500. シアニン・シンドローム
「ふー……」
二階への階段を上り切った流護は、一息つきながら辺りに視線を巡らせた。
誰の姿もない。
現在地となる広間から左右、前方へ延びる青絨毯の廊下は、下階での激闘が嘘だったかのような静けさに包まれている。聞こえるのは、ただ自分の息遣いのみ。
街の区画がいくつも収まる広さを有する宮殿。たった一人の賊が相手となれば、探すほうも一苦労か。
これまでは旗色の悪さを感じた一部兵士が撤退、増援を呼んで戻ってくるという流れで連戦が続いていたが、一階食堂ではやけくそ気味になった兵士が総突撃を敢行。流護も迎え撃って全員をしばき倒したため、兵団が一時的にこちらの所在を見失う形となったらしい。
(ちょうどいい、このインターバルで少し休ませてもらうか……)
今や流護も消耗は無視できない状況。
軽度ではあるが、無事な箇所を探すほうが難しい程度には傷を負っている。
だが、その胸にはちょっとした達成感が満ちていた。
(いやー、師匠に自慢できないのが悔やまれるね……)
――現在の撃破人数、百六人。
単身による百人斬りを突破。今やバダルノイス王宮の総戦力、その半分以上を削ったはずである。
転戦を繰り返しながらゆえ、多少の数え間違いはあるかもしれない。だが、おおよその指標となればそれで十分だ。
かの師・片山十河とて、これほど多くの敵を一人で一度に叩きのめした経験はさすがにあるまい。……多分。
「……、」
しかし残念ながら、このままでは最後まで続かない。
予想される総戦力は二百人、残り約半分。その中に腕の立つ白士隊や宮廷詠術士などの精鋭が交ざってくれば、いよいよ厳しい闘いを強いられることになるだろう。
現状、深刻なのは傷よりも消耗した体力だ。
(くっそ、やる前は百人でも千人でも来いとか思ったのに……やっぱそんな上手くいくわけねーわ)
とはいえもちろん、この程度の事態は想定済み。
(『これ』を使うのは……まだ早いよな)
自分の懐に収められているものを確認する。
実は今回の作戦を決行するに当たり、とある代物をグリーフットから譲り受けていた。闘い抜くためには、その使いどころが肝要となるはずだ――
「!」
ずん、と足下に感じるかすかな振動。それが二度、三度と連続する。
ともすれば気のせいで見過ごしてしまいそうな程度だったが、まず間違いない。これは、下階から伝わる戦闘の余波だ。
位置的に、一階の中庭がすぐ近くにあるはず。加えて、この分厚い石壁を通して響くほどの衝撃を振り撒く神詠術の使い手となれば、心当たりは限られる。
(噂をすれば……でもないけど、やってるな。グリーフットさん)
作戦決行前、流護は彼と少し言葉を交わしていた。
食肉を前に号泣したかと思えば、直後に晴れやかな笑顔を覗かせたり。
今ひとつグリーフット・マルティホークという人物を理解できずにいた流護だったが、
『僕が国を出たのは、かつてミガシンティーアとの決闘に敗れたことが原因なんです』
そんな風に独白した彼の横顔が、かつての自分と……桐畑良造に敗れて腐っていた頃の自分と、重なったように思えて。
『ミガシンティーアは僕が戻ったと知れば、間違いなく興味を示します。やり返すために舞い戻ったのだろうと。彼は、僕が引き受けます』
覚悟を決めたかのようなその提案には、メルティナも同意した。
ベルグレッテやメルティナはおろか、あのオームゾルフ、そして上官たるスヴォールンすら。誰にも行動を予測できない異質な白騎士が、確実に意識を向ける相手。それは同じ『奇なる一族』の血を引く、グリーフット――否、『グリフィニア』以外にないと。
(任せたぜ、グリーフットさん)
さて自分も役目を果たさなければ、と少年は気を引き締める。
「……」
すぐ先に、小さな脇道に逸れる曲がり角があった。
油断せず顔を覗かせる。奥まったその場所にあるのはトイレへの入り口だった。無論というべきか、そこにも人影はない。
しばし進み続けて、隠れるでもなく、堂々と廊下の角を曲がった。
流護の仕事は、可能な限り多くの敵を引きつけて無力化することだ。
多数の敵を相手取らなければならない状況は天轟闘宴と同じであるものの、隠れ潜み奇襲に徹したあの武祭とは正反対。目立つように動いて、発見されなければならない。……のだが、
(ありゃ、誰もいねーな……)
廊下はシンと静まり返っている。
(二階は確か、騎士とか宮廷詠術士の部屋が多いって話だったか。でかい客間もたくさんあるんだっけ)
事前情報を頭の中でまとめ直していると、前方の十字路脇からひょこり人影が現れた。
おし来たか、と身構えかける流護だったが、すぐに警戒を解いた。やや困惑しながら。
「……、」
なぜなら相手が、歩くのもやっとといった風情の老人だったからである。
年齢は七十、ともすれば八十歳にも届くだろうか。縮れた髪は真白。顔の皺も深く、手には杖。膝もあまり曲がらないようで、一歩一歩どうにか前に進んでいるといった様子の老父。
着ている青色のローブには見るからに豪華な装飾が施されており、一目で高価な品と判別できる。
(貴族……だよな)
問題は、なぜ今この状況でこんな場所を歩いているのか。
流護が宮殿に突入してからこれまで、兵士以外の人間には遭遇していない。敵襲の報を受けて、非戦闘員――民や文官を避難させたからだ。その点については、メルティナやレノーレからも事前に聞いている。本格的に戦闘が勃発すれば、そのような対応になるだろうと。
となれば余計に、
(……このじいちゃん、何でこんな時にこんなとこうろついてんだ? ……いや、待てよ)
流護は、キンゾル・グランシュアを実際に見たことがない。
この老人がそうである可能性はないか。
(いや……さすがに違うな。似顔絵とは全然違うし)
そもそもキンゾル自身、超高額指定の賞金首。この宮殿内に匿われていたとして、誰に目撃されるとも分からないこんな場所を一人でうろつくとは思えない。
そんな考えを巡らす流護に、老人の落ち窪んだ瞳が向けられる。目が悪いのか、たった今こちらの存在に気付いたようだった。
「おう、お若いの。ここで何をしよる」
「え? いや……」
まさか「この宮殿を制圧しようとしてる最中です」と答える訳にもいくまい。
「ったく、今日はなんぞ宮殿の雰囲気がおかしい。せっかくこのワシが来たというのに、まったくけしからん……」
口の中でもごもご呟いたかと思うと、
「お若いの。手洗いはどこだったかの?」
不意にそんなことを尋ねてきた。
「おっと、勘違いすなよ。呆けとるわけじゃない。あまり宮殿に来ることはないんでな、ちょいと忘れただけじゃからの」
「はあ、トイレっすか……」
実のところ、つい今ほどその前を通り過ぎてきたところだ。
「えーと……さっきありましたよ。向こうの方に……」
「すまんが、案内してくれんか」
……現状、周囲に敵の気配はない。加えて、そう遠くでもない。
「はあ……えっと、しょうがないな。こっちすよ」
自分でも何をやっているんだろうと思いつつ、流護は来た道を引き返した。杖をついた老人が「おう」と後に続く。
(どんな状況だよ……)
何せ、流護はいわば襲撃者だ。それもバダルノイス史にないだろう、単騎でこの宮殿に正面から殴り込みをかけている真っ最中。兵士たちは今、血眼になってそんな前代未聞の大罪人の姿を探しているはず。
それがまさか、トイレに行きたがっている老人の道案内をしているなど、この国を見守る氷神キュアレネーとて予想すらすまい。
……とはいえ。老夫の困っている様子が、もう二度と会えない師匠を彷彿とさせたこともあって、どうにも見過ごす気になれなかったのだ。
「おんし、外の者じゃな」
「……ええ、まあ」
「そんに若いのに、放浪しとるんか」
「いや、別に冒険者とかじゃないんですけど……」
「む? おんし、どこかで会うたことはないか? 顔に見覚えがあるような、ないような」
ギクリとした。流護自身つい失念してしまっていたが、何しろ賞金首として絶賛手配中の身なのだ。
「き、気のせいじゃないっすかね?」
「うーむ……そうじゃなあ。ワシゃ、外つ国に若者の顔見知りなぞおらんしな」
「ははは……」
「しかしほんに、今日は宮殿の様子がおかしい。僧兵どもめ、訳も話さんと外へ出るな外へ出るなと……ワシを誰だと思うとる」
なるほど、と流護も何となしに察する。
兵団は、非戦闘員に事情を説明していないのだ。考えてみれば無理もない。たった一人……ベルグレッテたちを含めても数名でしかない侵入者相手にここまで振り回され、なかなか抑え切れずにいると民に知られれば、何を言われるか分からないだろう。
「おんし、何か知らんか?」
「え? うーん……何ででしょうね……」
俺のせいです、とは言えない。
他愛ない会話を交わしながら、戻ることしばらく。
「ここっす。着きましたよ」
「おお、近くまでは来とったんやないか。惜しい」
すり足で進んでトイレに向かおうとした老人だったが、流護とすれ違おうとして、そこで驚いたように目を見張った。
「むっ、おんし……ようく見れば、傷だらけではないかっ」
やはり目が悪いようで、今になって気付いたらしい。
「ああ、いや、別にかすり傷なんで……」
「うむ。若い頃は、多少ヤンチャなぐらいでいい。ワシも昔は、『荒くれメッシュ』と呼ばれ恐れられた時期があったものよ……」
何やら勝手に納得したようだった。
「しかしほんに助かった。ふんむ、外の人間も捨てたもんじゃないわ。間に合わずクソなんぞ垂れ流そうもんなら、ここぞとばかりにボケ扱いされるとこじゃった。ワシの遺産を狙うボンクラどもにの。おんしは、ただ親切にしてくれただけやない。ワシの名誉を守ってくれたんよ」
「はあ、そんな大げさな……」
「何を言う。誇ってよいぞ」
随分と壮大な功績になってしまったらしい。
「この恩は忘れんよ、決して。ではな。おんしにキュアレネーの加護があらんことを」
軽く拝んで、老人はトイレの奥へと消えていく。
(はは。よりにもよってバダルノイスの本丸で大暴れしてる奴を、キュアレネーが見守ってくれるとも思えんけど……)
苦笑しつつ来た道を足早に引き返し、気持ちを切り替えて、まだ確認していない区画を目指す。
(さて、ベル子たちは三階まで行けたかな……)
目論み通りに事が進めば、彼女らは必要最小限の労力で最上階に到達できるはず。
だが、問題はそこからだ。
この氷輝宮殿は、レインディール城と同じく外敵の侵入を想定した造りとなっている。最奥へたどり着くに当たり、必ず通らなければならない箇所が存在するのだ。襲撃の報を受けて、間違いなくその場所に敵戦力が配置されているだろう。それも当然、惜しみなく強力な相手が。
(…………)
今現在。敵側最強であろうミュッティは、メルティナを追っているはず。
(本当はあの鈴女にもリベンジしたかったんだけど、まあしゃーなし)
『雪嵐白騎士隊』は不在、宮殿に唯一残っていた隊員のミガシンティーアはグリーフットと交戦中。流護が倒したヴィニトフ兄弟は、白士隊の中でも最上位の使い手だと兵士の誰かが言っていた。
未出のオルケスターの戦闘員もいるかもしれないが、この場所がバダルノイスの心臓部たる氷輝宮殿であることを考えると、その可能性は薄い。第三者の目も多い中、素性の怪しい外の人間を招き入れて配置することは現実的でない。
となればおそらく――待ち構えているのは、例の特別相談役。オルケスターのモノトラとアルドミラール。
『ペンタ』であるキンゾルのセンも考えられなくはないが、その仮定はまず除外していい。この『融合』使いの老人の身に万が一のことがあれば、メルティナの力を奪うという敵方の計画そのものが水泡に帰してしまうからだ。ここまで徹底して表に出てこないのも、そういった理由があるからだろう。
(キンゾルがリスクを冒して出張らんでも、拳銃持ちの死の商人に、複数属性を使えるようになった人造強化詠術士……充分やべえ相手だ。…………)
考え込みながら石廊を行くことしばらく。
「いたぞ!」
耳が痛くなるほどの静寂を打ち破って、背後からその声が響く。
振り向けば、曲がり角から数人の銀鎧と白のローブを纏った一団が続々と姿を現すところだった。
「!」
前者はもはやおなじみ一般兵として、ここで気を引き締めるべきは総勢十名ほどの後者。現物の武器を持たない、強固な鎧も着込んでいない、一見すれば荒事とは無縁にも思える者たち。
(っと、今度こそ来たな。レノーレに聞いてた特徴そのままだ。あれが――バダルノイスの宮廷詠術士か)
魂心力を練り、神詠術を行使する者を詠術士と呼ぶ。
つまり広義では、一般兵も詠術士である。流護とは違い、どんな形であれ神詠術を駆使して戦うのだから。
しかし宮廷詠術士と呼ばれる存在は、他とは一線を画す。
いわば神詠術の専門家。国家に仕える熟練した達人、いわば選ばれしエリート、エキスパートだ。術者としての能力は通常の兵を大きく上回る。
必ずしも全ての宮廷詠術士が戦闘を得意とする訳ではないが、今この局面で駆けつけてきた彼らがどうであるかは、議論する余地もないだろう。
清廉な白のローブ姿で統一した彼らの中から、背の高い一人の女性が歩み出てきた。
「ふん、あれが賊ですって? 一人で攻め込んできて大暴れしてるなんて言うから、どんな化け物かと思えば……ただの子供じゃないの」
歳の頃は二十代半ばほどと見える。勝ち気そうな面立ちの、いかにもお嬢様然とした人物。ほっそりした小顔の両脇には、どうやって仕上げているのかと思うほど巻に巻いた金髪縦ロールが揺れている。
流護を見やる水色の瞳には、明らかな見下しの情が含まれていた。
「ゆ、油断はなりませんアンドロワーゼ殿。すでに白士隊含む百もの兵が、奴一人によって……」
「恥ね」
アンドロワーゼと呼ばれた女詠術士は、随伴していた兵の口上を一言で切って捨てた。
「あんなのに引っ掻き回されて、不甲斐ないったらありゃしない。下らない派閥ごっこばかりやってるから、いざという時に動けず醜態を晒すのよ。いいわ、下がりなさい。あれは私達が片付けるわ」
彼女が隊を束ねる長なのか、アンドロワーゼの言葉に呼応したように、他の白装たちも歩み出た。その男女比は半々といったところか。
そんな彼らが一斉に、流護へ向けて手のひらをかざす。
双方の距離は十五メートル前後。
場所は直線の廊下。石壁に挟まれた左右の幅も狭く、両者の間を遮るものは何もない。
(さて……そんじゃ、ちょいと気合入れますかね)
離れて対峙する有海流護は再び思考を戦闘モードへと切り替え、今まで以上に集中を高めた。
なぜなら、よく知っているからだ。バダルノイスの宮廷詠術士、その実力のほどを。
(レノーレが十人いるようなもん、って思えばな……さすがに状況と場所を考えると、被弾なしでやり過ごすのは厳しい)
今この状況下、流護が選べる戦法はたったひとつ。
ただまっすぐ突っ込む、それだけ。場所は狭い石の廊下。前後左右、どこにも逃げ隠れできる場所などないのだ。
おそらく勝負は一瞬。
相手方の一斉掃射を捌き切れず凍死体となるか、それとも自分の距離へ持ち込むことに成功して全員を叩き伏せるか。
「……気に入らないわね」
と、アンドロワーゼが鼻を鳴らした。
「さっさと両手を上げなさいな、流れ者。この状況が理解できないのかしら?」
そこで流護はようやく気付かされた。
バダルノイス宮廷詠術士団VS有海流護。
そんな対戦カードと考えていたのは、自分だけだということに。
「フフ。諸手を挙げる、という文化すら持たぬ土民なのやもしれませぬぞ、アンドロワーゼ嬢」
「あり得る。品に欠けてそうな見てくれをしてるしな」
こちらに手を向けている白ローブの幾人かから嘲笑が漏れる。見れば――彼らは例外なく一様に、呆れたような眼差しでこちらを眺めていた。
(あー……)
つまり。
彼らは、すでに『終わった』つもりでいるのだ。自分たちが駆けつけた時点で、制圧は完了したようなものだと。
(……ま、無理もない話……なんかね)
逃げも隠れもできない場所。対象に向けて、いつでも術を放てるよう全員が手をかざしている状態。いわば、横並びになった警官隊が一斉に銃口を向けているようなものだ。
が。
「いやいや、めでたいオツムしてんねー。もう勝った気でいるとは驚きっすわ」
流護のそんな一言で、場がピタリと静まった。
「両手を上げろ? 城に突撃してきた相手に……それも百人をぶちのめしてる相手に、随分と悠長なこった。あー、現役の宮廷詠術士からしてこんなズレてっから、底なしに落ちぶれるんだな。このバダルノイスとかって国は。善良な国民がほんとかわいそうだわ」
効果覿面とはこのことか。
瞬きの間に、嘲弄の気配を覗かせている者は一人もいなくなった。
耳を疑ったように、発言者の正気を疑うように、アンドロワーゼを筆頭とした全員が表情をなくして立ち尽くす。
そんな彼らに引き金を引かせるべく、少年は挑発的に笑って後押しするのだ。
「だからさ、真顔でぼっ立ちしてねえで早よ来いっての。無能集団」
「――原型すら残すなッ! 撃てえぇッ!」
アンドロワーゼの怒号と同時、眩いばかりの氷嵐がその一角を埋め尽くした。
オーランダル家は、バダルノイスでも指折りの名家として知られる。
その本家に長女として生まれたアンドロワーゼは、これまで何ひとつ不自由ない暮らしを送ってきた。
欲しいものは手に入れ、邪魔なものは排除する。思い通りにならないことなど何もない。
あのときもそうだった。
祖父の口利きで、幼少の頃から憧れていた宮廷詠術士となって数年。地道な貢献が認められ長の地位が見え始めた頃、一人の少女が新たに入隊してきた。
レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。
グロースヴィッツ卿とレニン女史との間に生まれた娘だというその少女は、端的に言って天才だった。
アンドロワーゼより一回りも年下だったが、二年もすれば追い抜かれてしまうことは明白だった。
――だから、排除した。
いかに溢れた才能を持っていようと、所詮は子供。少し嫌がらせをしてやっただけで充分だった。日に日に笑顔が消え、口数が減っていく様子は実に痛快だった。
ほどなくしてレノーレはメルティナ付きとなり、事実上宮殿を去った。
やがて、レニンも衰えから現役を退いた。
時期を同じくして、レノーレも宮廷詠術士の職を辞したとのことだった。
「ざまあみろ」。ただそう思い、ひたすらの笑いが込み上げた。
かくして、邪魔者は消えた。
そうだ。思い通りにならないことなど何もない。選ばれし者は、自然と生き残るようになっているのだ。
それからは順風満帆。
ついに昨年、アンドロワーゼは念願だった宮廷詠術士長に任命された。
自身がそんな華々しい道を歩む一方で、新たな年を迎えて間もなく、その知らせが飛び込んできた。思わず耳を疑ってしまったものだ。
あのレノーレが罪人として手配された、と。
何があったのかは知らないし興味もないが、逆に感心してしまったのだ。人はこうまで落ちぶれられるものなのか、と。
さて、アンドロワーゼの宮廷詠術士としての生活は順調だ。
兵たちは何やらつまらない派閥ごっこに縛られているが、自分たちは違う。己の指揮の下、きちんと統制が取れている。
ゆえにこそ、
「アンドロワーゼ殿、現在宮殿内に賊が侵入しております。兵も次々と撃破され、止めること叶わぬ状態です。どうか、ご助力を願いたく……」
そんな要請を受けたアンドロワーゼは、驚くとともに嫌な顔を隠しもしなかった。
どこまで無能なのか。くだらないいがみ合いばかりしているから、そんな失態を演じるのだ。
「オームゾルフ祀神長にはお知らせしたのでしょう? なら、例の特別相談役とやらが動くのではなくて? 彼らに任せたらいいじゃない」
賊の狙いが何かは知らないが、城の構造上、奥に進むためには必ず通らなければならない道が存在する。そこに件の新顔連中を配置すればいい。むしろ、あのオームゾルフならばすでにその程度はしているはずだ。
が、兵はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「……それはごもっともなのですが……仮にあの相談役たちが賊を仕留めてしまったとなると、その……」
口ごもったその様子で察せられた。
つまり、兵の面子が潰れてしまう。加えて、特別相談役が評価されてしまう。
なるほど、それは確かにあまり好ましくない。あんな得体の知れない連中が功を上げて得意げな顔をするのは、アンドロワーゼとしても不本意だ。
ならばやはり、自分たちが動くべきか。
兵団が手こずった相手を仕留めたとなれば、評価も上がる。
「……分かったわ。案内なさい」
そうして――いざ遭遇したその相手は、年端もいかぬ地味な少年だった。しかも道中で受けた説明によれば、たった一人で攻め込んできたと。
……何もかも馬鹿げている。
こんな子供に兵が百人もやられたなど、とても表沙汰にできる話ではない。
どのように卑怯な手段を使ってそこまでの快進撃を続けたのかは知らないが、それもここで終わりだ。
逃げも隠れもできぬ一本道。アンドロワーゼ含む全員が詠唱を終えて、いつでも撃てるように構えている状態。仮に敵が手練だとしても、多少の反撃など焼け石に水。ここから抗う術などありはしない。
ゆえに、寛大なアンドロワーゼはせめてもの慈悲を示した。
手を上げよ、と。
が、相手はこちらが考えていた以上に愚か者だった。
こともあろうか、バダルノイスを……そして栄えある宮廷詠術士を愚弄した。
アンドロワーゼの号令を受けて、全員の攻撃術が一斉に放たれた。
その猛威たるや、氷神の怒りを代弁したものだったと評していいだろう。廊下の石壁は隈なく凍りつき、燭台の火も一瞬で吹き消え、絨毯を端張る氷が覆い尽くす。
人の身など秒ともたない、圧倒的な氷嵐の渦。
だから。
――そこからわずか十秒も経たぬ後。
自分以外の全員が床に伏している今の状況が、アンドロワーゼにはまるで理解できなかった。
「…………、……な、にが……?」
随伴していた兵士も、率いてきた部下たちも。全員が、糸の切れた人形のように青絨毯の上へと転がっている。
何が起きた。
刻一刻と遠ざかっていく直前の記憶を、慌てて呼び戻す。
一斉に攻撃術を撃ち放った。
直後、自分たちの巻き起こした吹雪の中から、何かが飛んでくるのが見えた。
相打ち狙いか、ともあれ反撃の術と判断したアンドロワーゼは咄嗟に身を伏せた。二発、三発と飛んでくることを懸念し、壁際へと転がりながら。
そして立ち上がった。
――自分以外の全員が倒れていて、目の前には賊の少年がいる。
「………………なんで?」
アンドロワーゼの吐き出した声は、今まで自分でも聞いたことがないほどに間抜けで、これ以上ない震えを伴っていた。
相手は面白くもなさそうに、服や両腕の手甲にこびりついたものを払い落とす。それは氷だ。大小様々な白片が、剥がれ落ちて青絨毯の上を転がっていく。
「………………嘘、でしょう……?」
その事実が示している。
あの氷嵐の中、飛んできたのは反撃の術ではない。
この少年自身だ。
攻撃術を受けながら平然と突っ切ってきて、十名を越える精鋭を瞬く間に倒してのけたのだ。
「嘘、よ」
ありえない。
そんな真似、あのメルティナ・スノウでもなければ――
「これがバダルノイスの宮廷詠術士っすかぁ」
どこか白々しさを伴った口調だった。
最後の一人となったアンドロワーゼに向かって、少年が語りかけてくる。
「なんつーか……結構な実力者がいっぱいいそうだな、って思ってかなり警戒してたんだけど」
心底つまらなげに頭を掻いて。
「レノーレに比べたら全然大したことないのな。身構えて損した」
またもアンドロワーゼの思考が停止した。
なぜ。
どうして貴様が、その名前を。
『レノーレ嬢が今も在籍しておれば、さぞ立派な術士として活躍しておったろうにのう。勿体ない』
会食の場で、さも残念そうに呟く貴族たち。常套句のように。
黙れ。くどい。
あんな小娘がどれほどのものだというのか。
バダルノイスで最高の宮廷詠術士は自分なのだ。
奴の名を出すな。そんな目で私を見るな。
「――」
そう。私は最も優れた詠術士。仲間が倒れたとて臆しはしない。戦わなければ。
敵は目と鼻の先、今から悠長に詠唱など始める時間はない。
懐に忍ばせた短刀へ手を伸ばす。
詠術士だからとて、術に頼り切りではない。アンドロワーゼ・レ・オーランダルは、臨機応変な対応ができる才女なのだ。
対峙する少年は驚いた――様子もなく、やけに冷めた瞳をしていた。
「あー……さっきので仕留めるつもりで、詠唱保持すらしてなかったんか」
「――――」
何だ、その拍子抜けしたような目は。
異国人の賊風情、それも小僧が何様のつもりか。舐めるな。思い知らせてやる。
(死ねっ――!)
抜き放った刃を手に握って踏み込んだ瞬間、
「え」
少年の姿がかき消えて、首筋に衝撃を感じて。
瞬く間に、アンドロワーゼの意識は闇へ閉ざされていった。