484. 聖女の狙い
「そう、ですね……」
顎先に指を添えたベルグレッテが、ゆっくりと切り出す。
「今回……『雪嵐白騎士隊』が不在の間にこのような事態となりましたが、そもそも彼らが王宮を空けるに至った理由は……」
薄氷色の瞳を向けられていることに気付き、ヘフネルは背筋を正して答えた。
「ええ、はい。コートウェル地方で三体ものアンフィヴテルラが確認され、その討伐を任ぜられたからですね」
カテゴリーA、アンフィヴテルラ。
その容貌は時折、「ヤギに悪鬼が憑依したのではないか」とも表現される。怨魔補完書の挿絵を見ただけでも一目瞭然だ。異常発達した筋骨隆々の四肢、斧槍じみた巨大な双角、牙のはみ出した凶悪な面相。常人が立ち向かえばどうなるかなど、もはや考えるまでもない。
バダルノイス国内でこの怨魔を討伐できるのは、メルティナと『雪嵐白騎士隊』ぐらいだろう。北の兵士たちは、スヴォールン一行が到着するまで生きた心地がしなかったに違いない。
「けど、何とも間が悪い話だよ。今まで、コートウェルにアンフィヴテルラが現れたなんて話はなかったのに」
溜息混じりなメルティナの言葉に、ヘフネルも大きく頷いた。
「そうですね……。同僚の間でも少し話題になりました。怨魔の棲息域が変わってきてるんだろうかとか、悪いことの前触れでなければいいけどとか……」
今のこの状況を思えば、まさに凶事の前兆だったと――
「偶然、なのでしょうか」
ベルグレッテの落ち着き払った声が、ヘフネルの思考を凍らせた。
「――」
ヘフネルだけではない。おそらくは、この場の全員の。
それほどの疑問提起。
……いち早く凍結から立ち直ったのは、最高峰の氷の使い手だ。
「……いや、まさかベルグレッテさん。エマーヌが……オルケスターが、意図的に仕組んだことだと……?」
何らかの方法で、コートウェル地方に怨魔を出現させた。そして、邪魔者となる『雪嵐白騎士隊』に討伐を依頼した。皇都から引き離すために。
「いや、さすがにそれは……!」
ヘフネルは反射的に口を開いていた。
当たり前だ。
怨魔とは、悪魔の申し子。無法者や猛獣など、壁の外には数々の危険が存在するが、怨魔はそれらとは一線を画す特徴を持つ。
即ち、異常なまでに人間を敵視するということ。
多種多様な姿形や生態、習性を持つ彼らだが、人と遭遇した際に取る行動は総じて一つ。殺意をもって襲い来るのみ。
手懐ける、飼い慣らすといった試みは成功した前例がない。共栄、共存は成立しない。
もちろん、『思い通りに誘引する』なんて真似は論ずるまでもない。
低位かつ小型の個体であれば、ある程度は餌などを使って挙動を操ることも可能だろう。
しかし、今回現れたのはアンフィヴテルラ。カテゴリーA、災害級と称される枠組みのそれが三体。
誘導しようにも、遮蔽物の存在しない雪原では無理がある。すぐさま見つかって、真っ先に八つ裂きにされるのが末路だ。
『釣り』は成立しない。奴らは、餌ではなく釣り人に食らいつく危険な存在なのだ。
「いや、いくら何でもありえませんよ……!」
泡を食ったヘフネルの言に対し、
「ありえない……私も、そう思います」
可能性を示唆したはずのベルグレッテ自身が同意した。
「え!? いや、それなら……」
「ですが」
強く短い言葉が虚空に響く。
「融合による神詠術や魂心力の奪取、ハンドショット、セプティウス……。いずれも、少し前の私なら『ありえない』と断じていたものばかりです」
「!」
自分のことのように、青年は虚を突かれた。
「これに留まらず、私はこの一年足らずでいくつも新たな発見をしました。知らなかった場所、知らなかった常識……。世界には未だ私の知らないことが数多くあって――いえ、私の知っていることなんて、ほんの一握りにも満たなくて」
胸元に手を添え、聖なる宣誓のように彼女は告げた。
「ですから、視点を変えてみようと。『普通に考えたならありえない。でも、もしかしたら私が知らないだけで――』と考えるようにしてみようと」
「――……」
ゆえに、先の疑問提起。
否、これに限った話ではない。
ここに至るまで彼女が見せてきた桁外れの洞察力は、その思いに裏打ちされたものだったのだ。
「なるほど、な……」
短くなったタバコを口の端に挟んだラルッツが唸る。
「未だほとんどの奴が存在すら知らねぇ、誰でも上位詠術士みてえな攻撃を撃ち出せる武器……そして防げる鎧。普通なら、『ありえねえ』代物だよな。話しただけじゃ信じねぇ奴も多いだろう。そんなモンを造り出せるオルケスターなら……」
怨魔を意図的に動かせる術を持っていてもおかしくない……。
「無論、根拠や確証などはありません。しかし……あまりにもオームゾルフさまに都合のいい形で、『雪嵐白騎士隊』が皇都を離れてしまった。果たして、これを偶然と片づけてよいものかと……」
「ふむー、確かにね。もし『雪嵐白騎士隊』が皇都に居座ったままなら、こんな展開には……あ」
そこでハッとしたメルティナは、ヘフネルに顔を向ける。
「そういえば、ミグは……ミガシンティーアはどうしてるの?」
「え? ええ、はい……そうですね、いつも通りに過ごされているようですが……」
「例のオルケスター三人と顔を合わせたような話は?」
「あっ、面通しはされたみたいです。特にその件について、ミガシンティーア様との間で何かあったという話は聞いてませんね……」
「はは。自分が楽しいこと以外は徹底してやらないからね、あの男は。『どうでもよかった』んだろう」
「……ミガシンティーア卿が皇都を離れなかったことだけは、オームゾルフ祀神長にとっても計算外の出来事だったと思う」
そんなレノーレの言には、ベルグレッテが頷いた。
「そうね。おかげで私たちは氏の助力が得られて、あなたやメルティナ殿と合流することができたけど」
ジュリーが複雑そうに柳眉を寄せる。
「いっつも怪しく笑ってるし、一時は黒幕かとも疑ったけど……そこは感謝よね。……ねえ。いっそのこと、あの人を味方に引き込めないかしら?」
その提案には、メルティナが苦笑いで応じた。
「いや、それは難しい。そもそも今回ミグが我々に手を貸したのも、きっと『楽しい』と感じたからだ。王宮に潜んで暗躍する何者かの影、その正体を暴く展開……。いざ判明した黒幕が国の指導者だったんだから、ミステリ書めいた流れにさぞ満足したってところかな。……その後のあれこれなんて、彼にしてみれば些末事だ」
「えぇ……自分の国の女王がそんなことしてたのに、それでいいのかしら」
「そういう男なのさ。彼は貴族でこそあるが、矜持や名誉、金よりも重きを置くものがある」
即ち――自己の『楽』なる感情。その赴くままに。
都民や兵士には知る者も多い。『奇なる一族』、マーティボルグ家の振る舞いについて。
「スヴォールンですら匙を投げてる感があるからね。ともあれ原則、ミグは誰の敵にも味方にもならない。エマーヌも分かって放置してるんだろう。……ただ、ひとつだけ懸念があるとすれば……」
言い淀んだその続きを、ベルグレッテが拾う。
「オームゾルフさまが、ミガシンティーア氏にとって『楽しい』と思われることを提供された場合……でしょうか」
メルティナを除く全員がハッとした。
「そう。私たちを追い詰めることを『楽しい』と仕向けられたなら……。ただ、それは難しいと思うよ。ミグは独特な感性の持ち主だからね。彼が何を『楽しい』と感じるかなんて、彼以外の誰にも分からないんじゃないかな。そこを理解して御せるなら、スヴォールンも苦労はしてないさ。そもそも、エマーヌ自身から何度愚痴を聞かされたか。ミグが何を考えてるか分からない、って」
「はあ……。これまでの印象通り……変わった人なのね……」
疲れたようなジュリーの言に、メルティナはまったくだと同意した。
「彼を理解できるのは、同類の変人だけだろうね」
「……同種の……」
呆れたようなメルティナの言葉を、ベルグレッテが小さく拾っていた。
「……っと、本題から外れてしまって申し訳ない。とにかく、方法こそ分からないけど……エマーヌたちが意図的に『雪嵐白騎士隊』を遠ざけたとして、当然その後の展開についても用意があるはず」
言って、彼女は傍らの古びた木机に目を落とした。長らく工場内に放置されていたものだろう、ひどく色褪せたその上には、一枚の大きな地図が広げられている。少し離れた位置からでも、バダルノイスの国土が記されたものと分かった。
「さっきも言ったけど、少なくとも今この段階で『雪嵐白騎士隊』を抹殺しようとは考えていないと思うんだ。なら、どうするつもりなのか……」
焚き火に薪を放りながらのサベルがぼやいた。
「ま、俺たちの件を片付けるまでは騎士団を遠ざけておきたいだろうなァ」
「違いない。まずは私の臓器を入手、スヴォールンたちの対応に関してはその後……と考えてるのは間違いないんだ。つまり現状、『雪嵐白騎士隊』が皇都に戻ってこないよう時間を稼ぐ必要がある。気になるのは、その方法なんだけど」
ラルッツが次のタバコに火を灯しながら、適当な口ぶりで呟く。
「そもそも、その騎士団がアンフィヴテルラに全滅させられて帰ってこない可能性は?」
「ないかな」
メルティナは迷うことなく、即答をもって応じる。
「下位の隊員がまともに対峙したなら、さすがに無理だけど……スヴォールンとゲビが揃ってる時点で、負けはない。むしろ、死者すら出さずに帰還してくるはずだよ」
「はっ、言い切るかよ。そいつぁまた、とんでもねぇな」
ヘフネルとしても異存はなかった。
スヴォールン、ゲビ、そしてミガシンティーアの三名は、『雪嵐白騎士隊』の中でも群を抜いた実力者。いかに上位の怨魔が相手だろうと、正直負ける光景が想像できない。
新たなタバコを満足げに吸ったラルッツは、煙を吐くついでのように次の予想を出した。
「仮に怨魔の動きを操れるってなら、更に別の個体をぶつけるとかってセンは?」
「ありえなくはないけど……コートウェルにアンフィヴテルラが出たって時点で充分に異常事態だからね。スヴォールンたちを足止めするなら同程度に強力な個体でないと効果がないし、かといってあの地にこれ以上そんなのが現れれば、もう誰だって怪しむ」
オルケスター側としても、そこで突っ込んだ調査でもされて、自分たちの存在が明るみに出るようなことは避けたいはずだ。
「ヘフネル君。重ねてになるけど、何か知らないかな? 王宮に無関係なことでも、どんな些細なことでもいい。ちょっとした世間の噂話でも。なにせ私たちはこんな風に引き篭もってるからね、外の状況がまるで分からないんだ。せめて、もう少しほとぼりが冷めるまでは出かけるのも避けたいし」
「そっ、そうですね……うーん……」
ここまで頼まれては何か言わねば、とヘフネルも己の記憶を必死にさらう。
「……あっ。そういえば、あまり関係はないかと思いますが……近いうちに、大きな寒波が来るかもしれないそうです。北部への物資運び入れと重なってしまって、僕も馬車の確保に手間取って……」
「ふむー……そうなんだ」
白き超越者は、思案するように地図へ視線を落とす。
「ったく、何から何まで不便だね、我が国は」
「……いつものこと、と言えばそうだけど」
レノーレも釣られるように、紙へ描かれたバダルノイス領土に目を向けた。
「どういうこと?」
尋ねたベルグレッテに、レノーレがゆっくりと説明する。
バダルノイスの国土は、『白の大渓谷』を境目として南北に分かたれていること。冬季は雪によって、ここ以外に人の行き来ができる道が存在しなくなること。
バダルノイスの人間であれば、大半が知っている冬の常識でもある。
「……つまり、ここが塞がるようなことがあれば……バダルノイスの北側は完全に孤立するのね」
少女騎士が呟くと、メルティナとレノーレは顔を見合わせた。前者が応答する。
「そうだね。実際、雪や氷で何日か通行できなくなることもあるよ。そうして孤立状態となった北部がその期間を乗り切れるように、前もって物資が送り届けられるんだ」
レノーレが後を続けた。
「……それでもせいぜい、メルが言うように数日から……長くて一週間程度。……『雪嵐白騎士隊』の足止めとしては、確実性に欠けるし弱いと思う」
ベルグレッテが言わんとしている先を察したか、物静かな彼女はそう言い添えた。
つまり、寒波でスヴォールンたちが足止めを食らうことを狙ったのではないか、という推測。
「……寒波がいつ来るかなんて、術士でも読めて数日が限度。……それも当たらないことも多い。……意図的に利用するなんて、無理」
レノーレの言う通りだ。
それとも先の話に出たように、オルケスターならばどうにかなるような技術があるのだろうか。
「あ、ねえ」
自分自身ハッとしたように勢いよくジュリーが手を挙げた。
「でもでも、通れる道はそこしかないワケでしょ? そこを無理矢理封鎖しちゃう、とかって真似はできないの?」
またも白き『ペンタ』とその従者が視線を交わす。
「……さして大きな道でもないし、できないことはない、かもしれないが……。あそこは谷間で日当たりが悪いから、冷え込みも一段と厳しいし。封鎖するなら大勢の兵士が必要だけど、それはもう骨が折れるんじゃないかな。第一、封鎖したところで兵士たちに『雪嵐白騎士隊』を止められ――――」
眉根を寄せていたメルティナの白瞳が見開かれ、一同に向けられた。
「……そうか」
弱弱しくかぶりを振りながら。
「…………兵士である必要はないんだ……」
「……どういうこと、メル」
「いや、うっかりしてたよ。何でもいい。人じゃなくていいんだ。雪や氷でいいんだよ。道はあそこしかないんだ。氷雪で塞いで、物理的に通れなくしてしまえばそれでいい……」
呟いたメルティナがベルグレッテを見やると、彼女も小さく頷く。
「ええ。さらに言うのであれば、本当に寒波が来る必要すらありません。理由づけなど、なんであってもよいはずです。運悪く雪崩れが起きてしまっただとか、これまでにない地域で怨魔が出現した影響で、外の環境にも何か影響が出ているのかもしれない、とか」
とにかく『白の大渓谷』を意図的に、物理的に塞ぐ。
それに備えて今、大量の物資を運び込んでいる。
ははあ、とメルティナが唸った。
「……バダルノイス人の大半が氷属性を授かっている。人数さえ使えば、あそこを雪や氷で埋めてしまうことも充分に可能だろうね。実際の雪や氷に、術者が生み出したものも加えていけば、おそらく一晩のうちに行路を埋めることは難しくない。あそこは谷だからね。雪崩れに見せかけて、上からドカッと」
もちろん、例によってこれらは証拠もない推測だ。だが……。
「なるほど、理に適ってるよ。私やレンが同行している以上、北側に逃げるという選択はない。袋小路だと知っているし、ベルグレッテさんたちの目的地も南だしね。我々が南側にいることを見越したうえで、北側への道を塞ぐ。そうすれば最北端にいる『雪嵐白騎士隊』をしばらく隔離できるうえ、我々の捜索範囲も絞ることができる。こちらの行動も制限されるね。後々、虚を突いて一時的に北側に逃げ込む、という真似もできなくなる……」
しばし、薪の火が爆ぜる音だけが響く。
サベルが大げさに首を振った。信じられない、とばかり。
「オームゾルフ祀神長は……最初から、そこまで読んでたのか……?」
白の英雄は彼の動作をなぞるように。
「……そこまで考えていてもおかしくない。あのエマーヌなら」
複雑そうに、その聖女の親友は口にする。
「意図的にわざわざ埋め立てるなら……それなりの時間を稼ぐだろう。それこそバダルノイスには『滅死の抱擁』なんて前例がある。さすがに一月とまではいかないと思うけど」
(うーん……)
どうにか『雪嵐白騎士隊』が到着するまで引き伸ばせれば――と思ったヘフネルだが、そもそも何の解決にもならない。
自分たちにとっては頼れる精鋭騎士団だが、ベルグレッテたちにしてみれば味方でも何でもないのだ。それどころか、オームゾルフが独断で手配したとはいえ賞金首。間違っても相容れる関係ではない。
(それでも……三つ巴を狙って、事態を混迷させて……引っ掻き回すことができれば……)
無論、オームゾルフもそれを避けようとして動いている。この議論で、その方法も推測した。
「……ひとつだけ、エマーヌに付け入る隙があるとしたら」
誰よりも彼女を知るメルティナは、断言した。
「――あの子は戦士ではない、という点だね」
「戦士では、ない……」
なぞったヘフネルに、彼女はうむと肯定を返す。
「君も知っているだろうが、エマーヌは詠術士としても優秀だ。それなりに強力な術も扱える。けれど……鉄火場に立ち、敵を排除する戦士ではない。実戦経験はないんだ。私とは正反対の人種さ」
まさしく数多の敵を撃破してきた、北方最強の使い手が自嘲気味に言う。
「あの子に、個々の戦力を正確に推し量る『目』はない。それは机上の勉学で養えるものではないから。突くならそこだ。こうなれば、やはり――」
視線を転じる。オームゾルフに匹敵するであろう智慧を持ち得る、その少女騎士へと。
「はい、メルティナ殿。ここは――当初の予定どおり、進めましょう」