471. 統制の空
降雪はやがて猛烈な吹雪へと変わり、すぐ目の前すら見通せないほどの悪天候となった。
バダルノイス全土では時折、北から吹き込む地薙颪がこのような荒れ模様を引き起こす。一時的かつ局所的な現象で長くは続かないが、地域によっては街中で遭難者が出ることすらあり注意が必要とされていた。
気分屋で知られる氷神キュアレネーの癇癪。
そうとも呼ばれるこの状況が今、レノーレに大きく味方した。
吹雪のため兵士たちの策敵能力は大きく低下。加えて、レノーレが脱出を強行するのか諦めるのか、どちらも想定して注意を払わなければならない。
一方で事前に地図を読み込んでいたレノーレは、少しずつ――しかし着実に、目的地へと歩を進めていった。
「はぁ……、っ」
寒い。目が霞む。
かじかんだ両手の指先はすでに感覚が失われている。霜焼けでしばらく痒かった右足が、痺れに似た痛みを訴えるようになってきた。引きずる左足には氷の塊が枷みたいにへばりついている。
さらには姿を誤認させるため、上衣を一枚脱ぎ捨てていた。暖と引き換えの捨て身。当初は噛み合わなかった歯の根も震えることに飽きたのか、今はもう何ともない。
亡者じみた足取りで、しかし生者の証であるように、レノーレは目指すその場所へと近づいていく。
(あ、と……百……マイレ……)
鈍った思考ながら、通り過ぎた喫茶店の看板で判断する。
前方に高く広くそびえる外壁。吹雪の中うっすらと浮かび上がる黒い影。その向こう側まであとわずか。
「……、」
背の高い建物が横殴りの雪を遮るその一角、距離にして十マイレほど。前方に、開け放たれた流雪水路の穴があった。
「……!」
――絶好の機会。
すぐそこだ。
飛び込んで氷塊を創出し、あとは掴まっていれば――
「……!」
レノーレは咄嗟に思考を断ち、顔を伏せて脇道へと駆け込んだ。
穴の付近、住民に紛れて兵士が立っていたのだ。疲労も限界に達しており、気付くのが遅れてしまった。
その兵士の下へ、同僚らしき者が駆け寄ってくる。
「どうだ、見つかったか!?」
「いや……。もはや、見過ごしてしまった可能性も否定できん。水路に、地上に……全てを監視するのは、人員的にも不可能だ」
「く……、俺はもう一度向こうを見てくる」
「ああ」
慌ただしく一人が走っていく。
が、もう一人はその場から動こうとしない。ここを見張ると決めているようだ。
(……ダメ、ここは……無理)
他に飛び込める場所を探さなければ。
すでに兵士一人を相手にするだけの余裕もない。最後に一度、氷塊を生み出して水路へ飛び込む。どうにかそれが実行できるだけの体力しか残されていない。
「はぁ……、っ……」
必ずある。
除雪のために設けられた流雪水路の穴は、北西部だけでも数え切れないほど点在している。その全てに監視の目をつけることなど到底不可能だ。人員がどれだけいても足りるものではない。
だから、絶対に侵入できる場所はある。そこを探せ。
「……ぅ、……く……」
――数分も彷徨っただろうか。
瞬間的な吹雪が弱まり、周囲を見通せるようになった。
大通りから二本離れた、静かな細道。
およそ五十マイレ程度だろう。普段であれば、駆けて十秒も要しない距離。
雪に埋もれ誰の姿もない公園の前に、ぽっかりと口を開くそれがあった。
「…………、」
歩道沿いに四角く縁取られた大きな穴。
ひとまず蓋だけどかしてあるのか、周囲に人の姿はない。
「――――――」
脱出するんだ。
一旦この皇都から離れて。メルと一緒に態勢を立て直して。
そこへ吸い寄せられるように、レノーレは歩みを進めていく。
――あと三十マイレ。
「……はっ、はぁっ……」
必ず暴き出す。
モノトラと繋がっているであろう、内通者とも呼べる何者かを。
――あと二十。
「……っ」
終わらせるんだ。この馬鹿げた追いかけっこを。
ひとまずここから脱出して。それで。それで……。
――あと十五。
「う、…………あ……」
もう少し。あと少し。
近づくに比例して、足も重くなっていく。なけなしの体力が削れていく。逸る気持ちに拍車をかけるように、その中で渦巻く激しい水の音が聞こえてくる。
――あと十マイレ。
終わりだ。あと数歩。
駆け寄って、飛び込んで、術を発動させる。氷にしがみついて、排出口から外へ流れ出る。
それで、終わ
「そこまでです」
高らかな声だった。
磨耗し切った感覚に突き刺さるような、鋭い声だった。
聞き間違えではなく。自分に投げられた言葉だと、鈍った思考でも即座に理解できるほどの。
「…………、」
レノーレはどうにか首に意思を込めて顔を上向ける。もう、そんなことにすら力が必要だった。
そこで初めて気がつく。
つい今しがたまで渦巻いていた吹雪は、すっかり消え去っていた。先の荒れ模様が嘘みたいに、雪はピタリと止んでいた。
晴れた後も、流雪水路の稼働は小一時間ほど続く。その点は問題ない。
今はそれより――
曇天に戻った空の下、こちらへと近づいてくる影がひとつ。
風に流れる青銀の髪。同色の瞳。その身分、加えて人柄を示すかのような純白のローブと神官帽。
現在のこの国で知らぬ者はいまい。
エマーヌ・ルベ・オームゾルフ。
現バダルノイスの統治者。主導者、女王と呼んでもいい。
十歩分ほどの距離を隔て、彼女はゆるりと立ち止まった。
「ようやくお会いできましたね。危うく出し抜かれるところでした」
「……、…………」
レノーレの口からは、今やかすれた吐息しか出なかった。
現在の国家の頂点となるその聖女は、独り言のように続ける。
「いかに『凍雪嵐』といえど、この包囲陣を突き進めばその分だけ消耗する。消耗したなら、それ以上の力の浪費を抑えるため、より排出口に近い位置から水路へ侵入しようと考えるはず。それほどに限界が近いとなれば、口を開けた無人の穴を探す。全ての水路の穴を見張ることこそ不可能ですが、そのような条件を備える箇所は多くありません」
レノーレがここに至った経緯を、淡々と。さも見てきたかのように。
「一方で、あなたが『退く』可能性も完全には捨てきれませんでした。ここまで攻めておきながら、あっさりと踵を返す……『凍雪嵐』とは、そんな予測できぬ存在であると。まさしく、唐突に巻き起こっては場を荒らす吹雪のように。……しかし、何の因果でしょうか。今ほどまで渦巻いていた吹雪も収まりましたね――」
右の手のひらを上向け、曇り模様に戻った空を仰ぐ。その真白の肌に雪が舞い降りてくることはない。
「しかしやはりあなた個人の現状を思えば、諦める可能性は低いのではないかと考えました」
例えば、とオームゾルフは静かに語る。
「私を含め、皆が意表を突かれた水路を流れての移動。『使用されていないときに、通路として利用するはず』……そんなこちらの思い込みを見越した見事な策でしたが、『次』はありません。知れてしまえば、二度目からは対策がなされます。一度限りだからこそ通用する奇策」
首筋に指を添え、肩の雪を払いながら。
その所作は、どこか『終わり』を思わせた。問題も解決し、片付けの段階に入った帰り支度。
「それに、あなたたちは皇都に潜むことが難しくなってきたからこそ脱出を図ったはず。ここで退いて食い下がったとしても……真綿で首を絞められるように、少しずつ苦境へと追いやられていくだけ。次回の脱出は、より困難なものとなる」
周囲から近づいてくる、多数の濡れた足音。槍や剣を携えた正規兵たちだった。そんな十名ほどの援軍に目を向けながらオームゾルフは続ける。
「しかし一方、私たちもこのような大捕物を何度も演じるだけの余裕はありません。兵団を消耗させることが目的なら、充分に功を奏している。……つまり結局のところ、私にはあなたがどう動くのか読みきることはできませんでした」
なら、どうしてここに。
レノーレの顔からその疑問を察したのだろう、オームゾルフはふふと儚く微笑んだ。
「主に委ねたのです。あなたが来るか否か。単純な二者択一。私は『来る』と信じました。そして――」
この局面が訪れた。
「……、」
氷神はオームゾルフに味方した、ということか。
駆けてきた兵士たちが身構える。
「オームゾルフ祀神長! ご無事ですか」
「罪人め……。こんなに出口の間近まで迫られていたのか……」
「散々に振り回してくれたが……ここまでだな」
戸惑った表情の者、厳めしい顔をした者。
様々な思いを渦巻かせた銀鎧たちが、しかし一様に半死半生のレノーレを取り囲む。円状の布陣、逃げ場は存在しない。
オームゾルフや兵との距離は十マイレ弱。水路の穴はその数歩手前。まさに目と鼻の先。
だが、それでも無理だ。
仮に万全の状態であったとしても、そこへ飛び込むことは叶わないだろう。いかに派閥の影響で連携に難が生まれているバダルノイス兵といえど、さすがにここから取り逃がすほど無能ではない。
「ここまでです」
オームゾルフが静かに左手を掲げた。
その所作に従い、兵士たちが得物の矛先や手のひらをレノーレへと向けてくる。
一斉射撃の構え。
「……――、」
一月以上にも及ぶ逃亡生活、これまでにも似たような苦境に陥ったことはあった。
が、その都度どうにかやり過ごした。ある時は機転を利かせて切り抜け、ある時はメルティナに助けられ。
しかし、今。
「…………、」
もはや声を発することすらままならないレノーレに――立っているだけで精一杯なただの少女に、抗う術など残されてはいなかった。
オームゾルフは最終的に「主に委ねた」と語った。
だとすればこれは――、神が齎した結末。
何だろう。
何だったのだろう。
レノーレ・シュネ・グロースヴィッツという人間の存在意義は。
母の喜ぶ顔が見たくて。友達が欲しくて。
ただそれだけだったのに。
母は病み、ついには記憶を失った。
王宮では、仲間と思っていた同僚たちに疎まれ続けた。
メルティナやベルグレッテ、そしてミアたち学友のような心を許せる存在ができたかと思えば、行き着いたのは今この現実。
どうしてこんなことになっているのだろう。
思わずにはいられない。
神様。
私は、そんなにも罪深い存在なのでしょうか――?
オームゾルフが手首を閃かせた。
その合図に従い、兵士たちが一斉に攻撃術を撃ち放つ。
四方八方から、氷弾がレノーレへと殺到する。白く尾を引くそれらの軌跡が、やけにゆっくりと見える気がした。
「…………、」
次に目覚めれば牢屋の中か。
自分が人質となれば、メルティナの足枷となってしまう。
それならいっそここで射殺してほしいと願っては、自死を厭うキュアレネーの怒りを買ってしまうだろうか。
否、そんな殉教じみた言い分すら綺麗事だ。
『将来、王宮に仕える立派な詠術士になりなさい。母さんみたいにね』
ただ、母に誉めてもらいたくて。
『君は今日から私の専属だ、レノーレさん。……堅苦しいな、レンって呼ばせてもらおう。というわけで、レンと私は友人だ。よろしくね』
ただ、友達が欲しくて。
『あなたは、どうしてこの学院に?』
ただ、一人の学生として皆と楽しく過ごしていきたいだけだったのに。
なぜ、こんなことになっているのだろう。
いざこの瞬間を迎えた齢十六の少女は、ただ純粋に……当たり前に思ったのだ。
誰か、助けて…………。
高らかなる残響だった。
目にも留まらぬ速度で飛び込んできた黒い影が、レノーレに迫り来た凶弾の全てを弾き落とした。
「――――――え」
それはまるで黒い盾。それこそ神詠術によって展開された防御術のような隙のなさ、速度、力強さ――。
砕かれて脅威たりえなくなった氷の破片を疎らに浴びながら、レノーレはただ呆と立ち尽くす。
神詠術による防御などではなかった。
まず視界に入ったのは、力強い豪腕。迫ってきた攻撃術の数々をいとも容易く叩き散らしたのは、その両腕に巻かれた灰色の手甲。そして固く握り込まれた拳。
残像だ。霞むほどの速度で振るわれたそれらの影が、黒い盾でも出現したかのように錯覚させたのだ。
決して長躯でないが、厚着でも察せる分厚い肉体。どっしりと太い根を張る巨木じみた、力強い後ろ姿。短めに切り揃えられた黒い髪が、かすかな冷風にたなびく。
「よう」
突如として、瞬きの間に現れたその人物。堅固極まる盾のように少女を『護』ったその少年は、背中越しに半分だけ振り返って。
「助けに来たぞ、レノーレ」
いつもの口調で、彼――有海流護は笑ってみせたのだ。
当たり前ながら、一斉掃射を放った兵士たちが困惑した様子でざわめいた。
「お、おい……彼は確か……」
「ああ……」
「ど、どういうことだ? なぜ邪魔立てを……」
無理もない。捕縛するべき相手を庇ったのだ。
有海流護はそんな彼らを横目にしつつ、彼女に声をかける。
「とりあえず無事か? レノーレ」
「……、……あな、た……ど、うして……」
「説明は後でな」
呆然とする彼女を後ろ手に守りながら、流護は上着に貼りついた氷片を払い落とす。
「ぺっ、ぺっ。口に入った」
図々しくも舌の上に居座る氷塊を歯で挟み、外へ弾き出す。
随分と格好をつけて乱入した流護だったが、実のところ攻撃術の半数ほどは顔や身体に直撃していた。防いだというよりは、身代わりになったと表現するほうが的確か。どうにも締まらないが、レノーレからは捌き切ったように見えていれば幸いだ。
ともあれ問題はない。流護の肉体は、多少の術など受けたところでびくともしない。そもそも今しがたの掃射は、レノーレを『確保』するために放たれている。殺傷能力は皆無に等しい。
――その、はずだった。
「……、」
術を受けた箇所で、唯一。右の小手に残る、にわかな痺れ。
それは、防いだ一撃が極めて高い威力を秘めていた証左。ファーヴナールの外皮を用いた防具すら浸透するほどの衝撃。
これが無防備な人間に……満身創痍のレノーレに命中していれば、どうなっていたかは明白だ。
「…………」
つまり――レノーレを捕らえるための術の中に、殺意の込められた一撃が混じっていた。
「っとに……マジだったのかよ……」
流護は信じられない思いで右手を振りながら、視線を上向ける。
「今の一撃は……どういうことだよ?」
殺意に満ちた攻撃術を撃ち放った人物。即ちレノーレを殺害しようとしたその相手へ、問いを投げかける。
「説明してくださいよ、オームゾルフ祀神長。――――いや、『内通者』さんよ」




