497. 東部にて
バダルノイスは東端の国境付近、とある小さな街の宿屋兼酒場にて。
「ふぁ……」
外が白み始めてしばらく。
茶色の長い髪をかき上げたメガネの女は、床板軋む階段を下りながらあくびを噛み殺した。
一階部分の酒場へと降り立ち、辺りを窺う。さすがに早朝だけあって、客は自分を含めてわずか七人。店内は落ち着いた静けさに包まれている。おそらく、一日の中で最も空いている時間帯だろう。
「親父さん、フルーツベリーパイをお願いできるかしら」
「あいよ」
店主に朝食を頼み、カウンター席へと腰掛ける。
そんな折、背後から慌ただしく扉を開閉する音が響く。直後、声を潜めがちにした男二人のやり取りが聞こえてきた。
「やっぱりここにいたか。招集だ、皇都と連絡がつかないらしい。何か起きてるみたいだぞ」
「何だ、こんな朝っぱらから。こちとら非番だぜ。夜通し飲んで、これから寝ようと思ってたんだ。勘弁してくれよ」
「いいから来い、詳しくは外で説明する」
平服姿だったが、話の内容からして兵士であることは間違いない。会計を済ませて出ていく二人を尻目に、女は――変装しているメルティナ・スノウは、正しく事態を察知した。
(……気付いたみたいだね)
皇都各所にばら撒いたベンディスム将軍の手配書が見つかったのだろう。街中の兵は、その対処に追われているのだ。
この作戦の発案者はメルティナ。頼まれて渋々ながら似顔絵をしたためたのはレノーレ。夜通し貼って回ったのはラルッツとガドガドだ。
当初、ベルグレッテとレノーレはこの案の実行に難色を示した。
気持ちは分からないでもない。偽りの懸賞で何も知らない賞金稼ぎたちを騙し、無関係な兵や市民たちを混乱させることになるからだ。ついでにいえば、手配書の偽造は本来であれば罪にも問われる。
だが、そんなものは今さらだ。
自分たちが勝利すれば――現バダルノイス指導者たるオームゾルフが捕らわれ、その所業が白日の下に晒されれば、かつてない大混乱が巻き起こる。
メルティナ個人としては、事情も露知らず、レノーレの懸賞金に目が眩んでノコノコとやってきた賞金稼ぎたちも気に食わない(やや八つ当たり気味の憤りであることは自覚している)。
そして今のバダルノイスに、人を罪に問う資格なんてものはない。
ならば、徹底的に抗戦する。やられたらやり返す。あらゆる手段をもって、叩き潰す。それだけだ。
「はいよ、フルーツベリーパイお待ちどう」
「あらどうも。いただきます」
黙々とパイを口に運びながら思考する。
これはもはや立派な戦争。
手段など選ばない。北方の英雄だの何だのと称賛されるメルティナだが、そもそも正義の味方になったつもりなど毛頭ないのだ。昔から、ただの一度も。
(私はただ、自分が守りたいもののために戦うだけさ)
それが内戦では『当時のバダルノイス』で、今回は『レノーレ個人』というだけの話。
(ひとまずこれで、氷輝宮殿は孤立するはず)
戦力の大多数を見当違いの南方へ派兵したうえ、皇都の駐在はベンディスム将軍の手配騒ぎで混乱収拾を余儀なくされる。
そして、
(それにしてもまさか、あのグリフが帰ってきてたなんてね……これには私も驚かされたけど)
バダルノイスを去って長らく音沙汰がなかった、グリフィニア・セアト・マーティボルグ。傭兵となっていたうえ、ベルグレッテたちと面識があったのは予想外だった。
(で、これが惜しかったんだよね~)
ベルグレッテたちが新たに賞金首として手配された二日後、遠距離通信術を習得していたグリーフットが合流しハルシュヴァルトの兵舎へと連絡を飛ばした。……が、これが何度試しても繋がらず。
おそらくは何らかの妨害工作が仕掛けられているのだろうが、もう少し早く連絡を取ることができていれば、中立地帯のレインディール兵にその状況を知らせることができたかもしれないのだ。
(まぁ、後悔しても仕方がないんだけど……とにかく、)
敵となるか味方となるか、どう動くか予測できない不確定要素であったミガシンティーアだが、同じ『奇なる一族』たるグリフィニアならば確実に釣れる。あの二人は因縁を抱えているのだ。
(こちらの策はこれで全部。可能な限り、敵の戦力は削ぎ落とした。あとは真っ向勝負あるのみ……)
残るは宮殿に駐在する総勢二百超の兵団、宮廷詠術士たち、オルケスターの刺客であるアルドミラールとモノトラ。
本来なら、これだけでも膨大にすぎる戦力だ。それこそ『ペンタ』でもなければ、とても戦闘など成立しない規模。
それらを越えてようやく、オームゾルフと対峙することができる。
もっともバダルノイスの心臓部、王城たる氷輝宮殿へ殴り込みをかけようというのだから、当然といえば当然だ。
少しは趨勢がこちらに傾いたかといえば、きっとそんなことはない。
けれど。
(……任せたよ)
ここまで来たならもう、あとは信じる他にない。
風変わりな拳の遊撃兵を始めとした、若き異国の戦士たちを。
思い馳せるそんな中。
――どがっ、と乱暴な音がした。
「ぐわっはははは! 親父、エールを一杯頼もう!」
椅子を壊さんばかりの勢いで右隣の席に腰掛けたのは、冒険者と思しき大男。たてがみに似た灰色の髪と、額から鼻っ柱、頬にかけて走る一本の長い傷跡が目立つ。いかにも重そうな大剣を背負っている。
見るからに歴戦の傭兵、といった風貌の荒くれだった。
その獣じみた青色の眼が、無遠慮にメルティナへと注がれる。
「おう、朝飯かい。お姉ちゃん」
「……ええ、まあ。ご覧の通り」
異国の傭兵となれば、まず間違いなくレノーレの懸賞目当てでやってきた人間だ。素っ気ない対応となるのも致し方ないところである。
「ぐわっははは! 俺からしたらひと摘まみ、ってなもんだな。もっとたらふく食って精を付けた方がいいんじゃねぇか!?」
馴れ馴れしいうえに暑苦しい、加えてやかましい。余計なお世話にもほどがある。
どう反論してやろうかと考えたメルティナの左隣から、その言葉が聞こえた。
「そーそー。もっといいモン食っとけよ。てめぇにとっちゃ、最後のメシになるんだからよ」
耳障りのいい女性の声、それに似つかわしくない品に欠ける口調。ちりんと随伴する、小さな鈴の音。
「――――」
左隣の席に、その女が腰掛けた。
雑に編み込んだ長い金髪。派手な装飾品の数々、そこかしこに括りつけられた小さな鈴。小作りな顔に似合わぬ、大きな黒いメガネ。
オルケスターの一人にしてオームゾルフの切り札、ミュッティ・ニベリエ――。
(……あらら。もう見つかった、か)
そして当然、このむさ苦しい男も刺客。二対一。
「……ふむー。我ながら悪くない変装ぶりのはずなんだけど」
メルティナは大げさに嘆息して、自らの姿を俯瞰した。
茶色いウィッグを被り、顔の輪郭を錯覚させる大きな伊達メガネをかけて、質素な街娘風の平服を着用している。
よほど親しい者でもない限り、面と向かってもなかなか分からないはずだ。実際、先ほど店を出ていった兵士らは全く気付かなかった。
「ケ、そんな仮装でアタイを騙せると思うなよ」
「ふむー。音属性ならではの、人捜しに向いた特技でも持ってるのかな。ま、それはともかくとして……こっちの暑苦しいおじさんはお初だね」
メルティナが横目で右隣を窺うと、その男は豪快に歯を剥いて笑った。
「ぐわっははは! 歯に衣着せぬ物言いじゃのう! 俺は――デッガ、と名乗っとる。見知り置き頂ければ幸いだ」
(デッガ……? 確か、その名前は……)
グリフィニアが東でともに仕事をこなした相手。例のハンドショットと呼ばれる武器による射撃をいなしたという傭兵がそんな名前だったはず。
「はいよ、デッガさん。エールお待ち」
その大声から嫌でも聞こえたのだろう。店主が男の名を呼びつつ、琥珀色の液体で満たされたジョッキを持ってきた。
「うむ、戴こう」
デッガの太い五指が、ぐっとジョッキの取っ手を掴み込む。そこで一瞬、垣間見える。男の分厚い手のひら――それぞれの指の付け根部分に、大きなタコが盛り上がっていた。
(……こてこての剣士か)
日常的に実剣を振るっている証だ、とメルティナは看破する。これ見よがしに背負った大剣をぶん回す姿は確かに想像しやすい。
「かーっ!」
そんな剣士は水でも飲み干すがごとく、一気にジョッキを呷って空にした。何でもいいが、いちいちうるさい。それを待っていたように、左隣のミュッティが口を開く。
「よう。何だか知らねえが、面白ぇ小細工を仕掛けやがったみてえじゃんか。兵士どもが騒いでたぜ」
「だろうね」
「っても、てめぇがこうして捕まったんじゃ意味もねえがな。つー訳で追いかけっこは終いだ。大人しくついてきな。そうすりゃ無駄な犠牲も出ねぇ。てめぇに断る権利はねぇ……分かるだろ?」
無遠慮で豪快なデッガとは正反対。囁くように言って、鈴の女は周囲を見渡す。その大きな黒メガネ越しに、店内にいる者の数を確認したようだった。
「……無駄な抵抗はすんな。とりあえず、人質は五人だ」
今現在――メルティナとオルケスターの二人を除けば、夜通し飲んでいたであろう客が四人。店主が一人。
つまりこの音使いの女は宣言している。店そのものを人質に取ったと。従わなければ、彼らの命の保証はないと。
(なるほどね。何だかんだ、あちらさんももう余裕はない、ってわけか)
あの大規模作戦にて相見えた際、ミュッティは一人で流護とメルティナを相手取ることにこだわった。介入しようとしたアルドミラールに対し、「殺すぞ」と凄んでまで。
しかし今は、逆に仲間連れでメルティナ一人を追い詰めようとしている。市井の民を脅しの材料に使ってまで、是が非にも目的を遂げようとしている。これ以上時間をかけていられないことの表れだ。
「ミュッティさん。君は面白いな」
「あ?」
「例えば君は……見ず知らずの誰かをいきなり人質に取られて、大人しく従うの?」
「強がるなよ英雄サマ。試しに減らすぞ」
「そうそれ。誰も彼もが、私に英雄という理想を押し付ける。品行方正で正義感に溢れた、高潔な人物に違いないってね。西方の勇者様と名高いレヴィン・レイフィールドでもあるまいし、私はそんなタマじゃないんだけどな」
「……くだらねぇ論調で時間稼ぎしようとすんじゃねえ」
わずかな苛つきを滲ませたミュッティが、ゆらりと右手を掲げる――より速かった。
「そんなことしてるつもりはないけど?」
メルティナが、ミュッティの眉間に向かって右手の人差し指を突きつけたのは。
「ッ!」
があん、と鳴り渡る。あまりの至近ゆえ、発射音と着弾音は同時。
鼻先の距離で射撃を受けたミュッティは、椅子からもんどり打って転げ落ち、
「よっと」
その一瞬の間隙を縫って、ひらりとメルティナは立ち上がりざま右隣へ向き直る。
「ぐわっははは!」
一流の反応に違いない。もう一人の刺客――デッガはすでに立ち上がって背負った大剣の柄へ手をかけており、あとは抜き放ちざまこちらを一刀両断できる体勢にあった。
「油断も隙も――」
その粗野な顔を彩る満面の笑みは、勝利を確信してゆえのことか。
事実、仕留めるのは容易だったろう。
――彼の目の前にいる相手が、『無刻』でさえなかったなら。
「有りゃぁせんのう!」
機先を制しようとしたか、デッガは直前まで自身の座っていた椅子を蹴り上げる。メルティナはそれをヒョイと身体を傾ける挙動のみで躱し、
「むっ……!」
重量級の武器を振るおうとした時点で、男は的だった。
がん、がん、がん。一発、二発、三発。メルティナはデッガのどてっ腹へ向けて、躊躇せず丁寧に氷の弾丸を撃ち込んでいく。
「ぐっ、がっ、ごぉっ!」
一発受けるたび、大柄なデッガの身体が押されるように後退する。
そこからさらにダメ押しの二連射を浴びて、彼は後方のテーブルや椅子を巻き込みながら派手に倒れ込んだ。
「な、何だ!?」
「うわあ、お助け!」
ここでようやく事態を把握したらしい客たちがワッと身を伏せる。
「ひいいいぃぃぃ」
同じくカウンターの下へ隠れた店主に対し、
「ごめん、ごちそうさま! あとこれで直して!」
メルティナは多めの札を机上へとばら撒き、風の勢いで店を飛び出すのだった。
――嵐が過ぎ去ったように静まり返った店内にて。
全てが静止したかに思われる中、もそりとひとつの影が蠢いた。
「……っとによぉ……」
横倒しになっていた女は、確かめるように顔を――その上半分を覆う黒メガネを押さえる。
(……ったく、危ねぇ。壊れるとこだったじゃねーか)
気だるく床から身を起こしたミュッティは、口の端から伝った血を親指で拭いつつ、忌々しげに舌を打った。
「相変わらず小賢しい術だ、ムカつくぜ」
速度と貫通力に秀でた、極めて小さな氷の弾丸。防御術を展開しても、その威力が浸透してくるほどの。
(ま、裏を返しゃそんだけ『使える』ってことでもあんだがな)
臓器を獲得できれば、その力を丸ごと奪うことが可能だ。
「ったく、無駄に粘りやがって」
鈴の音を伴いながら立ち上がった女は、下衣に付着した埃を払いながら呼びかける。
「おい、いつまで寝てんだオッサン。追うぞ」
その言葉を受けて、割れた瓶や折れた木片の上に寝そべっていたデッガがムクリと起き上がった。
「ぐわっはははは! いやはや驚いた。話には聞いていたが、ハンドショットも形無しの術よのう。手際の良さも並ならぬ。まさか、この俺が……いくら扱い慣れんとはいえ、得物すら抜かせてもらえんとは」
男の腹部から零れ落ちたそれらが、床板の上にコロコロと転がる。メルティナが撃ち込んだ氷の弾丸だった。それらは例外なく、異常な水気を帯びていた。
デッガは胡坐をかいたまま、思案するように自らの顎を撫でる。
「しかしやはり、仮初めの装備では厳しいな。全力を振るわねば、あれは仕留められんだろう」
「ケ、好きにしろよ」
「ふむ。ならば、お言葉に甘えるとするかのう」
嬉しげに膝を叩いて立ち上がり、外套についたガラス片や木屑を払い落とす。
「では参ろう。……おっと」
思い出したように、デッガは辺りを見渡した。
自分の巨体が突っ込んだことで破砕したテーブル、落ちて割れた椀や陶器の数々、店の片隅で身を縮めて震える客たち。
「ふうむ」
それらを一瞥した後、デッガは落ちていた自分の大剣を拾い上げ、大股でカウンターへと歩み寄った。
「ひいいいぃぃぃ」
腰を抜かした店主が情けない悲鳴を上げる。そんな様子もお構いなしに、
「お騒がせ御免! エール代と壊した物の詫び代わりだ、取っておいてくれい!」
デッガは背負っていた留め金を外し、大剣を収めてドンとカウンターの上へ載せた。まるで質に売り払うかのように。見るからに重量級のそれが、調味料の入った瓶類を震わせる。
「……は、? え?」
困惑しきりな店主に対し、なぜか得意げな顔で親指を立てる大男。
「ぐわっはははは! では参ろうか!」
やることは終わったとばかり、丸腰になった男は高らかに笑いながら戻ってきた。
「ケ、ホンットに騒がしいオッサンだな」
かくして、二人のオルケスターは早朝の店を後にするのだった。




