474. 大切な人
――そして今、この瞬間を迎えた。
「エマーヌ……」
「ふふ。何だか久しぶりに感じるわね。こうしてあなたと顔を合わせるのも」
先刻のミガシンティーアと似たような言葉を添えて、オームゾルフは無邪気に……あまりにも無垢に微笑んだ。
これまでと、何ら変わらずに。
「…………、」
ベルグレッテとともに、メルティナは言葉通りの意味で飛んでこの場へと駆けつけた。
すぐ脇に高々とそびえる街の外壁。その向こう側へと通じるだろう、足下で激流を渦巻かせる流雪水路。
立っているのもやっとなほど満身創痍となったレノーレの姿。そんな彼女を守る形で身構える無手の少年。彼らを取り囲む兵団とオームゾルフ。
――今、この状況が全てを物語っている。ここで何が起こっているのかを。
流護が端的に、どこか残念そうに告げた。
「マジでアウトだったよ、ベル子。『この人』……レノーレを殺そうとしやがった」
よく分からない俗語交じりで苦く吐き捨て、手甲に包まれた右腕を振る。
「……ん」
ベルグレッテが小さく、肯定とも否定とも思える呟きを返す。
「……エマーヌ。本当なのか……本当に君は――――っ」
逸るようにメルティナの口から発せられた声は、半ばで消失した。
糾弾すべきその友が、今までに見たこともないような笑顔を浮かべたから。困ったような、諦念をたたえたような。笑んでいるはずなのに、どこまでも悲しい表情。
その友人はメルティナに何か言うことなく、視線を隣の少女へと転じる。
「ベルグレッテさん。いかにあなたとて、たどり着くことは不可能と考えておりました。是非に、ここへ至るまでの経緯をお聞かせ願いたいのですが」
その台詞が、打ちのめすようにメルティナの腹底を冷やす。
否定してほしかった。違うと。自分は悪徳になど手を染めてはいないと。
しかし『真言の聖女』は、わずかほどの弁解すらせず。
ベルグレッテもメルティナと近しい心境なのか、堪えるような面持ちで口を開く。
「……このバダルノイスへ入国した当初から、私は違和感を覚えておりました」
「なんと、入国当初からですか。それはどのような?」
オームゾルフの笑顔は、学院生時代に後輩たちへ見せていたそれと同じだ。難問を解いた生徒を褒める際の……。
「まず入国に際し、検問を通り抜ける折のこと……。担当されていた兵士のかたが、本人確認のため我々の名を読み上げました」
メルティナもここへ至る道中、ベルグレッテたちの経緯については軽く聞かされている。
右も左も分からぬ異国の地でレノーレの手がかりをどう探したものかと考えていたところ、オームゾルフからの招致を受けたのだと。
「その確認にて名を呼ばれたのは、リューゴ、サベルさん、私……の三名でした。同行していたジュリーさんとエドヴィンについては、『お連れの方が二名でよろしいか』と」
オームゾルフがかすかに目を眇める。
「そして宮殿に到着し、オームゾルフさまとの謁見を控えた折。入室前、扉の前で再び本人確認がなされましたが、ここでも同じことが起きました。ジュリーさんとエドヴィンに対し、『そちらはお連れのご友人でしょうか』と。二度に渡って軽んじられたジュリーさんがとても憤慨したので、よく覚えています」
レノーレを背後に守る流護が頷いていた。彼の印象にも残っているのだろう。
「その夜、宮殿にて私たち五名に部屋が宛てがわれました。リューゴ、サベルさん、私が二階の客室。エドヴィンとジュリーさんが一階の客室……と、二手に離される形で。ジュリーさんが案内役のかたにお話を伺ったところ、五名がまとまって宿泊できる環境が用意できなかった、とのことだったそうですが――」
そこで流護が継ぐ。
「俺もそん時ゃ気付かなかったけどさ。思い返してみると、それならそれで普通は男女で分けねーか? って話なんだよな。俺とエドヴィン、サベルの男グループ。んでベル子とジュリーさんの女グループ、って感じで。そっちのが自然だろ」
しかし実際は違った。
五名のうち『認知される者とされない者』。その境目に沿った部屋の割り当て。
「……部屋に案内された後、リューゴと私は飲料水をいただくために食堂へ向かいました。ここでも兵士のかたや厨房のかたと言葉を交わしましたが、そこでまたひとつ気がかりな点が生じました」
道に迷った際に行き合った兵士の一人は、
『君たちは何者だ? 誰かの客人か?』
と、明らかに流護とベルグレッテの顔や名前すら知らず。
かと思いきや席でくつろいでいる一人の兵士に帰り道を尋ねた際には、
『リューゴ・アリウミ様に……ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード様』
と。今度は自己紹介をするまでもなく、向こうが認識していた。
同じ兵士でも、個人ごとの違いが生じた。
「そもそもハルシュヴァルトにいた我々の情報は、多くの兵士のかたがたを経由し、最終的にオームゾルフさまのお耳に入られたのだと聞いております。人づての話というものは尾ひれがついたり内容が変わったりしがちですから、我々五名の詳細についても正確な伝達がなされなかったのだろう……と、そのときは考えました」
無理はない。人から人へ話が紡がれるうち、ベルグレッテ、流護、サベルのみが重要人物として認知され、ジュリーとエドヴィンはただの同行者と見なされた。同じく、彼らを知る者と知らない者の差が生まれた。その程度の誤解が起きても不思議はない。
メルティナ自身、英雄としての武勲のみが先行し、さらにはがさつな性格が手伝って、男だと思われていた経験が幾度もある。人と人とを伝わる話など、得てしていい加減なものだ。
「……けれど、です。翌朝、オームゾルフさまの私室へとお招きいただき、情報交換を行いましたが……『同じ』だったのです」
「……同じ、っていうのは」
メルティナの呟きに、ベルグレッテは小さく肯じる。
「オームゾルフさまは……リューゴ、サベルさん、私の三名については把握しておられました。けれど、ジュリーさんとエドヴィンのことは認知されていなかったのです」
「!」
ここで初めて、オームゾルフが驚いたような顔となる。
「まず私については、前日の時点でオームゾルフさまに名をお伝えしていましたので問題はありません。次に、翌日の議論の場でエドヴィンが礼を欠いた発言をしてしまった直後――」
『ふふ、お気になさらず。ええと……』
『あァ……俺ぁ、エドヴィン・ガウルっていいやす』
「そして、オルケスターの話題が出た際に」
『逆に情報の秘匿をキッチリやりきれるような、統率の取れた組織……か』
『バダルノイスとしては……サベルさんと同じ考えでいます』
「オームゾルフさまは、ここで迷わずサベルさんの名前をお呼びになったのです。エドヴィンのことは把握しておられなかったにもかかわらず。……そして」
『ふふ、ありがとう。頼りにしています、……ええと、すみません、お名前を』
『ジュリー・ミケウスと申します、祀神長様』
「エドヴィンと同じく、ジュリーさんのこともご存じではなかった。昨日の一部の兵士のかたがたと同じ認識……ここで訝しく思った私は、オームゾルフさまにこうお尋ねしました」
『この一件に際し対応可能なバダルノイスの戦力というものは、いかほどの規模になるのでしょう?』
「その質問に対し、オームゾルフさまは仰いました」
『……バダルノイスの英雄たるメルティナ自身の安否が知れぬ現状、やはり「雪嵐白騎士隊」が肝となります。……が、彼らも非常に多忙な身の上。有事の際、即座に対応できるかとなれば話は別です。まさに今も、各自それぞれの職務に励んでいるはずです』
『勝手ながら、皆さんにご助力を願いたくお呼びいたしました。ロイヤルガードを務められるベルグレッテさんや、トレジャーハンターたるサベルさんたちももちろんのことですが』
『リューゴ・アリウミ殿……でしたね。失礼ながらあまり詳しく存じ上げず恐縮ですが、遥か東のレフェ巫術神国にて行われた催事、天轟闘宴を制覇なさった凄腕の戦士殿と伺っております』
ふふ、とオームゾルフが小さく肩を揺らす。
「……なるほど……『確認』、だったのですね。私が『彼の名を知っているかどうか』の」
つまり、引き出したのだ。
あのオームゾルフに違和感を抱かせず、流護の名を。
少しだけ罪悪感を滲ませた面持ちで、ベルグレッテは「はい」と。
「もちろん、リューゴについては消去法でその名を推測された可能性もありましたが……それにしては、オームゾルフさまに迷いが感じられなかったので」
「……まじか。あん時、急に俺推しするから変だなと思ったんだよ。んなこと考えてたんか」
その場に同席していたはずの流護も舌を巻いている様子だった。
要約すると――流護、ベルグレッテ、サベルの三名のみが一部の兵士やオームゾルフの間で認知されていた。
一方でともに行動していたジュリー、エドヴィンはなぜか本人照合すらろくにされない状態だった。
「この違和感が無視できないものとなった切っ掛けは、バダルノイス兵がみっつの派閥に分かれていることを知ったときでした」
聞こえたのだろう。この場に押しかけている最前列の兵士たちの幾人かが、ややバツの悪そうな顔となる。
「オームゾルフさまに皇都の観光をおすすめいただいたあの日、私は美術館へ向かう前に兵舎に立ち寄ったのですが……そこでお話を伺った兵士のかたは、私の名前や顔をご存じではありませんでした」
それどころか、ベルグレッテ一行がオームゾルフに招かれたことすらよく知らされていない風だったという。
「他に同様の認識だったかたも少なくありません。その言動や立場から、私は彼らをいわゆる中立……派閥に属していない者と仮定しました」
ここに詰めかけている兵士らの多くもまずそれに該当する。ある程度の距離を取っているため会話があまり聞こえていないこともあるだろうが、何が起こっているのか理解できない様子で遠巻きにベルグレッテとオームゾルフの顔を見比べていた。
「次に、『雪嵐白騎士隊』と縁深い通称・白士隊。結論から申しますと、彼らも私たちのことを詳しくは把握されてはいませんでした」
そこで流護が苦笑交じりに口を挟む。
「こないだ、宮殿のロビーで普通に戦闘になりかけたぐらいだしな。あん時、ミガシンティーアが言ってたんだよな。『部下はお二人の詳細や顔まで把握しておりませんのでね』、だとか何とか」
こくりと頷いたベルグレッテが続ける。
「……以上のことから推測しました。リューゴ、サベルさん、私を把握しつつ、それでいながらエドヴィンとジュリーさんを今ひとつ認知していなかったのは『オームゾルフ派のみ』であると。いかに派閥の存在によって組織内の風通しが悪くなっている状況とはいえ、ここまで認識に明確な差が生まれているのはなぜなのか……。その中でも、常に一緒に行動し、常に同じ成果を挙げてきたというサベルさんとジュリーさんのうち、サベルさんのみが認知されているのはなぜなのか……」
静かに呟いたベルグレッテは、なだらかな曲線を描く自らの胸にそっと手を添えた。
ここまで耳を傾けていたオームゾルフが応じる。
「なるほど。やがて内通者の存在を確信したあなたは……その違和感を元に、私を怪しむに至ったと――」
「いいえ」
静かな否定。
「最後の局面、疑惑が確定的となってもなお――間違っているのは私だと。まさか、オームゾルフさまが黒幕でなどあるはずがない。そう考え、自らの仮説の間違いを証明するために調査と思索を重ねました」
少し驚いたような聖女の表情。
「やはり鍵となったのは美術館での一件です。ここで複数の偶然が重なったために、私の思考は無為な遠回りをするはめに陥りました。が……実際に起きようとしていたことは至極単純」
すっと息を吸い込み、
「オルケスターの刺客……アルドミラールによる美術館での待ち伏せ。目的は、我々の……いえ、具体的にはリューゴ、サベルさん、そして私の抹殺。正確にはその臓器を奪取すること。つまりキンゾル・グランシュアの『融合』を使い、我ら三名の力を得ること」
一拍の間を置いて、オームゾルフがふむと頷く。
「……アルドミラール殿の名を……、なるほど。サベルさんが意識を取り戻されたのですね」
「はい。ですが仮にサベルさんが目覚めていなかったとしても、我々はその名を知ったことでしょう」
「…………記録晶石、ですか」
互い、先の先を察して進む会話。
流護が挑発するように笑う。
「刺客をあの変態首切りマニアにしたのはでかいミスでしたなー。ペラペラ喋りすぎなんだよ、あいつ」
「我々はあらかじめキンゾル・グランシュアを知っていました。その特異な能力についても。そして、そのキンゾルがオルケスターに属している……。となれば、敵の目的を推測することはそう難しくありませんでした」
一瞬だけ目を伏せたベルグレッテが、意を決したようにオームゾルフをひたと見据える。
「オームゾルフさま。あなたが私たちを招聘なさった理由は、レノーレに関する情報を得るためではなく、臓器を奪うため」
聖女は否定するでもなく頷く。『真言の聖女』としての立ち振る舞いであるがごとく。
「発端となった、私たちの情報がオームゾルフさまのお耳に入ったこと。これも、決して偶然などではなかった。おそらくは、派閥の者かオルケスターの者が我々の……リューゴ、サベルさん、私の名前に気付き、連絡の中継ぎを行った」
偶然、話が伝わったのではない。意図して取り次ぎ、オームゾルフに知らせたのだ。
それも『当たり』か、オームゾルフは優しく首肯する。
「そしてオームゾルフさまは我々の臓器を即座に奪ってしまうのではなく、まずは実際にレノーレやメルティナ殿を確保するための戦力として活用なさるおつもりだった。しかし私たちは、メルティナ殿にあえなく退けられてしまった。その結果、オームゾルフさまは私たちを戦力外……用なしと判断。折しも街から人の姿が消える聖礼式を翌日に控えていたこともあり、これに乗じての処理を画策。人気のない美術館へ誘い込み、そこで秘密裏に片づけてしまおうと考えた……」
「……ええ、概ねその通りと思っていただいて間違いありません」
「先述の部屋の割り当ても……始末すべき対象であるリューゴ、サベルさん、私を一箇所にまとめるため」
『真言の聖女』はまるで否定することなく肯じた。
「おすすめいただいた料理店で、白雪冷茶に支臓剤を混入させたことも……美術館での各個処理を狙っての策」
「お気付きになりましたか。さすがです」
「美術館の一件の直後、サベルさんを治療するとの名目で移送を提案されたのも……」
「ええ。彼やあなたがたを手元へ引き寄せるための方便。もっとも、仕事をお願いしたミガシンティーアがあっさりと手ぶらで帰ってきたことは予想外でしたが」
「結果として私たちを処理するというオームゾルフさまの計画は、サベルさん一人が重傷を負うのみに留まった。リューゴがメルティナ殿と遭遇し一戦交えたことや、エドヴィンがオルケスターの構成員と思しき輩に襲われたことは、時を同じくして起こった全くの偶然……」
「ええ。おかげであたかも三名が同時に襲撃を受けたかのような図式となってしまい、あなたがたの警戒も深まりました」
「そのため一旦、私たちの処断を留め置いたと」
「それだけではありません。その頃には、ベルグレッテさん……あなたの聡明さに一目置いておりましたから。まずは協調し、メルティナの確保を優先すべきと判断したのです」
淡々と、聖女はそう結んだ。ベルグレッテが苦い表情でかぶりを振る。
「……全ての発端……レノーレの屋敷で、彼女とオルケスターの関与を示唆する走り書きが見つかったこと。これを前提に推測を重ねたせいで、延々と間違った思考にとらわれてしまった……」
そこで誰も聞いたことのない架空の組織の名前が使われていたなら、きっと信憑性も薄れていたに違いない。ベルグレッテほどの者ならば、その時点で虚構を疑っただろう。
実在する……知る人ぞ知る闇組織オルケスターの名が使われていたことで、妙な真実味を帯びた。
全く関係のない組織を騙ったなら、少し調べられればボロが出る。
大胆にもオルケスター自身が名を貸すことで、矛盾の発覚を隠そうとしたのだ。
「ごめんなさい、レノーレ。あなたがそんな組織に与するなんて、あるはずがないのに……」
悲痛な謝罪に対し、支えられた半死半生のレノーレは弱々しく……しかし確かに首を横へ振った。
「……気に、しないで。……悪いのは……そう、仕向けた人」
実際にはレノーレでなく、王宮側がオルケスターと繋がっていた――という現実。
「…………馬鹿な」
呻く声は、白き『ペンタ』の喉から発せられていた。
「君が……よりにもよってエマーヌが、そんな真似をするなんて信じられない……。第一、何が動機だっていうんだ……?」
学院生時代、誰よりも真面目で規律を重んじていたあの少女が。夜遊びに連れ出せば、教師にどう謝ろうかとうろたえていたあの優等生が。そして今や、淑女の手本とも称され一国の主となったこの聖女が。
客人の計画的な殺害を企てたうえ、学生時代に何度も二人で足を運んだ王立美術館を――
「……そうだよ。おかしいじゃないか、エマーヌ。誰よりもこの国を愛する君が、由緒ある美術館でそんな凶行を画策するはずがない。どうやって職員を言いくるめたんだ。あそこで働く人たちの協力がなければ、そんな大それた真似はできないだろう。君や兵が手を回せば、何事かと違和感を抱かれるはず。すぐに人々の間で噂になるはずだ」
気付けば、メルティナが擁護するかのような物言いになっていた。
だが実際、共犯が多ければ多いほど、この手のやり口は失敗しやすくなる。情報漏洩の危険性が高まる。
しかも、あそこで働く人々は市井の民だ。屈強かつ忠誠心を持ち合わせたオームゾルフ派の僧兵ではない。暗殺に与する仕事を完璧にこなすことなど不可能だろう。
「だ、そうですが。ベルグレッテさん?」
当のオームゾルフは、楽しげにすら感じられる眼差しで藍色の少女を見やる。
視線を集めたベルグレッテは、苦い表情で口にした。
「……巧妙に人々を利用したのです。悪行に加担していることを自覚させず、さらに弱みを握ったうえで」
そこからベルグレッテが語った内容は、到底信じられないようなものだった。
――オームゾルフは意見陳情会を利用し、民の弱みや悩みを把握した。これを利用し、例えば金を必要としている者にはオルケスターの使いの者を寄越し、報酬金を提示した。密命を帯びているなどと偽わらせ、悪事に加担していることを悟らせず。
「料理店でも、美術館でも……そうしてオームゾルフさまは、意のままに人々を操った。自らの気配は隠したままで」
「……そ、んな…………」
愕然となるメルティナへ、ベルグレッテが無情に被せる。
「陳情会には必ず上位騎士や兵士長が同席なさるそうですが……調査した結果、美術館の一件でかかわった人々に共通して随伴されたかたはおりませんでした。……『共通した一個人』は、おりませんでした」
その薄氷色の視線が横向く。
彼女の視線は、周りで囲む兵士たち。その中にいつしか交ざる、ベンディスム将軍を捉えていた。
つまり、この老練の将軍までもが。
オームゾルフと、その策略に加担した者たちが。
一丸となって、民を利用した……。
「…………エマーヌ。美術館の件で、職員が一人亡くなっていたな。まさか、口封じのために殺めたのか」
「いいえ。あれはアルドミラール殿が独断で行ったこと。強く抗議いたしましたよ」
「……、けどエマーヌ、どうしてあの美術館で……あそこには、歴史的な価値ある遺品も数多く保管されているのに」
実際、今回の火災でいくつもの貴重な展示品が失われたと聞いていた。
すがるようなメルティナの声に、オームゾルフは平坦な口ぶりで応える。
「……『過去』など何の役にも立ちません。いつまでも昔に縛られていては、前には進めない。今のバダルノイスに必要なのは、保守ではなく変革」
「……だから、過去のものが収められた美術館はどうなってもよかった……とでも?」
「そうね。身も蓋もない言い方をすれば、そうなるのかしら」
「……本気で言ってるのか、エマーヌ」
無意味な弁と自覚しつつ、メルティナの口からはそんな苦味が漏れていた。
オームゾルフという女性はいつだって本気だ。なら、発せられた言葉に偽りはなく。また、そこには何らかの意味がある。
「何のつもりなんだ。美術館があんなことになれば、修繕費だって莫大な…………、いや、まさか」
はたと気付く。
オームゾルフは言った。過去のものなど、それらが収められた美術館などどうなってもよかったと。
なら、その気がない。
焼けた美術館を修復するつもりなどない。
修復されないなら、美術館は閉鎖せざるを得なくなる。そうなれば――
「展示品を……金に換えるつもりなのか」
バダルノイスは流れ者の終着地となることが多く、珍しい品が集まりやすいとされている。極めて希少な代物が遺されることもあり、そうした品々が実際に飾られている。
「あの堅牢な石造りの建物で火災が発生した、と報告を受けたときは驚きましたが……さすがに、全焼することはありえませんから」
いくつかの展示品こそ失われたが、問題はなかった。
サベル・アルハーノの特異な炎によって多少の差異は生まれたものの、大まかな筋書きは変わっていない。
旅人が複数人殺害されるという凄惨な事件が起きた美術館を閉鎖し、蔵された品は他国の好事家や美術関係者に売り渡す。この閉鎖理由が火事になっただけだ。
メルティナもその方面に詳しくはないが、おそらくこれだけでも相当な額になるだろう。
「エマ、君は……っ! 本当に、金なんかのために……」
学院生時代、あの美術館へはオームゾルフや級友たちとよく通ったものだ。その思い出の場所を……。
「あら、だめよメルティナ。エマーヌ、って呼んでくれないと」
人差し指を立てたオームゾルフが、窘める口ぶりでからかうように囁く。
「あなたが言ったのよ、『メルティナ』。『君はやがて国を背負って立つ存在になるんだから、いつまでも学生気分で呼び合うのはよくない』って」
「っ、今はそんなこと、どうだっていいっ――」
「よくないわ」
かつてないほど冷たい声。穏和な彼女と思えないほど強い声。
「皆の前ですよ、メルティナ・スノウ。ええ、今の私は国を負って立つ存在。ゆえに熟知しているつもりです。現在のバダルノイスの全てを。この国がどれほど弱り果て、困窮しているのかも」
「!」
「長く厳しい冬が災いし、旅人や商人はこの地を敬遠する傾向があります。そのためあらゆる品の流通が鈍く、物価は常に高騰している。少しでも交通の不便を解消すべく除雪に力を注ぎましたが、制御塔や流雪水路、カロヴァンの保全にかかる費用は膨大。加えて、未だ『滅死の抱擁』や内戦の痕は癒えておりません。殊に働き盛りの大人たちが多く斃れてしまったあの内戦は、我が国にとって致命的だったといえるでしょう。多くの人々は貧しさに喘ぎ、移民たちとの溝も埋まらぬまま……。ただいたずらに、緩やかに……しかし確実に、バダルノイスは衰退の一途をたどっている」
「…………」
事実だ。夏になれば商隊も多く訪れ賑わいを見せるが、それも一時のこと。北からの風が冷たくなる頃には、皆そそくさと去ってしまう。一年の半分以上を雪に閉ざされるこの地域は、やはり外の者には過ごしづらい。
貿易の要となっていた国内の各種産業も、今や死に体。
かつては漁業や皮革産業、酒造などが盛んだったが、どの分野もすでに熟練した職人がほとんど残っていない。大半が戦死してしまった。
働き手そのものが減ったことに加え、内戦の遺恨から移民を雇おうとする者も少ない。
どこぞの識者が「バダルノイスの文化・文明は五十年分ほど後退した」と評したそうだが、全くもってその通りに違いなかった。
「このような体たらくでは、他国との交渉でも足下を見られてしまう。……必要なのですよ。バダルノイスを再興させるためには……それなりの『財』と『力』が。それを齎す『支援者』が」
「……ははっ。それが動機だっていうのか。その財と力を得るために、地下組織なんかと手を結ぶの?」
「……それほどまでに後がない、ということです」
「…………」
――直視していなかったのだ。
バダルノイスが少しずつ後退していることなど、誰の目にも明らかだった。けれどきっと、漠然と皆が思っていた。「誰かが何とかしてくれる」と。メルティナですら同じ。才女オームゾルフならどうにかしてくれるはずだと、当たり前のように考えていた。
氷神キュアレネーが見守っていてくださる。国家が潰えることなど考えられない。我が国に限ってそのようなことはありえない。
言い訳は様々。そのように誰もが問題を直視せず、楽観し、自ら動こうとせず、他人へ放り投げた。
沈みゆく船の舵取りを任されたオームゾルフは、その生真面目な性格通り、懸命に再浮上すべく手を尽くした。
しかしどうにもならず、海賊船――あるいは海の魔物にすがってしまった……。
「…………」
長らく話し込んでいたからだろう。
少しずつ、メルティナたちを取り囲む兵士の数が増えつつある。今や総勢三十名ほどか。何が起きているのか把握できず困惑した様子の者が多い中、鋭い眼差しをこちらに飛ばす男が数名。訳知りのオームゾルフ派、ということか。
「エマーヌ。狙いは私なんだよね? 正確には、私の力が宿った臓器を欲しがってるんだっけ」
人の心臓、脊髄、脳のいずれかに神詠術が宿るという、にわかには信じられない話。
「ええ。『彼ら』の援助を受けるに当たり、こちらも誠意を示す必要がありました」
即ち、バダルノイスの至宝たるメルティナの力が宿った臓器を差し出すこと。
「……そっか。ねえエマーヌ、あれは……もう何年前だっけ。覚えてる? 私が、新入生の前で術を披露する羽目になってさ。寮に戻ったあと、今年で卒業だねなんて話をして――」
「見事だったわね、メル。新入生の皆が羨望の眼差しで見ていたわよ」
「やめてくれ。授業だから仕方なく披露したけど……私の技術は本来、人に見せるようなものじゃないんだ。君も分かってるだろう」
「……それは……」
「ああ、そんな顔しないでよ。そういうつもりで言った訳じゃないんだ、ゴメン。それより……新入生たちの羨望の眼差しといったら、すぐに君に移るさ。学院首席にして生徒長、面倒見がよくて美人でお淑やか! 皆、嫌でも君の魅力に気付く。まぁ私も、美人という点では負けてないつもりだけど? でも言葉遣いもこれだし、ガサツだからね」
「あら。そういう男勝りなところが素敵、って子も多いらしいわよ。特にこういう女子の園では」
「いやいや、やめてよ。そっちの趣味はないんだ」
「ふふふふ。……ねえ、メル。ついに私たちも来年には卒業ね。……私、不安だわ。正式に教団に入って、本当にやっていけるのか……」
「今からそんなことを気にしてるの? ほんと真面目で心配性だな。君がやっていけないなら、他の誰でも無理だろう。もっと自信を持って」
「……でも……」
「全く。大丈夫だって。君のことは、これからも私が支える」
「…………ええ」
「君が困っているなら、私はいつでも手を差し伸べる。この命を投げ出すことだって厭わない」
「! もう、ダメよメル。その発言は許されないわ」
「おっと、そうだった。我が主よ、お許しを。とにかくさ、いつまでも一緒に頑張っていこう」
「……ええ、ありがとう。そうよね、前向きに頑張っていかなくちゃ」
「ああ、それでこそだよ。私は、そういう君が好きなんだ」
当然のように、メルティナ・スノウは明るい口調で言ってのける。
「――あの時も言ったけどさ。エマーヌが望むなら……こんな真似をしなくたって、私の命ぐらい喜んで差し出したのに」
取り巻きの僧兵たちなんかより先に、自分に相談してほしかった――。
ベルグレッテ、レノーレ、流護の驚いたような視線が集まる。
唯一、
「メルティナ……」
彼女だけは――オームゾルフだけは、口元を引き結んで。
「……馬鹿ね」
泣き笑いのような聖女の笑顔が。
儚く、綻んだ。
「相変わらず罰当たりなんだから。自死は禁忌よ。『あなたならそう言ってくれると思ったから、私はこんな回りくどい真似をしたの』」
それこそが、この事件の真実にして根源。
親友を背信者になどさせないために。
到底自死など受け入れられないと反抗心を持たせるために、大切な者を的にかけた。
怒らせて、「君のために死ぬ」などと言わせないようにするために――。
「……ったく。ほんと、エマーヌには敵わないな」
昔からそうだった。
「……君は大切な親友だ。この命を差し出しても構わないぐらいに。でも……、うん。君の言う通りだ。君の思惑通りだよ」
奥歯を噛み締めて。
「今の私は……無関係な人々やレンを傷つけた君を許せない――」
オームゾルフが望んだ通りに。思考や行動を読まれ、手のひらの上で操られたと自覚しても。
メルティナ・スノウは、大切な人を傷つけた大切な人を許せない。
聖女はさも満足げに、この上なく優しい微笑を浮かべながら。
「ええ。それでいいのよ、メルティナ」
慈愛に満ちた口調で、呟いた。




