485. 託されたもの
雲の合間から覗く昼神の威光。
しばし薄暗い地下にいたせいか、外がやや眩しく感じた。
「…………、」
ヘフネル・アグストンは、手にした鞄の持ち手を強く握り締める。
『お呼びしたそもそもの用件をまだ済ませていませんでしたね。長々とお引止めしてしまい申し訳ございません。ヘフネルさん、これを』
そう言ってベルグレッテが手渡してきたものが、この中に入っている。
ヘフネルは目を疑った。まさか、そんなものを渡されるなど考えてもいなかったからだ。
『「それ」を、ハルシュヴァルトのヒョドロ兵長にお届けしていただきたいのです――』
ベルグレッテたちが現状を打開するためには。
「……ふ、ぅっ」
大役だ。
こなさなければならない。何としても。
バダルノイスの未来のためにも。オームゾルフを世紀の悪女にしないためにも。
だが、可能だろうか。
ベルグレッテやメルティナが意図した通りに、果たして事が進むだろうか。
(……普通に考えたら、いくら何でも……)
だが、すでに普通ではない。
何もかも、異常な事態だらけ。
何もしなければ、全てが崩壊するだけ。
(…………やるんだ)
非力な自分にできることなど限られている。
こんな頼りない若造に、ベルグレッテやメルティナは任せてくれたのだ。
『ヘフネルさん以外に託せるかたはおりません。どうか――』
与えられた役割をこなす。それだけだ。
(僕なんかより、皆さんのほうがよっぽど大変なんだ。覚悟を決めろ。やるぞ……!)
意思を固めつつ、閑散とした廃工場を抜ける。
しばし歩くうち、ようやく見知った通りへ。人の姿もちらほらと散見されるようになってくる。
(よし。ここからは――)
まずは氷輝宮殿へ戻る。荷物をまとめ、明日の朝一番でハルシュヴァルトへ向けて出発する。そして、ヒョドロに『これ』を渡す。その後は……。
「………………」
北への物資搬送の件で立て込んでいる。南下するための馬車の手配も、迅速に済ませなければならない。今日丸一日は準備に追われそうだ。
考えを巡らせつつ、馬車組合を目指して歩き始めた矢先だった。
「お? ヘフネルじゃねーか?」
青年の背後から差し込まれたのは、よく知った声。
「――」
反射的に振り返る。
背後にいたのは、
「……ガミー、ハ……」
ヒヤリとした。
幼なじみの兵士。子供の頃から一緒に育った、頼れる相棒。
「ヘフネルお前、何でこの街にいるんだ? そんな平服姿で」
いつもの軽さで、彼は意外そうに尋ねてくる。
「………………、」
信じられない。
いざ本人を……普段と変わらない態度を目にすると、余計に。
このガミーハが、オームゾルフ派に加担しているとは。悪を自覚し、罪なき人々を生贄に捧げようとしているなんて。一見して軽薄そうでありながら、誰よりも熱く正義感が強いはずのこの親友が。
「い、や。ちょっと非番だったから、ブラブラしてみようかと思ってさ」
「って、このユーバスルラをか? 何もないだろ、こんな街」
「まあ、ね。ほら……かといって、皇都ばかりでも飽きるし……」
「ふーん……」
「そういうガミーハは……仕事中?」
「ああ、見ての通り巡回中だ。夏場は廃工場にたむろするよーな輩が出てくるからまだしも、この時期は退屈でしょうがねーぜ……」
そう言って彼は、あくびを噛み殺しながら目尻を拭う。
一拍置いて、
「……それよりヘフネル、お前大丈夫か」
「? 大丈夫って?」
「いや……ベルグレッテ嬢やらサベル・アルハーノやらがお尋ね者になったろ。お前、あの人らと仲良くしてたみたいだしさ。落ち込んでんじゃないかと思ってな」
「…………、」
つい、喉元まで出かかった。
「本当に君は、悪事に加担してるのか?」と。
あまりにも、いつも通りだから。気遣いを欠かさない、この兄貴分みたいな存在が。
「まあ……うん。大丈夫だよ、僕は……」
動揺もあり、気のきいたことも言えない。
「そっか。そういやぁお前、いつまでこっちにいんだ? もう結構経つと思うが」
「あ、うん。それなんだけど……ちょうどヒョドロ兵長からお達しがあって、明日には宮殿を出るつもりでさ」
「何だ、そうなのか」
ガミーハの視線が下向く。ヘフネルが右手から提げている鼠色の鞄へと。
「ええと……それもあって、帰る前に散策してたんだよ。これも、兵長へのおみやげなんだ」
尋ねられる前に答えた。自分にしては機転がきいたな、と内心で自賛する。
「ヒョドロ兵長への土産ってことは、酒か」
「はは、当たり。フェルミ商店のヴォルンクォートだよ。ほら、ハルシュヴァルトじゃなかなか売ってないからね」
「へっ、成程な。……さて、それじゃあまたしばらく会えなくなるか」
ガミーハが握り拳でトンとこちらの胸を突いてくる。
「何かあったらいつでも連絡よこせよ。いつでも相談に乗るからな」
今までと何も変わらず。いつもと同じ。子供の頃から。
ベルグレッテたちによれば、ガミーハもヘフネルの動向を注視しているはずなのだ。聞いた話の通りならば、この場で拘束しようとしてきてもおかしくはないほどに。
しかし、そんな様子は感じられない。この『手荷物』を怪しむ素振りもなかった。
(そ、そうだよ。ガミーハとは、本当に小さな頃からの付き合いなんだ。僕をどうにかしようなんて、思ってるはずが……)
だから。
「……ねえ、ガミーハはさ」
考えがまとまるより早く、ヘフネルは口走っていた。
「これから先……バダルノイスは、どうなっていくと思う?」
「んん? 何だよ、藪から棒に」
「いや、その……色んなことが起きたからさ。何となく、気になって」
「……そーだな」
疲れたような口調とともに、ガミーハは視線を横向ける。
つい先ほどヘフネルがひっそり出てきたばかりの、廃工場群へと。
「苦境続きだよな。オームゾルフ祀神長ですら、なかなか持ち直せないぐらいには……よ」
「…………」
「でも、終わりはしねーさ。ここからだ。ここから、いい方向に持ち直してくれるはず」
「どうして……そう思うんだい?」
「何だよヘフネル。当たり前だろ。バダルノイスが、こんなところで終わるはずはねーさ。……頑張るんだよ。俺たち皆でな」
「そう……だね」
「不安になる気持ちは分かるぜ。あんな胡散臭い連中を王宮に招き入れたりしてるしな。同僚の間でも、オームゾルフ祀神長らしくねーなんて声は出てる。でも……俺はアリだと思うぜ。もう綺麗事なんて言っていられねー」
ぐっと拳を握り、視線を落としながら彼は言う。
「どんな手を使ったって、この国をどうにかしなきゃいけねぇ。オームゾルフ祀神長は決めたんだよ。謗りを受けようと……後ろ指をさされようと、何としてもバダルノイスを復興させるってな」
「――――」
ギクリ、とした。
つい先ほど、廃工場で聞いたメルティナの言葉がヘフネルの脳内に甦る。
『きっと、どんな手でも使う。稀代の悪王となって、どんな罵りを受けてでも国の基盤を固め直すつもりさ』
一致する。その恐るべき思想が。
「かぁー、お前の惚れたエマーヌ様はやっぱり違うよなぁ~。ま、これからもどうにか頑張っていただいて……、ヘフネル? どうしたよ?」
「……ああ、うん。いや……」
動揺を押し殺しつつ、「あっ、そういえば」とヘフネルは話の矛先を変えた。
「こ、こないださ……美術館で、実行犯のものらしき鉈みたいな剣を拾っただろう? あれからどうなったのかな、って思ってさ」
「……どうしてそんなことを?」
「気になるじゃないか。犯人だって捕まってないし……」
もちろん、先ほどベルグレッテたちから聞いた。その実行犯――鉈剣の持ち主が、特別相談役として迎えられたうちの一人――アルドミラールという男であると。あのサベルを瀕死まで追い詰めた張本人であると。戦闘の一部の様子を記録した、記録晶石の音声も聞かせてもらった。何よりの動かぬ証拠だ。
ガミーハが敵の一派であるなら、アルドミラールの素性についても当然知っているはず。
「あれはベンディスム将軍に渡したぜ……って、前にも言ったよな。……ま、本当ならそっちの捜査もしなきゃならんが、今は色々と忙しいしな」
常なら、さして疑いもせず納得していただろう。
だが、ベルグレッテやメルティナたちの話を聞かされた今となっては、察することができる。明らかにガミーハは、突っ込んだ話を避けようとしていると。
(ベンディスム将軍……)
皆に絶大な信頼を寄せられる、歴戦の古兵。
ヘフネルにしてみればガミーハと同様以上に、悪事に加担するなどとは思えない人物。バダルノイス兵士の鑑であり、尊敬の対象だ。しかし……。
(……ベンディスム将軍が、鉈剣のことを揉み消してしまえば……)
それこそ今ほどガミーハが零したように、今は新規賞金首の件や寒波到来によって皆が対応に追われている。どさくさに紛れてうやむやにしてしまうことは容易だ。
やはり、そうなのか。
派閥外の者に勘繰られないよう、あの鉈剣を……証拠品を、意図的にガミーハが持ち去った。そして、将軍に渡した。
サベルが奮闘したことによって残ったアルドミラールの痕跡を、よりにもよって将軍やガミーハが拭き取った。
「……、」
言いたいことがいくつも喉の奥で止まった。
あのアルドミラールは美術館の一件の犯人だぞ。君やベンディスム将軍は、それを見過ごすのか。いや、やっぱり君や将軍がそんな真似をするはずはない。そうだよ、敵なんかじゃないんだろう――?
「……ヘフネル? どうかしたのかお前? 様子がおかしいぞ」
「――いや。何でもない。何でもないよ……」
これ以上はダメだ。衝動的になってはいけない。悟られてしまう。
「何だか、不安になっちゃったんだ。いっぺんに色んなことが起きたからね……。……さて、じゃあ僕はそろそろ行くよ」
「……ああ。気をつけてな」
馬車組合へと向かっていく幼なじみの後ろ姿を見やりながら、ガミーハ・ブレストンは大仰に白い息を吐いた。
「……ヘフネル……昔からそうだ。分っかりやすいなぁ、お前は……」
周囲を横目で窺いつつ、近場の廃屋の屋根下へと移動する。
(それでも……少しは成長したんだな。何かあれば、真っ先に俺を頼ってきたのに。よく何も言わずに我慢したじゃねーか。ま、バレバレではあるんだが)
誰の視線も向いていないことを確認し、兵は通信術を紡いだ。
「リーヴァー、ガミーハです。ベンディスム将軍」
可能な限り小声で、何者にも聞かれないよう。
「……ええ。たった今、偶然ヘフネルの奴と遭遇したんですが……はい、この街でです。様子からするとアイツ、連中と接触したみたいです。この廃工場区のどこかに奴らが潜んでいるのは、ほぼ間違いなさそうですね」
が、逃亡者らの中にはメルティナ・スノウが交じっている。迂闊に手出しをすれば返り討ちだ。
「……はい。ヘフネルの奴、大事そうにデカい鞄を持っていました。中身はヒョドロ兵長に渡す酒だなんて言ってましたが、恐らくあの中に――」
ベルグレッテ一行はバダルノイスを脱出するために南を目指すはず――だが、必ずしも本人が直接逃げおおせる必要はない。
例えば、窮状を知らせる手紙を出すことができたなら?
中立地帯ハルシュヴァルトまで行けば、レインディールの兵がいる。彼らに、その手紙が渡ったなら――
「……拘束しますか? それとも……始末しますか?」
幼なじみが消えていった街角に冷たい視線を送りながら、ガミーハは静かに問う。
「……そう、ですか。了解」
泳がせろ。通信から聞こえてきたベンディスム将軍の指示は簡潔だった。
ここは様子を窺う。加えて、あえて南方面へ通じる道を数箇所手薄にする。
この街の廃工場群もうんざりするほど規模が大きい。賞金首の正確な位置を特定するには骨が折れる。馬鹿正直に捜索するとなると、この街の駐在の人員を総動員しても手に余る。下手につついて感づかれるのは避けたい。
かといってヘフネルを捕まえて連中の居所を吐かせたところで、向こうはそれも想定して罠を張っているかもしれない。
ヘフネルを確保するなら、ハルシュヴァルトに到着する寸前。数日が経過し、もうすぐ無事に到着と気が緩むその瞬間だと。
そもそも手紙が囮の可能性もある、と老練の将軍は語った。
極めてやり手だと聞くベルグレッテが、果たしてあの頼りないヘフネルにそんな大事なものを託すだろうか? もちろん現在の彼らは孤立無援の状態であり、バダルノイス内で頼れる人間がいるとしたらヘフネル以外に選択肢がないのも事実。
しかしやはり、そんな重要な手紙を任せる相手として、ヘフネルはあまりに力不足。
彼にこちらの意識を向けさせ、やはり自分の足での国外脱出を図る――という可能性もある、とベンディスム将軍は指摘した。
南に行けば行くほど雪は少なくなる。およそ現実的ではないが、命がかかっている以上、無茶な経路で無理矢理に国外脱出を図ってもおかしくはない。
通信を終え、遠方に広がる廃墟の群れを眺める。
(もちろん、そう思わせて本当に手紙を渡してる……ってことも考えられる。今んとこ、どっちかは分からんが)
とにかく、しばし静観だ。ヘフネルの確保に失敗することはありえない。これに乗じるであろう連中の動きを見逃さなければそれでいい。
(それにしても、ヘフネルよ……ちょっと意外だったぞ)
少しばかり微笑ましさすら感じながら、ガミーハは彼が消えていった街の一角を見やる。
あの幼なじみは、無条件でオームゾルフを支持するものと思っていた。
それをどう言いくるめられたのか、罪人たちについてガミーハに相談してくることもなかった。それどころか一丁前に、美術館の一件について探りを入れるような真似までしてきた。
(絆されたか? あの姉ちゃんたちも美人だからな、女に免疫のないお前なら引っ掛かりそうではあるが)
ともかく、だ。
(間違ってるぞ、ヘフネル)
旧知の弟分が消えていった街角に目向けて。
(お前が味方すべきは、あいつらじゃない……。お前は、バダルノイスの現状を何も分かってない)
この国の栄華を無条件で信じ、何もせず傍観しているだけ。
それでは、何も変わらない。
(変えなきゃいけねーんだよ。俺たちの手で)
真実が発覚し、蛇蝎のごとく忌み嫌われようと。多少の犠牲が出てしまおうと。
(俺には覚悟がある。お前を殺す覚悟すらな。ヘフネル、お前にはあるか? 必要とあれば、俺を殺せるか? それだけの信念をもって動いてるのか?)
一時的な情だけではなく。大局を見て行動できているのか。
否だ、とガミーハは断ずる。できていないから、そんな情に流されるような真似をしているのだ。
(もちろん、あのオルケスターの連中は信用ならねぇ)
あくまで奴らは出資者のようなものだ。たかが一介の闇組織が何を勘違いしているのか、自分たちをバダルノイスより格上だと考えているようだが。
(必要なモンを戴いたら、あとはオサラバだ)
目障りなら、新たな力を手に入れたバダルノイスによって叩き潰す。
だが、その前に。
このくだらない追いかけっこを終わらせなければならない。
(別に恨みがある訳じゃねえ。だが悪いな、絶対にこの国からは逃がさねぇ。氷神キュアレネーよ。どうか我らを見守りたまえ――――)
悪を自覚する若い兵士は、強い決意とともに自らの神へ祈りを捧げた。
揺らがぬ正義を胸に。




