501. 波濤
「……どうぞ、母様」
「ありがとう、レノーレ。いただきます」
娘が淹れた紅茶を受け取って、レニンは頬を綻ばせた。一口すすって、その表情をより深める。
「うん、おいしいわ」
レノーレにとって、そんな母の笑顔は何物にも代えがたい。
例え、記憶を失ってしまっているとしても。
なら、やり直せばいい。またこれから、思い出を作っていけばいいのだ。
「静かね……」
カップを受け皿に戻したレニンが、少し落ち着かない様子で首を巡らせる。対面に座ったレノーレも何となしに、その目線を追った。
二人の視界に入るのは、錆びた鉄骨や朽ちた石壁、薄汚れた床ばかり。そもそも今こうして使っている机や椅子も、この場に放棄されていたものだ。
ユーバスルラの街にいくつも点在する廃工場、そのひとつの地下室。身を隠すにはうってつけの場所。
皆が出撃した今、この場に残るのは母娘の二人だけだった。
「皆さんはご無事かしらね……」
レニンが不安げに呟くのも当然だ。
何せ、メルティナやベルグレッテたちはあの少人数で『バダルノイス神帝国』にケンカを吹っ掛けに行ったのだから。記憶を失った身からしても、無謀としか思えない行いだろう。
しかし。
「……大丈夫です。……皆なら」
レノーレがあまりに迷いなく断じたためか、レニンは目を丸くした。
「……私にとって、メルやベルは『主人公』なのです」
「主人公?」
「……はい」
切っ掛けなどは覚えていない。
物心ついた頃には、自然と本の世界が身近にあった。
誰もが知る『竜滅書記』はもちろん、様々な物語を読み漁った。それぞれの英雄たちの冒険譚、活躍劇を字面で体験した。
そんなレノーレにとって、メルティナはまさしく架空の世界から飛び出してきた英雄そのものだった。
バダルノイスの動乱を治めた生ける伝説であり、そして孤立した自分を救ってくれた救世主。
そして、ベルグレッテも同じ。
常に人の輪の中心に立って、皆を引っ張ってきた才媛。
異国からやってきたレノーレにも当たり前のように声をかけ、まるで気後れすることなく接してくれた。その高潔で裏表のない立ち振る舞いは、まさしく空想の物語から飛び出してきた正義の女主人公さながらだ。
(……うん。あの二人もそうだけど、もう一人……)
今は、追加すべき人物がいる。黒い髪と黒い瞳を持つ、風変わりな異国の少年。
現れるなりそれこそ『竜滅書記』の主人公を彷彿とさせる豪快な活躍を続けてきた無手無術の彼は今、一国家を相手取ろうとしている。
宮殿への正面突撃という正気とは思えない役割を引き受けた少年はしかし、当たり前のようにその難題をやり遂げるのだろう。
……そして、そのように兵団だけでは手に負えない状況となれば。
必ず、宮廷詠術士たちが対応に駆り出されることとなる。
「……」
駆り出される、というよりも。現在の団長であるアンドロワーゼが、『功を上げる機会』などと捉え仲間を率いて前線へと赴くはずだ。
レノーレ・シュネ・グロースヴィッツは聖人でもないし、かつての『同僚』たちと和解してもいない。
ゆえに、思うのだ。
一度、味わってみてもいいんじゃない?
と。
――手痛すぎるほどの挫折、というものを。
(……うん。私って、小さいな)
かつて宮廷詠術士だった少女は、わずかばかりの自己嫌悪を胸に思考する。
あれから二年。仮にアンドロワーゼたちが以前より腕を上げていたとしても、流護が相手では比較対象にすらならない。よほどの修練を積み、とてつもない実力を身につけているなら話は変わってくる……かもしれないが、彼女らはそんな血の滲む努力を重ねられる性分ではない。
ゆえにかの遊撃兵が敵となる場合、本来なら報告を聞いた時点で彼我の戦力差を自覚し、直接対峙することなく他の対抗策を講じるべき――なのだが、今の宮廷詠術士団にそうした判断力を期待するだけ野暮というものだろう。
となるとやはりこちら側からすれば、目下の懸念はアンドロワーゼたちなどではない。
ハンドショットを所持しているモノトラや、融合処置により強化されたアルドミラールとなる。
しかし、それでも。
「そう。レノーレが信じる主人公なら、きっと大丈夫ね」
「……はい」
レノーレ自身、不思議なほど落ち着いていた。
彼らなら――あの主人公たちなら、きっとやり遂げる。全てを終えて、無事に帰ってきてくれる。
これまで読んできた数々の物語のように。
迷いなく、そう信じることができたから。
街外れにある小高い丘の片隅。一面を雪に覆われた空地にて、メルティナ・スノウは国境近くの街並みを見下ろしていた。
少し東へ視線を移せば、街道を国内外で隔てる高い石壁がここからでもうっすらと確認できる。
さて今頃、皆はどうしていることか。
わずか数名で氷輝宮殿へ攻め入って指導者を捕縛するという、前代未聞の作戦。それに加担している自分も大概だ。
だが、何度も思うが今さらなのである。
一国家が闇の集団の助けを得ねばならないほど進退窮まった時点で、もはや底に等しい。しかしそれならそれで、開き直るだけだ。あとは、どうにかして引き上げるのみと。くだらない誇りなど投げ捨てて、このバダルノイスに生きる人々のために。
「ぐわっははは! ここにおったか!」
静かな丘の静寂を破ったのは、男の粗野な大声だった。
視線を転じると、いかにも傭兵風の外套をたなびかせた大柄な人物がやってくる。遠目に見れば、雪原を豪快に進む熊のようだ。
「ええと……デッガさん、だったかな」
「そう名乗ったな」
豪快に歯を剥いて笑うオルケスターの刺客。その姿を目に留めたメルティナは、誰でも気付くだろうその相違点を指摘した。
「おや? あの馬鹿大きい剣はどうしたの?」
「使い慣れぬ得物はやはりいかん。邪魔にしかならんのでな、手放してきたわい」
あれほどこの男に似合った武器もないと思ったが、そうではないらしい。他に刀剣類を所持している様子もないが、もっともメルティナにとってはどうでもいいことだ。
いつでも始められるよう集中を高める白銀の射手へ対し、デッガはやや渋い表情を作った。
「うむ。それよりまずは、非礼を詫びよう」
「? 非礼だって?」
思わず眉をひそめる。
心当たりがない――のではない。むしろ逆。
うら若き乙女に対し無遠慮かつ馴れ馴れしさ全開で話しかけてきたうえ、人の食事にケチをつけ、二対一で襲撃。
どこに礼節があったのか。
その答えをデッガが重々しく明かす。
「人質を取った折に関してだ。思えばお主らキュアレネー教徒……殊更バダルノイスの者は、自死や自棄の精神を禁忌としておったな。であれば、民の命を握られたとて大人しく己が身を差し出すことなどできぬが必定。その点を失念しておった。赦されよ」
「ああ、そういうこと」
『人質を取ったことそのもの』を詫びてはいないのだから面白い。生粋の『仕事人』という訳だ。
そしてひとつ、この男がキュアレネー教徒でない――即ち、氷属性の使い手でないことが判明した。
「ところで、よく私の居場所が分かったね」
「いいや、偶然だ」
堂々と、なぜかむしろ誇らしげだった。
「お主を探すために、高い場所から遠見を使うつもりで来たのよ。捜索の手間が省けたわい」
「あら、それはまた。鈴のお嬢さんは?」
「手分けしとったんでな。偶々、俺が当たりを引くことになった訳だ」
「それは本当に『当たり』かな? 『外れ』だと思うけど」
「いいや」
断じたデッガは、その太い両腕を水平に広げた。待ちかねたように。
「これほどの当たりなぞ他になかろうて。至上の猛者と見える機会を得たのだ。武人の端くれとして、心躍らんはずもない――」
デッガが両腕を振ると、両の手にそれぞれ水の大刀が顕現した。反り返る刀身は、優に二マイレを超えると見える。実剣なら、とても片手で振るえる大きさではない。
「ふむー。それがおじさんの術か」
水属性の神詠術の長柄による二刀流。これがこの男の本来の姿らしい。
「デッガとは組織に於ける仮の名よ。我が真名はガーラルド・ヴァルツマン。『双濤斬将』なぞと呼ぶ者もおるな。元々、西で傭兵をやっとった身だ」
「そう。で、馬鹿正直に名乗っちゃっていいの?」
何のための仮初めの名なのやら、と白き『ペンタ』は呆れを隠しもしない。
「おっと、名乗らずにはおれんかったわ。強者を前にしては致し方あるまい、性質というものよ。いずれにしろ、これでお主を仕留めん訳にはいかなくなったか」
「勝手に名乗りを上げておいて、それもないんじゃない?」
「ぐわっははは、赦されよ! 性分なものでな! ではいざ――尋常に! 勝負!」
何というか、あまり後先を考えない性格なのだろう。見た目通りに。
闇組織の一員としてそれもどうなのかと思うが、そんな人物を使っている以上理由があるはずだ。
――そしてわずか二秒後、メルティナはその理由を悟ることになった。
その巨体に似合わぬ速度で滑り込んできた、ヴァルツマンの手並みを目の当たりにして。
(! 疾い――!)
その速度は流護と比較しても遜色ないほど。だがもちろん、この男に関しては純粋な脚力のみで実現している訳ではないはずだ。
「ぬゥん!」
その巨躯を旋回させての横薙ぎ。恐るべき速さを伴った透明の二刀が、咄嗟に屈んだメルティナの茶色いウィッグをわずかに散らす。
「!」
これまで、このなびいた偽の髪にすら届く者はいなかった。
右下段からの斬り上げ、返す左の一太刀。短剣でも振るっているような軽さで、大男は長大な水剣による攻撃を矢継ぎ早に繰り出してくる。
外見通りの豪快な大振り。しかしそれに見合わぬ恐るべき速度。水属性の使い手でありながら、その勢いはもはや暴風に等しい。
(剣の腕も侮れないが、それより――)
殊更に瞠目すべきは足捌きだ。踏み込みや移動が信じられないほど速い。雪に足を取られるはずのこの場所で。
「悠々と躱しよる、流石じゃのう!」
ここでヴァルツマンは両手の得物のみならず、掬い上げる軌道での蹴りを放った。
「!?」
下がって回避したはずのメルティナの目元に軽い衝撃。
届くはずのない距離。雪を蹴り上げる仕草でもなかった。一体何が――
刹那に視界を封じられた中、間近に迫る気配。思考するより速く飛びのいたメルティナの胸元に、長大な尺を誇る水刀の右突きが迫っていた。
「――ッ」
目を細めてどうにかこれを認識したメルティナは、身体を半身に傾け辛うじて回避。完璧にはいなせず、かすめた二の腕から血飛沫が舞う。
(――、こいつ……!)
強い。
咄嗟に浮かぶ率直な思考。
それが、にわかに自身を苛立たせた。反射的に、本能的にそう思わされたという事実が。
(っ、私もまだまだということか。とにかく、あまり調子に乗らないでもらおうか)
間合いを離すに比例して、即座に頭を冷やす。相手の速度に面食らったメルティナだったが、ここでようやく反撃へと打って出た。
右手の人差し指を掲げ、ヴァルツマンへ一閃。
がぁん、と鳴り渡る発射音。一撃必倒、これまで幾多の敵を仕留めてきた『無刻』の真骨頂。
酒場では倒せなかった。つまり、胴体の防備を固めている。
ゆえに、今度の狙いは頭部。的が小さく照準を定めづらいが、実行できない訳ではない。
人の身で避けることなどおろか、視認することすら不可能な速射。反撃にして決着のはずのその一矢は、
「な!?」
目を疑う挙動だった。爆発したような速度。
ヴァルツマンが小回りに、滑るように雪上を移動する。その場で小さな円を描く最低限の移動で、巨漢の傭兵は氷の弾丸を完全に回避した。
遅れて足下から雪煙が吹き上がる中、異常な動きを披露した巨躯の男は豪快に口の端を持ち上げる。
「……おっと、つい。種が割れちまったかな。ぐわっははは!」
「なるほど」
大きな肉体に見合わぬ、俊敏にすぎるほどの足捌き。――否。今の瞬間の対応に関して言及するならば、ヴァルツマンの足は『動いていなかった』。つまり、その正体は。
「水か。ごく薄い水の膜と流れを靴の裏にまとわりつかせ、滑走することでその速度を実現してる」
その速度を目の当たりにして『滑るような』と感じたメルティナだったが、実際に滑っていたのだ。先ほどの目潰しの正体も、これによる水滴。
ニッと豪快な笑みを覗かせたヴァルツマンが、二振りの大刀を上段に構える。その姿は、大型の獣が牙を剥く姿にも似ている気がした。
「名答。慧眼だが、分かったところで対応できるものでもないぞ」
メルティナは首を左右へと振った。盛大な溜息とともに。
「……やれやれ。甘く見られたものだね」
緩慢なほどの動作で、メルティナはゆらりと右手を掲げる。その指先で、ヴァルツマンを指し示す。
「確かに、口の軽さを補って余りある実力だ。たった一人で真っ向から挑んで私に血を流させた相手なんて、おじさんが初めてかもしれない。……でも」
宣告する。白雪の使者は、この上ない微笑みとともに。
「もうおしまい」
瞬間、身構えていたヴァルツマンの表情がこわばった。
「ぬっ――」
「どうしたのおじさん? もしかして、靴の裏の水がガチガチに凍って滑れなくなっちゃったかな?」
白々しく問いながら、それを成した『ペンタ』は笑う。
一面を雪に覆われた銀世界。
そこはメルティナ・スノウの支配する領域だ。
造作もない。水使いの力に干渉し、一滴残らず固めてしまうことも。
メルティナは右足で地面を払い、粉雪を巻き上げた。煙に近いほど細かなそれらが空中で寄せ固まり、白い弾丸へと姿を変えていく。
「むっ」
直後、無数のそれらが一挙放たれた。
ヴァルツマンは瞬時に水の薄膜を展開、防御を試みる。
しかしそんなものはお構いなし、次々と着弾した雪の礫が、蝕むようにその薄膜を凍らせていく。
「ぬうっ!?」
危険と判じたヴァルツマンが身をよじろうとするも遅い。メルティナの支配下へ置かれ氷の薄板と化した防御術は、雪の弾と一緒になって弾け飛んだ。
「ぐおっ……!」
至近距離で破片を浴びた男は大きく後方へ跳び、 巨躯を二転三転させながらも踏み留まって構え直す。
そこへ、メルティナは追い打ちをすかさず撃ち放つ。狙いは眉間。種の割れた高速移動を封じ、体勢を崩したところへの狙撃。
がん、と寒空を震わせる砲声。
――完全決着だった。
これが並の相手……並の達人『程度』ならば。
「!」
目を見張るのは、またも攻撃を仕掛けたはずのメルティナ。
ヴァルツマンの握る双刃が一瞬、爆発的な水柱を迸らせた。構えられた二振りの水の大刀が、傘を広げたように膨張、炸裂。眉間に吸い込まれるはずだった一撃は軌道を逸らされ、男の耳元を擦っていくのみに留まる。
「イッデ! ……ふいー、危ねえ危ねえ! 間一髪、ってなところか」
そんな言葉とは裏腹、男の口端は上を向いていた。
「……よく防いだね、おじさん」
高速滑走だけが取り柄ではないらしい。
舌打ちの代わりに称賛を投げると、
「お主の技にようく似た武器を扱っとるんでな。ウチは」
水剣を顕現し直しつつ、闇組織の男が笑う。
やはり、とメルティナの内心に納得が生まれる。
ヴァルツマンの防御は手慣れていた。先の回避にしても同じ。目視できないほど速い射撃に対応する術が身についている。
「ああ……ハンドショット、だったね。びっくりしたよ。私の術にそっくりなんだもの」
ベルグレッテたちから聞いている。指先の操作のみで殺傷能力の高い弾を発射できる、極めて危険な武器が存在すると。
「驚いたという点では我らとて同じだがな。お主は独力でその技法に至ったのだろう。遖、実に遖。その若さ、個の身で大したものよ」
称賛のようでありながら、上が下を認めるような物言い。
「それはそれは、お褒めに与り光栄だね。けれど、こちらにはまだお見せしてない技術が山ほどあるよ。せっかくだ、君たちのハンドショットとやらじゃ真似できない芸当でもお披露目しよう――」
「その必要はねえよ」
割って入ったのは口汚い美声。そして衝撃。
おん、と空間が戦慄いた。
「……!」
耳から侵入する違和感。メルティナの膝が、自分の意思とは無関係にガクンと崩れ落ちかける。
瞬間的に足裏を氷着、どうにか踏ん張って顎を浮かせば、横合いの岩場に派手な女の姿があった。
(っと、お出ましか……)
小顔の上半分を覆う黒メガネと、全身各所を装飾する小さな鈴の群れ。奇抜にすぎる装いをしたもう一人の刺客、ミュッティ・ニベリエ。
「今のも凌ぎやがるか。まっ、じゃれ合いは終いだ。とっとと狩るぞ、おっさん」
女の口調にこれまでのような『遊び』はない。常々浮かんでいた笑みもない。至極派手な佇まいながら、その静謐さは妙に型にはまったような印象がある。
「……」
どちらかといえば、『こちら』のほうが彼女の本性に見えるのは気のせいだろうか。
「……致し方あるまいな」
傭兵のやや残念そうな口調からは、諦めにも似た響きが感じられた。武人として単騎で討ち取りたかったといったところか。
水の双刃を携える傭兵、不可視の音を操る女。
二人の刺客が、真剣な面相で同時に身構えた。




