葉を受けた巨大な風の化身は、ほんの少しだけその身を震わせたように見えた。
そして。
「――三秒後に、あんたに向かってまーっすぐ突っ込む。準備しときな、アルドなんとか」
まっすぐ指を差し、彼はそう宣言した。
――その宣言に、偽りはなかった。
遠目で凝視してなお。サベル・アルハーノの認識は、わずかに遅れた。
「――――――」
三秒後。
霞み、残像が追従した。
それは神詠術や奇術の類にあらず。むしろ愚直なまでに裏表のない、身体能力のみによる接近行動。
有海流護の爆発的な脚力があってこそ実現する、まるで地を縮めたがごとき疾走。あっさりとヘィルティニエの脇をすり抜け、十五マイレほど離れていた両者の距離は、瞬きの間に零へ。
その時点でアルドミラールの瞳は明らかに、接近する相手の姿を捉えられてはおらず。そんな怪人の顔面に、踏み込みざま打ち出されるは流護の左拳。
しかしこれを、吹き上がった火の柱が受け止める。本人の意思とは無関係に発動する絶対の防御が、その疾駆の一撃にも反応する。
直後、ボンと派手な音。
それは、ここまでサベルも幾度か耳にしてきた残響だ。即ち――自分たちが決死の猛攻をもって、ようやく自律防御を打ち破った際の。
(な、――!?)
左の牽制打が火柱をおびき出し、入れ違い様に放たれた右の拳。
――――その一発が、おそらくはそこから発せられた『衝撃』が、あれほど厄介だった自律防御を完膚なきまでに消し飛ばしていた。
「…………!?」
逃げ惑うように舞い散る火の粉。ここでようやく異変に気付いたアルドミラールが顔色を変える。
――しかし、何もかも遅かった。
すぐさま引き戻され、再度射出された流護の右手が、今度はアルドミラールの左脇腹へと伸びる。
ばち、ぶちんと断裂音。流護の右手がそこにぶら下がっていた心臓を掴み、捻り、そのまま引き千切った音だった。
腕を戻しながらそれを後方へ放り投げた流護は、その反転の勢いに乗り左の蹴り上げを一閃。美しいほどにまっすぐ、高々と伸ばされる脚。槍にも似た精密な衝撃が、アルドミラールの顎先を捉え射抜く。
「ガ、ハッ!?」
舞い散る欠片は吹き飛んだ歯か。取り落とされた鉈剣が重々しい音を立てて転がる。
おおぉ――、と。呻き声に似た何かを発したヘィルティニエが、ここで虚空へと霧散。
気のせいだろうか。横目でその様子を見送った流護の瞳に、わずかな優しさが垣間見えたのは。
「よっこらせ、っと」
為す術なく仰向けに倒れ込んだアルドミラールの腹へ、流護はゆっくりと跨って腰を下ろす。公園のベンチにでもそうするみたいに。あまりにも自然に。
少し離れた位置で、放られていた心臓がどさりと床へ落ち、力なく転がった。
「…………、」
サベルはもちろん、誰もが目を奪われていた。
時間にして、おそらく数秒程度の交錯。否、交錯と表現できるものではない。ただ一方的、圧倒的なまでの制圧劇。
そして、馬乗りというその体勢。
それは本来、実用的な神詠術をほとんど扱えない者たちの闘争でしばしば起こる、泥臭い殴り合いの果ての状況だ。間違っても、この領域の戦闘で……一流同士の闘いで発生するようなものではない。
しかし流護のそれは、どこかが違っていた。
両脚でがっちりと相手の腹部を挟み込んで逃がさない、安定した姿勢。俯瞰から静かに見下ろす、落ち着き払った視線。勝機を焦って死に物狂いでのしかかった者のそれとはまるで異なる。
その様は、完成された技術のような。まさしく荒馬を御する騎士にも似た、美しくも堂々とした佇まい――。
「――とまあ、ジ・ファールと闘った時は、こんな感じになればベストだった訳なんだけど」
「……、……グ……ゴ、ハッ」
「あの時、ジ・ファール本人にも言ったけどさ。やろうと思えば、開幕秒殺でKОできたんだよ。こんな風に。ただ、やらなかっただけでな。――それを実演すればこうなる、って感じすかね。あんたは見てなかったって言うし、知らんだろうけど」
「オ……オオオォォ!」
保持していた何らかの術を放とうとしたか、顔面を血に染めたアルドミラールが右手のひらを腹上の流護へと向ける。
「遅い、やり直し」
その手首を苦もなく掴んだ少年は、洗濯物でも畳むようにそれを『曲げてはならない方向』へあっさりと捻る。ぺきん、と乾いた音。文字通り、相手の右腕を肘から逆方向へ折り畳んだ。
「が!? ア、ばっ!? ギィイイアアアァァァァア!?」
激痛に身をよじろうとするアルドミラールだが、腹部に跨った流護が重しとなりそれすらままならない。腰の位置で床に固定されてのたうち回るその様は、まな板に乗せられた魚に似ていた。
「あっ、悪り。やり直せねーなその腕じゃ。てかダメなんだって。俺を相手にするなら、どんなに強い術が使えたって……本人がそれなりじゃねえと。その点、個人的にはジ・ファール以下だと思うよあんた。少なくともあいつは、俺のジャブ避けたりしてたし」
感慨のない溜息と、
「MMA黎明期と違って、今はこういうマウントポジションも勝ち確って訳じゃないんだけど……そんでも、あんた程度じゃ神詠術抜きだとどうにもならんろ?」
言葉の意味は分からないが、呆れたような口調で。
「なんかあんた、さっき俺に傷を刻む? とか何とか言ってたけどさ」
溜息交じりにゆっくりと右拳を振り上げた流護の姿は、断頭台で斧を構える処刑人を彷彿とさせた。
果たして跨られているアルドミラールの目からは、どのように映っているのだろうか。
そんな拳の執行人は、まるで興味なさげに宣告した。
「傷どころか、特に印象もないわ。ただのグロ好き中二病って感じ。なんつーか一ヶ月もすりゃ、名前も思い出せなくなってんじゃね?」
「ゲ、ハッ……」
――これほど圧倒するのか。
ただ、サベル・アルハーノは眼前の状況に釘づけとなった。
腕と顎を砕かれ激痛に苛まれる状態では、もはや詠唱する集中力すら保てない。全身から発雷するといった術も使えない。
右手は破壊され、残る左手は跨った流護の左手によって交差する形で押さえ込まれている。慣れた様子で相手の腕を掴み捻り上げる少年の姿はさながら、巧みに手綱を操る熟練の騎手だ。
サベルの抱く常識から考えたならば――アルドミラールも流護も、いずれも埒外の存在に違いない。
片や、人為的に複数の力を得た異質の術者。
そして片や、一切の恩恵を得ずに力を発揮する者。
だが。
より強く、そしてより恐ろしいのは――
果たして地へ縫いつけられたアルドミラールの濁った瞳には、己にのしかかる少年の姿はどのように映っているのか。
「……や、めろ…………やめ、るんダ……」
防御も反撃もままならない状況。
あれほどの猛威を振るった怪人が今や、見開いた瞳孔をただ震わせるのみ。
だが、気のせいだろうか。
「俺、ダ……」
血泡交じりの呻き。
「そ、の斧を……振り下ろ……すのは、俺ダ……! 執行、する、のは……いつダっテ、俺なんダ……!」
その様は――圧倒的な力にねじ伏せられた事実よりも、何か……自身の存在意義を脅かされていることに耐えかねるかのような。
一方、流護は薄気味悪げに眉間へ皺を寄せる。
「斧……? んなもんどこにもないが。追い詰められた狂人特有の意味不明なセリフやめーや」
「! お前タち、二人に……! 『傷』を……刻むのは、……俺、ダ……! 俺、なんダ……!」
「二人……? あー、もうダメみたいっすね……」
改めて、流護が掲げていた右拳を握り込む。
「てことで、お疲れ」
何の感慨もなく。淡白にすぎる無慈悲な鉄槌が、黒き殺人者の鼻っ柱へと叩き落された。
包丁を入れられた魚さながら、怪人アルドミラールは一度だけビクンと強く跳ねて――
あとはただ、力なく横たわるのみだった。




