489. 国家の力
「オームゾルフ祀神長。『白の大渓谷』が通行できなくなったことで、民たちの間から不満の声が多く上がっているようです」
「……でしょうね」
氷輝宮殿二階、執務室にて。
部下の兵からの報告に、バダルノイスの指導者は陰鬱な面持ちで同意した。
「落雪の撤去作業には、二週間強を見込んでおります」
「承知しました」
つまり、『雪嵐白騎士隊』が戻ってくるまであと二週間と少し。それまでの間に、全てを終わらせなければならない。
しかし、実に馬鹿げた話だ。自分たちで埋めておきながら、自分たちで撤去するなど。
「南の様子は?」
「ご指示通り現在、七百名の配備が完了しております。件のヘフネル・アグストンは、国境を抜けて中立地帯に入り四日……。明日には、ハルシュヴァルトに到着する予定となっています」
「ふむ……明日、ですね。では、そこを」
「承知」
ベルグレッテたちから『何か』を託された彼。
真実を告発する手紙のセンが濃厚だが、これが囮の可能性もある。こちらの意識を引きつけるための。
そのための七百名という兵士配備だ。
内戦時にすら、これだけ人数の部隊が一塊に組まれた記録はない。
冬の時期、積雪によって国境門以外からの出国は原則として不可能とされているが、理論上絶対にできない訳ではない。街道に沿わない平地を抜けることも無理ではないのだ。ただ、遭難や凍死の危険を伴うゆえ、わざわざ誰もそんな真似はしないだけ。
だが今のベルグレッテたちは、なりふりを構っていられる状況ではない。何としてもバダルノイスを脱したいはず。
(死に物狂いになれば、もしかしたらもあり得る……。ですが、そこからは)
万が一に国境を突破できたとて、南下した先の北部ハルシュヴァルト領ではまた異なる事情が待ち受けている。
あの一帯は峡谷や断崖で入り組んでおり、六本の街道以外に人の足で踏破できる順路は存在しない。国境部と違い、もはや物理的に通り抜け不可能なのだ。
(そこで過剰にすぎる七百名もの布陣……。兎の一匹とて、掻い潜ることはできません)
南方方面を徹底して固め切る。
「ベルグレッテさんたちの手配について、ハルシュヴァルトへ告知は行っておりませんね?」
「は、その点につきましては慎重に対応しております。抜かりありません」
あの中立地帯にはレインディール兵も駐在している。彼らに知られる訳にはいかない。
もっとも、今は封術針が作動しており遠方への通信術が機能しない状況。例えば中立の兵の誰かが、南方へ連絡してうっかり漏らしてしまうような事態は起こらない。それに今や、告知よりヘフネルの到着のほうが早い状況だ。
「して、何やら東の国境部付近でメルティナらしき者が目撃されていると聞き及んでおりますが……」
「ええ。冒険者たちの間で話題となっているようです。ミュッティ殿が足跡を追っているかと」
(メルがたった一人で囮に……というのは、いささか腑に落ちない部分もありますが)
メルティナとベルグレッテ一行。
オームゾルフ側にしてみれば、どちらも逃せない相手。
二手に別れたのであれば、双方に追手を差し向ける必要が生じる。つまり、戦力を分断されてしまう。特にこちら側の最高戦力たるミュッティを、メルティナに宛てがわなければならない。
が、戦力の分断という点では向こうも同じこと。
ベルグレッテたちは、メルティナの戦力を宛てにできなくなる。そして彼女なしに、七百名もの大部隊を突破することなど万にひとつも不可能。
「して、ベルグレッテさんたちの動きは?」
「数日前の時点ではユーバスルラの廃工場に潜伏しているのでは……との情報がありましたが、現在の正確な所在は掴めておりません。国境門付近でも目撃情報はなく……そもそも、容易に門の外へ抜けられるとも思えませんが」
(……彼女ならば、人知れず国境を突破している可能性も否定できない。しかし、仮にそうでないとすると……)
考えられる可能性は大きくふたつ。
ひとつ、未だ国内のどこかに潜伏している。
この場合、ヘフネルに託した物品が本物の手紙であるセンが濃厚となる。それさえレインディールの者に渡れば、救援を呼べるのだ。であれば、ベルグレッテたちは無為に動かず隠れて待っているだけでいい。
ひとつ、実はメルティナとともに東の国境へ向かっている。
ありえなくはないが、あまり現実的ではない。
オームゾルフ自身が可能性として示唆したことではあるが、やはり東側からレインディールへ向かうのは無謀だ。
が、万一その選択をしていたなら、それはそれで問題ない。彼らは帰路で最終的に、オルケスターの本拠地がある街へ差し掛かることになる。その様は、クモの巣に向かってひらひら飛んでいく蝶と何ら変わらない。そこで終わるだけだ。
(もうひとつ、考えられなくもない説としては……)
実は分断済みの北側へ前もって入り込んでいる――という意外な一手が挙げられるが、自分から袋小路に逃げ込むような選択はしないだろう。こちらが遠ざけたいと考えている『雪嵐白騎士隊』と同じ領内に留まり、事態の撹乱を狙うか。
が、それでは問題の解決にならない。
そもそもスヴォールンたちもベルグレッテ一行を快く思っておらず、彼ら同士味方にはなりえないのだ。まして今回のオームゾルフの独断行動によって、スヴォールンはさぞ怒り心頭の胸中であろう。今の彼がベルグレッテらと出くわせば、北側が孤立しているのをいいことに、敵対行動に出る目すら否定はできない。
何より、
(ベルグレッテさんとレノーレは行動を共にするはず。そのような状態で、スヴォールンに遭遇しようものなら……)
大罪人となった妹の処断について、自らの手で行うことも厭わないと考える兄だ。その手配が仕組まれたものであることを、彼は未だ知るよしもない。もし遭遇すれば、血を見る事態となることは明らか。
(ベルグレッテさんなら承知しているはず。いかにこちらの裏をかくつもりでも、その可能性がある限りは――)
ようやく助けられた友人を危険に晒してしまうかもしれない手段を選ぶとは思えない。
となるとやはり、取れる選択肢は限られる。
窮状を知らせる手紙なりをヘフネルに託し、それを頼りに身を隠しているか。
もしくは――彼の後を遅れて追い、兵団の注目の隙を突いて中立地帯へ滑り込もうとしているか。
「……全ては明日、ですね」
とにかくまずは、ヘフネル・アグストンをハルシュヴァルト到着前に押さえる。
彼が運んでいる鞄の中身。それによって、ベルグレッテの狙いも読めてくるだろう。
本命か囮か。どのように手を尽くし、このバダルノイスから脱出を図るつもりなのか。
(……いずれにせよ)
彼らに逃げ道は、存在しない。
あとは、どう捕らえるか。あるのは、その違いだけだった。




