5. 黒の惨劇
一時間ほど歩き、街道の先にある川の近くまでやってきた……のだが、何やら川のほとりに人だかりができていた。馬車も数台、立ち往生しているのが見える。
「どうかされましたか?」
ベルグレッテが農夫らしき一人に声をかけると、彼は浅黒い顔を困ったように歪めて答えた。
「いやー、橋が壊れてるんだ。ドラウトローが出たなんて噂もあるし、奴らの仕業かねえ……」
農夫の視線を追ってみれば、川を跨いで架かっていたであろう木の橋が、ばきばきにへし折られて沈み込んでいた。橋の幅は二メートルもなく、元より丈夫そうなものではない。とはいえ、橋は橋だ。これを破壊するような力を持つのだろうか。ドラウトローという怨魔は。流護は無意識に唾を飲み込む。
向こう岸までは十メートルほど。とはいえ、さすがに泳いで渡る訳にもいかない。
「今年はファーヴナールの年じゃしなあ……」
「不吉な話ですのう」
「街まで戻るかな」
立ち往生している人々の会話が聞こえてくる。
「……どうする?」
「んー……修復に時間もかかりそうだし、本当なら街に戻りたいけど……明日は学院に行かないとだし……」
ベルグレッテは周囲を見渡し、思いついたように指を差し示す。
「森。あそこの森を通って行きましょう。遠回りにはなるけど、向こう岸に繋がってるから」
薄暗い森だった。
鬱蒼と茂る木々は、やはり日本では見たことがない。枝が異常に太く、その全ての先端が空へ向かって伸びている。どこか、空に祈る人々の腕を連想させた。
一応、獣道らしきものを通っているのだが、快適に歩けるとはお世辞にも言えない。
「ええと……コブリアぐらいは出ると思うから、気をつけて」
先に言ってくれ、と少年は顔をしかめる。とはいえ、あのときは訳も分からず死に物狂いだったが、少しこの世界の話を聞いた今なら、もう少し落ち着いて対処できるかもしれな――
流護の思考を寸断するように、聞こえた。キーという、耳障りなあの声が。
「――さっそくね」
ごうっ、とベルグレッテの周りに水流が現界する。意思を持ったように渦巻き、木々の間から漏れる光を受けて燦然と輝く奔流。それはやはり、この状況においてすら見とれてしまうほどの美しさを誇っていた。
対して、岩の影からのそりと現れたコブリアの、何と醜くおぞましいことか。『怨魔』という忌まわしい響きがこれほど似合う存在は、他にいないのではないか。少年にはそう思えてならない。
一瞬だった。
ベルグレッテに向かって飛びかかるコブリア。流護の脳裏に、初めてミネットと会ったときの光景がよぎる。
「ベ――」
名前を呼ぶ暇すらなかった。
ベルグレッテを取り巻いていた水の一部が渦を巻き、その右手へと収束する。現れたのは、彼女の身の丈ほどもある、一振りの――水の剣。
少女騎士は、優美な動作で剣を真横に一閃する。流星を思わせる白い線が奔った刹那、コブリアは軽く三、四メートルほども吹き飛び、濁った沼へと叩き込まれていた。
「――ウィーテリヴィアの加護が、あらんことを」
ベルグレッテが右手を一振りすると、水の奔流と剣が光を放ち消失する。
同時に、彼女の長い髪が風に揺れた。
「…………」
ただ。呼吸することも忘れて、見入ってしまった。
「なに? どうしたの?」
「オー。オーイエー」
流護はパチパチと拍手を送る。
「な、なに? なんだか恥ずかしいからやめて……」
これが、神詠術を使った闘い。『神詠術』や『詠術士』という言葉の響きから『魔法使い』のようなものを想像していたが、ベルグレッテは『魔法戦士』という言葉が似合いそうだった。
「やっぱり長居するのはよくなさそう。早めに、森を抜けましょう」
「おう……」
先を行く少女騎士に続く形で、流護も慌てて歩き出した。
名前も分からない鳥が影を落とす。見たこともない魚が池の水面を揺らす。
森はさらに暗く、昏く、深まっていく。
すでに十五分近く歩いただろう。たどり着いたその場所は、切り開いた広場のように閑散としていた。見上げるほど巨大な岩々が色濃く影を作っており、これまでの道よりもさらに暗い。その岩をさらに上から覆う、高くそびえる木々。箇所によっては、密集する岩と木々が夜の闇と大差ない影を疎らに作り出している。
そんな風景を認識した直後、低い唸り声が聞こえた。
下水が詰まったみたいな汚い音だ、と流護には感じられた。ただただ、不快な音。
それは樹木の陰から姿を現す。
身体は大きくない。コブリアよりは大きいが、その体長は一メートルあるかないかといったところだろう。全身は黒毛に覆われており、不恰好なまでに太く短い足。対して、地面につきそうなほど長い腕。顔は崩れたみたいに醜悪だが、コブリアのように目が大きかったり口が裂けたりはしていない。
テレビで見覚えのある未確認生物……ビッグフットの想像図を小さくしたような外見。日本からやってきた少年の脳裏に浮かんだのはそれだった。
「うお、新モンスターかよ。ささ、ベル先生」
押しつける訳ではないが、闘うベルグレッテの姿をまた見たいと流護は思ったのだ。
しかし彼女は流護の声に答えない。代わりに、呟いた。
「ドラウトロー……」
弾かれたように、流護はソレへと視線を向ける。
「こいつ、が……?」
それが合図だったとでもいうのか。木陰から直に発生したようなぬるりとした動きで、さらに二体がまろび出る。合わせて三体。黒き殺戮者が三体、その姿を見せていた。
「……どうして……、今はまだ、昼なのに」
かすれた声で、呆然とベルグレッテが呟く。
「……夜行性のコブリアが出るんだし、こいつらも夜行性なんだろ? いてもおかしくねえんじゃねえか……?」
「いいえ。ドラウトローは、夜行性でも深夜にしか行動しないはずなのに……」
「まあ、今は言っても仕方ねえぞ。どうする」
流護は――拳を、握り締める。
「だめ。絶対に、闘ってはだめ。……勝てる相手じゃ、ない」
戦意を察したベルグレッテが釘を刺す。
「逃げるの。なんとか隙を作って、全力で逃げる。それ以外にない」
じり……と、ベルグレッテが足を引いた――瞬間だった。
まるで幅跳び。ドラウトローの一体が、約五メートルもの距離を一足で跳び超え、ベルグレッテの眼前に着地した。
「――ッッ!」
それでも備えていたのか、ベルグレッテは瞬時に水剣を生み出し、ドラウトローの右肩を目がけ袈裟斬りに振り下ろす。
「……ぁ」
ベルグレッテの声が漏れた。
「……な」
流護も驚愕の声を零す。
ドラウトローは、いとも容易く少女騎士の水剣を掴んでいた。
まるで、いたずらする子供から棒切れを取り上げるような仕草。そうして、化物の口が――笑みの形に歪む。
刹那、ベルグレッテが吹き飛んだ。
軽く数メートルを飛ばされ、受け身を取れずに転がる。
「ベルッ!」
「……、……だい、じょう……ぶ」
流護の叫びに、少女騎士は辛うじてといった様子で答えた。
技術も何もない、ただ突き出されたドラウトローの拳。
ベルグレッテは咄嗟に水の神詠術で防御し、さらに身体をひねって直撃を外していた。片膝をつき、すぐに起き上がる。しかし苦悶の表情に顔を歪め、歯を食いしばって脇腹を押さえる。
下水じみた汚い音が響く。見れば、ドラウトローたちが――嗤っていた。
「……、」
ぎり、と。流護の噛みしめる音が、ベルグレッテにも聞こえたのか。
「リュー、……だめ、……っ」
それでもなお、彼女は息も絶え絶えに制止する。
そこでふと、思い出したように。離れた場所に立っているドラウトローの一体が、地面に落ちていた緑色の石を両手に取った。それを――火打ち石のように、打ち鳴らす。
「…………あ」
ベルグレッテの顔が青ざめた。
「――だめ」
直後。痛みをも忘れたかのように、彼女は絶叫した。
「リューゴっ! 聞いちゃだめええぇっ!」
少年には、その言葉の意味が分からなかった。
音。ドラウトローの持った石から、音が聞こえた。初めに流れたのは、ノイズのようなもの。流護は世代でないのであまり馴染みがなかったが、録音したカセットテープを再生したときに流れる独特の雑音に似ていた。
『……て』
声。声だ。それに混じる、何か……ぐちゃり、という、果物を叩きつけるような濡れた音。
『……、たぃ……、』
声。聞こえてくるのは、湿った破砕音に混じる、知っている声。濁っているが、知っている声。
「――――――――――」
流護は血の気が失せたのを自覚した。
思い出す。ベルグレッテが言っていた、ドラウトローの特性。
「ただ遊びで、人間を襲う。その様子を、『音鉱石』っていう音を保存する性質がある石に記録する」
『……あ、ああぁ、いや! いやあぁああぁ! 痛い……、痛いよ! 誰か助けて! たす、うあぁ、が……だず、やめ、て』
「…………ッ!」
ベルグレッテが、震える手で口元を覆う。
「ゃめ、ろ」
流護が、消えそうな声で呟く。
しかしこれは過去の記録。過去に『録音』された、記録。
『だ、す……、がぁ、痛い……いやぁ、助けて! が……、お母さん! ぁ助けて、ベルグレッテさま……っ』
少女が死に至るまでの――記録。
『リューゴさん! 助けてよおおおぉぉおおぉッ!』
直後。
ぐちゃ、という音がして。なにも、聞こえなくなった。
ふらり、と。一歩、踏み出した。
爆裂。地面が割れ、土煙を吹き上げる。空手家は一足飛びで、ベルグレッテを吹き飛ばしたドラウトローの前に到達した。奇しくも、この怪物が彼女に対してそうしたように。
「リ――」
少女騎士が名前を口にする間もなく。
流護の右拳でドラウトローは吹き飛び、背後の木に叩きつけられた。木からずり落ちるより早く、流れるように追いついた少年の拳による弾幕が突き刺さる。まるで踊るかのごとく、怪物の身体が波打った。
耳障りな、重低音の悲鳴が響く。壊れた玩具が異音を発しているようで不快だった。
「うるせえよ」
ドラウトローの頭を掴み、木に叩きつけた。ただひたすらに、原始的な動作。果実を割ろうとする古代人さながらの。一回。二回。三回。叩きつけるたび、赤黒い飛沫が跳ねる。やや細めだった幹は、七回目でへし折れた。痙攣しているゴミを放り捨てる。
絶句して流護を見上げるベルグレッテ。残る二体のドラウトローですら、何が起こったか理解できないように突っ立っていた。
「――何を呆けてんだ。来いよクソザル」
言葉が通じたとは思えない。しかしすぐさま、一体のドラウトローが滑り込むような速さで肉薄する。太く短い脚からは想像できない速度。しかし強靭な筋肉の塊だからこそ実現できる速度でもあった。
疾駆した勢いのまま、怨魔は右腕を振りかぶる。身体に不釣合いな長さゆえ細く見間違えてしまうが、それもまた筋肉の塊だった。
しかしその鈍器と形容していい豪腕から放たれる一撃は、空転する。
それよりも遥かに速く。天空から打ち下ろされた槍さながらの一撃が、ドラウトローの顔面を貫いていた。空手において中段突きと呼ばれるそれは、流護とドラウトローの身長差ゆえ、顔面に突き刺さった。怨魔はブリッジを描いて、後頭部から大地に激突する。
「リューゴ! 後ろっ!」
緊迫したベルグレッテの声。最後の一体が、すでに背後へと肉薄していた。
横合いから振り回された長い腕が、鈍い音を立てて流護の腹へとめり込む。
「――ッ」
びぎ、と身体の内側に響く音。肋骨にひびが入った音だった。
怨魔は、その手応えに醜悪な笑みを浮かべる。
「あ? 終わりか?」
しかし流護は平然と言い放った。腹に当てられたドラウトローの腕を掴み、大きく振り回す。
脇腹に走る激痛。おそらくは。ミネットのそれに比べれば、何でもない激痛。
怨魔は半月の軌跡を描き、巨木に衝突した。落葉が舞う中、すぐさま追撃の蹴りがドラウトローの後頭部に叩き込まれる。木に赤黒い染みを残しながらずり落ちた最後の一体も、それきり立ち上がることはなかった。
「……、…………」
ベルグレッテは、ただ言葉を失う。
暗き森は、再び静寂を取り戻していた。