496. 喜びと悲しみ
「お、おお…………これは、なんという――」
青年が大広間に入ると、目を疑うような光景が広がっていた。
寒色を基調としたカーテンやタペストリ、絨毯によって飾られた、氷輝宮殿の玄関口たるその空間。荘厳な雰囲気に満ち、文官や兵が粛々と行き来するはずのその場所は今、死屍累々と横たわる法の守護者たちで溢れていた。
「うう……」
「……くっ……」
その数、ざっと三十以上か。全員が全員、身を起こすこともままならない有様。裏を返せばただ一人の死人すら出ていない状況ではあるのだが――過去のバダルノイス史を紐解いても、宮殿においてこのような惨事は前例がないだろう。
(おお……おお……)
予想はしていた。だが――いざこの光景を目にした青年の胸に、締めつけるような思いが去来する。当然だ。自らの生まれ故郷、その中枢たる王城なのだから。防備が脆くも崩れ去っている様を目の当たりにして、何も感じないはずはない。
「く、そっ……、!」
もがくように身をよじった一人の若い兵と、視線が交わった。
横たわったまま、なおも身構えようとする彼だったが、白の礼服で整えたこちらの身なりを見て判断したのだろう。
「……き、貴族の方ですか。只今、この宮殿では……非常事態が発生しております……、ここは、危険です。一時、この場から……避難を……」
我が身より貴人を案じる。職務に忠実な、よく訓練された兵だ。
「おお、僕のことでしたらお構いなく……」
「なっ……」
目礼を返し、戸惑う彼を尻目に、宮殿入りした青年は約束の場所へと足を急がせる。
鬱屈とした迷宮にも似た廊下の雰囲気は、あの頃と変わらない。時折、どこか遠くから慌ただしい足音や怒号めいた声らしきものが響いてきた。
そうした非日常の中でも懐かしさを噛み締めて歩くことしばし、そこにたどり着く。
――その場所は一階の中央部。
緑溢れる美しい自然の庭園。美しい装飾の施された巨大な柱が、いくつも等間隔でそびえている。
その中央に、彼がいた。
こちらに背を向けて立つ、白く華美な軽装鎧を纏った男性騎士。見かけの年齢は二十代後半といったところか。ボサボサと波打った茶色の髪が特徴的な、スラリと背の高い美青年。
そんな彼が右手を掲げ、その手のひらを上向けた。舞台の演者のように。ガラスの天井から注がれる昼神の恵みに照らされながら、歌うような口調で言葉を紡ぐ。
「――ここは変わらないだろう? あの頃と」
芝居がかった所作とともに振り向く、その人物。白の騎士――ミガシンティーア・エルト・マーティボルグ。
そんな彼に対し、やってきた青年――礼服姿のグリーフット・マルティホークが応じる。
「ああ……そうだね。僕が国を出る前と、何も変わっていない」
「フ、クク。だが――グリフよ、君は変わったな。すっかり大人びたじゃないか」
「ミグ、君こそ。すっかり貴族としての品格や落ち着きが身についたようだね。……実に感慨深い。この場所は変わらずとも、人は変わっていくものだね」
悲哀を込めたグリーフットの言に、ミガシンティーアがククと笑いを被せる。
「ク、フフ。しかし……一つ変わっていないものがあるぞ、グリフよ」
白騎士は両手を広げ、待ちかねたように口の端を吊り上げた。
「――私と君の力関係、だ」
その言葉を皮切りとして、白騎士の周囲で静かな冷気が巻き起こる。
「クク……幾日も前になるが、部下から報告を受けた際は驚いたさ。酒場で、君らしき人物を見かけた……と。真偽を確かめるため、コートウェルの怨魔討伐を断って宮殿に留まったが……大正解だった。スヴォールンらのように、長々と北側へ隔離でもされてしまっては堪らぬところよ」
グリーフットも、ベルグレッテたちから細かい事情は聞かされて知っている。
ミガシンティーア一人だけが怨魔征伐を断り宮殿に留まっているとのことだったが、何のことはない。自分の存在を感知したことが原因だったのだ。
「相も変わらず自由だね、ミグ。……訂正しよう。君は何も変わっていない。あの頃のままだ」
グリーフットは首を横へと振った。そして悲しいとばかりに問いかける。
「ミグ、君はそんなに『僕が怖い』のかい?」
「……ブフォ! 何? 今、何と言った? 聞き間違えか? ん?」
「だってそうだろう? 僕の存在を気にして、任務をほっぽり出してまで王宮に留まって。不安だったんだろう? 本当に僕が帰ってきたのかどうか。あの時と同じじゃないか。自分が一族最強であることを証明するために、僕を排除しようとしたあの時と。子供の頃は誰よりも親しい間柄だったのに、僕が史上最高の逸材だと称されるようになった途端、君は僕に冷たくなって……そして……ああ、悲しい」
「クク、女々しいなグリフ。何を言い出すかと思えば」
「女々しいのは君じゃないか? ミグ、君は本心を隠している。『喜』のその顔で、余裕を演じているだけ。道化を装っているが、本当は不安で一杯なんだ。聞いたよ、今はバダルノイスで三番手の実力者と呼ばれているそうだね?」
「……何が言いたい?」
「君は心の奥底では、自分こそが最強だと思っている。しかし実際のところ、味方であるスヴォールンやメルティと干戈を交える機会もなく、密かに安堵している。何故なら、明確に白黒つくことがないから。三番手と呼ばれても笑ってごまかして、自分だけが一番だと思って満足している。これが女々しくなくて何だと? 悲しい。実に悲しいなぁ~~」
「……ク、フ、フフフフ。かつての雪辱を果たすために、挑戦状まで送りつけてきたお前が言えた義理か?」
「素直になりたまえよ、ミグ。不安なんだろう? 怖くて仕方ないんだろう? 僕との再戦で敗れてしまうことが。四番手に転落してしまうことが」
「クク、泣き虫小僧がよく言う。口だけは達者になったようだ。もし私がお前の言う通りの腰抜けなら、ここで待ち受けてなどおらんだろうに。いいぞ、挑発に乗ってやる。ハッキリとさせてやろう。二連敗となれば、よもや大口も叩けんよな? ……ク、フフ、カカッカカカカ……!」
ミガシンティーアの纏う冷気が色濃さを増す。
(……さて、これでいい)
グリーフットは心中で密かに頷いた。
これは全て作戦だ。
どんな行動に打って出るか予測できない、不確定要素たるミガシンティーアというこの男。
何かの間違いでこの白騎士がオームゾルフの味方につくことがあっては、趨勢が向こうへ傾きかねない。
それを防ぐための、策。
過去に因縁を抱える自分が――同じ『奇なる一族』である自分が出張れば、確実にこの男を引き寄せることができる。
そう考えたグリーフットがベルグレッテらに提案し、実行に移した結果だ。
「クク、安心しろグリフ。二度目の敗北で終わりだ。流石に、三度もの敗北を味合わせるような残酷な真似はせんよ。これ以上生き恥を晒す前に、引導を渡してやる」
『喜』の中に煮え滾る、明らかな怒。作戦は大成功といったところか。
(あとは、僕が勝てるかどうかだけ……)
確実に引きつけるためにあえて挑発こそしたが、覆らない事実がある。
かつてグリーフットは、ミガシンティーアに敗北しており。そして今現在の彼もまた、あの頃以上の強敵に違いないということ。
(ああ……なんて……なんて悲しい……ぼ、僕はまた……負けてしまうかもしれない)
あの日の果し合いのように。ミガシンティーアが言う通り、二度も負けるようであれば、もう格差ははっきりと確定する。
一方で、勝つことができたならどうなるか。ミガシンティーアは自分が追い抜かれた現実に打ちのめされ、失意の底へと落ちてしまうだろう。
……否、遠縁にして親友の彼をそんな憂き目に遭わすなど。
そんな『悲しい』思いをさせるぐらいなら、いっそ一思いに――
(っ……! な……なんてことだ)
待っている。
勝っても負けても、悲しい現実が。
つまり、勝負がどちらに転ぼうとも――
(かか、か……かな、し、)
グリーフットは、もう抑え切れないとばかりに力を解放した。
どうあっても、悲しめる。
最高じゃないか。
ばきん、と。白靄とともに、出番を待ちかねたそれが顕現する。生えた、と表現してもいいだろう。
計十本に及ぶ、巨大なクモの脚に似た氷塊。くの字を描いた鈎爪がごとき歪な形状、その一本一本の長さは約二マイレに達する。
それを目にしたミガシンティーアがククと喉を鳴らす。
「フ、久しいな。以前よりも大きさ、精度を増したか。だが……同じ芸当に頼っているようでは、いつまで経っても私には届かんぞ」
グリーフットは地を蹴った。
自らの両足ではなく、背から伸びた下方の二脚を利用して。
人の足では実現し得ぬ速度により、大股で三十歩は離れていた両者の距離が、瞬く前に零へ縮まる。
「かっ、か、か な し」
身体を右へと傾げさせて、グリーフットは背後から伸びる鉤爪のうち四本を振り下ろす。
白い軌跡を描いた一撃――否、四撃は、ミガシンティーアが無造作に掲げた左腕によって――その真下から間欠泉のように吹き上がった冷気の渦によって、あえなく弾かれる。
「ぐっ……!」
「クク、悲しいか。それはそうだろうなぁ~」
千鳥足を踏んだグリーフットの鼻先へ、ミガシンティーアの右手のひらがかざされた。その中心へ収束する白の霞。
「!」
とっさに屈む。そのグリーフットの直上を、横一直線に飛んだ冷気の放射が突き抜けた。巻き込まれた氷脚の一本が、いとも容易くへし折られて吹き飛んでいく。回転しながら舞ったそれは、中庭と宮殿内を隔てる廊下の窓ガラスに突き刺さり、派手な音と破片を撒き散らす。
勢い余って荒れ狂った氷の竜巻もまた、整えられた庭木や草花を容赦なく薙ぎ払った。
(――、! こ、の威力……昔とは、比較にもならない……!)
氷の鈎爪をもがれて態勢を崩す。場を満たす冷気以外のものが、グリーフットの怖気を誘う。
「お前は負けて『悲しい』。私は勝って『喜ぶ』。我らの抱く業からして、既に勝敗は決しているのだよ――!」
『喜』の白騎士の哄笑が、それに呼応したかのような冷気の唸りが、格調高い宮殿の庭に木霊した。