505. 黒き風
「ようっし! さ、これで関門突破だな」
パンパンと手を払ったサベルが、朗らかな笑みで一同を振り返る。
「ええ」
ベルグレッテも首肯しつつ、三階の奥へと続く通路へ目を向けた。
これで間を阻むものはもう何もない。あとは、オームゾルフに会うだけ。……のはずだったが、
「ジュリー?」
サベルが訝しげに相方の名を呼ぶ。ぼうと佇む彼女の視線を追えば、そこには離れた壁際で伏すアルドミラールの姿。黒ローブを広げて倒れるその様は、地に落ちた蝙蝠を思わせた。
「……ジュリーさん、なにか気がかりなことが?」
「…………風じゃなかった、のよね」
「? 何の話だ?」
振り向いたジュリーが、ベルグレッテたちにそれぞれ目を配る。
「あのおハゲの用意してた術よ。自律防御がまた破られるのはあいつも分かってただろうし、それに備えて防御術を保持してるのも予想できた。ただ……その属性が、風じゃなかったの。雷だった」
確かに、自律防御が消えた瞬間を狙って放ったアクアストームは『雷の壁』に阻まれた。
「それがどーかしたかよ?」
どうでもよさげなエドヴィンに対し、ジュリーは眉を寄せる。
「あいつの本来の属性は風よ。いくら複数の属性を使えるようになったとはいっても、結局のところ持って生まれた属性が一番得意じゃないかと思うの。つまり自律防御が破られると分かってたなら、最も信頼の置ける風の防御術を用意してるのが自然じゃないかしら。途中から風の術を全然使わなくなったから、てっきりそれに注力してると思ってたのよ」
「…………風の術を、使わなくなった……」
ベルグレッテは彼女の言葉をなぞり、その意味するところを考える。
人為的に強化された詠術士にどれほど既存の常識が当てはまるかは分からないが、推測することはできる。
「……アルドミラールは、なんらかの風の術を詠唱していた。攻撃に割く余力もないほど入念に。それは防御術と思われたけど、そうではなかった……」
ジュリーが「そう、そうなのよ!」と頷く。同じ風属性を扱う彼女だからこそ真っ先に引っ掛かった、その些細な違和感。
「気にするよーなことかよ? んなもん、術の選択を間違えたってだけの話だろ? それを使わねーで倒されたんじゃ意味ねーな」
エドヴィンが耳をほじりながら、もっともな感想を述べる。読み間違えが容易に敗北へと繋がる。詠術士ならば誰もが知る常識だ。
「…………」
黙って話を聞いていたサベルがそのまま無言で、倒れたアルドミラールへと近づいていく。
「サベルさん?」
ベルグレッテが呼びかけると、彼は振り返らぬまま片手だけを上げて宣言した。
「トドメを刺すぜ」
「!」
「本来なら、こいつは謎が多いオルケスターの貴重な情報源だからな。生かして捕縛できれば一番なんだろうが……、この野郎は危険だ」
その意見に対し、少女騎士が何か答える間もなく。
「ク、ハハハハ……」
くぐもった、錆びついた笑い声。
「!」
一同が瞠目する中、アルドミラールの肉体がグンと起き上がった。腕も足も動かすことなく、うつ伏せの姿勢からそのまま直角で浮き上がる不自然な挙動。
「危ない、危ない。死んダ振りをしタまま殺されタのデは敵わん」
平然と笑みをたたえる黒衣の男。その身体の前面各所からは、回復術の特徴である淡い光が漏れていた。前のめりに倒れたのは意図的。これを隠すためだ。
「チッ、遅かったか」
足を止めたサベルがその場で身構える。
そこで問答無用、彼のすぐ脇を突き抜けた一陣の旋風がアルドミラールへと襲いかかった。しかしそれは標的に届くことなく、突如吹き上がった火柱によって散らされる。
「……自律防御も健在ってわけね」
つまらなげに、不快げに口元を曲げるのは今しがたの一撃を食らわせたジュリー。
ククと喉を鳴らしたアルドミラールが、大げさな宣教師よろしく両手を目いっぱい広げる。
「さテ、さすがに四人を同時に相手取るとなると厳しいようダ。――という訳デ、俺も助っ人を喚ぶとしよう」
「? 助っ人……だと?」
サベルの疑問に答えるかのごとく、風が渦巻いた。
周囲の大気、全てを吸い込むような集束。
「……!」
思わず足に力を込めて踏ん張りながら、ベルグレッテは――おそらく他の皆も、察する。
アルドミラールが風術の行使を控えてまで詠唱していたもの。その『正体』が、これだったのだと。
――ほどなくして、さざめいていた風が止み。
現れた『それ』が、アルドミラールを守護するように立ちはだかった。
「……な……んだ、こりゃあ……!?」
エドヴィンが慄然とした面持ちで立ち竦み、
「こ、れは……」
ジュリーが翠緑の瞳を驚愕に見開き、
「…………、」
すぐ目の前のサベルが、ただ呆とその巨大な威容を仰ぎ見る。
皆が驚くのも無理はない。
結論から述べるなら。
アルドミラールが現界したそれは、風の化身と呼ぶべき存在だった。
例えるなら、その全容は巨大極まる人型の上半身。その背丈は四、五マイレほどにも達するか。両の腕は丸太どころか樹木そのもののような太さ。一方で頭は異様に小さく、小さな球体がぽつんと載っているのみ。目や鼻、耳、口なども存在しない。
神詠術によって形あるものを作り出す、『創出』系統の究極形。一部の才ある詠術士のみが到達できる、終着点のひとつ。
ベルグレッテとて、この域の術を目にするのは初めてではない。実際に刃を交えたこともあった。
――にもかかわらず。
少女騎士は今、この場の誰よりも大きな衝撃に打ちのめされていた。
「そ、んな」
馬鹿な。
(似てる……だけ? いえ、違う。これは……)
明滅する、白く発光する風の流れ。姿形も、細部に至るまで同じ。これは――、『本物』だ。
(どうしてこの男が、『これ』を……!?)
「なるほど、それがあなたの切り札ってわけ……! 途中から風を使わなくなったのも、用意してた防御術が風じゃなかったのも……納得だわ。これを詠唱していたのね……!」
ジュリーが引きつった笑みを浮かべながら身構える。さすがに大陸各地を渡り歩いてきた彼女の理解は早い。一系統の究極系……レフェにおいては覚霊級とも呼称されるその驚異のほどを、正しく認識している。
「これデ四対二、と言っテも過言デはあるまい?」
アルドミラールは友人を紹介するように片手を掲げ、傍らに立つ風の化身を指し示した。
「さテ、実はこいつには名前があっテな。せっかくダから教えテやろう……、む? 確か……はテ、何と言っタか――」
「ヘィルティニエ」
凛と響いたのは、ベルグレッテの声だった。
「その術の名前は、ヘィルティニエよ」
「ベル……?」
「……ベルグレッテちゃん?」
エドヴィンやジュリーが怪訝そうにするのも当然だ。なぜ知っているのか、と。アルドミラールがたった今現界させたばかりの術の名を。
しかし、少女騎士にしてみれば不思議はない。
――かつて、この風の魔神を目撃したことがあるのだから。
「天轟闘宴に出場していた魔闘術士の首領、ジ・ファール。奴の奥の手とも呼ぶべき術が、このヘィルティニエだった――」
「おお、そうダ、そうダっタ! 思い出しタ。そんな名前ダっタな」
アルドミラールが大げさに手を叩く。
「……奪ったのね。ジ・ファールの臓器を……」
自然、ベルグレッテの声音は苦い呻きとなった。
あの武祭の後。魔闘術士一味がどうなったかは、ベルグレッテたちの与り知らぬところだ。
ただ、構成員の中でも主力級だったバルバドルフやカザ・ファールネスが死亡し、頭領たるジ・ファールも再起不能の深手を負ったことから、今後幅を利かせることはないだろうとの見解は耳にしていた。そして、それまでの傲慢無礼な振る舞いから、連中を治療しようとする医者はいないだろうとも。
「……。そこを狙って、あなたたちが回収したのね」
確定だ。やはりオルケスターは、天轟闘宴を観戦していた。あの会場のどこかで黒水鏡を通し、ジ・ファールの力に目をつけたのだ。
しかし、
「ク、ハハハ……詳しい話は知らん。俺は力を頂戴しタダけなんデな。成程、お前は『元』を知っテいタか。下手をすれば、俺より詳しいのか? クハハハハ」
黒の怪人はどうでもよさげに笑う。とぼけている風でもない。
「ったく、そういうことか。今になって納得したぜ……」
呻くのは、ヘィルティニエが出現して以降一言も発していなかったサベルだ。
「あの時、記憶が怪しくなってたんでな……。夢か幻かと思ってたんだが……あの崩れ掛けた美術館の部屋で、俺はお前を道連れにしようとした……。が、あの場にいきなり現れた『誰か』が、瓦礫を吹き飛ばした……」
そんなサベルの言葉を受け、アルドミラールが笑みを深める。
「ふむ。あの時、まダ意識があっタか。如何にも。俺はこいつの力を使っテ、あの場を脱しタ」
この風術の集合体を、人と勘違いした。
にい、とアルドミラールが黄ばんだ歯を剥く。
「どれ、せっかく『再会』しタんダ。挨拶しテやれ、ヘィルティニエ」
その呼びかけと同時。巨大極まる風の威容が、すっと音もなく薄まって――
「……消え、た?」
ジュリーの困惑。そこに被さるのは、静寂を裂くベルグレッテの一声。
「みんな、下がってっ!」
直後、横薙ぎの暴風が一帯を薙ぎ払った。
「ぐ、おおぉっ!」
「がっ!?」
重なるのは男性二名の苦鳴。信じられないほど軽々と吹き飛んだ彼らが、横倒しになって大理石の床を二転三転と跳ね回る。
「サベルッ!」
「エドヴィン……!」
二人とも、反応はしていた。しかし、避け切れずかすめていた。
ボウ、と浮かび上がる。
大木じみた腕を横に掲げた、巨大にすぎるヘィルティニエの威容が。風を根源とする速度もさることながら、圧倒的な巨体がそのまま長射程・破壊力へと繋がっている。
「くっ!」
ジュリーが旋風を一閃。ヘイルティニエではなく、その操者であるアルドミラールを狙う――が、これまでと同じく自律防御に阻まれてしまう。そのアルドミラールはといえば、攻撃を受けたことなどまるで気にも留めず。悠然と、床に転がっていた鉈剣を拾い上げた。
(こ、れは……)
その光景を前に、ベルグレッテは改めて噛み締める。
ジ・ファールがこの風の魔神を召喚していた折には、その力が強大であるがゆえそちらに注力せねばならず、他の術を行使するような余裕などなかった。
しかし――アルドミラールの場合、ヘィルティニエの制御をジ・ファールの臓器のみでこなし、当人もこれまで通りに活動することができる……。
明らかに本来の術者を上回る、その立ち回り。
「……!」
思わず、黒剣を握るベルグレッテの指に力が篭もる。いかに鋭いこの刃とて、さすがに神詠術の集合体を斬り伏せることはできない。
――そうなのだ。ここまで思い通りに進んでいるようで、常に綱渡りの道のりだった。
『現実が予想の範疇を出なかっただけ』。
しかし――この三階への階段を歩む最中、思ったではないか。
懸念を挙げたならきりがない。
その中でも――
一番単純で、一番あってはならない……それでいて、もし『そう』ならば回避できない懸念があると。
もし『そう』なら、最初から勝てない戦いだったと。
即ち。
――倒すべき敵が、こちらの想定以上の力を持っていたら?
ここまで概ね計画通りに進んでいた作戦に、不穏な暗雲が立ち込め始めていた。