479. コラプション
皇都イステンリッヒはその中央に鎮座する氷輝宮殿、二階・大会議室。
貴族や文官、指揮官といった身分の者が主に利用する部屋である。
青のカーテンや白の壁を基調に清潔かつ簡素な雰囲気でまとまったその屋内、円卓を囲む椅子に座するは五名。うち三名は、明らかバダルノイス人でもなければ、王宮の関係者にも見えはしなかった。
「雪のお陰で苦労したみたいでやすが、封術針の設置が完了しやしたよ。西と北に設置の必要がなかった分、そこは楽でもありやしたけど」
平服姿で背を丸めるのはモノトラ・ギルンと呼ばれる若い男。ボサボサの赤い頭髪、落ち窪んだ瞳と大きな鷲鼻、右側のみが不自然に吊り上がる唇。顔の輪郭や目鼻の形が左右非対称で、はっきりとした歪みを感じさせる。
「これで、バダルノイス内から外……その逆の通信術も通じなくなってるはずでやす。中立地帯のハルシュヴァルトにも現在設置中でやすよ」
くっくっと卑屈げに笑う男に対し、溜息をつくのは厳めしい顔のベンディスム将軍。
縮れた白ひげを蓄える大柄な歴戦の兵は、お手上げといわんばかりに太い首を横へと振る。
「人為的に通信術を遮断する領域を生成、か。にわかには信じられん話だな……」
「どうぞ、ご自分で通信をお試しになって確かめるとよろしいでやすよ~」
「ふん、俺にはそんな上等な術なぞ扱えんよ」
皮肉げなモノトラに、将軍は仏頂面で応じた。
「実際、ヨソの国まで通信を飛ばせるようなヤツはいんのか? この国によ」
椅子に浅く腰掛けてふんぞり返るのは派手で煌びやかな服に身を包むミュッティ・ニベリエだ。相も変わらず、黒いメガネによりその目線は窺えない。
「いえ」
最奥の席に座ったオームゾルフが否定をもって答える。常と変わらぬ白銀の神官服姿で。悪を自覚しようとも、その外面は変わらない。
「私を含め、そこまで通信術に練達している者はおりません」
これは、バダルノイスに住まう人間の気質も関係している。
他国の人間になど頼らない。ゆえに国を跨ぐほどの連絡手段など必要としない。そうした傲慢さの表れ。
『ペンタ』であるメルティナなら、その気になればさしたる労もなく習得することは可能だろう。
ただ、静かな環境での集中を要する狙撃手という職務上の性質や、そもそもの一匹狼的な性格から、彼女は通信術を好まない。何しろ連絡のやり取りどころか、飛んできた通信を切断する技術を独自に編み出しているほどだ。
「しかし今……何より問題となるのは、あのベルグレッテ・フィズ・ガーティルード……彼女の身分でしたな」
ベンディスム将軍の言葉に、聖女は無言で頷く。
「ここで憂慮すべきは、レインディールの者がいつまで経っても戻らない彼女へ接触を図ろうとすることです」
バダルノイスへ向かった自国のロイヤルガードが待てど暮らせど帰ってこないとなれば、レインディール王城の者たちは不審に思うだろう。現時点でも、すでに一ヶ月以上は経過しているのだ。
高位の通信術を得手とする詠術士を中立地帯ハルシュヴァルトまで派遣し、連絡を取らせるかもしれない。
それをさせないための封術針。
「でやすが……それで繋がらなければ、どちらにせよ妙に思われやすよねぇ。入国しようとするでやしょう」
「ええ。そもそもこのバダルノイスに、彼女のことを知る者が滞在していないとも限りません。ゆえに、その前に……この一ヶ月で全てを終わらせねばなりません」
徹底した出国禁止と通信遮断、街道封鎖はこのため。
例え無関係な商人でも、出国を許す訳にはいかない。ベルグレッテが手配されていることを外で口外されたり、手配書を持ち出したりされては困るのだ。
どうにか瞬間的にバダルノイスを陸の孤島へと仕立て上げることはできたが、このような無茶は長く続けられない。長くとも一ヶ月が限度。
そのために――
「どうかお願いいたします、ミュッティ殿」
丁寧な一礼で向き直ると、
「ケ、大人しい顔してしれっと無茶振りやがる。ま、ヤツらをまんまと逃がしちまったのは確かだしな、キッチリやるさ」
闇組織の女はひらひら手を振った。服に括りつけられた鈴が斉唱する。
と、ここまで微動だにせず一言も発しなかった黒衣の男が、錆びた声で含み笑う。
「ク、フフ。無茶、か。殲滅部隊のミュッティ殿ともあろうお方が、珍しく弱気なことダ」
「あ? アホかアルドミラール。向かってくる奴なら何だろうとブッ殺せるが、このクソ広い雪国で逃げ回ってるウサギ探して追っかけ回すなんざ、苦労すんに決まってんだろ」
薄い紅を塗った女の口角が、ぐぐと凶悪に吊り上がる。
「おう、アルドミラールよぉ。たまたま融合の適正があったからって、あんま調子こくな? テメェの代わりなんざ、掃いて捨てるほどいんだからよ。もぎ取ってやろうか? 増長の原因になってるその臓器をよ」
「! おっと、これは出過ぎタ真似を失礼しタ」
チッと隠しもせず舌打ちしたミュッティは、黒メガネ越しの視線をオームゾルフへと転じる。
「で、聖女様よ。奴らはどう動くと思う?」
「そうですね……」
全てが明るみに出たあの場で忽然と消え失せた彼らだが、生存は確定している。
何も知らない御者が、彼ららしき四人を近隣の村まで運んだと証言しているのだ。
しばし沈思し、オームゾルフは口を開く。
「ベルグレッテさんたちにしてみれば……レノーレとの合流を果たし、メルティナとも共闘を結べた状態。そして自分たちを脅かす敵が、私……今のバダルノイス神帝国そのものである、と認識したならば――」
「まぁ、逃げやすよねぇ」
首を左右に振るモノトラが言う通り。いかに英雄メルティナがいれど、あんな少人数で『国家に』抗うことなどできはしない。
何より、レノーレを無事に奪還し、抜け目なくその母親レニンまで連れ出せた彼女らにしてみれば、もはやバダルノイスに留まる理由などありはしないのだ。
となれば、
「彼女らは、どうにかしてバダルノイスからの脱出を図るはずです。国外に逃れることさえ叶えば、私の行いを告発することも可能でしょう」
逆に、そうなってしまえば終わり。こちらの敗北と考えていい。
「ということはつまり、連中が南の国境門を突破してハルシュヴァルトまで下ってしまったらお手上げ、ということでやすね。あそこは中立地帯……レインディールの兵もおりやすから」
モノトラの推測は誰しもが考えるところだろう。
しかし、
「いえ、そうとは限りません」
聖女は否定する。
「南ではなく――東の門を目指す可能性もあります」
一瞬、水を打ったような静寂が場を包んだ。ややあって、モノトラが呆けた様子で口を開く。
「東って……そっちに行ったって、レインディールへは帰れやせんよ」
「そうですね。……『すぐに』帰ることは不可能でしょう」
「……、……まさか」
オームゾルフの意図を察したか、モノトラが口の端を強張らせた。
東門からバダルノイスを出ると、まっすぐ遠方に『北の地平線』が広がっている。そこは、危険度なら原初の溟渤などとは比較にもならない魔境。人知を凌駕する怪物たちが蠢く未踏領域。
いくつもの国家が楽々と収まる大きさを誇るその森の中心には、天頂聖樹と呼ばれる神樹が根差しているという。その樹高は数千、ないし数万マイレとも伝わるが、真偽のほどは不明。晴れた日にその遠影――らしきもの――がぼんやりと伺えるのみで、そこまでたどり着けた人間など過去から現在に至るまで存在しないのだ。
そして余談であるがその神樹周辺には、秘境の主とも称される十の怪異たちが眠るという。
その名を通称、『拾天彩禍』。
人知を超えた、厄災の化身とも伝わる悪魔たちだ。古の時代、『終天を喰らう蟒蛇の王』ヴィントゥラシアに呼応し、数々の国を滅ぼした最強最悪たる十体の王。
『終天』ヴィントゥラシアが滅んだことで、彼らもまた永遠の眠りについたとされている。
ともあれ――うっすらと確認できるそんな神樹の威容を見渡しつつ、荒れた街道沿いに『北の地平線』を迂回し続けること二十日ほどで、やがてカダンカティア教主国にたどり着く。
そこからさらに西へ二週間と少しで、エッファールク王国へ。国土を南下し続ければ、やがてはレインディール領土のリケ・エブルに到達する。
「いやいや、そんなの……何ヶ月かかるかも分からない道のりでやすよ」
「ですが、いずれはたどり着きます。ベルグレッテさんならば、この程度の裏をかいても不思議はありません」
東からレインディールへ向かう者など、本来ならばいるはずがない。素直に南へ向かえば、たかが一週間。だが、そこを厳重警戒されていると知ったならば――。
「普通なら、やらない……でやすが」
決して楽な道中ではない……どころか、たどり着ける保証もない。東方面は街道もあまり整っておらず、怨魔や野盗も多く跋扈している。まして冬時期はバダルノイスほどでなくとも雪が多く、備えの足りぬ旅人ならまず確実に途中で力尽きる。
だが、旅慣れたサベルたちが同行し、戦力的にはメルティナがいるのだ。決して不可能ではない。理論上は。
「んー……」
ちりん、と鈴の音が小さく囁いた。
「ま、それならそれで問題ねぇだろ。そっちに行きゃ、よりにもよってエッファールクを通るワケだしな。なら、話はそこで終わる」
「……ええ」
ミュッティの言葉をオームゾルフは肯定する。
エッファールク王国。そこは、オルケスター団長クィンドールの生まれ育った国。彼はかつて、騎士団で副団長を務めていた。
そして今現在、オルケスターの本拠地はエッファールク王国最南端、ファイン・ザクスの街に存在する。
そこからわずかに南下すればレインディール国土のリケ・エブルだが、よりにもよってベルグレッテたちはオルケスターの本拠地に接近することになる。そして、それを見逃すかの組織ではない。
通信も届かない遠距離、リケ・エブルに至るまでまずレインディール人とも接触しない道のり。
「最悪、東門から出られちまっても問題はねぇってこった。どうすっかね?」
ミュッティの問いに、オームゾルフは即答した。
「予定通り、南を固めて東を手薄に。しかしもちろん、みすみす国外へ逃がすつもりはありません。あくまで、国内での捕縛を目標とします。何より東側の警備を不自然に緩めてしまえば、ベルグレッテさんは訝るでしょう」
オームゾルフは認めている。あの少女騎士の思考は、自分の上を行くと。
ならば、その想定をも織り込んで考えなければならない。こちらの思惑を覆しつつ、彼女はどう動くのか。その先を読む。
そして憂鬱な溜息とともに、一国の指導者はその懸念を口にする。
「……考えねばならぬことは他にもございます。そろそろ、私の行いが『彼ら』の耳に届く頃でしょうから」
察したベンディスム将軍が渋面で顎ひげをさすった。
「……ですな。『雪嵐白騎士隊』――あのスヴォールン殿が、この事態を看過するはずもなし」
先日、北のコートウェル地方に現れた怨魔の討伐に向かわせた、彼らバダルノイスの精鋭騎士団。
ミュッティが愉快げに喉を鳴らす。
「あー。アタイらの策にまんまと引っ掛かったヤツらか」
怨魔は偶然にも出現したのではない。狙って、そこに出現『させた』のだ。オルケスターの力によって。
オームゾルフは、それがどのような所業によって実現されたのかまでは知らない。怨魔は決して人になど従わない。人の思い通りになど行動しない。しかし事実、怨魔は北の地にその姿を晒した。そしてスヴォールンたちを討伐へ向かわせ、この宮殿から離すことに成功した。
ただ、唯一の想定外は――
「あっしは詳しくありやせんが……『雪嵐白騎士隊』といえば、あの妙ちきりんな男もそうなんでやすよねぇ?」
モノトラが眉をひそめて切り出す。
「ケ、妙ちきりんだぁ? お前が人のこと言えんのかよ、モノトラ」
「茶化さないでくださいよ~、ミュッティさん」
「……『彼』は……予測できない行動が目立つ人物ではありますが、害はありません」
オームゾルフの怨魔討伐依頼を承諾したかと思えばおもむろに断り、結局は宮殿に留まった『雪嵐白騎士隊』の一人――ミガシンティーア・エルト・マーティボルグ。
先日の作戦が終了した直後、オームゾルフは彼の部屋を訪れた。このオルケスターの三名を連れて、彼らを新しい役職に迎え入れた報告との名目で。無論、その裏には別の意図が隠されていた。
すなわち、『脅し』である。
邪魔になるようなら排除する、と。
「まぁ、妙ちきりんな野郎だったな。ニタニタしやがって。けど」
ミュッティが口の端を吊り上げる。
「あの野郎……アタイら三人を前にしても、まるで動じちゃいなかった。そこそこの使い手みてぇだが、さすがに多勢に無勢……あの場で闘り合やぁ、確実にテメェが死ぬことなんざ分かってたはずだがな」
「彼はあのような人物ではありますが、相当の切れ者です。理解していたのです。あなたがたが、あの場で自分に手出しをすることはないと」
ミュッティに加え、多属性を扱うアルドミラールとハンドショットを所持したモノトラがいた状況。
いかに強者たるミガシンティーアとはいえ、さすがにあの場で始末してしまうことは容易だった。が、そんな真似をすれば白士隊が丸ごと敵に回る。城内に滞在している白士隊と本格的な戦闘が勃発しては、無視できない被害が出てしまう。これからベルグレッテたちに対応しなければならないというのに、そんな愚は犯せない。
……脅しといえど、実際のところ即座に彼を消去することは難しい。結局、そこを見抜かれていた。
ちなみにオームゾルフは作戦が終わった後、彼が一時メルティナとともに行動していたとの情報を耳にした。そのことをさりげなく問い質してみたが、
『フ、クク。これは異なことを仰る。メルティナが囚われたとの偽報を流す作戦に、私が名を貸して信憑性を持たせたまでのことではありませんか』
肩をそびやかして笑うその真意は窺えなかった。ただ確実なのは、
「彼は『楽』を信条とし、何よりも優先する人物。己が『楽しくないこと』には興味を示しません。少なくとも、自らや白士隊が危険に晒されるような真似はよしとしないでしょう」
妙な素振りを見せれば、白士隊に被害が及ぶかもしれない。そう考えれば、彼が攻撃的な手段に打って出ることはありえない。
「しばらくは静観で問題ないはずです」
実際に接したうえで、オームゾルフはそう判断した。
そんな聖女の結論に答えたのは、黒衣の男アルドミラールだった。
「必要ダっタら俺に言うと良い。いつデも始末しよう」
すかさずミュッティが鼻で笑う。
「ケ、返り討ちに遭わなきゃいいがなぁ。それなりに出来るぜ、あの笑い男は」
「! これはこれは気遣いいタダき痛み入る。生憎、今の俺もそれなりにデきるのでね、心配は不要ダ」
「そーかよ。……おう、それで思い出したが」
ミュッティが矛先を転じる。
「……『調子はどうだ』? オームゾルフ」
にやりと、鋭角を増す彼女の笑み。
言葉少ななその意味するところを取り違えることなく把握した聖女は、
「……特に変わりはありません。何もなければ……『このこと』を失念してしまうほどには」
自らの手のひらへと視線を落とし、偽りなく答えた。
「そーかい」
それだけの短いやり取りだったが。
茶化すようなミュッティ。無関係な立ち位置で笑むモノトラ。そして、
「…………」
無言ながら……目深に被ったフードで窺えずとも、敵意に似た雰囲気すら醸し出すアルドミラール。
異質な裏世界の者たちの、それぞれの立ち位置が垣間見える気がした。
ベンディスム将軍は、ただ厳めしい表情でまぶたを閉じるのみ。当然の反応だ。敬虔なキュアレネー教徒ならば。
そんな彼らの様子を眺めつつ、オームゾルフは場をまとめにかかる。
「では各自、持ち場へお願いいたします。近いうちに、ベルグレッテさんたちは何らかの動きを見せるはず。行方はようとして知れませんが……ベンディスム将軍、監視の目を緩めぬようお願いいたします」
「承知。すでに一つ、手掛かりになりそうなものを押さえておりますのでな」
「……ヘフネル・アグストンですね」
バダルノイスの一般兵。能力的には平凡、特筆すべきこともない。
しかし彼は、ハルシュヴァルトからこの宮殿までベルグレッテたちを連れてきた人物。それからも彼女らと交流があり、親しくしていたようだったという。ならば――
「注視をお願いいたします」
「は」
ただの兵でしかないはずの彼が動くことで、事態も動く。
オームゾルフはそう確信を抱いていた。




