480. 一般兵の視点
馬車に揺られながら、バダルノイスの正規兵ヘフネル・アグストンは窓の外を眺めていた。
子供の頃からなじんでいる、白一色の風景。道も木々も街並みも、全てに雪がまぶされている。
今は何も降っておらず、けれど晴れ間が覗くでもなく。天空は厚い雲によって閉ざされていた。
それら景色に視線を投じている青年だが、意識は別のところに向いていた。
(一体、何が起こったんだ……)
逃走中のレノーレとメルティナが皇都イステンリッヒ内で見つかり、大規模な捕縛作戦が展開されてから三日。
あの日、非番だったヘフネルは東にある小さな村へ立ち寄り、雪かきを手伝いがてら住民たちから話を聞いていた。皇都だけでなく、他の地域に住む者からも情報を集めたかったのだ。
レノーレたちの潜伏先が特定され、いつ捕縛作戦が発令されるか分からない緊迫した状況が続いていたが、さして不安など感じていなかった。
何しろ、オームゾルフとベルグレッテという才媛二人が練り上げた綿密な作戦。敬愛する聖女はもちろんのこと、南の大国からやってきた少女騎士の聡明さにも舌を巻くばかり。この二人が手を結んでいるのだ。失敗などありえない。
レノーレとメルティナの逃亡劇に、今度こそ終止符が打たれる。
そして、バダルノイス王宮に潜む敵の正体が暴き出されるのだと。
そんな中――いよいよレノーレとメルティナが動きを見せ、捕縛作戦が展開されたのが三日前。
運悪くその場に居合わせることはできず、また情報を集めようとしたことも徒足となったと考えたヘフネルだったが、ともあれこれで全てが終結する――はずだった。
(こんな……)
足下に置いていた鼠色の鞄から、それらを取り出す。
すっかり皺だらけになった数枚の紙。何度確認しても見間違えではない。
――手配書。
知り合ってから、もう半月ほどになるか。バダルノイスに巣食うという闇を排除するための同志だったはずの彼ら。流護やベルグレッテ、エドヴィンに加え、あのサベルとジュリーまでもが賞金首として公布されるという事態。
(なぜ、皆さんが……)
およそ二十年ほどの平々凡々たる人生の中で、これを見た瞬間ほど驚いたことはなかった。
まずヘフネルは、この手配書を確認するなりゴトフリー診療所へと直行した。サベルとエドヴィンについては、まだ意識すら戻っていないはずだったからだ。
だが兵によって押さえられたその場所に、彼らの……五人の姿はなかった。すでに痕跡すらなく、もぬけの空となっていた。
(サベルさんたちは、すでに回復していた……? ベルグレッテさんたちは、それを僕には知らせないまま……)
自分は欺かれたのか。都合のいいように利用されたのか。この手配書が示す通り、彼らこそが悪だったのか。
時期を同じくして発覚したことだが、宮殿内で静養していたレノーレの母――レニンの姿がなくなっていた。門番すら気付かぬうちに。
これもベルグレッテたちの仕業だと噂されている。
(皆さん……)
正直な話、そこまで深い間柄とはいえない。だが……。
少なくとも美術館の職員エルサーを助けた際の、ベルグレッテの正義感に嘘はなかった。流護とエドヴィンについてはあまり分からないが、悪い人間でないのは少し話しただけでも分かる。そもそもレインディールのロイヤルガードであるベルグレッテが、この国で罪を犯すような真似をするだろうか。
そして外の冒険者などの情報に多少明るいヘフネルは、サベルとジュリーのことも会う前から小耳に挟んで知っている。彼らは間違っても悪党ではない。それは実際に接してみても明らかなことだった。
そもそも、状況がまるで分からない。
敵はオルケスターだったのでは? ベルグレッテたちは連中と共謀したのか? だがエドヴィンとサベルは、奴らによってあれほどの深手を負わされたはず。どういうことなのか。
とにかく、何ひとつ理解できない。
(やっぱり……皆さんがこれほどの手配をされるなんて……。どうにも、腑に落ちない……)
それぞれの似顔絵に付記された金額は、一人頭三百万エスク。
罪人レノーレに与し、捜査を撹乱した罪とされている。
五人で千五百万。レノーレと合わせて三千万という莫大な額。
(そんな大金、今のバダルノイスには……)
一兵卒にすぎないヘフネルですら分かる。払えるはずがない。
その疑問の解答が、
(あの、相談役……)
作戦が決行された浄芽の月は十三日、『特別相談役』に任命されたとの名目で三名の余所者が王宮入りした。
それはいい。人手にも欠けるバダルノイスだ。有能な人間なら、外から来た者でも構わないだろう。古きにとらわれないオームゾルフの方針とも合致している。
(でも……)
ヘフネルも遠目に見かけただけだったが、異様な雰囲気を纏った三人だった。
一人は、派手な装飾を施した女。全身に小さな鈴を括りつけた奇妙な風体は百歩譲るとして、人を見下したような態度が目立つ人物だった。かけていた黒メガネを宮殿内ですら外そうともしない、作法の『さ』の字もないような。名をミュッティ・ニベリエ。
そして一人は、背筋の曲がった痩躯の男。こちらは丁寧な物腰ではあったが、どこか慇懃無礼といった雰囲気が漂う人物。へりくだっておきながらも、心の底では何を思っているか分からない印象があった。名を、モノトラ・ギルン。
そして最後の一人は、全身を黒いローブに包んだ不気味な男。いかにも熟練の詠術士といった風体……にしては、どこか異様な佇まい。顔すら拝むことはできなかったが、アルドミラールと呼ばれていた。
彼らの資金援助があって、異例の高額による手配が実現したと聞かされている。
「…………」
声を大にして言えることではないが。
彼ら三人は、どうにも王宮入りするには相応しくない人物のように思われた。
浄芽の月、十三日。作戦が展開されたあの日……あれ以降明らかに、何かが変わった。それも急激に、大きく。ヘフネルの知らないところで、一体何が起きたのか。
(いや、僕だけじゃない。皆が混乱している……)
派閥で中立となる者たちは一様に戸惑っている。客人から一転、お尋ね者となったベルグレッテ一行。入れ替わる形で唐突に王宮へ迎えられた素性不明の三人。
オームゾルフ派ならば詳しい事情を知っているだろう。だが、彼らは語ろうとはしない。
現場でオームゾルフと一緒にいた中立の者らも、どういう事態なのか把握できなかったという。互いに訳を知っている様子のオームゾルフとベルグレッテが、傍観者には理解できない会話を交わしていたようだ。
ただ、当時そこにいた者たち発祥か、おかしな噂がまことしやかに囁かれている。
オームゾルフが、メルティナを抹殺しようとしたのではないか――と。
しかし相手は英雄にして『ペンタ』、そのようなことを公にはできない。当然、賞金首に指定することも不可能。国中が混乱の渦に包まれるからだ。
教会附属の学院生時代から親友同士だったという彼女たちだが、何らかの確執があって決別したのではないか、と推測する者もいるようだ。
(いくらなんでも馬鹿馬鹿しい。まさか、よりにもよってあのお二人が……そんなこと、あるはずがない)
作戦の途中でメルティナが捕縛されたとの誤報が流れたりもしたようだし、あることないこと何でも流布されているのだろう。そもそも派閥の隔たりがある中、まともな情報が流れているとも思えない。
ヘフネルは少しでも正確な情報を得ようと、あの日作戦に加わった幼なじみの兵士――ガミーハに話を聞いた。
『簡単に言えば……裏切られたんだよ、お前は。連中のことは忘れちまいな』
日頃明るくおちゃらけている親友は、神妙な顔でそう言ってこちらの肩を叩くのみだった。
『は? オームゾルフ祀神長がメルティナ・スノウ殿を殺そうとしたんじゃないかって? お前はどう思うんだ? お前の愛しのエマーヌ様は、そん――』
慌てて話を遮った。
新しく加わった特別相談役について尋ねれば、
『横柄でいけ好かねぇよな。でもよ、バダルノイスに必要なら仕方ねぇ。どんな奴であれ……国の再興に欠かせないんならな』
彼自身納得がいっていないことは、その顔を見れば一目瞭然ではあった。
『仕方ねえことなのさ……バダルノイスを復活させるためなら……。……俺だって、そのためなら何だろうと惜しまない』
背筋がゾクリとするような。決意を固めた者の瞳だった。
『……お前もそうだよな? ヘフネル……』
どもりつつ、肯定するのがやっとだった。
(…………本当に……何がどうなっているんだ)
あの日あの場所に立ち会っておらず、平凡な力と頭脳しか持たないヘフネルには及びもつかない。
まさか一兵卒の身分で、オームゾルフに問い質してみることなどできるはずもない。
「お、っと」
ガタリと大きく馬車が揺れて、意識がそちらに引っ張られた。
「……やっと着いたか」
気付けば、ようやく目的地。
無茶な継ぎはぎによって肥大し、無秩序に増加した建物たちの影。工業都市、ユーバスルラ。
「……ったく、どうして僕がこんなことを」
つい愚痴が零れる。
昨日、ここから遠く離れたハルシュヴァルト――本来の勤務地より手紙が届いた。上司ヒョドロからである。
このユーバスルラの酒場に赴き、回収してきてほしい物品があるとのことだった。兵士の装備では目立つため、平服で行けとの指示。屋内でしばらく待っていれば、使いの者が現れる手筈だという。
(どうして格好まで指定で……。まさか、違法なものだったりはしないだろうけど)
ヒョドロは荒々しい人物だが、悪事に手を染める人物ではありえない。
「はあ……」
あんなことがあったばかりだ。精神的にも疲れていたし、場所もユーバスルラ。あまり気乗りがしない。
それはまあいいとして、今日は馬車を確保するのにやたら時間がかかったのだ。何やら荒れ模様が近づいているらしく、国土の北側に物資を運ぶため馬車が多数動員しているらしい。
バダルノイスは、中央部に位置する『白の大渓谷』を境として南北に国土が分かれている。
主に冬季、北と南を繋ぐ道はここしかない。
北部は大陸の最北端であるため、万が一『白の大渓谷』が塞がることがあれば完全孤立してしまう。そこまで大げさではなくとも、雪で数日通行が困難になることも少なくないため、このように天候が荒れる前に食料や日用品を多く運び入れることがままあるのだ。
昨日の時点で噂は耳にしていたので馬車を手配していたのだが、それでも時間がかかった。
「ふう……」
この街の兵舎にいるだろうガミーハにでも一緒に来てもらいたい気分だったが、決して誰にも話さないように、ヘフネル一人で行くようにと厳命されている。それどころか手紙には、誰にも尾行されないよう気を遣え、とまで書かれていた。
やがて流れていた風景が止まり、馬が嘶いた。
「へい、ユーバスルラ三番街到着。お待ちよお客さん」
「ありがとうございます」
料金を支払って扉を開け、ヘフネルは薄雪の乗った石畳を踏んだ。




