486. 友の名を
……頭が痛い。
あの一撃をもらったのはよくなかった。
放たれた衝撃が、空間を伝播していく。撒き散らされた波が、全てを砕いていく。
「…………」
その直前に迸る、白い線をなぞるように。
……そうか。
これが、誰かが言ってたやつか。誰だっけ。
『おう。見えたじゃろ?』
振り返れば、見知った小さな姿が屈み込んでそれを指差していた。中空に漂う白い粒子を。
うん。見えた。
白い、まるで滞留する粉雪か蒸気みたいに。
これか。これが。
「――これが、あんたの見てた世界なのか」
気がつくと、ぼやけた視界に石造りの薄汚れた天井が映っていた。
「……、」
夢見心地のまま、自分が置かれた状況を思い出す。
場所は廃工場の一室。放棄されてどれほど経つのか、手入れされなくなった石壁や柱には幾条ものひびが走っている。部屋の隅に横たわる用途不明の鉄骨は、最初からその色だったかのごとく赤茶に錆びていた。
(…………なんか……声が聞こえた気がしたけど)
ああ、と納得する。
(……自分の寝言で起きたのか)
特に珍しくもない。たまにあることだ。
被さっている毛布を押しのけて――、有海流護はゆっくりと身を起こした。
「……む。……うーん」
ゆっくり腰を捻り、肩を回してみる。ぱきぱきと、身体の内側から心地いい音が響く。
(おお……、ん?)
各部の調子を確かめていると、出入り口の戸が静かに開かれた。
「……あ、リューゴ……?」
驚いたように名を呼んだのは、そっと顔を覗かせたベルグレッテだ。
「おう、ベル子さんか」
「リューゴ……もう起き上がって平気なの?」
「うむ……」
どこからも痛みは感じない。耳も聞こえる。目も見える。至って平常通りだ。
やってきた彼女に頷いてみせる。
「すっかり大丈夫みたいだ。いや、すげーなメルティナの姉ちゃんの回復術は……」
「……、よかった」
少女騎士は自分のことみたいに脱力した。
あれから数日。幾度となく断片的に意識は戻っていたが、こうして起き上がることもままならなかったのだ。
「……悪かった、ベル子。俺がもうちっと気張ってれば……」
「ううん、とんでもないわ。あなたのおかげで、みんな無事にあの場を切り抜けられたんだから……」
ありとあらゆる智を尽くした才女が二人。
ベルグレッテとオームゾルフは、それぞれ最後に自らが信じた『力』へと未来を委ねた。
(俺が、もっとしっかり……)
あの場で全ての敵を制圧できていたなら――ベルグレッテの期待に応えられていたなら、事態は終息へ向かっていたはずなのだ。
しかし。
(ミュッティ・ニベリエつったな……)
オームゾルフが携えていた『力』。なるほど、まさに切り札だったのだろう。
あそこで誰が勝者となったのか、それは子供の目から見ても明らかだ。
「気に病むことなんてないわ。メルティナ殿も仰ってたわよ。『私一人だったなら、きっと犠牲を出さずに乗り切ることはできなかった』って」
「でもさ……」
「あなたは私たちを『護』ってくれた。リューゴの名に由来するとおりに。私たちはまだ敗れていない。ここからよ」
「……、」
あまり自分を卑下するのも女々しい。
後悔したところで、結果は覆らない。
活かすしかないのだ。幸いにして、命は拾ったのだから。これから、結果を示すしかない。
「……ああ。ありがとな」
改めて決意を固めていると、小さなノックの音。ベルグレッテが声で応じると、またしても静かに部屋の扉が開かれた。
音もなく室内を覗き込んできたのは――金髪メガネの大人しげな少女。
「あら、レノーレ」
「おーう、レノーレさんじゃねえか」
それぞれ流護とベルグレッテに呼ばれると、彼女は申し訳なさげに目を伏せてしまう。
「……その……もう、大丈夫……なの」
上目遣いで、小さく。窺うような問い。
「ああ。すげーな、レノーレの相棒の回復術は。もう何ともないぞ。つか、そんなとこ突っ立ってないで入って来いって。ほれ、遠慮なくどうぞどうぞ」
あえて明るく、大げさに手招きする。
「……、」
一瞬だけ躊躇う素振りを見せたレノーレだったが、観念したように入室し、しずしずとベルグレッテの隣までやってきた。
……が、
(レノーレ……)
その立ち位置が、少しばかり遠い。学院で目にしてきたよりも、明らかに。
「ははっ」
そこにはあえて触れず、流護は笑って天井を仰いだ。
「リューゴ?」
怪訝そうなベルグレッテに、少年はその笑みの理由を説明する。
「いや、ちょっと思い出しちまって。もう十ヶ月近くも前になるんだもんな。学院でファーヴナールと闘り合った後、気が付いたら病院のベッドで横んなっててさ。あの時はベル子じゃなくてミアが見舞いに来てくれてて、そんでしばらく話し込んでたらレノーレが来たんだ。ちょうど今みたいに」
「そうなんだ」
「……そう、だった……かも」
覚えているのか、適当に話を合わせようとしたのか。相も変わらず、流護としては彼女の表情から真意を読み取れそうにない。
と、
「そうそうリューゴ、私の話も聞いてくれる?」
ベルグレッテがおもむろに、どこかわざとらしい口ぶりで切り出した。
「お、おう。どうしたベル子さん」
「レノーレったら、私に対してちょっとよそよそしいのよ。せっかくこうして再会できたのに」
「! そっ……んな、こと……ない」
「ほら、見てリューゴ。この距離よ、この距離」
棒読みにもほどがある口調で、レノーレとの間にある空間を腕でサッサッと示す。
「……、……だって」
「だって、なあに?」
少女騎士の口ぶりに責める響きはない。
それでも。
「……二人とも、ごめんなさい。……私のせいで、こんなことになって……」
「……レノーレ……、」
名を呼んだベルグレッテが何か言う間もなく、
「……それに二人には……エドヴィンにも、ひどいことを言った」
レノーレを追ってたどり着いたユーバスルラの街。
ようやく対面が叶ったその場面で、彼女は言い放った。
『……しばらく同じ学院で過ごしたよしみで、見逃してあげる。今すぐレインディールに帰って』
『……帰らないなら……今この場で、殺す』
「はは。んでもあれがあったから、ベル子に火がついたんだで。『レノーレがあんなことを言うはずがない。つまり、あんな態度を取らなきゃいけない事情があったはずなんだ』って」
「……ベル……」
事実、明らかになってみればその通りだった。
ベンディスム将軍らに追い立てられていたレノーレは、目を疑ったろう。
レインディールにいるはずのベルグレッテやエドヴィンが、将軍に加勢する形で現れたのだから。
あの場でレノーレが無実を訴えていたなら、ベルグレッテは迷わず信じたはずだ。
だが、公に罪人として認定された自分。加えて、兵団の中に敵が混ざっているかもしれない状況。ベルグレッテたちの身を案じるなら、あえて突き放すしかなかった。大切な人などではない、だから人質としての利用価値はない、と。
「つか、あんな風に言ったら、逆に怪しんで帰らないかも……とは思わんかったんか」
流護が茶化すように言うと、レノーレはふるふると首を横に振った。
「……思わなかった。……ベルだからこそ、怪しんで……裏に潜む闇の強大さを察して、退いてくれると思っていた」
「あら。それでレノーレを見捨てて、レインディールに逃げ帰るって? そんなに薄情者だと思われてたのかしら、私」
「……だって……! ……これはバダルノイスで起きてること……だから、ベルたちには関係ない。……ベルなら分かるはず。……これは、国の内部で起きてるいざこざ。……他国の騎士のあなたが、首を突っ込んでいい問題じゃない」
「そうね。でも、私は騎士としてこの国を訪れたわけじゃないから」
「……え」
「学級長として、新学期になっても出てこない親友を連れ戻しに来たのよ」
「…………っ」
これまでに見たことのない表情。必死に感情を堪えて。
咄嗟に言葉が出ないのか、風雪の少女は激しく首を左右に振った。
そこに流護も被せていく。
「レノーレは今、俺らに『関係ない』つったけど……ぶっちゃけ、それこそ俺にしてみりゃ関係ねーんだわ」
「…………どういう、こと」
「俺はミアに約束したんでな。レノーレを連れて帰るって。だからバダルノイスがどうとか知ったこっちゃねえ。とにかくお前を引っ張ってレインディールに帰る。そんだけだ」
「…………親ばか」
「おう、親バカだよ? 何を今更」
はっはっはっ、と胸を反らしながら高笑いしてやる。
「……まあ、それにさ。レノーレはもう覚えてないかもだけど、一応は約束みたいなもんだし」
「……?」
「去年の秋さ。朝っぱらに、実家に帰るっていうレノーレに偶然出くわして、そこで言ったろ」
『いや……まあ、もしレノーレが妙なことに巻き込まれそうで、学院に戻りたいのに戻ってこれなくなるようなら……力になるぞ。んなことになりゃ、ベル子とかミアとか……皆が悲しむのは分かってるだろ? つか、ダイゴスん時みたいに、強引にでも連れ戻してやる』
息でも止めたように、レノーレは硬直した。
たっぷり十秒近くも置いて、
「…………馬鹿。……あなたは、本物の馬鹿だと思う……」
「はっはっ。何とでも言え。つかレノーレは、ミアとかクラスの皆に会いたくないのか?」
「……、」
一呼吸置いて。
「……会いたい……。……会いたいに、決まってる……」
ようやくに吐き出せた、と。そんな思いが伝わるかすれ声。
「――おうよ。その言葉が聞ければ……充分だ」
報われた。
このバダルノイスまでやってきた、その甲斐があった。
レノーレという少女をよく知らなかった流護としては、その本心が知りたかったから。その言葉が聞きたかったから。
これで……今度こそ、迷いなく闘える。もう、後ろ髪を引っ張るものは何もない。
「……でも!」
「いいから後は俺らに任せとけ。って言っちゃっていいよな? ベル子」
「ええ。問題ないわ」
「ってことでさ。お前は、意地でもミアとか皆のとこに引っ張って帰るから。今のうちから、どうやって謝るか考えとけ」
きっと初めてだ。レノーレは、両手のひらで自分の顔を覆った。
「……う、う……、……あなたたちは……本当に馬鹿……! ひっく……っ……うぅ……!」
メガネを外し、彼女はぐしぐしと目元を拭う。寄り添ったベルグレッテが、ハンカチを取り出して優しく涙を拭った。
レノーレが落ち着くのを待って、流護は切り出した。
「あ。謝るって言や、俺からも言わなきゃいけないことがあったんだ。レノーレ、ごめん」
「……? ……どうして謝ってるの」
「いや、俺……記憶喪失だって嘘ついてたろ。まさか、レノーレの母ちゃんがそうなってたなんて知らなかったからさ……」
寡黙な少女は、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……それなら、気にしないで」
「……うーむ、いや、ほんとに悪かった。自分勝手だったよな」
「もう、気にしてないって言ってるでしょっ! だから大丈夫!」
弾むような明るい声。
一瞬、流護もベルグレッテも硬直した。それぞれ顔を見合わせる。
「え? ん? 今のレノーレの声?」
そんな流護の困惑に、
「……と、まあ。……昔の私なら、こんな風に言ってた……かもしれない」
少しだけ目を逸らしながら、彼女はしれっと口にした。
「……あなたが気に病むことなんて何もない。……あなたにも理由があったし、母様の発症のほうが後だった。……ありがとう。……気にしてくれて」
もしかすると、初めてかもしれない。レノーレの純粋な微笑みを目にしたのは。
「……この話はおしまい。……まだ続けるなら、そのとき本当に怒ることにする」
「わ、分かった。じゃあ終わりな」
そう言うと、レノーレはまたもやわらかな笑顔を作った。
「うっし、あとはこの件カタして学院に帰るだけだな」
両の拳を軽く突き合わせると、学院生たる少女二人もこくりと頷く。
「そうだ。ってことでレノーレ、せっかくだからこの機会に俺から提案があるんだけど」
「……?」
小首を傾げてくる彼女に、
「俺と友達になろうぜ」
少女二人が、示し合わせたように不思議そうな顔となった。
「……どういうこと。……別に……もう、とっくの昔から……友達……だと、思うけど」
「本当にぃ?」
たどたどしく呟くレノーレへ、流護はわざとらしく疑問符をぶつけてやる。
「だって俺、レノーレに名前すら呼ばれたことねえけど?」
ベルグレッテもレノーレも、予想外とばかりにきょとんとなった。
「……え……、……、……あ……」
そして、レノーレはハッとしたように言葉を切る。
「だろ? レノーレと知り合って何だかんだ長いけど、実は一回も名前呼ばれたことないんだよ俺。アリウミとも、リューゴとも」
そうなのだ。知り合ってからこれまでただの一度として、彼女の口から流護の名が出たことはなかった。
結局、お互いに『ベルグレッテやミアの友達』という向きが強かったことも一因ではあろう。二人とも、自分がらグイグイ行くタイプでもない。レノーレとしては無意識の産物であったようだが。
ベルグレッテが神妙に唸る。
「……そ、そうね。言われてみれば……うん。レノーレがリューゴの名前を呼んでるの、聞いたことないかも……」
「そうなんだよ。ってことでレノーレ、今日から友達でいいか? もちろん、お互いに名前を呼び合うぐらいの間柄でさ」
すっと右手を差し出すと、一呼吸置いて、意を決したように彼女が寄ってきた。
「……う、うん……。……その、ええと……なんて、呼んだらいい」
「好きなように」
「……じ……じゃあ、………………リューゴで」
「おう。よろしくな、レノーレ」
「……うん、……よろしく、リューゴ」
これもきっと初めてだ。二人の手が、ゆっくりと……しかし確かに、触れ合った。
「……、すごい、この手。……とてもごつごつしてる」
「はは、一応は空手家なんでな」
「……カラテカ」
「おう。何なら、空手について教えて進ぜよう。レノーレさんの知識の一端に加えてくれるといいぞ」
流護のいる部屋に入室しようとしていたエドヴィン・ガウルだったが、ドアノブに伸ばしていた手を引っ込めて踵を返した。
(ナルホドな。言われてみりゃ、そーだったか……)
レノーレの口から彼の名が出たことは、ただの一度としてなかったのだ。
思えば、自分やダイゴスは気付けば当たり前のように呼ばれていた。いつからそうだったかは覚えていない。ただ、同じ学級で過ごしているからそれが普通だった。
流護はそもそも生徒ではないし、これまで一緒に何かをするような機会がなかったことも一因だろう。
ただ、これできっと壁はなくなった。
今後は互い、級友のような関係で気兼ねなく過ごしていけるに違いない。
(……ヘッ、変わってくモンだな)
エドヴィンは右手のひらに視線を落とし、ぐっと開閉した。
学院では三年生を控えたこの時期。
皆、少しずつ変わっている。成長しているように思う。
ベルグレッテやクレアリアは、日々の研鑽を欠かさずより高みを目指そうとしている。ダイゴスも接しやすくなったとの声を聞く。ミアはあれで密かに宮廷詠術士を目指しているらしい。そしてレノーレは一人でこのような事情を抱えていたが、これからきっと解放される。
皆、着実に一歩一歩前へと進んでいるのだ。
(俺も、そろそろ……)
ディアレー降誕祭以前から、漠然とその思いを抱き続けてはいた。先日、生死の境を彷徨ったあの夢の中でも自覚した。
(俺は……)
エドヴィン・ガウルが進む道は。目指すべきものは――
「…………っし」
覚悟とともに廊下を出ようとした矢先、
「あら、エドヴィン」
ドアが開く音と同時、後ろから呼びかけられた。振り向くと、部屋から顔を覗かせる想い人の姿。
「オ、オウ……どうしたよ、ベル」
「誰かいるような気配がしたから……あなただったのね。ちょうどいいわ。リューゴも起きたの。作戦会議といきましょう」
「作戦……会議?」
「ええ。レノーレの冤罪も解決した今、私たちに憂いはないわ。あとは、このバダルノイスから無事に帰るだけ……。そのための作戦を考えるの」
「作戦、か……」
今や一行はお尋ね者。バダルノイスという国家そのものが敵である状態だ。これまで散々に教師や公僕といった者たちに反抗してきた悪童エドヴィンだが、さすがに国を敵に回すなど前例がない……というより、あるはずがない。
「もちろん、簡単になんていくはずはないわ。でも、どうにかしなきゃね」
「……変わったな、ベル」
「え?」
「昔のお前だったらよ、考えられなかったんじゃねーか?」
「……そう、ね。うん、自分でもそう思うわ。レインディールのみんなが知ったらどう思うかしら。バダルノイスでお尋ね者になっただなんて」
言いつつもその笑顔を見れば、自分の選択に……今のこの状況に後悔などないことは明白。
「ケッ、そーだな。クレアの奴なんざ、泡吹いて倒れちまうんじゃねーか?」
「あ、あははははは……」
気まずそうに笑う姉の脳裏に、容易に浮かんだのだろう。その光景が。
「で、でも説明すればきっと分かってくれるわ。今のあの子なら」
(今の、か)
そう。クレアリアも随分と変わった。
「……そー、だな」
エドヴィンでも何となく想像ができる。今の彼女なら、小言を言いつつも理解を示してくれそうだ。
「ベル子さーん、誰がいたん? つか寒いっすー!」
部屋の奥から流護の声が聞こえてくる。
「あっ、ごめんなさーい」
振り返って室内に声をかけた彼女は、
「さ、ほら。エドヴィンも入って」
「……オウ」
足の向きを正反対に変えて、『狂犬』は歩み出す。
少なくとも今は、同じ目的に向かって進むために。